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コラム

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詩というジャンルを読んでもらえるものにしよう

 ダーザイン

 詩というジャンルが、書店で入手が困難になるまでに凋落して久しいですが、様々な要因があるでしょう。ポップス(音楽)は随分昔から成熟を迎えており、詩としてもまともに読めるような場合が多々あります。美しいメロディー付きの作品に、言葉だけしかない者が言葉だけで抗するのは厳しい戦いでしょうか。また、文学芸術というもっと広い範囲で考えてみると、アニメというジャンルの新興に著しいものがあり「新世紀エヴァンゲリオン」以来エンターテイメントとしても現代性の探求に於いても文学の先を行ってしまった。「serial experiments lain」や「TEXHNOLYZE」以上に先鋭で、且つエンターテーメントとしても楽しめる文学作品が上記に上げた作品の成立年代以前に以降にどれだけ在ったかを考えていただきたい。文学が現在も時代精神をにないうるジャンルであるのかどうか。
 こういうことを書き続けると、では音楽も映像もない文学というジャンルはもう最初から負けでダメだと言っているのかというと、そういう話ではない。熟練の技を持った言語芸術家は映像を言語化する筆力を持っていますし、ロックの歌詞よりも人の心に届き、圧倒的に良い詩を書けばいいのです。ただ、ここで現況の詩会について(紙媒体・ネット詩問わず)それができていないという問題がある。紙媒体というすっかり小さくなってしまったジャンルをみていると、良い人も無論いるのですが、概ね詩情というものにすっかり無感覚な場所になっており、普通の人(つまらない奴)が書いた読み手に何の感慨も与えない陳腐な身辺雑記や、これまた読み手に何の感慨も与えない言語遊戯のようなものが多数を占めている。イマジネーションはどこへ行ってしまったのか? ネット詩にいたっては糞みたいなラブポエムが良作をものすごい勢いで過去ログに押し流す所もある。下手糞なポエムは問題外として、上記の詩を書いている者たちに言いたい。貴方には人様に伝えるべき強度のある生はあるのかと。人様に何も感じさせない身辺雑記など読まれるはずがない。そんなものは日記にでも書いていていただきたい。日常なんて、自分のだけでうんざりなんです。極端な例を挙げると、太平洋戦争の日記風回顧詩などというものを未だに目にするのだが、いい加減にしていただきたい。彼らの詩を読んでも大抵の場合昔は良かったという話を聞かされるのとなんら変わりない感想しか持てず、認知症の老人を想起させられて失笑を誘う場合すらある。そういう連中に限って未だに大日本帝国の天皇の臣民だったりするわけだ。わらぃ。戦争を扱うのならば記憶という捏造システムの中で都合の良い物語をシュミレートするのではなく、リアルに今ここにある戦争と対峙していただくべきであり、昔日を懐かしむのは日記ですればよいことです。アフガニスタン、チェチェン、イラク、パレスチナ、世界中の至る所で戦争は現在も行われている。お前らの払った税金がアメリカの土木事業代わりの戦争の戦費になっているんだ。そしてこの日本という国では失業などによる経済苦を発端とする鬱病などを一番の理由とする自殺で毎年三万人も死んでいるんだぞ、ふざけんな。他人事じゃないんだぞ。現代性の欠如した人は速やかに引退して後進に道を譲っていただきたい。
 何故詩という場所がそのようなものになってしまったのかというと、多分訳の分からない現代詩で読者離れが起きた過去への反動だったのであろうが、それがなぜ身辺雑記になってしまったのか理解できない。
 今の詩会に足りないもの、文学極道で私が求めるものは、つまらない詩じゃなくて面白い詩。イマジネーションの炸裂で読者に非日常を垣間見させるものを書くこと、有無を言わせぬ圧倒的に美しい言葉を紡ぐこと。或いは、人様に何がしかのリアルな生の強度を伝えうる詩情・抒情の復権(古臭い詩を書けと言っているのではない。二一世紀の抒情詩を創造するのです)、これだけです。陳腐な奴はいらない。極端な人よでてこい。これって、芸術にとってあたりまえのことではないですか? そのあたりまえのことができないから凋落したのです。半端な野郎はオカマバーにでも行って下さい。
 文学極道には詩才と意欲のある人たちが集ってきてくださり、毎月、上記の意味で優れて本来的な詩を「月間優良作品」として発表させていただいております。

