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作品 - 20200608_852_11948p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


『在りし日の歌』 ― 各論

  アンダンテ

・・・・・・・・・・・(二十)湖上

・・・波はヒタヒタ打つでせう。 
・・・風も少しはあるでせう。
・・・・・・・(「湖上」)

・この未来を誘惑する単純な語り口は、私たちを昔話の入り口へと誘い込む。

・・・あなたはなほも、語るでせう、
・・・よしないことや拗言や、
・・・洩らさず私は聽くでせう、
・・・・・・・(「湖上」)

・よそよそしくも秒針時計に近づき反転をうながすようだ。

・・・われら接吻する時に
・・・月は頭上にあるでせう。
・・・・・・・(「湖上」)

・接吻のくだりは、ラムボオの「冬に微睡みし夢」が下敷きになっていると思われる。後に、中也は「湖上」の詩法を用いて訳している。同じ「……でせう」なのだが、「冬の思ひ」では不器用な翻訳ながらも取り留めもない恋の進行に一役買っているのに対し、「湖上」では一向に進行しない恋の軈て洵涕に濡れたエレジーへと移行する。

・・・月は聽き耳立てるでせう。
・・・すこしは降りても來るでせう。
・・・・・・・(「湖上」)

・本来なら気の利いた此の句も、中也の強迫観念とも言える宇宙転変のイメージと重なって不気味な現実性を帯びた句としてある。この強迫観念は、硝子体の中を浮遊する黒い煤のように、恐らく一生拭い去ることの出来ぬまゝあり、どの詩にもその影を落としていた。それは、中也の言う<現實の奇怪性>に違いなかった。

**********
*註解
・拗言:すねごと
・接吻:くちづけ
・「冬に微睡みし夢」:原題は “Reve pour I’hiver”。 ラムボオ自筆原稿の末尾に「70年十月七日、車中にて」と記されている。
・下敷き:大正十五年一月、中也は正岡忠三郎からベリションによるメルキュール・ド・フランス版のランボー『作品集』を貰った。
・訳:「冬の思ひ」と題して訳している。
・軈て:やがて
・現実の奇怪性:昭和十年五月二日の日記に次の様にある。「君等には現實の奇怪性が見えてをらぬ。それ故余は諸君が奇怪に見える。」


・・・・・・・・・・・(二十 一)冬の夜

・・・みなさん今夜は靜です
・・・・・・・(「冬の夜」)

・「春の日の夕暮れ」を彷彿させる書き出しで始まるこの詩は、昭和八年一月三十日付で安原喜弘に送られている。この詩の前半は、泰子が小林の許へ去った大正十四年の春に書かれたと言っても不思議でない程、初期の詩風を引き込んでいる。
・昭和三年四月、中也は小林秀雄に “Me voila”という断片を書き残している。

・・・人がいかにもてなしてくれようとも、それがたゞ暖い色をした影に見え、自分が自分で疑はれるほど、淋しさの中に這入った時、人よ憶
・・ひ出さないか? かの、君が幼な時汽車で通りかゝつた小山の裾の、春雨に打たれてゐたどす〓い草の葉など、また窓の下で打返してゐた海
・・の波などを……

・「俺は此処に居る」そよぐ空気が、そう耳元でさゝやく。
・秋山駿は −『知れざる炎』評伝中原中也 ー の中で、<……それよりも、この Me Voila という言葉が、次のランボオの詩の一節から発想されたものではないか。と考えることに興味をもつ。>と言って、『地獄の季節』の「悪胤」の一節(小林秀雄訳と原文)を引き、<この「te voila」(貴様がさうしてゐる)が、化けて出て来たものではないかと思う。……>と想見している。「悪胤」を読み取ると、ラムボオの詩句には静謐の裡で涕き凍みずく中也の思いの色が内焔として佇む。例えば、”Mon innocence me ferait pleurer.”「罪無くして泣けて来る。」と「老いたる者をして」の <あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ> とは、洵涕する共晶の声である事に気づくだろう。
・昭和十年『日本詩』四月号で発表した決定稿と安原に送った草稿との間に移文が存在する。草稿には <いいえ、それはもう私のこころが淋しさに麻痺したからです?/淋しさ麻痺したからそんなことを云ふのです/(以下略)>という一連が、2の第一連と第二連との間にあった。”Me voila”で語った詩想を色濃く再燃させた一連に出くわし、私たちは今、昇華して空気に埋まる中也の結晶に触れる。

