#目次

最新情報


選出作品

作品 - 20200723_749_12016p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


火変わりの歌

  アンダンテ

『賢治とその詩片たち』(その二)

 高村光太郎は「彼の本体から迸出する千のエマナチヨンの一に過ぎない」と評している。賢治の人格がどのようなものであろうとも迸る化学反応は、削られたブロンズの端くれの一つに過ぎないのか。言い得て妙な話は、何も言い得てないに等しい。光太郎の意図を無視して揶揄してるわけではない。立ち入れば訳の分からない言動に惑わされることを危惧している。
 いくら四次元を振りかざしても、知識の偏倚はいかんともしがたい。アインシュタインをして
ようやくミンコフスキー時空(三次元空間と一次元時間からなる四次元時空)に時空の曲がりを導入出来たというのに、なにげに四次元を持ち出し論じるのか。賢治研究家はよほど頭脳明晰らしい。解らぬ熟語を用いて進むはずもない論を進める。頭の中は跡形もない赤嘘のオペラとなったに違いない。

 風が偏倚して過ぎたあとでは
 クレオソートを塗つたばかりの電柱や
 逞しくも起伏する暗黒山稜や
 ・・・(虚空は古めかしい月汞にみち)
 研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
 すべてこんなに錯綜した雲やそれらの景觀が
 すきとほつて巨大な過去になる
 (『春と修羅』第一集「風の偏倚」より)

 空気抵抗を避けた達磨が脚を出してぶっ翔ぶものだから、たまげてしまう。この作品に作者の爪痕を探るのは無意味だ。クレオソートを塗つたばかりの電柱が自然景観に埋没する、気の遠くなるような透明度が底のしれない洗いがけの空虚を満たす。それにしても、賢治の詩片には中也と違って句読点がない。句読点は日本に於いては漢詩に句読点や返り点を付けて読みやすくしたのが始まりだろう。詩歌においては句読点を付けないのが基本なのだが。賢治は、律義にも基本を守っている。そうは言っても、賢治作詞作曲の『星めぐりの歌』では句読点を付けているので、遊びこころ有りと言うところか。

 あかいめだまの さそり
 ひろげた鷲の ・つばさ
 あをいめだまの 小いぬ、
 ひかりのへびの とぐろ。


 オリオンは高く うたひ
 つゆとしもとを おとす、
 アンドロメダの くもは
 さかなのくちの かたち。

 大ぐまのあしを きたに
 五つのばした ・ところ。
 小熊のひたいの うへは
 そらのめぐりの めあて。
 ・・(『星めぐりの歌』)

 もひとつ、賢治作詞作曲「イギリス海岸」という詩がある。

 Tertiary the younger Tertiary the younger
 Tertiary the younger Mud-stone
 あをじろ罅破(ひわ)れ あをじろ罅破れ
 あをじろ罅破れに おれのかげ

 Tertiary the younger Tertiary the younger Tertiary the younger
 Tertiary the younger Mud-stone Mud-stone
 なみはあをざめ 支流はそそぎ
 たしかにここは修羅のなぎさ

 実は、私が『火変わりの歌』を起こしたのはこの詩がきっかけだった。ちょうど、私がこの形態の詩を作っていた時、賢治のこの詩に出合った。驚きと烏滸がましいが私自身が誇らしかった。
 この形態の詩は、調べたところ「イギリス海岸」一片だけだった。童話『イギリス海岸』(農学校スケッチ)「イギリス海岸」の中に《日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひび割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いているような気がするのでした。》とあり、文語詩稿〔川しろじろとまじはりて〕ではこうある。引用しよう。

 川しろじろとまじはりて、 うたかたしげきこのほとり、
 病きつかれわが行けば、 ・そらのひかりぞ身を責むる。

 宿世のくるみはんの毬、 ・干割れて青き泥岩に、
 はかなきかなやわが影の、 卑しき鬼をうつすなり。

 蒼茫として夏の風、 ・・・草のみどりをひるがへし、
 ちらばる蘆のひら吹きて、 あやしき文字を織りなしぬ。

 生きんに生きず死になんに、得こそ死なれぬわが影を、
 うら濁る水はてしなく、 ・さゝやきしげく洗ふなり。

 それぞれの作品の時系列が定かでないので、どういう関係かは断定出来ないが、どれかが由来元、それは確かか。
 Tertiary the younger Mud-stone Mud-stone単に、地質学の専門家でなければ発想出来ないわざというだけではなく、賢治自身が発想となって詩の一片として零れ出たとしか言いようがない話。そもそも花巻には海がない。修羅のなぎさ。中也が「汚れつちまつた悲しみに……」で歌った、路に落ちた汚れ小石のように地に平伏する悲しみがある。

 たけにぐさに
 風が吹いてゐるといふことである

 たけにぐさの群落にも
 風が吹いてゐるといふことである
 ・・(『疾中』から「病床」)

 病床にあって書き上げた詩片。だからと言って、手術室に待ち伏せして医師の所見をメモって一体なんになる。医者でもないのに病気を治そうというのか。そうでないとしたら、病人の身体検査は失礼、作品に対する誠実さに欠ける態度ではないか。慟哭は人を驚かす装置ではない。慟哭は人に感銘を呼起こす楽器ではない。
 いふことである 言割りを入れることにより、よりいっそう光景に対する情感が深まる。賢治は、不思議な黄いろになっている月を見る。キリストが見たゴルゴタの丘の上空の黄色い裂け目を見ていたのかも知れない。

 ひとはすでに二千年から
 地面を平らにすることと
 そこを一様夏には青く
 秋には黄いろにすることを
 努力しつゞけて来たのであるが
 何故いまだにわれらの土が
 おのづからなる紺の地平と
 華果とをもたらさぬのであらう
 向ふに青緑ことに沈んで暗いのは
 染汚の象形雲影であり
 高下のしるし窒素の量の過大である
 (『詩ノート』 一〇八四 〔ひとはすでに二千年から〕)      

 ヒデリノトキハナミダヲナガシ(『補遺詩篇』〔雨二モマケズ〕)と記された、花巻市中北万目の地にこの詩碑が建っている。賢治の死後、ようやく念願のダムが出来この地は潤い、田んぼは一様夏には青く秋には黄いろに輝く。

**註解**************
*底のしれない洗いがけの空虚:『春と修羅』第一集「風の偏倚」
*不思議な黄いろになっている月;『春と修羅』第一集「風の偏倚」
*ゴルゴタの丘の上空の黄色い裂け目;サルトル『文学とは何か』加藤周一訳

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.