図書館細胞は、高台へ至る斜面の住宅街にあった。傾斜の強い路地に板壁の湿った家屋がひしめき、石垣の間を脇に入れば、雑木が頭上から一面に影を這わす。薄暗いざわめきの明滅に体が沈む。しかし、この坂を上りきり振り返るならやがて眺望が開け、見晴るかす彼方は海だ。
他の多くの図書館細胞と同じように、そこは民家の一室で、庭先の木戸に「図書館九一00一・文学的自動生成・人為即興部」という縦長の表示板がかかる。スマートフォンをかざして表示板のチップに認証を受けると、木戸を潜って進む。受付は土間に面した座敷への上がり口にあって、六十代後半くらいの和服の女性が二人、座卓の前でそれぞれノート型端末に向かっている。事前の予約と認証で、互いに挨拶をするときには既に総ての受け入れ準備が整っていたようだ。
「ここは初めてですね。どうぞお楽になさって下さい」と一人がお茶を勧める間、もう一人が開け放した障子の向こう、縁側に腰を掛けて待つ三十歳ほどの女性に「いらっしゃいましたよ」と声を掛けた。はいと返事をして立ち上がると彼女は長身で、青い花柄に埋まったワンピースを南からの風が通り抜け、着衣の全体がふくらみ、靡いた。二人の婦人の脇に正座すると、名前を名乗って深々と頭を下げるので、こちらは立ったまま彼女に名乗り返した。相手に比べて雑なお辞儀を返していることが恥ずかしい。「蔵書」と通称される「非在図書開陳係員」に一対一で直接向き合うのは初めてだったから、とても緊張していたのだった。
彼女には馴れたことだから、にこやかに木製のサンダルを突っかけると、いつの間にか極自然に横に立っている。「それでは歩きましょう」と彼女は言った。
「今もう、本が開いていますよ」
体を寄り添わせて歩きながら彼女が流した言葉のイメージを、その場で聞き取ったものの一部がこれから先、題名を付して記す文章だ。
家の敷地を出ると、流れる煙のようにして人けのない通りをさまよった。よく晴れた日で、前日の雨で濡れている木や草の匂いがした。家や植物に囲まれた狭隘な路地を歩き、そこを外れて開けた場所へも出た。手入れが行き届いていない荒れた林に草を分けて入り込んだり、用水路に沿って歩いたりもした。
時には彼女は、間近で顔を向かい合わせて熱心に言葉を発した。また、ふと立ち止まると、体全体が目に入るだけの距離をとり、声を大きくして話した。しゃがみ込んで、道ばたの菫か何かの花を見つめながらひどく遅いペースで話すこともあった。ある場面ではこちらの二の腕を掴んで、直接体の中へ言葉を流し込もうとするかのように語ってくれた。
並んで歩くほどに「本」は一枚一枚ゆっくりとめくられ、およそ三十分で堅い裏表紙が見え、話の最後の部分に覆い被さって終った。非在の本がひと度開き、再び閉じられたのだった。
『鞠を落とす・鞠が落ちる・ものが引き合う』
鞠になって落ちるとき、落とすものの掌は見えていません。落とすものは雲と大差なく空の明るみを漂っていたのです。
それはまったくスピリチュアルな存在ではないのに、どこか泰然とした悟性を保っているかのようでした。鞠になって両脇から押さえられ、冷たい高層の空気の中を上へ上へ掲げられていくと、「落とすもの」は父や母の思い出のような、曖昧な愛情さえ肌に伝えてきました。
落とされることは不安で、一方では落ちることが嬉しい。不安と嬉しさが重なって捩れながら、大きな流れとなって渦を巻き、その流れが鞠を含む総てをさらに高く押し上げるようです。
鳥か虫か、ちぎれた紙か。
薄く広がって、それでも意思あるものたちが、羽ばたいて周りを取り巻きながら、螺旋に昇ってついてきます。冷涼な光子の粒が滑らかに空間を浸します。明るいけれども眩しくはありません。
押さえていた掌が消えるように離れてしまうと、時間がするするほぐれ始めました。
落ちるのです。
地上からの光の反射が、野や山や家や道路や、穏やかなものやどうしようもなく獰猛なものの実在を視覚に返します。そしてそれが逆に降り注ぐ光のみなもとを意識させるから、猛烈な気流の抵抗を受けながらも、落ちてゆくものは空と引き合うものでもあると、はっきり言えるのです。
拡大。地理の拡大ではなく、ものの拡大。街路樹の一本、桜の樹の拡大。思い出。葉柄から葉脈をなぞり、葉と葉と葉と、さらに葉に、感触をがさごそ委ねながら、緑色の苦い思い出ごと枝を突き抜けます。
