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NORANEKO - 2012年分

選出作品 (投稿日時順 / 全3作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


雑記

  NORANEKO

灰色の岸辺にトキが/折れた首を砂浜に横たえて、尻を/突き出してるから俺は、ジーンズのチャックおろして陰茎をしごいた/突き入れてやるんだ、今から/カタくてぶっといのを、一発/「いっ、ぱつ」。そう呟いて目が覚めた。6月の湿気と寝汗が入り雑じった臭いがパンツ一丁の俺の身体を横たえている水色のシーツの黄ばみの象徴みたいにたちのぼってる。心なしか、部屋んなか全体が靄ってる。最近、高いLEDのやつに替えた蛍光灯が天使の輪っかみたいに柔和に靄ってる。俺は夢の中の出来事を思い出して身震いしてる。鳥に欲情した己が情欲に戦慄してる。でも許されてる気がしてる。天使みたいに優しいLEDの蛍光。あの黒ずんだ鶏頭、後頭、と前頭があべこべに捻れ転倒した顔面の、朱色、全部。全部、漂白してくれる。その蛍光剤で、清潔に。黄ばんでないから安心。
安心。それはティッシュの白にも、ある。スコッティの柔らかいやつを二、三枚、敷き布団の脇に抜いて撒いて、健全で健康な女の子の出てくるエロ漫画一冊(ただし、女の子は褐色肌オンリー)を枕元から引っ張り出してオカズにしてオナニーする。この漫画に出てくるエジプト娘が好きなんだ。額にトキの頭を模した飾りをつけているけど美少女でしかも褐色だから安心して使える緩衝材なんだ。トキ×トキ=非存在なんだ。あとには安全に漂白された褐色の少女しか残らないから安心して俺は陰茎をしごく。しごく。しごく。仮性包茎の皮が擦り切れるほど。しごく。「トッキーって草食系だよねー」知らねーよアバズレ!
萎えた/俺の茎(ステム)が/ならば、俺は植物を食む植物/草食系植物なのだ



俺はいる/神田の、こんな、真っ昼間のカフェーに/パラソル付きの屋外席に/チェス盤みたいな模様の/実際、チェス盤を一回り大きくしたくらいこじんまりしたテーブルの前に縮こまりながら/向かいの、作業着のおっさんが右手に掲げたケータイの液晶画面を前にじっとしてる/背中を、俺は見てる/なにか、不穏な手つきで親指が滑った気がする/ノリタケの、よくある映し絵の、ロイヤルクラウンのカップから/ジャスミンの香りが、薄曇りの/風の強いレンガ通りまで乗って漂う
おっさんの、取っ手に、触れた指が/カップをひっくり返し、/損ねる、そこには通りすがりの/空気のようなジャグラーが、得意気に笑っている/安心、チェス盤模様のテーブルにはいつものように、ロイヤルクラウンが/中身のジャスミンティーだけは零れてしまったけど、お見事!
途端に、店内席や、レンガ通りの通行人やがぽつぽつと、注目して、二、三人がぱちぱちと拍手した/が、当の向かいのおっさんは、ますます、背中を硬く猫背にする/ケータイを持った手を、地面に擦れそうなほど垂らして



都内の某交差点に遂に発生する蜃気楼/路上で、ダチョウと柴犬三匹が対峙する幻影を前に、みんな、臨戦態勢/いったい、どっちが勝つんだろう/TKのダブルジップ・パーカーに、Levisのカーキ色のカーゴパンツ、黒地に白い王冠が、ほの赤い縁取りであしらわれたオリジナルブランドのTシャツ、極めつけのブーツはDr.Martin、絶対イケてる/青信号と共に×を描く人の群れ。そして視線の群れ。どいつもこいつも勝負は一瞬、目をそらすかドヤ顔して鼻膨らますかだ。オーケー、今日の俺はダチョウだ。地べた這ってな柴犬ども。
雨が降ってくる。胸のどっかに搭載されてる針がきゅるるる! と鳴いて大きく振れる/たまらねえ、このヒリつき。/非安全だから非安心地帯だけど、それが不快とは限らない。/さあ、路地裏に行こう、ヤツが待ってる



