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作品 - 20170511_714_9616p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


むげんの

  

そこでは夕焼けの空だけが美しかった。
溶鉱炉で鍛造されたばかりの金貨が、地平線から空へ向かって撒き散らされている。
その輝きは反対側の地平線へ近付くにつれて少しずつ穏やかな燠火へ変化し、ついには空の半分近くを覆う闇へと溶け込んでいく。
そんな空とは違い、夕闇に包まれた大地は一面が岩だらけでであった。わずかに惨めな形状の草が申しわけ程度に生えてはいたが、それは却って大地の不毛さを強調する役割しか果たしていなかった。
はるか遠くに見える山々も荒々しい岩で構成されていて、空を飛ぶ鳥も地を駆ける獣も見えない。川はその痕跡を残して干上がり、小さな虫すら飛んでいない。
そんな不毛の地の片隅に、テーブルのような形状の平らな巨岩があった。大きさは、ちょっとしたプールくらいあるだろう。その上で、燃え上がる空から飛び火したように真っ赤な炎がゆらめいていた。

焚き火の中で燃えているのは、木の枝ではなかった。大きな布の塊のようなものが、まるで油を吸っているかのように勢いよく燃え続けているのである。
そして、その火を囲むようにして短い腰布を付けただけの男たちが数人、無言で蹲っていた。
彼らは皆、身体を細かく震わせていた。暖かいのは火に面した部分だけで、氷点下に近い外気に触れている肌は冷え切っているのだ。
寒さに震える彼らをさらに苦しめているのが、飢えであった。極度の空腹のために胃が切り裂かれるような痛みが走り、彼らはときおり思い出したように獣のような唸り声を漏らした。
彼らの中でいちばん髪が長い男は、詩人であった。その右横にいる小柄な男は歌人だ。他の男たちも俳人や小説家や劇作家、それに画家や彫刻家や作曲家など、それぞれが芸術のために生きてきた人間ばかりだ。
だが今の彼らは壮絶なほど美しい黄昏の景色も目に入らず、ただただ飢えと寒さに責め苛まれ続けている。少なくとも今の彼らにとっては、芸術など何の意味もなかった。そんなものより暖かさと食い物だ。
それに、今の彼らは「かつで自分が何者であったのか」ということ自体を完全に忘れ果てていた。それどころか、すでに言葉すら口から出てこない有様であった。

そんな彼らの元へ、音もなく近付いてくる黒い影があった。
フードの付いた焦げ茶色のローブで全身を覆っているので、顔は見えない。だがローブの袖から突き出た腕を見ると、どうやら男であるらしい。
口ひげを生やした作曲家が、最初にローブの男に気付いた。彼は焚き火を挟んで、男と向かい合う位置に座っていたのだ。
作曲家の口が、悲鳴を上げるように大きく開かれた。その眼には、はっきりと恐怖の色が浮かんでいる。
彼の様子に気付いた他の者たちも、フードの男を見た。すると彼らもまた恐ろしいものを見たように口から悲鳴を漏らし、その場から這い逃げようとした。だが、あまりの恐怖に身体が硬直して、動くことができないようだ。
やがてローブの男は、男たちのすぐそばまで来ると立ち止まった。すぐ近くで火が燃えているというのに、なぜかフードの中は光が届かないかのように真っ暗なままだった。顔が見えないどころか、そこに顔が存在しているのかどうかすら分からないほどだ。
ローブの男は、ゆっくりと左腕を上げた。そして無言のままで、人差し指を伸ばす。
彼が指差したのは、詩人だった。詩人は、いやいやをするようにかぶりを振りながら、両手を使って必死に後ずさろうとした。
だがローブの男は、意外な敏捷さで詩人に迫った。その右手には、いつの間にか大型のナイフが握られている。
詩人が何とか立ち上がったのと同時に、ローブの男のナイフが閃いた。
その場にいた者たちは、全員が動きを止めた。まるで各人が物言わぬ石像と化したかのように。焚き火の炎だけが、そんな彼らを嘲笑うかのようにゆらめき続けていた。
どれだけの時間が経ったのか。いや、実際にはほんの数秒のことだったのだろう。
詩人が、呪縛から解かれたように動いた。きびすを返して走り逃げようとする。
だが次の瞬間、彼の喉に一筋の赤い線が浮き上がった。そして走り出した途端に、その線がぱっくりと口を開けて多量の血が一気に噴き出した。他の男たちが悲鳴をあげる。
立ち止まった詩人は、目の前の夕空を見上げた。その顔には、もう恐怖の表情はない。いや、それどころか穏やかな笑みすら浮かんでいる。この時の彼は、寒さや飢えだけでなく、喉の傷の痛みすら感じていなかった。黄金色の空に向かって両手を広げた彼は、そのまま朽ち木のようにゆっくりと前のめりに倒れた。
ローブの男は詩人に近付くと、その両足を掴んで持ち上げた。すでに息絶えた彼の喉の傷から、再び血が流れ出す。
やがて放血を終えルと、ローブの男は再びナイフを手にした。詩人の身体を岩の上に横たえると、手際よくその身体を処理しはじめる。
その様子を見守る他の男たちの顔からは、徐々に恐怖の色が消えていった。それどころか、いつしか獲物を前にした獣のような表情になっていった。