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*註解
・”Mon innocence me ferait pleurer.”:Une Saison en Enfer - Mauvais sang
・「罪無くして泣けて来る。」:『地獄の一季』-「悪い血」(アンダンテ訳)
・原文:
・・Sur les routes,par des nuits d’hiver,sans gite.sans habit,sans pain,une voix etreignait mon Coeur gele:≪Faiblesse ou force:te voila,c’est la
・force.Tu ne sais ni ou tu vas ni pourquoi tu vas,entre partout,reponds a tout.On ne te tuera pas plus qu sit u etais cadaver.≫Au matin j'avais le
・regard si perdu et la contenance si morte,que ceux que j'ai rencontres ne m’ont peut-etre pas vu.
・・冬、夜な夜な、衣食に事欠き住むところもなく道々をほっついていると、ひとつの声がして、俺の凍えた心を絞めつけた。『行キダオレルカ、ソレトモ生キ存エ
・ルカダ.オマエハ此処二イル、ソレハ生キ止マッテイルコトジャナイノカ。ワケモワカラズ当所モナクウロツクオマエ、行ク先々デ首ヲ突ッコミ、応エヨ、ナン
・デモカンデモダ。屍モドウゼンノオマエヲ、モハヤ殺シ二カカル奴モアルマイ二。』朝になると俺は、すれ違う者達も多分俺だと気づかぬ程。殆ど死んだ目付をし
・し憔悴仕切った有様だった。


『在りし日の歌』 ― 各論
・・・・・・・・・・・(二十 二)秋の消息

・青山次郎は『眼の哲学』-「知られざる神」で次の様に言っている。

・・・支那の文化は筆の文化である。支那のアノ文字でも言葉でもなかった。
・・・我が国では、少く共そういう風に支那の文化を受けついだ、フシがある。
・・・床の間に「書」を掛けるが、人は画でも見るように書を眺める。だが画でも見るように書を眺めていたのでは決してない。書そのものが
・・言葉だから、人は画でも見るように書かれた言葉を眺めたのである。

・・・・・閑さや岩にしみ入る蝉の声

・・・眼に見えるようだと言うが、眼に見えたのは言葉である。言葉の魅力で「立石寺」が見えるようだと解するなら、俳句ではない。見なけ
・・れば成らないのは十七字の組み合せである。
・・・十七字には、十七字を支えている姿がある。繰返すようだが、書かれた言葉を床の間に飾って、それぞれ形を得た言葉を画でも見るよう
・・に眺めたのが「書」である。この見方は千年来間違ってなかった。能も茶も一つである――結果として、書そのものの内容が、同時に見え
・・る言葉に生まれ変わったのである。

・言葉が論理に支えられているとしたら。私たちは論理の確かさを何をもって識るのだろう。論理という言葉の持つ力に酔いしれているなら、それは論理的とは言えない。
・「秋の消息」。知覚表象を言語化した中也の行為の詩的結実として、この詩は私たちの前にある。

**********
*註解
・青山次郎:明治三十四年六月一日、東京市にて生まれる。昭和五十四年三月二十七日没。昭和十三年四月、中也の詩集『在りし日の歌』(創元社刊)を装丁。


・・・・・・・・・・・(二十 三)骨

・・・實生活は論理的にやるべきだ!實生活にあつて、意味のほか見ない人があつたら、その人は實生活意外にも世界を知つてゐる人だ。即ち
・・科學でも藝術でもない、大事な一事を!
・・・げにわれら死ぬ時に心の杖となるものがあるなら、ありし日がわれらの何かを慄はすかの何か!
・・――生を愛したといふことではないか?
・・・小學の放課の鐘の、あの黄ばんだ時刻をお憶ひ出すとして、タダ物だと思ひきれるか?