「トキ、挿れるよ」/「馬鹿だなあ、トキは絶滅したんだよ、ホモ野郎が」



意識を取り戻したのは病院のベッドの中だった。ごわごわして戸惑う清潔なベッドに白いシーツ、白い掛け布団、鼻をつく、埃と消毒薬を混ぜたような臭いの一切が不穏で、不自然で、しかし逆説的に安全で、結果的に安心なのだ。
「なんで俺、あんなこと」/声は、喉からは出ない。やすしに、凄い力で締め上げられたから。
あの時、都内のプレイルームで俺はいつものように素っ裸に目隠しをして、両手両足を柱に括って縛り上げて、口には猿轡のかわりに乾燥させた弟切草の茎をくわえて、まるで植物みたいだった。やすしも、俺の肋骨が浮くような痩せぎすとは対称的な筋肉質のガチムチボディをボンテージファッションで包んでいただろうし、鞭がわりにしている、弟切草のドライフラワーを束にして握ってもいたはずだ。事実、俺の太もも、脇腹、胸元、右の頬はそれに打たれたときの感触と痺れと、勃起するほどの熱さを覚えてる。 身を捻るほど四肢に食い込んでゆく縄の感触も、血が滞る末端のさざ波も、氷の粒みたいにきらきらしてくすぐったかった。「それが、どうして、あんなこと」
 その日、俺はアナルに人参を挿れられることになってたんだ。それ自体は嫌じゃなかった。「トッキーって草食系だよねー」黙れよビッチ。いや、その通りだよ。俺は尻の穴から人参を食べるのが好きなんだ。草食系植物なんだ。「挿れるよ、トキ」やすしが耳元で、ねっとりした舌遣いで言う。目隠しを、しなければよかった。脳裏にフラッシュバックする昨夜の砂浜/尻を突きだして、折れ曲がった首をこちらに向けて、傍らに/チェス盤のテーブルが、パラソルもなく、雨ざらしのまんま置かれてる/ジャスミンティーの空っぽになったロイヤルクラウンのカップが静物のように置かれて、雨水に充たされてゆく/砂浜に横たわる、首の折れた作業着のおっさんの右手には、ケータイが握りしめられていて、まだLEDの液晶を天使のように光らせている/黒いさざ波を背に、あの、印象に残らないジャグラーが、のっぺらぼうの顔に口を“ひ”の字に赤く裂いて、トキの死体を持ち上げて、空高く放り投げる。“く”の字になって舞い上がり、“へ”の字になって落ちてくる。それをジャグラーが右手から左手に回して回す。気づけばおっさんの死体も一緒に回って、だんだん、両方が混じって、地面に落ちると、ダチョウの死体だったんだ。ドヤ顔のジャグラー/空から降る「トッキーって草食系だよねー」
「うるせーな」俺は笑ってた。「トキは絶滅したんだよ。もういないんだよ。馬鹿か、このホモ野郎が」/「トキ、どうしたん? なんか、嫌なことあったん?」/「キャラ崩してんじゃねーぞヘタレデブが。テメーの肛門にドライバー刺して血が出るまで掻き回してやろうか? 一生オムツ履いてろよ糞ニートが!」/「お前っざけんなや!」/首をギリギリ締め上げる、やすしの太い指の感触と、脂まみれの歯列から漏れる鎌鼬のような吐息の殺意に背筋がぞくぞくして、暗闇に、きんいろの優しい星たちが/天使のように、灯って、「先生ー、目が覚めたようですー」

あれから色んなごたごたがあって、とても面倒で、正直、あんまり覚えてないんだ。ただ、病院の白い天井についた、よくわかんない赤黒いシミが、トキの顔みたいで、泣いたのを覚えてる。


