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作品 - 20200401_649_11789p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


『在りし日の歌』 ― 各論

  アンダンテ

・・・・・・・(一)含 羞  ― 在りし日の歌 ―

・在りし日。それは時剋る日。近未来に跨った消えゆきし時。それは回想における記憶の黄泉がえりとしてではなく、風の音に打ち紛れつつ、ふと鮮むように出象する。

・・・吹く風を心の友と
・・・口笛に心まぎらはし
・・・私がげんげ田を歩いてゐた十五の春は、
・・・煙のやうに、野羊のやうに、パルプのやうに、

・・・とんで行って、もう今頃は、
・・・どこか遠い別の世界で花咲いてゐるであらうか
・・・耳を澄ますと
・・・げんげの色のやうにはじられながら遠くに聞こゑる

・・・あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか
・・・滲むやうに、日が暮れても空のどこかに
・・・あの日の晝のまゝに
・・・あの時が、あの時の物音が経過しつつあるやうに思はれる

・・・それが何處か?――とにかく僕が其處へゆけたらなあ……
・・・心一杯に懺悔して、
・・・恕されたといふ氣持ちの中に、再び生きて、
・・・僕は努力家にならうと思ふんだ――
(『未完詩篇』より)

・嘗って、菅谷規矩雄が(とても咀嚼されたは思えぬ不快な文章の中で)語った懸念 ―「……この詩が現にそうかかれてある形として、この詩に過去としてかかれた像そのものが、彼の内部を仄燃えあざやかせるか。」― とは裏腹に、日が暮れても其の一行一行の詩の中に、あの日の昼のままにあの時あの物音が、仄燃えあざやぎて在った。

・・・黝い石に夏の日が照りつけ、
・・・庭の地面が、朱色に睡ってゐた。

・・・平の果に蒸氣が立って、
・・・世の亡ぶ、兆のやうだった。

・・・菱田には風が低く打ち、
・・・おぼろで、灰色だった。

・・・翔びゆく雲の落とす影のやうに、
・・・田の面を過ぎる、昔の巨人の姿 ――

・・・夏の日の午過ぎ時刻
・・・誰彼の午睡するとき、
・・・私は野原を走って行った……
・・・・・・・・・・(「少年時」詩集『山羊の歌』))

 『少年時』にあって、在りし日の序曲として惚ほれてあった情景は、『含羞』に至って、在りし日として常に鮮やがれてある情景となった。中也は、在りし日に生きていた。現実とは、何時の日か消滅する物者とのとの盲目的出逢いである。どれ程、<あらはるものはあらはれるまゝによいといふこと!>と心に納得させようとも、<汚れなき幸福!>があろう筈もなかった。
 噫、生きてゐた、私は生きてゐた!紫雲英の色のように羞ぢらいながら聞こえて来る少年時。其の、いのちの聲に、中也は、在っても在られぬ羞ぢらいの心で応えるしかなかった。


*註解
・含蓄:はぢらひ
・剋る日;きわるとき
・風の音にうちまれつつ/ふとあざむ…:『未完詩篇』の中の詩「風雨」にある詩句。
・菅谷規矩雄;1989年(53歳没)『空のむこうがわ』(中原中也と現代「現代詩手帳」昭和37年7月に収録)
・黝い;あかぐろい
・兆;きざし
・面;も
・午過ぎ;ひるすぎ
・午睡;ひるね
・<あらはるものはあらはれるまゝによいといふこと!><汚れなき幸福!>;『山羊の歌』の中の詩「いのちの聲」IIの最初の節」にある詩句。
・惚ほれて;おぼほれて
・紫雲英;げんげ


・・・・・・・・・(二)むなしさ
 
・偏菱形が圧し潰されて平み付く有様。其れが聚接面……。サイクロイドの軌跡は、胡弓の象を連想させる。胡弓の音が絶えず為ている。減り縮こまる宇宙が軋めくように。


*註解
・為ている:している


・・・・・・・・・(三)夜更けの雨 ― ヱ"ルレーヌの面影 ―
 
・・・雨は 今宵も 昔 ながらに、
・・・・・昔 ながらの 唄を うたってる。

・「夜更けの雨」の出だしである。ヴェルレーヌの「忘れた小曲」III を指すものと思われる。例えば、
 
・・・・・・・・・・・町にしづかに雨が降る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・アルチュウル・ラムボオ
・・・ぬれ冠る 私の心は
・・・あめが降りそそぐ街、
・・・なのに此の怠さは
・・・湿らう私の心は?

