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泉ムジ - 2012年分

選出作品 (投稿日時順 / 全5作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


安らかな生活

  泉ムジ

 首尾よく忘れてきた、普通の一日たちを、思い出そうとすることは、何より苦痛ではないだろうか。めずらしくもない電信柱の根元に、くくり置かれた、古い雑誌の束、その何頁めかに、私と、私の女が、安らかに挟まれている。

 +

 寝る、と宣言して、女は二度と起きなかった。理屈を好まぬ女に、わけを尋ねることもせず、私はつかの間、片手でくるくると団扇をまわした。それから、女の足首をさすり、時に強く、握りしめてみた。
 薄い胸をかすかに上下し、すっかり縁がほつれてしまったお気に入りのタオルを、かよわい腕に抱き、女は寝息をたてている。肘をつき、横たわった私は、片手に持った団扇で蚊を追い払いながら、目を瞑った女の横顔に、しあわせを感じていた。

 +

 木々が途切れると、乗客たちは顔を上げ、朝の海の眩しさに自ら射抜かれようとする。バスが国道をすべり、ふたたび車窓が木々に覆われると、正気を取り戻した順に、乗客たちは俯いてゆく。
 私は未だ、窓を眺めている。あの入江には、イルカが泳ぐのだと、女が言ったことがあった。続けて、イルカは脳を半分ずつ眠らせるのよ、と。
 車内をうつす窓の、手が届かぬ向こうで、得意な顔の女が笑う。慌ててその顔を寝顔と差し替えようと試みるが、女は一段と目を開き、口を歪め、愉快極まりないという表情で、私のしあわせを脅かす。
 次の停留所でバスを降り、職場に、気分がすぐれないために休ませていただきます、と連絡を入れる。このようなことが度々あり、やがて私は職を失った。

 +

 眠る女を観察し、少しも飽きない。豪快な寝返りで壁を蹴飛ばしたすぐ後に、ちいさく縮こまり、お気に入りのタオルをおちょぼ口で吸ったり。愛らしい寝顔は、私を魅了して止まなかった。
 女が眠ってから、私は一睡もしていない。夜中ずっと団扇を弄び、寝息に耳を澄ませる。私と女が、あわせて一頭のイルカであるなら、そのうち、交代に私が眠り続ける、そのようなことがあるかもしれない。しかし女が、私と同じようにしあわせを感じるかどうか、私には解らない。

 +

 職を辞す、最後のあいさつを終え、私は海にいた。波うち際には、アルファベットの名称の、用途不明な溶剤の空きボトルたちが、私が生まれるはるか前からたゆたい、そのラベルを泡が曖昧に見せてゆく。
 日暮れを迎え、浅瀬に泳ぐ魚は、近すぎる岩肌に身を裂かれ続けるのだ、と、思う。こんなに狭い入江に、イルカが訪れるはずがなかった。私は急ぎ、帰宅した。


幽霊たちの舞踏と堤防の会話/2012.02.24.

