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リンネ - 2014年分

選出作品 (投稿日時順 / 全4作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


うどんの想像力

  リンネ

 夢うつつというでもなく、ふと日ごろの疲れよりくる眠気に足をとられ、ほんの一瞬目を閉じれば最後、のっぴきならぬ結果を生むと云うものだ。毎朝毎朝、どこに行くともしれぬ通勤電車に体をねじこみ、右も左も沸き立つ人肉に囲まれもみくちにされるしまつ。さながら煮込み饂飩である。せっかく朝起きてしゃきっとした右と左の目玉が、ごったがえしの車内で茹であがってしまう。ぬるぬるになってしまう。ともすれば輪郭がゆるくなって、自分が饂飩のように、饂飩が他人のように思われてくる。人生はごろごろと混ざり合い溶けあいしまいには何ものもしっかりとした自分らしさを持てぬまま電車のすきまからするすると這い出し、そのままレールにこびりついて気づいたら平凡な饂飩のごとき一生涯を終えてしまっている、そんなことまで起こりうるかもしれないから怖い。かかる嘘のようなこともあり得るとすれば、たとえばふと眠気に意識を失ったかと思った次の瞬間、自分がたちまちたっぷりとしたぜい肉を蓄えた、一人のまっくろな牧師へと成り変わっていたとしても、別段に驚くことはないんじゃないかとさえ思う。そしてそれがたとえばわたしの身に降りかかったとしても驚くとかなんていうかそういう意外だなあとかいうふうには感じないんじゃないかなと思う。というかじっさい全然そういうふうに思わなかったというか、むしろ本当の自分を見つけて最高にハッピーな感じである。うわ、これだよこれ。ついに分かっちゃったよわたしは。ある日とつぜんに凡百の月給稼ぎから、凡百の信仰の徒となった、まごうことなき凡百の人間であるよわたしは。
 凡百の権化であるよわたしは。
 例えばこういう洞察を得ることがある。すなわち、百萬の饂飩たちがわたしの説教を待っており、それは火を見るより明らかであると。というのも風の立たぬところに火は起こらない。つまり、気づけば屋内にもかかわらず一筋の風が吹いている。それは饂飩粉の香りのする風である。しかしそれがどこから吹いた風かは知れない。それが本当にいわゆる風のごときものなのかもじつは一人の凡人の憶測に過ぎない。憶測というのは怖い。しかしともかくその吹いてくる方向にあらがって進んでみよう。ポジティヴに行こう。風は強いが、足取りは軽い。爪先も踵もひょうひょうと飛び跳ねている。一介の派遣社員とて、こんな出自不明のわけのわからぬ風に対してなら立派に仕事を成し遂げるというわけだ。