 かつて「ネット詩爆撃計画」という企画(糞みたいなポエムで溢れているネットの投稿掲示板に紙媒体詩人がまともな詩を貼り付けて薫陶するという企画)がありましたが、今、立場は逆なのではないですか? 文学極道には出てきていない人たちにも、ネット詩人には、現代日本を代表するような優れた詩人がたくさんいます。
 現代性の探求という文学の使命からも、紙媒体詩人は新しい双方向のメディアであるインターネットにもっと出て来たほうが良いのではないでしょうか。新世紀の実存様態であるネット空間(ワイヤード)を生きずして現代性をにないうるわけがない。それに、可能態としてではありますが、ネットに出てきたほうが圧倒的に人に読んでもらえる機会が増えるのですよ。二千部やそこら紙に刷って満足なのでしょうか? 一億六千万人のうち、二千人にしか読んで貰える可能性が無いということです。紙媒体には紙媒体に有利な利点、視認性の良さ、それから何より本を手にしたときの重み、というものがあります。ですが、ネットに出てくれば小さくなってしまったマーケットの外のワイヤードという広大な海の中に偏在できるのです。文学極道にも紙媒体をメインに活動をしている人や、両刀使いが少なからずいますが、まだまだ、紙媒体詩人が多数出てきているとは言いがたい状況です。文学極道は発表済み・未発表を問いませんので、過去作でも良いのですよ。
 また、ネット詩人も、紙媒体にも作品を投じて欲しいです。要するに「紙媒体爆撃計画」です。貴殿らの鮮烈な作品で、陳腐な詩人さんを淘汰してあげてください。言葉は悪いですが、これも詩というジャンルを活性化しようという動きの一環です。
 みなで人に読んでもらえる詩、という環境を作りましょう。


連想の彼方へ

 榊蔡

 たとえば雪。白、白銀、結晶、揺らめく六花、飛雪――頬を刺し首筋に滑り込む、冠雪――エッジを失い滑らかなる風景、斑雪――見あげると冷たい額、新雪――青白く神聖な無言の夜明けと自らの呼吸の音――そのとき冷ややかになる肺――空へ向け益々と尖ってゆくような両耳の尖端――鼓動の中心を射抜いている細い針――太古より心の裏側から見つめている白狐の眼差し、

 とこのように私たちは、一つの言葉に対して、その時々での経験知識に断片化されたイマージュを焼き付けたものが縦横に結びつく連想のネットワークを、それぞれが持ち得ています。だから作内に、雪、を仕掛けた場合に、読み手が雪という活字を目に、ユキという発音を思考のなかで唱えるのと同時に、漠然としたこのネットワークの印象が、心に干渉するのでしょう。雪、ひとつでもこの有様です。風花、などと状態を限定すれば、雰囲気の範囲こそ狭まるものの、益々と明確で強い印象が、読み手の経験を引き出すでしょう。更に作内では、たとえば、横向きに駆け抜ける風花のむこうへ君を手探り、などと形容や主観の動作までを付加することもでき、それは直接的な叙情なくしてもなんらかの心境といったものを伝えることとなってゆくでしょう。実際にはこの前後にもセンテンスがあります。先の一行が、前文からの列記であったり、反復、切り返し、初文の回帰であったりして、それならばそれぞれにその効果は違ってくるものです。同一のフレーズでも、全く別の雰囲気を滲み出させることとなるのかもしれません。それは音楽の和音進行の効果に似ていなくもない気がします。

 さて、言葉が負うこととなるこのような効果を踏まえ、幾多と存在するであろう方法論や、詩の構造的な部分こそに命題を置き、実際に作品が書かれているのでしょうか。私にはそれはないように思えるし、そのようなアプローチで書き上げられた詩に統一感が期待できるとは考えにくいです。ですが、書き手が現在あるいは過去に置かれることとなった強い心境をおもむくままに吐露しただけの叙情詩では、読み手としての私が求める詩には成り得ないのです。もちろん書き出しからの自然な言葉の連鎖、というものは詩がすんなんりと読み進められ、すんなりと心に近づくことができる流れを産み出すためには大切な要素ですし、飾り気のない独白は、たとえ作品の完成度を伴わなくとも強い共感を得ることがあります。以前に私は、とある女流作家のインタビュウー記事に、作家になるためには街中を裸で歩けるくらいにまで羞恥心を捨て切らなくてはならい、という発言を目にしたことがあります。私はそんなふうに書き上げられた小説が嫌いなので、この女流作家の筆名は直ぐに忘れてしまいました。詩も同じで、赤裸々であることに重点を置いているようなものに私は興味を持てないし、それにはときとして辟易とすることさえあります。街中を裸で歩く行為自体、いちど吹っ切れてしまえば快楽の部類に置かれるものだという予感さえあります。露出狂は人集りをつくるかもしれません。しかし文学にもっと崇高な価値を求めている私は、読まれることで発生する書き手の快楽に付き合うつもりにはまるでなれないのです。

