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作品 - 20180915_363_10749p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


Sweet Rainny / Hole

  玄こう



、         、
 渡しの橋桁に沈む
 あるろうとなく
 名もない家家の
 土台には蟋蟀の
 影が、立ちのぼる
、         、

 鈴の音や表札のない戸口の、丘稜に林立する紙質のような家家の底に深々と根を張る、人びとの名も無い名前がある

 泥ぐつをはきながらコーヒー缶を口にし、わたしは枝葉のわんさと積まれた泥まみれの電柱を曲がりそして、車の通れない狭い路地を入っていく
帰宅クタクタと夜半すぎ家にたどり着くなり戸口の、やはり泥まみれのポストに手を入れるとある一通の手紙があった
折り畳み走り書きされた苦情を読みながら、慌わててわたしは屋根を覗くと、アンテナが右隣の家の軒に倒れ、電線にさへも引っ掛かっていた

 「あなたのことが好きです」長長と走り書きされた苦情の手紙にあった、不躾を悪く思ってか、唐突なそんな一言が添えられており一瞬面食らったが、
玄関の戸口を閉め、疲れ果てた身体をベッドに投げ出し、名もない「Blind Boy/ レイニーブルーズ (1935‐1948)」を部屋で聞きながら、しばらくその手紙を眺めていた

 今度は反対側の隣家の壁向こうからいつもの調子で、悪い咳をし台所で嘔吐する男の様子が伺えた
「大丈夫ですか?」
なんとなしに心配しながらも、わたしは煙草を吹かしながら、夜半数回のペースでいつも烈しく内物を吐き出す男の胸に息をあわせていた
戸口から戸口のわずか数歩足らずの隣人に、ある時林檎を持って行き、挨拶に伺ったことがある
物静かで小柄な佇まい、中島敦か?、黒縁の丸い眼鏡を掛けたその男は非常に困った様子で軽く礼を済ませ、そそくさと家に引っ込んでしまう
彼の戸口にもやはり表札はなくポストには名前も書かれていない

 まるで人づきあいの薄い地縁のない人びとが集まる居住区

 あと、そう、裏庭の向かい側の隣家からは、頬を何度もひっぱたく音、甲高い罵声が聞こえたものだが、まるで最近は嵐の過ぎさったあとのように、この頃は物静かである
継親の老介護される者は言葉が喋れない様子である、
 「あ゙〜」、「ゔ〜」
と呻き声しか上げられないまま血の繋がらない子に折檻されながら、されるがままの家族らの住む家がある
わたしは知らぬふりをしていつもやり過ごしていたが、近隣から苦情が殺到したためだろうか、その家の歳のいった老妻がある時一度丁寧に謝りに来たが、その後はぷっつり途絶えたままである


 我が家に手紙をポスティングした隣の人はいつも居留守か留守かわからない女である、挨拶を数える程しかしないまま数年が経つ、時折り休みの昼間には子どもと愛犬を連れてきてはワンワン大声で怒鳴ったり泣かせたりしている
隣家に回覧板を持って行き、戸口を叩いてもまるで返事はなく、(やはり名前のない)銀色のポストに回覧通知を入れている


 その夜は、しばらくその女の苦情の手紙を眺めながら、煙草をゆい、乾いたレイニーブルーズを聞きながら、嘔吐する男の醜く咳き込む様子を聞きながらわたしは、仕方なく重い腰をあげた
人びとの寝静まった夜に脚立を棟に上げ、まるで泥棒のように忍び足で、広い草原に転がったまるで獣の骨のように歪み、折れ曲がったアンテナを、ドライバーで解体した
生活になんら全く必要のないアンテナである、街灯が四方を怪しく照らす家家の、屋根の隙間の暗い影から、秋の音(ね)の蟋蟀が、恋歌のごとく立ち上っている
 、
 、、
 包帯のように巻かれた厚手の雲がどんよりと流れていた、人びとの寝しずむ息を吸い上げているようだった
暴風で倒れたアンテナを解体したあと、わたしは重たい部品を放置したまま屋根を降りた

、、
、、、
家家の林立する屋根には、チラチラと静かな時雨が舞い降りている





、、
、、、

  ミューズよ御覧なさい
  わたしらのうたう雨は
  あなたのように
  美しい歌を聞かせる
  雨ではないの
  蒸発する人びとの、
  紙の上にうつる名の、
  そのそばで
  聞き耳を立てて
  御覧なさい
  地を這う人の群れ
  家家の土台に隠れ
  蟋蟀のさえずる
  家家には深深と
  溝をあけ、
  戸口に潜む
  名もない名の
 ミューズよ
  ミューズ
 歌って御覧なさい
Blind Boy
/Sweet Honey Hole 
      9,1937 


                                   、

文学極道

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