・・・(社交家達といふものは理智で笑つて感情で判斷する。即ち意味に忠實でないからだ。――)

・・・・・・*

・・・さうしてよき心の人よ、あれら手際よい技能家や學者等を恐れたまふな。あれら魂が希薄なために、夢が淺いので歯切れが好いばかりだ。
・・――彼等が歯切れの好いことは彼等の人格と無關係だ。

・・・・・*

・・・地上を愛さんために、人は先づ神を愛す必要がある!
・・・・・・・・・・(『Me Voila』―a Cobayashi)

・このなんとも言えず解りずらい散文を読み下すヒントは、約一年後(一九二九・一・二〇の日付の)に書かれた、次の詩の中にあるように思われる。

・・・神よ私をお憐み下さい!

・・・・私は弱いので、
・・・・悲しみに出遭ふごとに自分が支えきれずに。
・・・・生活を言葉に換へてしまひます。
・・・・そして堅くなりすぎるか
・・・・自堕落になりすぎるかしなければ、
・・・・自分を保つすべがないやうな破目になります。

・・・・神よ私をお憐み下さい!
・・・・この私の弱い骨を、暖いトレモロで滿たして下さい。
・・・・ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるやう
・・・・日光と仕事とをお與へ下さい!
・・・・・・・・・・(『未刊詩篇』「寒い夜の自我像 3 」)

・言葉で表現され得ない観念というものはない。だが、現象の背後に事物があると思われているようには、言葉で表現され得る観念が実在しているとは言い切れない。「無限」という観念が実在する為には、無限という言葉の意味が「存在」という『場所と形式』に適合するか否か確かめる行為がなされなければならないだろう。<実生活は論理的にやるべきだ!>と中也は言う。論理的に生きるとは、そういうことなのだ。
・<この私の弱い骨を、暖いトレモロで滿たして下さい。>みつばのおひたしを食ったこともある、恰度立札ほどの高さにしらじらととんがった骨は、〓気の底に冷たく沈む青空の中で、小學の放課の鐘の、あの黄ばんだ時刻からヌックと出た骨。
・私たちが棲む空間は実生活以外の世界でもあるのだという大事な一事に、あなたは達は気づいただろうか?

**********
*註解
・〓気:こうき


・・・・・・・・・・・(二十 四)秋日狂亂

・「秋日狂亂」は昭和十年十月『旗』十三輯に発表された。昭和十年は、出版社の依頼もあってランボオ翻訳に専心していた年である。中也は『イルミナシヨン』の「放浪者」を訳していないので推測の域を出ないが、恐らく小林秀雄からこの詩の知識を得ていただろう。両方の詩の終節を並べてみると、二人の詩人の核心が滲み出て愛塗れるイメージが湧いてくる。

・・・「對立」の概念の、去らんことを!
・・・・・・・(「砂漠の渇き‐5」『未刊詩篇』より)

・「空間」を無限なものと見做して実在するという実在論的見地に立とうと、或いは「無限なる空間」を直観形式とする観念論的見地に立とうとも、私たちは有限なる事物の影すら知覚する事はないだろう。無限を有限と対立する肯定として捉える認識がある。無限なる存在を識る事なくして、有限なる存在を識る事はない。それはそうかも知れない。しかしそれなら、それらが対立する概念と識るのは何故かを問わないのは、妙な話ではないか。「存在すると思える事」と「思える事が存在できる事である事」とは、別の話であると私には思われる。
・無限を「有限なるものが数限りなくある」という意味ではなく、「果のない単一なるもの」として捉えるなら、無限には空間は無い。存在の形式としての空間を宥さない場所(内容)として、無限は存在するしかない。空間は存在の形式としてあり、事物は存在の内容としてある。事物は場所(内容)として存在しているのであって、「現象(物の外面的現われ)がそこにある」場所として空間が存在しているのではない。現象がそこにある場所に存在するものは、物(本体)である筈だ。場所は形式ではない、内容だ。「空間は知覚の形式(形態)である」(カント)という言い方は魅力的ではあるけれど、「空間は存在の形式である」に較べて論理的ではない。何故なら、知覚は存在ではない。知覚は存在する(できる)もしくは存在しない(できない)もの、又はものではないもの。
・「存在」とは、内容と形式の総体としてある。言葉の魅力で恰も知覚が内容と形式の総体であるかのように思わせる言い方をするなら、それは論理ではない。いっそう「知覚は存在の形式である」と言った方が潔い。論理を支えるものは言葉だ。言葉は、語の組み合わせからなる形式(言い方)なのだ。
・形式(形態)として存在しているのは空間。ウソのような話だが、「事物には形態はない!」というのは本当の話。