 ふと目を覚ますと、戯れにあくびをする間もなく重たいベッドの掛布団はひっぺがされてしまうのだ。これはつらい。いやいやながら軸のないふらつく背中を二本の頼りない足によってぎりぎりに支え、さあ歩き始めるぞといざ意気込んだところ、肝心の体のほうはといえば、これがうんともすんとも言わぬのだから始末が悪い。それでも無理やりに全身を震わせて、はるか彼方、寝室の出口扉にとうとうしがみつき、手首をくるくると回して戸を開いた。そうしてようやく壇上に上がったかと思えば、もはや息も絶え絶え、説教どころの話ではないのだ。説教のできない牧師なんて、饂飩の吸えないサラリーマンのようなものだ。
 生きていくこともできない。
 しかも信者など一人もいないのだ。代わりに沈黙ばかりが部屋を埋め尽くして偉ぶっている。日ごろからその身を信仰の道に捧げ、何事も疑うことなく生きてきたというくせに、しまいにはこのていたらく。信者というのも今では流行に関わらざるをえぬというわけだ。よろしい。ともかくありようはこういうことなのだ。わたしはわたしで自分の仕事を全うするだけ。今の今までたまたまそこに信者がいたればこそ、一人空っぽの一室で声を上げずに済んだというもの、こうなれば腹をくくって事をなすのみである。あれこれの道具立てはもはや無用。こうしてある日、狂気の天井はサーカステントのように遠のくのだ。ときに教会の天井のどこかまったくの暗闇から垂れ下がって誘惑してくる白い紐に対して、できることといえばどうしたってただ一つ。それもまことに簡単な仕事。しっかりと首にそれを巻きつけ、のっぴきならぬ用向きに、それ相応の準備を整えるだけのことである。
 わたしの白い頸。わたしの黒い頸。天の紐に導かれるようにして、ふらふらと所在ない二本の足を揺らしながら、上へ、上へと昇っていく。信者に見限られた今となって、この身が一寸ほどの球体間接人形へと変化してしまってもなんと文句がいえよう。こうした肉体の過激きわまる変容は、どうやら精神のほうにも少なからず影響を与えるらしい。ちっぽけな身体には、ちっぽけな昆虫なみの精神があれば用は足りるというわけだ。そして他愛もない人間には、やはり他愛もない神程度がおあつらえ向き。左様、わたし自身の顔立ちが今ではいつのまにか神(うどん)の子のそれそっくりとなっている。こうも目鼻立ちがそっくりとくると、よもや信者を失うということももはやこの先あるまい。あとはわたし自身の問題だ。しかし身体は大変に熱い。目がしらは溶け出してしまいそうに煮え立っている。天井の中央にある、あの白熱灯の熱波が、わたしの身体に巣くう毒をあぶり出そうと云うばかり、真面目な目玉をこちらに向けてぎろぎろとしている。まっしろにきれいな、大きな目玉だ。まるであのルドンの妄想した巨人キュクロプスの持つ一つ目だ。ということはやはり、あの目は恋に病んだ目だとでもいうのだろうか。それゆえに熱を帯びているとすれば納得もいくというものだ。もちろん少なくともあの巨大さは、わたしが一方的に小さくなってしまったゆえのこと。いわば嘘っぱちの巨大さ。ところがその嘘っぱちが、わたしにとってはどうしようもないほんとうなのだから困ったものだ。
 はっはっは! 頸にかかったこの頼りない紐は、それでも遠慮なしに上昇を続けている。その紐の先で、くるくると身体をねじったり、あるいは両手両足を無意味に伸縮することくらいしかできないわたしは、さながら、神の垂らした疑似餌に食いついた哀れな重病患者のごとき有様である。もはやなすすべなど何もない。それは先刻承知のこと。しかしこんなわたしも一人の神の子なのである。凡人にはそうそう耐えかねるこの灼熱の明かりを背に受け、無用な叫びをあげることは少なくともありえない。どうしたって目前の運命を受け入れるしかない。そんなことは承知の上。これがしかし、あるいは何かその筋の指示によって巧妙にしくまれた謀略であったとしても結果は同じ。おお。あつい。あつい。背中が焼け野原のように無言の叫びをあげている。むろん私の口は、一文字を描いたまま微動だにしない。
 あ。耳の穴から火が噴くことがあるとは! 人ひとりの人生というのはほんとうに奇妙だ。ほうれ、ほれ。わたしの背中はとうとう白熱灯にぴったりと重なりあってしまった。つまりはこういうことなのだ。いつのまにか煮込み饂飩たちの叫びが、わたしのはるかかなた下の、これもいつのまにやら忍び寄るように現れた黒い魚の口蓋のような穴ぼこのほうから、耳を弄さんばかりのごつごつとした怒号となって、うなぎ上りに上ってくる。そうか。そうか。これが終末論のなれの果て! ああ! こいつはうかうかとしていた。どうやらわたしはすっかりだまされていた。磔刑というものを、わたしは少しばかり勘違いしていたというわけだ!