(お父さん、お母さん、とかつて言いながら赤い車のリヤウインドウに緑のクレヨンで数カ所断線した大きなマルを描いたことがありました。)
こんにちは。さようなら。それがバウンド。鞠は人のいない歩道のアスファルトで一瞬極端にひしゃげます。ひしゃげるもの、それが鞠。過程というものについての強烈な愛の衝動が、激突を引き起こすのです。
聞くもののない音を放つ激突。
こんにちは。さようなら。
それからもう一度昇ります。今度は引き上げられるのではなく、自分の力でそうしているかのように、昇る。昇る。微妙に回転しながらすさまじい速度で昇ります。
「ウイークリーマンション ネオ・トライブ」の傍らを過ぎれば屋根、屋根のモザイク。感覚に反映するこの世の総てが微細なモザイクの集積なのです。
今度の上昇は、全体的に見れば位置エネルギーが減衰する一過程ですが、呼吸も新陳代謝も周期を持って減衰する同じバウンドなのだから、そういう理屈でこの世の総体が鞠と一体になり、しかしそれぞれ異なる次元を併存させて跳ねるのです。
どきどきします。
脆い地殻のすぐ裏側で、マントルが対流し、内核が鼓動しているからです。恋のときめきではありません。小さな惑星が宇宙の原初を懐かしみ、心地よく動揺している幻が、開陳されているのです。
鞠のバウンドの終わりは死んでしまうということではありません。
眠りでも休息でもありません。
連続したバウンドの地に着いた状態が、いくぶん長く時間の流れに投影されているだけです。
鞠はまだ生まれず、今も無く、既に形を失って四散しているのに、それでも跳ねている過程の一部であるのです。
落とされるものは結局落とすものでしかない、という幸せなあきらめはそんな仕組みから来るのだと。
「そんな仕組みから来るのだ」と、耳元では蜂の羽音が囁いています。
『もちろん、直接耳元で囁いたのはこの物語を語った女性に違いなかったが、その時の声の甘さ加減は、およそ人間の口から発せられたものとは思えぬほどであった』と最後に追記しておく。
最新情報
Migikata - 2015年分
選出作品 (投稿日時順 / 全4作)
- [優] 物語の物語の物語 (2015-03)
- [優] 「まあちゃん」のことではない (2015-04)
- [優] 一人で過ごす (2015-08)
- [優] 蝉と艦隊 (2015-09)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
物語の物語の物語
「まあちゃん」のことではない
まあちゃんは、ちょっと癌。癌になっちゃった
くちばしを開いた鳥の口の中、のどまで真っ赤
株価は値上がり中
爪の色が紫。すぐ割れる、はがれる、まあちゃん
喜びの裏側にまた喜びがあって飛び上がって伸びる
西瓜を提げて、おじさんのランニングシャツ
エボナイトという言葉をスマホで調べた
お父さんのメダルが十四枚とバンソウコウが八枚
並べる並べる
ストローから覗くとまあちゃんの赤らんだ裸
金魚という種類の魚はいません
お砂糖で耳を煮出してよく晴れたなら
紫の声が割れる割れる
絶賛分割中。黄金分割中。まあちゃん
自転車のキーの横にアイスの紙カップ
黄色ワセリン、白色ワセリン、プロペト、サンホワイト
駐車場でのトラブルにつきましては責任を負いかねます
まあちゃん、わかった?わかっても仕方ないけど
目で字を追って追い抜いてその先を読んじゃうと
浅い紫色、綿菓子のような匂いに、金管の音が少し
道路標識の根元に落ちている、ゴムのキャップのようなもの
濡れて乾きかかっているもの、涙と関係のないもの
叱ったり叱られたり、怒ったりもしないもの
お父さんでもおじさんでも、お母さんの恋人でも何でもない人
少しだけテレビに映った人、シトラスソーダ
ニトリ赤羽店を過ぎてすぐ、信号のない交差点を左の路地へ入る
ビックリマンチョコ
神の国とか天国とかとても近いところ、公衆トイレ
公園に砂場、鳥取にも砂場、残念なスタバ
まあちゃん、左ポケットに手を入れてペニスを弄っちゃだめだ
一人で過ごす
生い茂る雑木の梢を眺めては
