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作品 - 20200901_430_12081p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


『源氏物語』私語 〜夕顔 〜

  アンダンテ

・・〜夕顔 〜

 ・六条わたりの御しのひありきのころ内よりまかて給なかやとりに大弐のめのとのいたくわつらひてあまになりにけるとふらはむとて五条なるいゑたつねておはしたり


 ・うき 夜半の悪夢と共になつかしきゆめ
 ・もあとなく消えにけるかな 晶子

 源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへ通う途中で、だいぶ重い病気をし尼になった 大弐(だいに) の 乳母 (めのと)を たずねようとして、五条辺のその家へ来た。(与謝野晶子)

 六條あたりに人目を忍んでお通ひの頃、内裏(うち)からそちらへお出ましになる中宿(なかやどり)、大貮(だいに)の乳母(めのと)が重い病気で尼(イ)になつたのを見舞つてやらうとお思ひなされて、五條にあるその家をねて、お立ち寄りになりました。(谷崎潤一郎)

 六条辺への源氏忍(しの)びのお通いの頃、宮中からおさがりになる時の中休みの場所として、大弐(だいに)の乳母(めのと)が重病にかかって、そのために尼さんになってしまっていたので、それをついでに見舞ってやろうと、五条にあるその乳母の家を探しながらやって来られた。(今泉忠義)

 六条のあたりのさる女のところへお忍びで通っていた時分のことであった。
 ちょうど内裏(だいり)からその六条へ通う途中の中休み所として、源氏は五条にある乳母(めのと)の大弐(だいに)の家を探して訪ねていった。(林望)

 その夏も、終わりに近づいていた、
 都を南へ六条あたり――その頃私は、そこにある邸へと、忍んで通わなければならなかった。
 宮中を出て六条まではかなりの道程(みちのり)になるその中宿(やどり)にと、ちょうど私の乳母(めのと)がひどく患った挙句(あげく)に尼になったというのがあったから、それを見舞ってみようかと思い、五条にあるその尼の住み家を訪ねて行った。(橋本治)

 六条のあたりに、源氏の君がお忍びでお通いになっている夏の頃のことであった。御所から退出なさるお中休みを兼ねて、大弐(だいに)の乳母(めのと)が重い病にかかって尼になったのを見舞おうと、前ぶれもなさらず五条にあるその家を訪ねて行かれた。(円地文子)

 源氏の君が六条のあたりに住む恋人のところ、ひそかにお通いになられている頃のことでした。その日も、宮中から御退出になり、六条へいらっしゃる途中のお休み処として、大弐(だいに)の乳母(めのと)が重い病気にかかり、尼になっているのを見舞ってやろうと思いつかれて、五条にあるの家を尋ねていらっしゃいました。(瀬戸内寂聴)


 アットランダムに現代語訳を並べてみた。勿論、形式的にはどんな形をとろうと著者の見識に委ねる。だが、訳というからには原作者が残した一字一句を無視しては失礼、『源氏物語』という日本語でなされた文を取り扱う時の基本姿勢だ。つまり、まず原文を読めなくてはいけないという当たり前の事。
 この場面は、倖うすき夕顔と出会うきっかけになる重要な書き出し。源氏の浮気こころも空蝉との微妙な不倫で終わり夏も過ぎ、秋が訪れ十七歳の源氏は十九歳の夕顔に恋をする。


 六条わたり(京極)に住む六条御息所との忍び逢いのをり、内裏をお出になる道すがら、大病をわずらい功徳として出家している大弐の乳母をねぎらいに五条の家を訪ねなさった。(アンダンテ)


 ・心あてにそれかとそみるしら露のひかりそへたるゆうかほの花(夕顔)

 ・心あてにをらはやをらむはつしものおきまとはせるしらゆきのはな(古今和歌集 秋下 躬恒)

 凡河内躬恒による。余談。百人一首に収められているこの歌は、正岡子規によって≪初霜が降ったぐらいで白菊が見えなくなるわけではない。これは嘘の趣向である≫(『五たび歌よみに与ふる書』)と批判された。
 夕顔はおおよそ光源氏だと思いはかり、今生の別れを暗示するかのように夕顔の蔓を白き香りついた扇にのせて渡す。


 ・よりてこそそれかともみめたそかれにほのほのみつる花のゆふかほ(源氏)