・・・おゝ優ばむ 音の雨
・・・地そして屋根から!
・・・憂さ霽れない心のため
・・・おゝ 歌う雨!

・・・ないI  故など
・・・萎えた心の奥に浸み入る
・・・誰も!退く者など?
・・・この哀しみに故など。

・・・この上もなく 傷く
・・・故しれない事ゆえ
・・・慈む事も怨む事も無く
・・・私の心は こんなに傷く。
・・・・・(『言葉なき恋歌』の中の詩「忘れた小曲」III −アンダンテ訳−)

・エピグラムにラムボオの<町にしづかに雨が降る>が置かれてある。
・在りし日は、私たちが住む不断に続く日常と変わりはない。それは、同じ空間・同じ時間に属する。でも、何かが違っていた。例えば、希望の在り方が違っていた。既に決定された過去としての未来の連続の中に生きる。在りし日に生きるとは、そういう事だ。それは、菅谷規矩雄の示す《現在する過去》などという、そもそも曖昧で、さゝらほうさにロマンを追求する者の表現に身を置いて生きる夢とは、無論違っていた。
・過去としての未来、それは未来であるが為に記憶にない。そして、過去であるが故に希望は夢と消える。

・・・中原中也の限られた空間
・・・例えばそれは外へのひろがりにおいてまず《白き空盲ひて》(臨終)というように空を限り、またそれにむかいあうごとくに、地上の彼自
・・身にむかう視線は、《神様が気層の底の、魚を捕ってゐろたうだ。》(ためいき)というところで、ゆきどまる。この盲でた空、あるいは気層
・・の底をつきぬけることは、ついに、中原中也の視覚的認識のなしえないことであったとおもわれる。これらの二つのイメージは、互いにむ
・・きあう鏡面のように、中也の空間意識の臨界線をなしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『空のむこうがわ』)

・〔無限〕という括弧つきの概念を、何の躊躇もなく心受する。人は透色の空の下で、いつまでも昏惑の日々を繰り返すのか。無限に向き合って自我とやらの拡充を目論む者は、何も菅谷規矩雄に限ったことではない。そして、その者の多くは、無限に対して、<空のむこうがわ>と同類の隠喩を無鑑査に宛がう。
・現実とは、何時の日か消滅する物者との盲目的出逢いである。無限に外は無い。空のむこうがわが無限だとしたら、空のうちがわも無限である。さすれば、私たちは『有限』なる概念を捨てざるをえない。それにしても、空のうちがわに身を置く私たちが、無限なる存在であったとは……。

*註解
・現在する過去;『空のむこうがわ』にある言葉。「……古典的な時間の遠近法。厳密な現在と過去の区分。この区分の秩序がまもられているかぎり、隠喩はその本性を充分に詩のうちに展開しえないし、また現在する過去、という内在感覚もとらえきれないだろう。……」
・さゝらほうさ;見境なく・我武者ら・矢鱈滅多
・『言葉なき恋歌』の中の詩「忘れた小曲」III;原文を記す。
・・・Il pleut doucement sur la ville
・・・・・・・・・・・・・・・・(A.Rimbaud)
・Il pleure dans mon coeur
・Comme il pleut sur la ville,
・Quelle est sette langueur
・Qui penetre men coeur?

・O bruit doux de les pluie
・Par terre et sur les toits!
・Pour un Coeur qui sennuie
・O le chant de la pluie!

・Il pleure sans raison
・Dans ce coer qui s’ecoeure
・Quoi nulle trahison?
・Ce deuil est sans raison.

・C’est bien la pire peine
・De ne savoir pourquoi
・Sans amour et sans haine
・Mon Coeur a tant de peine.