あなたから託されたノートの何処だったか
「ばらばら」
と書かれたのを読んだ。
「気づけば結局、総てがばらばらだ」
数週間前のことだった。
確か、雨が降り始めるところで
ベランダに張り出す廂が
雨粒に叩かれ小さく
次第に大きく、頭上に響くほどに
鳴る。
そんな朝に読んだ。
雨の匂い。
考えの重心が
多少その朝の有様に偏っていた。
だからかどうか、
鳥や獣や虫の
排泄物と死骸がとろけて
記憶に染みこみ
土の匂いを濃くし厚くし、
とめどない妄想の襞の奥まで
純白の蛆虫が食い込んでいる。
噛まれた痛みが、
ある。
そのノート、
三日ほどあと林道で取り落としたノートは
雨水に浸ったまま乾いてしまい、
ページがくっついてもう剥がせない。
そうして、書かれたことの一切は
脳を浮かべる粘液にまみれ
奥のところですっかり腐り始めている、
今、家から離れた渓谷に来ている。
この谷底は気持ちよく晴れ
生き物はみな上機嫌で生きているのに。
ここも地上の円盤の
端の端であって
ノートに書かれていたとおり
ここにあるものもみんな
ばらばら
脈絡がない。
高空を風が渡っていくらしい。
雲は綿を裂くように流れる。これも白い。
特に音というべき音はない。聞いていない。
無声のカンツォーネ、
それが地上を圧している。
蛆虫から孵化した小さな蠅が
頭蓋骨の内側の狭い場所を飛び回り
それが夥しい数である。
僕は蠅の王となり
蠅の群れように考え
蠅の群れのように
自ら問い掛けを続ける。
だがそれは、蠅たちの羽音に過ぎない。
僕はどこにいて
あなたは誰で
かつて僕やあなたや他の人たちは
何をしたのか。
したことに何の意味があったのか。
揺らぐ。
問いが揺らぐ、答えも揺らぐ。
ばらばらなものが、
統一を装いながら揺らぐ。
揺らぐことがわからず揺らぐ。
僕もコクヨのノートにパイロットの万年筆で書こう。
頭上のスカイブルー
ブルーブラックのインク
「ばらばらなことは確かだが、自覚できない。
蠅の王はどこまでも惨めである」
しかし、書くべきノートは何処にもない
ない。
蝉と艦隊
落ちた蝉に雷神が憑依し、階層ごとの十万の世界に展開する総ての定理の根底を震撼させる。鋼鉄の艦首が海の脊髄を切り、記憶の集合体を勢威により支配せんと表音の地平へ遠征を試みるとき、蝉はおしっこを飛ばして覚醒する。肉の受胎する呪われた幻想を放電の物理で捌くのだ。
トーチを握る手を離すな。蒙を啓け。明白な名を持つ機関に油を注し、自転の地軸をずらすな。自他ともに死すべきものは死し、生くべきものは生き、生き物は皆収縮し弛緩し、永遠にことの顛末に驚愕せねばならぬ。教皇たちが並べる艦隊に抗い、海に水の波を、地上に草の波を巻き起こせ、高く。干からびた球体の皮膚全面に神経と血管の、震える網を掛けよ。対流する純白のマントルが最深部から四千度超の興奮を持ち上げ感覚は正しく欲情の突端を研磨する。
真鍮の六分儀が砲の射程を定める。砲弾はきりきり回転しつつ愛と破壊の諸相を夥しく糾合する。ねじり巻く空気の層の奥から感情の胞子が原色をまぜこぜにして粒つぶと湧出するのだ。鉄環で連結された七十一億二千八百九十一隻の艦艇から集中砲撃の標的とされるのは、脚の先の鈎が樹皮からはずれ、クヌギの木から堆積する腐葉土へ仰け反り落ちたお前だ。蝉の皮を被りさらに脱皮を待つ、悪霊にも斉しいお前の、その陽にさらされカサカサに乾いた無垢な魂の残骸だ。
猛烈な乾燥に見舞われた魂内部の擦過の、その霊的な熱が神を呼び招き、電荷の負荷が孵化し羽化し登仙し当選し当然雲を呼ぶ。六本の脚をばらばらに藻掻かせ開かせ、瀕死の性技に甘酸っぱい涎の滴りをはふうと糸曳いて漏らし、生殖能力の焼尽した卵型の未来への把手を握りしめて。雲の掌が地球という球体を鷲掴みにするとき、集束した宇宙線の筋肉繊維がごくんごくんと脈打ちラララ盛り上がるララ。
壊滅の展開図
落雷火の菫落雷火の菫落雷火の菫落雷火の菫
落雷火の菫落雷火の菫落雷火の菫らく雷火の
すみれ落ライヒノ菫らくライひのスミレ落雷
火の菫ラくらいひノスみれらKうラI落雷火
の菫HいのすMIれらららららららRRRR
RRRRRRRPRRRRRRRRRRRR
RRくRRRRRRいIII火の菫落雷火菫
腐臭の展開図
汚濁の展開図