 こうなるとやはり、共感を引き出すために必要な偽りない告白と、言葉の効果や詩そのものの構造に対する方法論といった、いわば技術的な部分での操作、それとの両立がとても大切なものに思えてきます。こう述べてしまうとこれはとても当然なことと思えますが、実際に技法とモチーフを巧く噛み合わせることはとても難しいものであるし、おおむねそれは詩人各々にとって、終わらないテーマのようでさえあるのではないでしょうか。なにせ技巧のすべてはモチーフの流出と同期して組み込まれなくてはならないものであり、交互に両要素を踏まえた推敲を重ね書き上がった詩には、そこにはしる一筋の脊髄はうまれないでしょうから。

 私は詩作を書き進めるにあたり、そのとき表そうとする情景に対し、幾つかの方法を試したりすることがあります。逆に、技法として思いついた骨格としてだけの構造を覚えておき、これに巧く乗ってくれる情景が浮かぶのを待つようなこともあります。いずれも二要素の両立ができ、そこに詩が負うことのできる最も強い力、書き進める段階にだけ発生するあの力を織り込むことができた場合にのみ、漸く一つの詩が書き上がるのだ、という気さえします。加え、たとえ声を発しなくても、人間が言葉を用いなければなにも思考できない自意識である、ということを理解した上での言葉選び、つまり読み手を聞き手に廻らせない装置としての詩、がおこなえたのならば言うことはありません。

 私が文学極道に求めているのは、簡単な言葉で述べてしまえば、読み手が得をする作品、なのです。私自身、自分の書いたものが読み手になんらかの利を与えているかと問われると返答を濁したくなりますが、最も大切なことは、そういった作を書き上げようという意識、願い、足掻き、のようなものだと思います。私はこの場でこれから触れることになるであろう投稿作のなかから、利を得たいと願っています。それは未だ見ぬ情景であり、斬新な焦点であり、ひとつの気づき、美しい言葉の連なりなのかもしれません。書き手が得をする露出趣味的で赤裸々なだけなものとは、ここでは顔もあわせたくないのです。永劫に符号であり実体となることのない言葉を用い、連想の彼方にあるあの純粋な雰囲気だけの結晶、その連鎖に触れたい。その感触をここで得たい。


たまには挑発などしてみる

 いとう

本音を言えば、ポエムなんて大嫌いだ。
なにも考えずにポエム書いてるやつらなんか、なにもわかっちゃいねぇ。
そういうやつらはうわっつらでしか生きていないと思っている。
生きているのではなく、生かされているだけだ。
養豚場の豚みたいなもんだ。
そういうやつらは、
どこかの真ん中でブヒブヒ何か叫んでればいい。
俺の知ったことではない。
蛇足で言えば、そういうやつらほど、厚かましい。
自分の主張だけで、他者を慮ることがない。

と同時に、
インターネットという“場”には、
何があったっていいと思っている。
ステキな養豚場もあるだろう。
ステキな養豚場にケチを付ける気はない。
自分の棲みたいところに棲めばいい。
豚よりもタチが悪いのは、場を潰そうとするやつらだ。
潰すヒマがあるのなら、
自分たちの棲みたい場所を作ったほうが早い。

文学極道では過激な言文が目立つと思うが、
内実は過激でも何でもない。
真摯なのだ。それぞれが、それぞれの魂を懸けて、詩に挑んでいる。
ここに棲みたいヤツは、ここに棲め。
それだけだ。イヤなら来るな。ムリに棲む必要はない。強制はしない。

だが、少なくとも、
「詩が恐い」と思ったことのないヤツには来て欲しくない。
そういうヤツが書いてるものは詩でない。
ここに投稿する価値はない。
ここはそういう場所だ。作りたいヤツが集まって作った。
誰にも文句は言わせない。
文句があるなら、与えられた餌でも食いながら養豚場で言ってろ。
俺たちの耳にそんな寝言は届かない。


イマジネーションダウンに(ポエジーと現代性-文学論-)