・・・・・・・・・(三)早春の風

・いかにも早春の風を思わせる前三連なのだが、……転調は目叩く間の風折のように、何時も物者たちを見舞う。

・・・・・鳶色の土かほるれば
・・・・物干竿は空に往き
・・・登る坂道なごめども

・鳶色の土か掘るれば――空の奥の変転する出来事に呼応するかのように、土がおのずから穿たれ、物干竿は空に突き刺さり、坂道は平ぐ。


・・・・秋色は鈍色にして
・・・・黒馬の瞳のひかり

・・・このすばらしいイメジとおもわれる二行に実は、いかなる《かたち》も識別されていないことを注目しておこう。空間にかたちを見出す
・・こと、存在しないものを、かたちとして感受し、識別することにおいて、中也は」がいかに困難を示すかを、この詩は典型的に示している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『空のむこうがわ』)

・私が度々、菅谷規矩雄の文章を引き合いにするのは、菅谷規矩雄に代表される――<すぐれて知的>とおもわせて、実は盲覚の独芝居にすぎない――この種の判断に拠って、中也の詩の世界が歪められるのを危惧するからである。そして、今引用した前節で次の様に判断している。

・・・第一行、《秋空は鈍色にして》という、この鈍色の空は、いわばスクリインが像をつくるために必要とする陰影感を、かろうじて確保して
・・いる状態である。しかもそれが空白化してゆくことのさけられないものであることを、第ニ節の《白き空盲ひてありて》が、示している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『空のむこうがわ』)


・「臨終」の全文を挙げておこう。

・・・秋色は鈍色にして
・・・黒馬の瞳のひかり
・・・・・水涸れて落つる百合花
・・・・・あゝ こころうつろなるかな

・・・神もなくしるべもなくて
・・・窓近く婦の逝きぬ
・・・・・白き空盲ひてありて
・・・・・白き風冷たくありぬ

・・・窓際に髪を洗へば
・・・その腕の優しくありぬ
・・・・・朝の日は澪れてあり・
・・・・・水の音したたりてゐぬ

・・・町々はさやぎてありぬ
・・・子等の聲もつれてありぬ
・・・・・しかはあれ この魂はいかにとなるか?
・・・・・うすらぎて 空となるか?

・<水涸れて落つる百合花>。この極めて具象的一句は、「早春の風」における<鳶色の土かほるれば>と同様、空の奥の変転する出来事に呼応するかのように、しかも他の事象と識別された時制を伴って置かれてあることに注目しておこう。
・「百合花水涸れて落ちぬ」でもなければ「水涸れて落ちぬる百合花」でもない。それは、<水涸れて落つる百合花>。
・百合花は、何の受皿もなく落下する。過去形を拒み逃去する地上。動熱の苦しみ定まらぬ百合花の霊は、一体何処へ落ちゆく。<神もなくしるべもなくて><うすらぎて 空となるか?>。この二句は、「落つる」という時制であるが故に、正にそこから導かれて来る二句なのだ。
・<秋色は鈍色にして/黒馬の瞳のひかり>。鈍色の秋空は、やがて、すべての事物を呑み込んで減り縮こまり消滅する臨終の空。秋空は、空のうちがわの終焉を暗示するかのように地上を見詰めている瞳の気配。
・<白き空盲ひてありて>。白き空は、秋空が瞬き、まさに瞳が動くことに因って迫りくる空の奥。不可得な過去として現在に光速で近づく空の奥。
・<うすらぎて 空となるか?>。この空は、空の奥が変転する時、新生するもうひとつの空。それは、「憔悴」(『山羊の歌』)の中にある空、<やがては全体の調和に溶けて/空に昇って 虹となるのだらうとおもふ……>と同じ空。
・三つの異質な空間 ―― それぞれの空 ―― が伴ふ時制は微妙に同一に保たれ、其々の空間は明らかに有限なかたち、即ち空として示されていた。
・鈍色の空も、白き空も、過去形の時制を伴った事象 ―― 婦・白き風・その腕・朝の日・水の音・町々・子等の聲 ―― と同様に、空の奥が神さえも律することの出来ない転調に見舞われる時、泯滅する運命にある。

・「憔悴」III を挙げておこう。

・・・・・・・・・・・・・III
・・・しかし此の世の善だの悪だの
・・・容易に人間に分かりはせぬ

・・・人間に分からない無數の理由が
・・・あれをもこれをも支配してゐるのだ

・・・山蔭の〓水のやうに忍耐ぶかく
・・・つぐむでゐれば愉しいだけだ

・・・汽車からみえる 山も 草も
・・・空も 川も みんなみんな

・・・やがては全体の調和に溶けて
・・・空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ

*註解
・目叩く:めたたく
・秋色は鈍色にして/黒馬の瞳のひかり;「臨終」の最初の二行(『山羊の歌』)。

文学極道

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