  泉ムジ

 波頭に幽霊が踊っていた。報告したいとは大仰で、ほんの世間話を求めたが、見回しても堤防に立つのは私ひとり。ねえ、あそこに何か見えますね。だらしなく寝そべって、私の影は返事をしない。どうも幽霊じゃないかと思うんですが、私は構わずに続けてみる。彼は折り畳んだ腕を枕に、黙ってこちらを見上げている。あるいは顔を背けている。前後を判別するしるしでもあればよいのだが。彼の、幾分長めの胴体は、寝そべっていても支えるのに苦労しそうだった。どうもお疲れのようですね。実らない話を打ち切り、私は波頭の幽霊に向かって携帯電話を構えた。写真が残れば、後に誰かと話せるだろう。実は先日幽霊を見ましてね、いやいや冗談じゃなくって、証拠の写真だってあるんですよ。そんな具合に、話の種にうってつけだ。レンズ越しに見ると、夕陽に透けたシーツのような幽霊は、手のひらサイズの液晶画面の中で覚束ない。しかし拡大してみれば、波から波へと細かく跳躍し、フレームにひと時もおさまらない。ともかくシャッターを切ってみたが、波頭の水飛沫が手ぶれでかすれた写真としか見えなかった。どうにも信憑性にかけるね、君の見間違いでは? 課長のカゲヤマがにこりともせずに言う。いい眼医者を紹介しましょうか。愛想笑いを浮かべたカゲヌマが、いつものお調子者ぶりを発揮する。陰でダブルハゲとあだ名されているのを、彼らは知っているのだろうか。鬱ハゲと躁ハゲ、と。私にはどういう蔑称があるのか。どう思います? ふり向きながら尋ねると、さらに胴体が伸びた影の、首から先が堤防から落ちていた。大丈夫ですか。慌てて私が近寄ると、ずるずると彼の胴体が落ちていった。ああ、いけない、彼の頭がテトラポッドの角でくの字に折れている。急いで引き上げなくては。私は屈み、ぐったりした彼の足首を掴んで後退りするが、どこまでも長い胴体が繰り出されるばかりで、いっこうに頭が見えてこない。どうしよう、このままでは私が堤防の反対側に落ちてしまう。おい、助けてくれ。波頭で踊る幽霊に声をかける。おい、幽霊、手を貸してくれ。叫ぶと、携帯電話にメールが届いた、未登録のアドレスから。幽霊はお前だろ。彼の足首がなくなっていた。ただ胴体だけが限りなく拡大して、堤防どころか海ごと覆い尽くしていた。私の表面すべても彼の一部に過ぎなかったし、内側はもともと彼の一部だったことに気づいた。それに抗えたのは携帯電話の液晶画面だけだった。お調子者のカゲヌマから、一斉送信メール。ユーレイ今日いなかったじゃん。課長に聞いたんだけどあいつ辞めたってさ。ま、いてもいなくても一緒だけどね。一斉送信のグループに、私のアドレスが含まれていることさえ忘れられていた。この先二度と会わないのだから、たいした失敗ではないよ。そうカゲヌマを慰めてやりたかった。むしろグループに登録してくれてありがとう、そんな気持ちだった。私は少し悩んで、マヌケ、とだけ書いたメールをカゲヌマに送信し、携帯電話を海に捨てた。落ち着いて見渡せば、世界をすっぽり覆ったはずの影は、星や月や人間がつくる大小さまざまな光で虫食いだらけだった。それに、ブラジルあたりではまっ昼間なんでしょう、私は巨大な彼に言ったが、耳まで届いたかどうか。波頭には、どこから湧いたのかたくさんの幽霊たちが楽しげに踊っている。だって夜は私たちの時間だ。うまく眠れなければ、そっと暗幕をめくってごらん。私たちの中には、怖がらせたがりもいるし、怖がりもいる。私みたいに世間話に餓えたのもいるんだよ。


欠損

  泉ムジ

まったくの
不注意で、
飯碗が
割れた。
アッ、
砕片に、
遅ればせながら
おどろいた。
薄手の
うぐいす色の
碗の
かけら。
ひとり住まいゆえ、
愛用の
などと聞かせる
人がない。
流しから
拾いあげつつ、
うわの空に
困った。
人がいない。
すべて、
そろわない。
漏れる
息、
あるいは、
蒸気の
音ばかりが
しばらく
漂った。
しゃもじで、
未だ
訪うことのない
客のための
碗に、
炊き込みご飯を
よそう。
喉に
かき込んでは、
口にぶ厚い
碗のふちに、
カチリ、
歯が
鳴った。


海(うみ)に至る

  泉ムジ

(女のにおいがする指を口にふくむ
 おぼつかないまま
 手繰りながら書きはじめる)
言葉は目印だ。名前も、墓も。灰に寝かせた線香の煙り。同じ姓が並ぶ小さな墓地にある祖父の兄の特異な名前。
ペットボトルの風車(かざぐるま)が潮風にからから鳴った。
ここでは、
耕人を失った畑(はた)に墓を植えていくのだ。
年の瀬の
昼に
ひとはなく、
(牛の糞と灰のにおい)
農道から林に逸れる。

