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作品 - 20170626_198_9707p

  • [佳]  浴室 - 蹴鞠 路次男  (2017-06)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


浴室

  蹴鞠 路次男

ドアを開けると魚になった妻が立っていて
さんざん苦労をかけたからだろう
魚以上に青い顔をして
もうなにも掴まなくてもいいように
手は薄いひれになって
もう台所で踏ん張らなくてもいいように
足は流線の尾ひれになって
口をパクパクとさせた時
それはたしかに「ただいま」と聞こえた
比較的おおきな魚の来訪に
飼い猫の五右衛門はたじろぎ
下駄箱の陰に隠れ
噛み付いて良いものかどうか
思案しているようだった
あいにく手頃な水槽がないので
自然と風呂場へといざなう運びとなり
妻も勝手知ったる我が家であるから
いそいそと廊下を辿り
脱衣場を通り過ぎると
服も脱がずに
浴槽に体を沈めてしまった
もとより服など着ていないのだが
何も剥がずして躊躇なく水場へ踏み込むあたりは
さすがに水生の者と思えた
あいにく昼さがりのことで
浴槽には水も湯も張ってなく
魚類に適した環境ではなかったが
昨夜の水の気配に安心するのか
妻は気持ちよさそうに体を伸ばしくつろいでいる
蛇口をひねり浴槽に水を入れると
妻は驚いたように私の目を見つめ
尾びれで浴槽の底をパタンと叩いた
飼い猫の五右衛門は未練の残る目で
浴室の扉の隙間から中を覗いている
妻の体は水を含んでしだいに光りはじめ
淡い潮の香りを放ち始めた
透き通るような白い腹は
思わず裂いてみたくなるほどの
大きな謎のように見えた
五右衛門が「アオん」と鳴いた

おそらく
浴槽に水がいっぱいになるまで
われら3体の生き物はこの場に居るのだろう
なぜだか いつまでも
浴槽の水がいっぱいにならなければいいと思った
浴槽から水があふれたとき
何かが始まり 何かが終わる
ということはないのだろう
五右衛門がもう一度「アオん」と鳴けばいいと思った
そのあとのことは 誰にもわからない

文学極道

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