 脚立うどんにそっと足をかけた二名の子供うどんらによって、ゆっくりと自殺者うどんが下ろされてくる。子供うどんらは顔立ちがまるでそっくりで、はた目からは区別のつかないほどだ。この場合、とかく区別をつけないというのがむしろ実際の理うどんにかなっているといえよう。自殺者うどんの頸にかかったロープは、見ればまったくその役目を果たし終えようとしてくたびれていた。とどのつまり、根元のほうはすでに業火うどんによって頼りなげに黒焦げていたのだ。そして悲劇うどんが起きた。それはまことに突然のことであったが、あながち論理うどんは通っていたようにも思える。つまり天使のごとき二名の細腕うどんが、宙ぶらりの自殺者うどんの体を自らのもとへそっと包み込もうとした間際の、瞬間の出来事であった。何の予兆うどんもなく、白熱うどん灯からとたんに炎が上がると、まるで導火線うどんを伝わる火の子のよう、首吊りのロープうどんを経て、またたく間もなく燃え広がったかと思えば、すでに炎は自殺者一名と子供二名の全身をすっかりと包みこんでしまっていた。そうして三名の体うどんは渾然一体うどんとなって墜落うどんし、この一室うどんの、ニス塗りうどんをされて光沢うどんじみた床うどんの上うどんに、胴部うどんや腕足うどんのことごとくを失った奇妙うどんなシルエットうどんで、三名うどん一様うどんその体うどんをぐったりと寝かせたのであった

 ここにいたってようやく目を覚まし首を振るとすぐさま背筋に妙な悪寒を感じたがそれはすぐに身のどこかしら果てへ果てへと沈んでいき代わりに臍から湧き上がってきたものといえばそれはまったくわたしの思案の範疇外より現れたとしか言いようのない恍惚のごとき突拍子もない饂飩であった。が、それもいまでは失くなった心のうちにかすかな残り香を濁すばかりでなんともさみしい。もはや何ものもどんな意味のあるものもすべてわからないということが判然としたときそこらじゅうにぶら下がっている輪っか状の吊皮や、かたちを持ったさまざまな饂飩たちの鋭い幸福の視線がきりきりとわたしの顔をまぶしく彫刻していくように思われた。
 乗客の大きな顔が、それを眺めて笑っている。


一枚岩でない

  リンネ

「群人の記憶」

ひとびとは群をなして一方向に走り出す
そしてわたしたちは前方に見える
愚鈍なカメを追い抜く
猥雑なウサギを追い抜く
分裂病質のアキレスを追い抜く
斜視のゼノンを追い抜く

わたしはひとびとの塊のなかで一枚岩でない
わたしはその塊のなかから
しゃもじのような腕をぬらりと生やして
こっそりと、しかし限りなくすばやく、その
カメの愚鈍をもぎ取る
ウサギの猥雑をもぎ取る
アキレスの分裂病質をもぎ取る
ゼノンの斜視をもぎ取る

すなわち
わたしはけっして一枚岩でないのだ
しかしわたしたちは
宵のころ、コンビニの明かりのむこうに
それでも見える北斗七星が
およそ単なる星星のきらめきでないのと同様に
なにはともあれ
何束もの愚鈍な札束である
何本もの猥雑な棒金である
何枚もの分裂病質のクレジットカードである
何刷もの斜視の領収書である

それにもかかわらずやはり
わたしは移動するひとびとの
肉列車の建築ふかくからそっと
なま温かい雲形定規ふうの
ひとまずの裂け目をひらいて
一本のわたしのまっきいろな手頸を
生やそうとしては
仕方なく立ち寄った蕎麦屋で
もう何年も同じしゃもじを捜している