(ベッドの中で女がこちらを向いた
 顔が触れ合うと気持ちよかった
 性交の間ずっときもちいいきもちいいと
 女は言った私は無言で動いたり止まったりして
 腹の上に射精した)
深く根を張ったまま
樹(き)は折れ、
先は
あやふやに土へかえり、
裂け目は
かわいた黒の空洞で、
何も見えなかった。
(蛇は冬眠しているだろう)
宙吊りの手の先でやみくもに掻きまわしても何も見えなかった。

(女の部屋でシャワーを浴びた
 ときの石鹸のにおいかもしれない)
農道から続く排水溝を飛びおりる。
砂浜は靴が埋もれるほどの骨片(こっぺん)のようだ。貝殻と穴だらけの軽石(かるいし)。色褪せた白が波に押し寄せられ
累積して。
私が子供のころ、
潮溜(しおだま)りから拾ったウニをかち割って食った。
とろけた精巣卵巣は
すすると舌で
海の味がした。
温(ぬく)められ冷やされ、
絶え間なく掻きまぜられた
海の。

(ふたたび口にふくむ
 指は女のにおいと煙草のにおいがまざる
 わかれるときいつも忘れた何か
 かけるべき言葉があった
 が手遅れだ)
小枝と新聞紙の燃え滓(かす)を蹴る。
ラベルが読めない
壜(びん)と、錆と日焼けで茶白まだらの缶は
どこから流れ着いたか?
ふりかえると遠く沖合に漁船が止まっている。祖父ではない。こちらは見えないだろう。
祖先たちへ
緩慢(かんまん)にのばした手を振る。
(宙吊りで
 私が揺れている)

ぷつり、
切れて落ちた。
(あなたとの結婚は考えたことがない
 と女が言った
 ときに
 例えば
 殺してしまうべきだったのではないか?)
煙草を
ひと月吸ってない
代わりに、
おまえたちの高い鼻を
噛みちぎる
ゆるしを得た、
気が遠くなるほどの孤独
で狂った
地軸に。
おい。
覚悟は良いか?


風習

  泉ムジ

 漂う部屋
 底に 横たわり
 行き着く先から曳かれ
 つめたい母の
 息が 透きとおるようになる

 瞼のそとは かぞえ尽くせない
 岸は火事
 カーテンを閉じても
 まだ 結露に濡れた窓の向こうで
 燃える

 +

 幾重にも
 折られ
 重なったしわをさすり
 丹念に おし開く
 若返らせようとして
 いるのか
 不明のまま 手はやめず
 一心にまじない
 めくれば不意に裂傷があり
 とび出した 舌が
 極楽、と
 よだれを吐く
 すでに
 母の目に 満月は移っている

 決められたとおり
 底をなくした舟の
 はらを蹴って 泳ぎ出した
 する筈がない声がしても
 聞き返さなかった

 +

 あけ方 庭へ
 灰ではなく 雪が
 ずっとふり続いている
 ぬれた裸足で 何を書いても
 自分では感じない熱が
 かたちを溶かして
 溺れてしまう
 としても
 ふたたび積もった位置へと
 つま先をのばす
 先から
 泥が垂れる

 +

 母と また亡父と
 血の繋がるものたちが
 寄せあう身を かざす火に
 細い白髪のひと房を
 放る
 かすかな音で
 水気が煙るなかから
 枝わかれを継いで 天に
 上ってゆく無数の腕
 仰いだまま
 遠くなる
 もう声がとどかないところ
 と、誰かがいう
 背中に
 かたい地面がぶつかり
 思わず 瞼を閉じると
 よく知った
 懐かしいものばかりが見えて
 このまま 開けかたを
 忘れてしまいそうだ

文学極道

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