体験談

  NORANEKO

 家猫っていいよね。俺も昔は憧れたんだ。色んな家の玄関や、縁側や、台所の窓や、ベランダのとこに座っては、色んな媚び方を試したもんだよ。無駄だと気付いたのは二歳の頃で、交尾はもう何度か経験済みだった。すまない、忘れてくれ。本題とはなんの関係もないし、俺はこうやって物を書いている以上、本物の猫でもない。ちなみに、ネコでもない。俺は童貞だ。
 俺は基本的に嘘ばかり吐く。名前もころころ変える。同じ野良猫でも、立ち寄る家によって呼び名が変わるようなもので、場所が変わればなんとやら、って、引喩表現を使おうとしたがこんな慣用句は存在しなかったな。どうでもいいや。自分語りもつまらない。他の話をしよう。
 そうそう、いいネタがあった。最近、2ちゃんねるのオカルト板でやってる、あの『洒落怖』スレをよく読むんだが、コトリバコとかジダイノモウシゴとか、結構面白いのあるよね。オススメはリゾートバイトなんだけど、今回はジダイノモウシゴの話。ここではもう読んだって人が大半だろうし、説明は省く。というわけで早速、俺の実体験から……すまない。結局、自分語りなんだ。……始めよう。
 丁度、あの日もこんな具合に蒸し暑かった。三年前、映画「去年マリエンバートで」を観に、地元の名画座へ行った日のこと。汗に濡れて、額にへばりついた前髪を掻き上げ、コンバースのオールスターとユニクロで買った黒のスキニー、チェックの半袖シャツといった冴えない出で立ちで、錆び付いたシャッターの降りた商店街をほっつき歩いていた。とあるビルの三階に映画館がある。俺は地下のスーパーでゲロルシュタイナーの炭酸水を買い、明らかに25℃以下に冷えたフロアに腹を壊さないか心配を抱き、節電のためか、やけに暗い階段をかつかつ小気味よく鳴らして三階まで登っていった。カフェテラスが併設された映画館のフロアの売店に行き、無愛想な若い売り子から当日券を買う。ストレートの黒髪がやけに青く艶々してるその子の薄くて白い肌が幸薄い感じで可愛い。お釣りを渡す指先の柔らかさに胸がどきりとした。ついでに自販機で紙コップ入りのホットコーヒーを買った。紙臭さと粉っぽさに辟易しつつも、下痢を催して便器にうずくまって神に許しを乞うよりは良い。劇場内やや後方ど真ん中の席を確保する。ほくほく顔で上映開始のブザーを聞き、アナウンスの女の子の声に勃起し、消灯。予告はない。本編が始まる。
 スクリーンに投影される、誰もいない、白黒の豪邸。神経を不安定にさせるストリングスのBGM、ナンセンス詩の朗読。シャンデリア、丸天井の宗教画、柱にあしらわれた金色の天使と葡萄の実と枝葉。「装飾過多」のリフレインがやけに記憶に残ってる。ストーリーは読めない。シーンの一つ一つがまるで、別のプロットからやってきたかのように独立している。同時間軸の平行世界を継ぎ接ぎした、意味を結ばない、物語られないものたち。どんな流れから、こうなったのか。シーンが切り替わる。
 ヒロインが、何故か、俺によく似た男の顔を、マニキュアを塗った白く細い指で撫でる。

【字幕】
“あなたの無自覚なところ、とっても現代的よ”