 扇にちらし書きされた歌を見て、このまま見過ごせない浮気こころをのぞかせ畳紙に筆跡を変えてまでして御随人にもたせる。 
 後に、夕顔は「帚木」で雨夜の品定めの話で聴いた頭中将のゆくえ知らずの女だとわかる。お互い名を知らせることもせず、夫持ちで身分の違いからゆるされぬ恋の深みに嵌ってゆく。そして、六条御息所を慕う妖怪に呪われて夕顔は息絶える。名前を明かさなかった夕顔は、本当は三位中納言兼中将の娘だった。頭中将の愛人となって玉鬘を産むが頭中将の正妻に追い出され居所を転々とする。
雨夜の品定めの話にでてくるおんなが、後に源氏が関係するという図式は一度だけではない。期待を裏切られるようでつまらない、又かだ。


 ・……よひすくるほとすこしねいり給へるに御まくらかみにいとおかしけなる女いておのかいとめてたしとみたてまつるをはたつねおもほさてかくことなることなき人をいておはしてときめかし給こそいとめさましくつらけれとてこの御かたはらの人をかきをこさむとみ給……

 ・……なをもてこや所ににしたかひてこそとてめしよせてみ給へはたゝこのまくらかみにゆめにみへつるかたちしたる女おもかけにみへてふときえうせぬむかしの物かたりなとにこそかゝる事はきけといとめつらかにむくつけゝれとまつこの人いかになりぬるそとおもほす心さはきに身のうへもしられ給はすそひふしてやゝとおとろかし給へとたゝひえにひえ入りていきはとくたえはてにけりいはむかたなし

 夢枕に立った物の怪。臨家に住む嫉妬する六条御息所の生霊か、夕顔と逢う荒廃した院に棲みつく六条御息所を慕う妖怪かは定かではない。いずれにしても、六条御息所と結びつく。
 六条御息所にはモデルがない。まったく想像上の人物、紫式部が創造した人物だ。源氏との直接の接点がなく、絶世の美女申し分のない身分と知力の虚像がなまなましく行き交う。源氏との躱しか方は身の上も知られたまわず物の怪に取りつかれた夕顔の介抱。足げく通う六条わたりなのだが、その様子がなにも語られず状況報告に終始する。


 ・……君はゆめをたにみはやとおほしわたるにこの法事し給てまたのよほのかにかのありし院なからそひたりし女のさまもおなしやうにてみえけれはあれたりし所にすみけんものゝわれにみいれけんたよりにかくなりぬることゝおほしいつるにもゆゝしくなん

 夕顔の四十九日の法事を終えたあくる夜、せめて夢にでも夕顔に逢いたいおもう。かのありし院で見た同じ物の怪がぼんやりと現われる。源氏は荒廃した院に棲みつく六条御息所を慕う妖怪に違いないと薄気味悪くおもう。
 夕顔が息絶えたかのありし院は具平親王の千草殿を拠りどころにしている。夕顔の宿には道元の碑が建っている。


 ・秋にもなりぬ……六条わたりにもとけかたかりし御けしきをおもむけきこえ給てのちひき返しなのめならんはいとをしかしされとよそなりし御心まとひのやうにあなかちなる事はなきもいかなる事にかとみえたりをんなはいとものをあまりなるまておほししめたる御心さまにてよはひのほともにけなく人のもりきかむにいとゝかくつらき御よかれのねさめねさめおほししほるることいとさまさまなり

 ≪をんなはいとものをあまりなるまておほししめたる御心さまにてよはひのほともにけなく≫源氏十七歳、六条御息所二十四歳。をんな(女)の一文字で源氏と六条御息所の関係の情の深さをあらわす。それにしても源氏は助こましだ。『光源氏物語』というよりも『女源氏物語』がふさわしい。むずかしく考えずに一字一句あじわうことが肝要だ。


 ・いつれの御時にか女御更衣あまたさぶらひ給けるなかに

 ≪どの帝の御代であったか≫とおおむね訳される。何故だろう。時代設定はなされている。村上天皇の御代だ。どの帝の御代であったかと訳すことは、令和時代はどの時代だと言うのと同じだ。当時は帝が祭りごとをつかさどっている時は、帝を固有名詞で呼ばないならわしだった。紫式部はそれに倣ったのだ。≪昔々、その御代≫という意味だ。とはいっても、これは物語なので桐壷帝が必ずしも村上天皇である必要はない。モデルとしては醍醐天皇を想定していたらしい。


********註解
:底本には『校異源氏物語』池田亀鑑編著を用いた。

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