しかしそれも今ではすでに残響である


【註解】



[愚鈍な亀]は、ある日突然に人に飼われ、ある日突然にやはり池に捨てられたところのかわいそうな亀である。その亀はまるで泳げない、愚鈍そのものの亀である。飼われているあいだに泳ぎ方をすっかり忘れてしまったのだと、亀は首を珍棒のように伸ばして弁明するが、ほんとうのところ、亀は猥雑なウサギを見るたびに全身が煮えたぎるように熱くなるのを感じた。しかしそれは全く性的なものではなく、むしろ鋭い嫌悪感によるものであった。何の訳もなく亀の珍棒は憤怒に満ちた。その漲る怒りの気分は身体の端々へと溢れて、亀は硬直した陰茎の如くぎらぎらになった。その日の天候はとても気持ちの良いポエムびよりであった。



[猥雑なウサギ]は、いわゆるところのネット詩人である。たとえば、かれは仕事(このウサギは登録制の派遣社員である)のない日などは自宅近くにあるログハウス風のカフェーに行き、読書などに耽る。そんなときカウンターに置かれた花瓶にささった、頼りなげな青白い薔薇が花弁をぽろりと落とすと、ウサギの胸にたまさかの詩情が湧く。そこでかれはすかさずポエムを練ろうとする。しかし相変わらず何も生み出せないのだ。薔薇はウサギを急かすようにもう一枚花弁を落とすのだが、全くウサギは益々焦るばかりなのだ。それでいて薔薇は花弁を落とす作業を尚もやめないのだ。それでもようやく無理やりのように書きあげた一篇の詩も、註解なしには成立しないような、まったくどうしようもない低劣な落書きであるのに、ウサギはほとんどそれに気づかず、パソコンの前で顔という顔をすべて真っ赤にしてマスをかいている。



[分裂病質のアキレス]は謎かけが好きな法学部の青年である。曰く、

「これは良識のいずれかの基準の下で禁止されているからですか? わたしは個人的にネット詩人を攻撃しません。実際に、わたしはさらに、これらの詩は麺のように吸うだけのこと、彼は良い詩人だと述べているのです。『ディベート』を目的としたコメントのセクションではないですか? それでは命題を出します。

命題1−1 どのようにあなたが詩を聞いていない場合は、あなたが詩を好きではないことを知っているだろう
命題1−2 詩はあなたが詩の夢の人であり、あなたの声が詩に来ていることも見ている
命題1−3 あなたは詩があなたを夢中にさせる詩を愛して、あなたはこの詩が大好きなゼノン

さあ、わたしは再びわたしを愛して歌うわたしのポエムをした、わたしは大量にしたいが、再びわたしを愛し、詩を

けしてチェックアウトしないでください」



[斜視のゼノン]はこの詩を評して、かくのごとく言い放った。

「どどん。ゆどのん。あぐおいんご。んどぽー!ひゅどぽー!ざぱぱぱぱあ! って不意に叫びたくなるくらいの衝動が我が胸に灯されたとしたら、果たしてそのとき僕は恍惚を味わえるのか!? ということとかをやっぱり時折考えてしまうよねこの年になるとね。まあ人間の王国に住む限り仕方のない話だよね。でもこの詩ってさ、結局ぼくらの想像力の範疇を超えないわけじゃない?凡庸凡庸。こうゆうメタ形式にしたって、結局だめなものはだめ。ぼくの前にはたしかにアキレスくんが歩いていたし、アキレスくんの前にはウサギが、ウサギの前には亀がいました。でもあなたはあのアキレスくんの何を知っているというの? ウサギだって亀だって、みんなこっちでは生身の存在なの。わかる?まずあなたはそこから反省しないとだめ。アキレスくん、男色よ。あたしだってそう。うっふん。そんなこと、あなた、なんにも知らないで書いていたんでしょ? やだやだ。だから詩人は嫌い。んもう。読者にしたって、同じことよ…