 ダーザイン

「これを見て」
 その男は高価なワインのコレクションでも見せるように、壁をスクリーンにして自らの歪んだ嗜好を満たすために集められた膨大な映像のコレクションを披露し始めた。
 米軍の爆撃によって粉々にされた病院の瓦礫の下から出てきた首のもげたキューピー人形のような人体、パレスチナ人の子供がイスラエルのスナイパーによって射殺される瞬間を捉えたテレビ映像のストップムービー、ニューヨークの世界貿易センタービルにアラブ人のテロリストが乗った飛行機が激突する様子、それら国家や民族という快楽殺人者によって細切れにされた遺体の美しい断面図と共に、油代をけちる当局によって火葬場の倉庫に山済みにされたまま放置された浮浪者の死体や、放射能趣味が嵩じて原子力発電所に勤めた者たちの皮膚癌病巣の諸相などが、側溝に浮かんだ月のように青い顔の己自身の膨大なポートレートと共に上映された。それらの画像に一枚一枚コメントをつけるその男の目は異常な快楽にらんらんと輝いていた。

 札幌雪祭り大通り会場での大雪像崩落事故、即ち、高度資本主義の象徴であるニューヨークの世界貿易センタービルを摸して作られた大雪像が、季節はずれの好天によって崩壊し、大勢の観光客が下敷きになったため雪祭りが途中打ち切りとなり、桂市長が辞職を余儀なくされたあの失態の後、雪祭りによる経済効果の消失を狙うテロリストの関与を示唆する風聞が巷に流れた。ことの真相は明らかでないが、羊のように従順に運命に従っているかに見えた市民達であっても、その識域下では密かに革命が進行しているのだ。実際、私の友人たちの部屋にもスターリン、大道寺将司、ポルポト、金正日、麻原彰晃、宅間進、川俣軍司、宮崎学、鈴木宗男といった絢爛たる革命家の肖像が密かに飾られており、様々な宗派や科学的社会主義の煌びやかな妄想のガシェットが堪能されていた。
 次第に膨らみ始めた不穏な気配が、札幌郊外で行われた、イスラエルと共に悪の枢軸を形成する米国との共同臨界突破核実験成功によって、ついに炸裂したのは周知の事実である。
 その日は私も、壮大な光のページェントに参加するべく最前列で核実験を待ち望んでいた。設えられた特別席には首相や米国国務長官、イスラエル国防相らと共に天皇も鎮座している。いよいよ到来する祭典の瞬間を前にして、つめかけた万余の群集は激しく興奮していた。新世紀を記念する何者かが到来する予感が世界を満たし、祭りを盛り上げるために動員された平岸天神などよさこい踊りの隊列が会場に現れると、群衆はすみやかに馬鹿踊りの列に加わった。舞踏家たちの激しく振動する脳が或る種の伝染性の脳内物質を作り出し、空気感染したのは明らかである。数十万のヒステリー患者たちが踊り狂う様は見事の一語につきた。

 そしてついに点火の時がやってきた。この日の為にわざわざ東京から招かれたエンターテイナーは艶やかに着飾って、天皇陛下の御前で一世一代のカウントダウンを開始した。5、4、3、…目をやられないようにサングラスをした私を、耳をつんざかんばかりの轟音と強烈な光が襲った。激しい爆風が歓呼の声をあげる群集をなぎ倒し、塵芥の嵐が頬を打つ。光の王の祝福を受けた12人の選ばれし者たちは路上に影だけを焼き付けて消滅し、後に12使徒として列聖された。巨大なキノコ雲が見る見るうちに立ち昇り、やがて大地は昼なお暗い聖なる夜を迎えるのだが、核分裂後の一瞬、市民たちは大空を満たす眩い光の中に、天照大神が降臨したかのように金色に輝く神々しい少女の姿を幻視していた。lain。この少女が、新たな時代の神であるのか?