・・・・・・・・・・・・・存・・在
・・・・・・・・・―――――― ――――――
・・・・・・・・/内 容・・・・・・・形 式\
・・・・・・・・・・II・・・・x・・・・・II
・・・・・・・・・場 所・・・⌒・・・形 態
・・・・・・・・・・↓・・・・対・・・・↓
・・・・・・・・・事 物・・・立・・・空 間
・・・・・・・・―― ――
・・・・・・・/無・・有\
・・・・・・・・限・・限


・無限と有限は対立する肯定ではない。対立共存させること自体が矛盾だ。対立するのは、内容(場所)と形式(形態)だ。無限と有限は対立する事なき否定。無限(場所)と空間(形式)は対立する否定。有限(内容)と空間(形式)は対立する肯定だ。有限なる事物が存在できる為には、「存在」の裡にある場所と形態が対立する肯定でなければならない。
・水に浸った蒼い手は、水に触れたのではない。雨に濡れ亙る舗石は、悲しみに触ったのだとしても雨に触れたのではない。事物と事物との間にある隙間。 その隙間は、事物を拡大して見ると現れて来る原子の隙間と繋がっている。そしてこの究極の隙間は、空の奥のその奥の虚無の空へと連なる。私たち有限なる事物は、存在の形式(形態)である究極の隙間を介して宇宙の果と限りなく近くに生きていると言えるかも知れない。

・・・ではあゝ、濃いシロップでも飮まう
・・・冷たくして、太いストローで飮まう
・・・とろとろと、脇見もしないで飮まう
・・・何にも、何にも、求めまい!……
・・・・・・・・・・・・(「秋日狂亂」最終連)

・形態として存在しているのは空間。鏡に映る私の姿は、実はこのなにもない空間の側にある。それは、あたかも太いストローでシロップを飲み干すかのように何もない隙間に囲まれた私という内容(場所)を刳り抜けば、透き通った軌跡が在りし日のように残されるのに似て、そこには私の姿は何処にも見当たらない、それこそ <何にも、何にも、求めまい!……>としか、言いあらわし方(方式)が見出せないのだ。
・あなた達は、水中の天井がじつは水面であるという不可思議な絡巧に気づいただろうか?

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*註解
・場所は形式ではない、内容だ。:ラムボオは場所と形式を求めて、さ迷った。『イルミナシオン』の「放浪者」は、次の様な一節で終結する。
・・・俺は、彼奴が太陽の子として原子の居所へ回帰するよう、本気で思いそうしたのだ。―― して俺たちは洞窟の水と道々のビスケットで命を繋ぎ、さ迷った。
・・して俺たちは、場所と形式を解明しようと焦りながら。(アンダンテ訳)
・・・J'avais en effet,en toute sincerite  d’esprit,pris  L’engagement de le rendre a son etat primitif de fils du Soleil,- et nous errions,nourris
・・du vin des cavernes et du biscuit de la route,moi presse de trouver le lieu et la formule.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『Iluminations』「Vagabonds」 -A.Rimbaud-)
・カント:ドイツの哲学者インマヌエル・カント(1724〜1804)は、彼の哲学の前提の一つとして、「空間と時間は知覚の形態である」を提唱した。
・事物には形態はない!:「おれがいまここにいるというのはとんでもない間違いで、ことによると、おれという人間は全然存在していないのかも知れないぞ」秋山駿は『知れざる炎』で、小林秀雄が中也の「三人姉妹」の中のセリフ(上述)‐副人物の口真似する姿を伝えた、大岡昇平の証言(『在りし日の歌』)を引用している。そして、「おれがいまここにいるというのはとんでもない間違い」――そこに彼のレアリテがある。彼は、もう生活の中にはいないのだ。それにもう、現実の上に自分を出現させようともあまり思っていないのだ。…(中略)…彼のあの「在りし日」が流れ出すのは、この奇妙な「レアリテ」の穴からなのだ。と述べている。
・絡巧:からくり

文学極道

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