カップヌードル式

  リンネ

 ぼくは部屋の中をぐるっと見まわした。そして思い掛けない激しさで、「カップヌードルがある!」ふと涙ぐんだのも思いがけないことだった。「カップヌードルがある」もう一度小声で繰り返すと、目の前の壁がもやもや霧のように胸いっぱいにひろがるのだった。
 カップヌードルというのは、目に見えるということが大事なのだ。そのカップヌードルが不可視の存在になってしまったら。そしたら、どうだろうか。目に見えないカップヌードル。これは矛盾そのものである。
 時計を見ると午前十時三十八分二十六秒だった。そのときのカップヌードル。二十七秒のカップヌードル。二十八秒のカップヌードル。カップヌードル、カップヌードル、カップヌードル。いろんなカップヌードルが僕の部屋に溢れて、僕はそのすべてをだきしめたいなあ、と思う。部屋に満ちるカップヌードル。
 ぼくはここにあるカップヌードルがカレー味であろうと、しょうゆ味であろうと構うまいと思った。ここにカップヌードルがあって、ある関係を結ぶだけだ。ぼくのペニスがコンドームと関係を結ぶのと同じように。頭と枕が関係を結ぶのと同じように。
 こんなふうなカップヌードルの一列を「口中オルガン」と称していた。並んだ抽斗にはそれぞれフリュート、ホルン、天使音栓などと貼札がしてあり、ぼくはこれを引き出して、あちらで一滴、こちらで一滴とカップヌードルを味わいつつ、内心の交響曲を奏するのである。
 ぼくは頭蓋骨ののっている机のはしからカップヌードルをとりだした。ぼくはほんのちょっとのあいだ、そのカップヌードルに自分の手をのせた。それは、冷たくてしめっぽい、カップヌードルだった。
 そのカップヌードルがころころと転がり落ちた。そうしたら、本当に不思議な話のようだが、そのぼくの、二十年前の兵隊さんの外套のポケットから、いつかカップヌードルがころころっと転がり出してきたことがあったのだ。それを、とつぜん思い出したのである。
 しゃがんだぼくは夢中でカップヌードルにしゃぶりつく。陥没した容器から蠅が飛び立つ。蠅はしばらくカップヌードルのまわりを飛んでいたが、シーツの上に降りるとまもなく消えた。
 それからぼくは、こぼれたカップヌードルのなかに寝転がり、平らな麺に自分の頭を載せて、乳を流したようなスープを見つめた。スープには、星の精子が点々と穿たれ、天の尿が流れて奇妙な模様を作り、それが、星座をちりばめた人間の頭蓋にそっくりの円天井に広がっていた。
 ぼくはここでもうじき死ぬる。でも大丈夫。ぼくはカップヌードルだ。ぼくは初めから、むかしもいまもこの世界に居るし、居続ける。適当な紙にカップヌードルの記憶を書き込んでみよう。カップヌードルはまた同じことを繰り返すのだ。
 いまでも責任をもって確信することの出来るのは、この世のなかには、唯一絶対の、だからほんとうのカップヌードルなんかありはしないということである。そしてぼくは、はなはだ無邪気で申訳がないが、そのことをこの世のやさしさとして喜ぶことが出来るのである。
 ぼくはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っているカップヌードルのようなものではなかろうか。

 箸を、だれかが、ぼくの心臓に刺し込み、二度えぐった。眼がかすんで来たが、箸を構えた二人の男がぼくの顔のすぐそばで、最後を見極める有様が、まだわかった。「カップヌードルのようにくたばる!」ぼくは云った。屈辱が、生き残っていくような気がした。
 そうして房飾りのようになってしつこくつきまとう、燦然たるカップヌードルに囲まれて、ぼくのスープは、夜空に微動だにせずかかっている星座の下で、自らもまた銀色に輝く姿となって、ゆっくりカップヌードルの外へと流れ去った。

 いったい、いつから、そのカップヌードルがカップヌードルとなったかを、ひとびとが忘れはててしまうことによって、カップヌードルはまさにカップヌードルとなる。



  【註】

 パラグラフごとに次の順序で各々の作家の文章の引用である。しかし引用文のほとんどは作者により人工合成の添加物を幾ばくか混ぜ合わせてあることに注意が必要である。

阿部麺房、松浦麺輝、町田麺、麺田雅彦、J・K・ヌードルマンス、ジェイムス・ヌードルス、麺藤明生、麺取真俊、ヌードルジュ・バタイユ、町田麺、椎名麺三、太麺治、F・N・カフカ、ウィリアム・ヌードルディング、プラメン


