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蹴鞠 路次男

選出作品 (投稿日時順 / 全2作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


会議室

  蹴鞠 路次男

ホワイトボードの上に
たくさんのタスクが書いてあって
それは黒い字の中にときどき赤い字が混じっていて
あれって血かな? と
隣の遠藤さんに訊きたいけど
会議室は静かで
ひとこと発すれば千語を要求されるくらい
会議室は静かだったので
私は黙って血を見ていた

カラフルな丸いマグネットが
ホワイトボードの隅にきれいに並べてあって
ひとつだけマグネットが剥き出しのがあったから
あれが孤独ってやつかな? と
隣の遠藤さんに訊きたいけど
会議室は静かで
君はどう思う? なんて水を向けられたら
きっと酸欠で倒れてしまうから
私は黙って孤独を見ていた

マーカーのインクが薄くなったので
主任さんはついに黒を諦めて
全部を赤で書き始めた
これって出血大サービスだね、って
隣の遠藤さんに言いたかったけど
会議室は静かで
シュルキュルとマーカーが出血する音だけが響いて
貧血で目の前が暗くなってきたので
私は一生懸命ホワイトボードの
ホワイトなところだけを見つめていた

ホワイトボードは文字でいっぱいになり
もう書くスペースが無くなったので
主任さんはイレーザーで左半分を消してしまった
ホワイトが復活した部分に
爽やかな風が通り抜けた
「リセット」
遠藤さんがつぶやいたので 私は
うん、とうなづいて
剥き出しのマグネットを見つめた


浴室

  蹴鞠 路次男

ドアを開けると魚になった妻が立っていて
さんざん苦労をかけたからだろう
魚以上に青い顔をして
もうなにも掴まなくてもいいように
手は薄いひれになって
もう台所で踏ん張らなくてもいいように
足は流線の尾ひれになって
口をパクパクとさせた時
それはたしかに「ただいま」と聞こえた
比較的おおきな魚の来訪に
飼い猫の五右衛門はたじろぎ
下駄箱の陰に隠れ
噛み付いて良いものかどうか
思案しているようだった
あいにく手頃な水槽がないので
自然と風呂場へといざなう運びとなり
妻も勝手知ったる我が家であるから
いそいそと廊下を辿り
脱衣場を通り過ぎると
服も脱がずに
浴槽に体を沈めてしまった
もとより服など着ていないのだが
何も剥がずして躊躇なく水場へ踏み込むあたりは
さすがに水生の者と思えた
あいにく昼さがりのことで
浴槽には水も湯も張ってなく
魚類に適した環境ではなかったが
昨夜の水の気配に安心するのか
妻は気持ちよさそうに体を伸ばしくつろいでいる
蛇口をひねり浴槽に水を入れると
妻は驚いたように私の目を見つめ
尾びれで浴槽の底をパタンと叩いた
飼い猫の五右衛門は未練の残る目で
浴室の扉の隙間から中を覗いている
妻の体は水を含んでしだいに光りはじめ
淡い潮の香りを放ち始めた
透き通るような白い腹は
思わず裂いてみたくなるほどの
大きな謎のように見えた
五右衛門が「アオん」と鳴いた

おそらく
浴槽に水がいっぱいになるまで
われら3体の生き物はこの場に居るのだろう
なぜだか いつまでも
浴槽の水がいっぱいにならなければいいと思った
浴槽から水があふれたとき
何かが始まり 何かが終わる
ということはないのだろう
五右衛門がもう一度「アオん」と鳴けばいいと思った
そのあとのことは 誰にもわからない

文学極道

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