寝室の床、木目をうえへうえへと辿っていくと
色萎えたすみれの花びらへと突き当たる
これは紗代ちゃんのおめかしなの、と
あや子が摘んできたものだ
その花びらに刻み込まれた皺の一つを辿り
幾重にも錯綜する筋に多くのまちがいを繰り返して
やがて最初の皺がすみれの一枚の花びらを横断したころ
昇ってきたのが朝陽だった
紗代ちゃん、とは春にあや子が拾ってきた石であり
紗代ちゃん、とは僕らが迎え入れようとした
新しい家族に与えられるはずの名でもあった
まだ朝が多くを語ろうとしないうちに
それを一瞥し、居間のソファーに腰掛ける
カーテンの隙間から細い光が食卓へ伸びているのを眺めながら
昨晩義母からあった電話のことを考えていた
呼吸をするときにね
できるだけ吸う息と吐く息を同じくらいにするの
そうしたらもう勝手にお腹が膨らんだりしないのよ
あや子の言葉を深刻そうに繰り返す義母を宥めて
細い、ひらすらに細い糸を両腕で抱くような
夜はいつの間にか明けていたのだ
空気清浄機のにおい、とほこり、が
一度も点灯せぬ間に太陽は高くに昇り
鋭く差し込んでいた陽光がちょうど
居間と食卓の境目で戸惑っている
何かを思い出したかのように
湯沸かし器の中の水が沸騰をはじめたとき
玄関が開いた音がした
一晩見なかっただけのあや子は
拍子抜けするほど明るく
僕にただいま、と言い
紗代ちゃんも、とわらった
その明るさの意味を知ってしまうのが怖かった
そういえば爪を一か月ほど切っていないことに気が付いた
伸びきった陽光をカーテンで遮り
振りむきざまに目に入った寝台のランプ
薄暗い光に照らされたあや子の華奢なからだ
それは封筒にいれられていない便箋のようだった
暴力的なほどに剥き出しであるのに
厳しい戒めのもとに秘匿されている
宛てられたものだけに明かされるはずの秘密は
読まなければ誰に宛てられたものか分からないという矛盾に
頑なに隠されていた
夜も更けていくころ
あや子を抱いているのに
もがいているようだった
無数の糸にからだ中絡めとられて
それを振りほどくために
寝室に置かれた
もう何も泳いでいないはずの水槽に
何かが着水したような音とともに目が覚めた
あや子は居間のソファーに寝転んでいた
何か食べるかい、と聞くと
食べたら紗代ちゃんを返しにいかないとね、と言った
それは奇妙な驚きであり
僕はそれをうまく隠し果せたはずだ
近くの河原まで二人きりで歩く道中
あや子はちらちらと僕の方を覗き見ているようだった
ここね、という合図で立ち止まった先の風景は
見知った河原であったがもう緑に乏しく
それ故に僕は痛ましい気持ちを抱いたのかもしれない
水辺まで降りていくと
朝陽に煌かされた水が
無数のたくらみを蜂起させると同時に
それを悉く無に帰する運動のもとに
無限に流れていくのであった
あや子が隣で手を合わせていることに気が付き
僕も同じように手を合わせて目を瞑った
しばらくの時間が経って
急にあや子の手が僕の手に触れたのを感じ目を開いた
ねえ
その声の響きはどこか新鮮で驚きに満ちていた
あなたの手ってまるですみれみたいなのね
意味などなかったのかもしれないが
僕がその意味をわかりかねて
ふとあや子のわらっている顔に目をやると
ひとすじの涙が頬をつたった痕がある
すみれ、でなくともいい
す、と み、と れ、と
その全部で君に咲いていたいと
そう思ったのだ
最新情報
選出作品
作品 - 20171201_682_10060p
- [佳] letters - 芦野 夕狩 (2017-12)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
letters
芦野 夕狩