愛人

  リンネ

 上等の小麦粉のような肌が。あらゆる美しいものがそこに詰まって、出口を見失っている。死ぬことと生きることが完全にそこで分かたれて開かれている。決して食べることはできないのに。食べたいのに、食べられないものを、食べようとする間際に、肉の門番が、からだが立ちはだかる。あの音色の、あの乳房の、皮膚という皮膚すべてが、それらの攻防を極限まで追いやる。くびを、そのことばの響きさえも、締め付けられてしまう。それは決して食べることができないのに。食べたい、という底抜けの欲求がある。あらゆる対象に向けて。迷路のように。すべて、じぶんに欠如したものを、食べたい、と欲望すること。それは、食べられたい、というありえない欲求を、幻想の胃壁のうらに、うらとおもての狭間に。織り込もうとするかのように。それはおもてではない、それでも、うらのうらでしかないような面に。指折り、写し取っていくそれを。影をすくうように。影によってすくわれるように。やっぱり何も食べられないのだけど。食べたい。わたしは食べたい。わたしは呪文を、空しく残飯の積まれた廃屋の、くちびるを指でなぞって、数えていく。ぜんどうする見えないものこそを。このからだに情愛として記すことで、食べたい。呪文、宣誓、奇声、見えないもの、うらがえしになったその輪郭をなぞって、溶けていくある過剰さ、欠如しているがゆえの過剰さを。ビフテキに、折りたたまれた太陽の、欲情を、わたしは信じない。食べることを可能にするものに、わたしは異議をさしむける。信じないからこそ、書き込まれたわたしの過剰さは、ビフテキにも、そのことばの痕跡にも、顔にも、香りにもなにものにも先立っている。あまりにも繰り延べられているゆえに。すべてに遅れをとっているがゆえに。あれをしても、どこにも届かない。繰り返すほどに、離れていく。食べたい、ということばは、どこを見まわしても、その輪郭が見え過ぎている。しかしそれは、ほんとうの過剰さとはほど遠いしかたで。しかしいずれはさほど遠くもないどこかで、わたしはおそらく、結合したい。わたしとそれを。しかしそれを口にする間際に、わたしの口が、わたしを超え出てしまっている。その口はわたしのものではない。おそらくは、舌も、食道も、胃も、消えていくことばの尾ひれも。わたしのすべては、からだに遅れをとっている。決定的なほどの遅れを。先立つはずの、からだもまた、わたしに遅れている。食べたい、という感情はどこにも居場所をもてない。たましいにも、精神にも、あらゆる器官においても。それでも、食べたい、と口ごもって、存在している。それほど、わたしは愛している。だから居場所をもてない。愛にも結実しない。食べたい。食べたい。と。わたしは繰り返し、わたしは食べる。人間を。そのことばを。ことばでしかないような、人間でしかないような、それを。延長していく扉の前で。半開きの空間から、差し込むまばゆい光の前で。ひかり、とは似つかない、ある輝くものをのぞき見るために。卵のような目の、その口をひらくことで。すべてをみごもりたいがゆえに。わたしは食べたい。食べたい、と言うのだ。そのことばの苦しさに、触発されて震えることがある。なにもかもわからず、ただ並べられたことばに感情が引き寄せられ。夢を見るような、ある認識できない過剰さに。わたしはその過剰に、その欠如におぼれてしまう。本を折りたたむようにして、口を閉じる。緊張した胃に、ひとつの物語がまた孕まれたのを知って。流れる糞便のような、その物語を知って。それを吐き出すために、それに先だって、口を閉じようと。先立つものに、遅れるものに、その双方に抗いながら。

文学極道

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