 文学とは何か? 人は文を書くことによって何をなそうとしているのか? 文学とは世界に触れようとするひとつの形である。だがそれは世界の中に糞のような己の立ち位置を見出そうとすることと混同されてはならない。糞のような己の生を表現することのみが文学ではない。それはたいていの場合イマネジネーションダウンの様態だ。実存の単独性などどんな糞じみた詩のようなもの中にもある。尾崎や浜坂あゆみの歌の歌詞以下の、感情を記述しただけのゴミのような物の中にこそ恥じらいもなくあからさまにある。糞便でケツが汚れるのならオムツをするべきだ。情態性を記述するだけでは芸術たりえない。それは詩のような形をとった文才のない日記だ。

 リアルとは何か? いまだに土人のような連中の中にはリアルとワイヤードの二元論を信奉している者がいるが、ワイヤードの出現はそのような二元論を無化するものであった。21世紀におけるリアルはこの掲示板と言う媒体の中に自らを生み出したのだ。掲示板の外部にあるものは実存の外部にあるもの、即ち端的に無であり、掲示板こそが生誕と死というふたつの顔を持つ無の間にはさまれた人間の生存様式、即ち現存在である。無限の無の大海に一瞬跳ね上げられた飛沫のように世界を照らし出すこの掲示板群は、連続し、断続する生の様態を統合失調的文脈で接続し、新たな時代のリアルを開き示す為の実験に絶えず差し向けられているわけだが、21世紀におけるリアルはこの実験のプロセスであり、その実験の孕む世界性を全ての現存在が自らのものとすることを認識することであり、即ち、21世紀における人間の使命、存在の歴運は、速やかに発狂し統合失調の圏域、即ち既知外という実存の様態へと先鋭的革命的に自己変革を遂げることにある。鬱や神経症患者も同じく革命戦士であることは無論である。

 かつて幻想の牧歌的な時代においては人間の内面とは世界を映す鏡であったが、20世紀にいたっては逆転し、世界とは発狂した内面を映す鏡となった。世界のリアルとはナパーム弾で薄汚れた生命に満ち溢れたジャングルを焼き尽くすことであり、劣化ウラン弾でイラク人の遺伝子に新世紀の人類進化の予兆を刻印することであり、速やかな戦争状態の収束を図り人的被害を最小限にとどめる為に原爆を投下する決断をする者、人民の開放の為に人民をシべリアのラーゲリに送る者、革命的自己変革のために同志を総括の果てに殺害し浅間山荘の暗く冷たい地下深くに埋める者、そういった、生活世界で何気なく行われている日常的な諸事象である。
 これらの行いは21世紀に至っては個々の現存在にアプリオリに内在化されており、現存在の新たな存在様態、即ち掲示板上において展開されている。ぁゃιぃわーるどIIやぁゃιぃわーるどみらい、白痴の巣2ch(2chの連中は学がないので破滅の様式美というものを理解しないが)など観察すれば明らかなように、これらの掲示板の居住者は「おんぷたん(*´Д`)ハァハァ」「さあら萌え」などといった正気の者には意味不明の革命的アジテーション(戯言)を絶えず叫び散らしており、アニメやエロゲのキャラクターと結婚し、子まで成そうという先鋭的革命的な新時代の先取者である。これらの者たちの行いは統合失調的生存様式の究極の目的、即ち宇宙の熱死に差し向けられているのであり、存在論的革命の先鋒である。

 かような時代において存在の言葉を語り、真の世界性を孕んだ文学徒たろうとする者はどのように振舞えばよいのか。彼のことを精神遅滞者でいっぱいの掲示板に現われた有能なエンターテイメント担当のオフィサーだと考えてみたまえ。彼はあちらの掲示板で火を放ち、そっちの掲示板には放射性物質をまきちらし、こちらの掲示板では存在論的差異を爆裂させる。するとどうだ、突然、早発性痴呆症患者たちが覚醒する。この掲示板という生存様式が流れ着くはるかな岸辺、驚愕の新世紀への扉が開かれるのだ。

 先鋭的文学が生みだそうとしているのは、自らの精神の異常性を実験的近未来的に追求深化することによって獲得するリアルの真相との接点であり、文学者の脳は電脳空間ワイヤードに接続されることによってその実存的単独性を超越し、新世紀の存在論を追及する電脳生理システムとしてワイヤードに再組織化されなければならない。地球の固有振動とシンクロし、創造的新化の果てに絶対精神に触れるのだ。わらぃ。
 耳を澄まして御覧なさい。真空放電するような音の背後に電線の唸る音が聞こえる。かつて神のいた場所は空虚だ。ワイヤードにたどり着いた先鋭的イマジネーション(妄想像力)は新たなる存在論を生み出すべく真空の宙空に差し向けられてあるのだ。
 脳内のパラボラアンテナを高くかかげよ! 150億万光年の宇宙を受肉し、始原と終末を生きるのだ。
 神は遍在する。そこに、ここに、どこかに。


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