 俺は映画館を飛び出し、歩き出す。歩き続ける。ジダイノモウシゴだ。顔のない、半透明なジダイノモウシゴが背中にべったり張り付いて、そこらに無意味を埃の塊みたいに吐き出続けているから、振り向くな。そのまま俺よ、歩け!
 昔、服屋の調子のいい店員に買わされたLeeライダースのパンツの金具が、八方美人の軽薄さでチャリチャリ鳴る。行き交う奴らが俺のほうをチラチラ見やり、取り憑かれる。薄幸そうな売り子 さんの、腐った魚のような瞳と見つめ合う。ゲゲゲ、と鈴のような声音を濁らせて、彼女は叫ぶ。
「僕タチハ、漂白サレタ世代デス!」
 館外のアーケード街に飛び出す。肩をぶつけた、熟年カップルの女が騒ぎ立てる。
「カナシーケドサー! アタシ、意味ガ無イノガ実存ダカラサー!」
 男が俺の胸ぐらに掴みかかる。
「アー! ソレ、スゴクワカルワァー!」
 男の腕の関節をキメて、怯んでいる隙に逃げ出す。花やしき前まで走っていると、女の首筋に果物ナイフを突き付けた男が警官にふるえる声で物凄いことを言っている。
「オ、オレノ武器ハ、キョキョ、虚無ナンダカラナァー!」
 かまわず走り続けると、ラブホテルから、知らない男と手を繋いで出てきた彼女が俺が見ているのもしらないで、
「現代ノ若者ヲ代表シテ、ドウ読ンデモ読メナイ仕掛ケノ二万字ヲ書キマシタ!」
 なんて、おどけながら男の肩に頭を預け、腕を組んでいる……自分から!
 糞男は俺の彼女の頭を撫でながら、
「君ニハ、ブンガクノ賞ヲアゲヨウ」
 なんて耳元で囁いている。膝が崩れ落ちる。人目もはばからず涙と鼻水を垂れ流す。どれもこれも、ジダイノモウシゴの仕業だ。そうに決まっている!
 茫然自失の状態で浅草の裏通りに膝をついていると、背後から、腐った魚に錆びが混じったような臭いがしてくる。右腕を、凄まじい力でガッシリと掴まれる。激痛がはしるが、怖くて見れない。賽の川原で擦れ爛れた赤子の手がそこにあるのは、もう読んで知っていた。これが、俺のせいなんだっていうのも。そっから先はひたすらに、昔、あの娘に堕ろさせたこと、あの娘は無事かどうかということ。あの娘は、なにも悪くないんだということ。そんなことを、考えた。嘘。死にたくないって。ひたすらに死にたくないって助けてって命乞いしてた。アスファルトを小便が塗らして黒々と染めていくのを温もりと臭いで感じていた。仕方ないんだって、ほんともう、こういうのは仕方ないんだって、言って、聞くような相手じゃない。ズリリ……ズリリ……って、俺の背中を這いずって、髪の毛に、しがみついた。耳元に温い吐息。直後、甲高く、叫ぶ。「オ゛トォォォチャ゛ァ゛ア゛ァ゛ァ゛ン!」
 俺は泣いた。嗚咽が堰をきったように漏れ、だが、小便は漏らさなかった。
 隣の席の女友達はなんか菓子を食ってる。ポッキーだ。俺にも食うか聞けよ。いつの間に買ったんだよ。いい席取ってやったのは誰だよ。
 耳元で文句を言ってやったが反応がない。ポッキーをポキポキと小気味よく噛む気の抜けた音が館内に響く。ホラーな気分に全然なれない。
「あんた誰よ」
 急に真顔で、彼女が言った。背筋が凍る。このタイミングでそれは心臓に悪いだろうが。そんなの、
「俺にわかるわけないじゃん」
 女友達の髪を掴み上げ、皮と肉ごと引き剥がす。ほら、同じ顔だ。どいつもこいつも肉ひっぺがせば同じ顔なんだ。俺は知っている。女はみんな俺の女友達なんだ。これは論証も実証も出来る。実際、俺は大学の卒業論文をこのテーマでパスした。教育機関のお墨付きだぞ、わかるか? わかんねーならお前の皮も剥いでやるよ。鏡を見れば嫌でもわかるからさ。
「ア、ア、あんた誰ヨ」
 女友達はまだ聞いている。真顔で。
「ソんなの、俺にわカるわけないじャん」
 俺はまた、女友達の髪を掴み上げ、肉と皮ごと引き剥がす。あれ?
「罠だ、逃げろ!」
 劇場の締め切られた扉を開けて、和尚さんが叫んだ。俺は一目散に逃げ出した。
「ア、ア、ア、ダレよ」
 女友達の顔を透明な粘液が覆う。血管と筋肉の剥き出した肉面から沁み出すそれは、映写機の光を浴びて冷たく、哀しげに、光っていた。
「ごめん」
 追われることがないように、俺は彼女の顔めがけて、ウィルキンソンの炭酸水をぶちまけた。(俺が炭酸水を買ったのは、このためだった。正直、彼女には使いたくなかったが。)
 女友達が顔を両手で覆い、叫ぶ。
「ミンナ、ジダイノモウシゴニナルンダ!」
 俺は恐怖に歯をならしながら和尚の髪の毛をむしり続けている。和尚はピンク映画のパンフレットでマスをかいている。
 この時、俺達はトイレのなかにいた。ジダイノモウシゴは生活の臭いが嫌いだからだ。なかには「シンペンザッキ」と唱えると消える類いのやつもいるが、今回のはあまりに厄介らしい、と、マスをかきながら和尚さんが教えてくれる。生臭坊主らしい。
「蒼井そら、沙倉まな板 つぼみかな」
 坊さん、そんなミーハーな川柳読んでる場合じゃねえぞ。こいつが唯一のか、今日は厄日だ。
 俺は脳内会議をしていた。俺は脳内会議をするとき、誰かの髪をむしっていないといい考えが浮かばない。坊さんには許可を得ている。いい坊さんだ。
俺A「奴の皮を引き剥がせ!」
俺B 「奴を皮ごと引き剥がせ!」
俺C「皮の奥から引きずり出せ!」

俺「人間! 人間! 人間を引きずり出せ!」

 景気づけに坊さんの首を果物ナイフで掻き捌き、吹き出る血潮で額に魔除けの梵字を書いた。引き剥がす。ジダイノモウシゴの皮を、引き剥がす!
 俺はトイレの扉を蹴破り、一目散に通路に躍り出た。目の前には人を喰らってパンパンにフロアを埋め尽くす青白い肉塊。かつて、俺の元カノだった身体。今は、もう、別のモノに乗っ取られている。
「今から、助けてやるからな」
 俺の右腕を伝う赤い電流が、ナイフの刃を朱色の水晶質に変えてゆく。
 今から、こいつを、引き剥がす!
 雄叫びを上げながら駆け出す。やつは人を食い過ぎた。もう動けない。これで最後だ!
 やつの頭部が刃圏に入る。俺の右足が、とろろ芋を踏んで転ける。凄まじい音を立てて顔面を通路にめり込ませる俺。やつはけたたましく笑う、笑う、笑う。
 朦朧とした意識のなかで、俺は呪う。中国製のデッキシューズを。滑り止めの利かない、デッキシューズを。

……こうして俺は、バラバラになり、永遠に、映画館のなかに閉じこめられた。以上、実話でした。


水槽の中の脳/の背後に蛸が。

  NORANEKO

 目を覚ましたい。目を冷ましたい。沸騰する夢と現の、上が下にって主に下だなこりゃ。やかましい。
 水槽のなかの脳味噌にはどっちも夢夢、うつつは水面を揺らす波と、現象としての電気信号の火花と、灰色の皺の暗闇から沸き立つ気泡ばかりよ。
 だが、朔太郎先生。水槽のなかの蛸ってんなら話はひっくりかえるね。現実現実。アハ、アハ。
 /などと、自室で胡座をかく私はSAMSUNG社製のスマートフォンの、静かに帯電する水晶質のタッチパネルを右手親指の右わき腹で叩いて書いている。時刻はすでに、正午に近い。幸いにも、学校は夜間部であるから慌てなくてよいものの、既に社会に出ている友人らのことを考えると、窓越しの空みたいに鬱屈と曇る心地がする。
「鬱屈と曇る心地がする。」……何が。私の心が。して、私の心とは何で、何処にあるのか。
二つの目は床に敷き詰まる教科書、学術書、プリント類に詩集の混沌と混ざり合う無精の絨毯のうえを錯綜する。そして見つける。ちくま学芸文庫から刊行されている、渡邊二郎の「現代人のための哲学」を。
本書第5章「脳と心」によれば、哲学者・ベルクソンはこのように語ったという。

『心と脳が絶対に等価であるとか、絶対に同一であるとかは、決して言えず、そうした主張は、証明されざるひとつの独断的主張にすぎない』(渡邊二郎『現代人のための哲学』第113項6〜7行より引用)

『というのは、たとえ脳について、いかなる科学的知見を述べるにしても、それは、私たちがこの世界全体についてもっている思考内容の一部にすぎないのに、その脳にすべてが還元されると説くのは、脳という小さな部分に世界全体を還元し、こうして「部分が全体に等しい」という「自己矛盾」を主張するのと同じだからである。』(同書第113項8〜12行より引用)

『脳と心の関係は、ちょうど、釘と、それに掛けられた衣服との関係に等しい。針が抜ければ、衣服も落ち、釘が動けば、衣服も揺れ、釘が尖れば、衣服にも穴が開く。けれども、釘の細部のひとつひとつが、衣服の細部のひとつひとつであるわけではない。』(同書第114項16行〜第115項1行より引用)

 なるほど、と思いもするし、もやっと感じもする。ただ、心を脳に還元しなくてもいいのか、というところに不思議な安堵を覚えるのは何故なのだろう。
 脳といえば、哲学の世界には、「水槽の脳」と呼ばれる思考実験があることは、よく知られている。

『水槽の脳(すいそうののう、Brain in a vat、略:BIV)とは、あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか、という仮説。哲学の世界で多用される懐疑主義的な思考実験で、1982年哲学者ヒラリー・バトナムによって定式化された。』(Wikipedia「水槽の脳」より引用)

 ここまで書いて、ふと、脳裡に映像する光景。水槽の中を漂う脳の背後に、ぼんやりと浮かぶ蛸の幽霊。萩原朔太郎が書いた、自らの身体を食い、幽霊となってなお生き続ける「水槽の中の蛸」が、影を落とすことも、気泡を纏うこともなく、その透き通る八本足を艶めかしくも綾と繰り、脳に吸盤を吸い付かせては、電気信号を点らせるのだ。
 八畳の四角い部屋で胡座を書く、私の耳の奥に、見えざる蛸の哄笑が響かない。だってここは/現実現実。アハ、アハ。

文学極道

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