一時間後、男たちはこんがりと焼けた骨付きの肉塊にかぶりついていた。肉を歯で噛みちぎるたびに、彼らは狼のような唸り声を漏らす。食欲という本能だけに支配された男たちは、虚空を睨みながら肉を食い続けた。
やがて彼らは満腹になり、無限に続くかと思われた飢えから解放された。しかし腹が満ちると、今度は理性の方が目を覚ました。彼らは自分たちの所業を冷静に認識し、分析して、その罪の深さに気付いた。そして今度は、激しい罪悪感から全身を震わせはじめたのである。
それだけではない。今の彼らは、言葉も取り戻していた。
「ああ、私は何ということを!」
「とんでもないことをしてしまった……」
「違うんだ!……私はただ……」
口々にそう叫んで狼狽えながら、いつしか彼らの目は薄暮の空に向けられていた。
空全体における夕映えと闇の比率は、なぜかローブの男が現れる前からまったく変化していなかった。
金色、オレンジ色、茜色、赤色……様々な色彩が絶妙なバランスでグラデーションを描く空を見つめる男たちの顔には、いつしか子どものように無邪気な笑顔が浮かんでいた。
「ああ、きれいだなあ」
「うん、とてもきれいだ」
「いいなあ……」
どこか懐かしい匂いのする夕暮れ時の空を見上げながら、男たちは口々にそうつぶやいた。やがて、彼らの目からは大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「俺は、この気持ちを誰かに伝えたくて作曲をはじめたんだ」
「ぼくもだよ。こういう感情を短歌に込めたかったんだ」
「ああ、いま絵筆があったらなあ!」
今や彼らは、完全に過去の記憶を取り戻していた。自分が今まで歩いてきた道と、その過程を。かつて自分が望んだもの、愛した人たち、たどり着きたかった場所、そのすべてを。
この一時だけ、彼らの心は平穏であった。すべてを赦され、すべてから解き放たれた気持ち。言い様のない至福感が、男たちの魂全体を包んでいるようであった。

だが次の瞬間、いきなり風が吹いた。
それは嵐のような突風だった。荒野の彼方から物凄い勢いでやってきて、一瞬で男たちをなぎ倒す。彼らは悲鳴を上げて両手で顔を覆い、胎児のように身を丸めて地面に転がった。
焚き火の炎も、あっという間に吹き消された。そして燃えていた布のようなものも、ボロボロに崩れて細かな灰となり、吹き去る風と共に彼方へと散っていった。
やがて、のろのろと身を起こした男たちの顔からは、先ほどまでの笑みが失われていた。それだけではない。やっと取り戻したはずの記憶や言葉も、再び彼らから奪い去られていた。
(サムイ……)
(ヒモジイ……)
男たちの頭の中には、そんな言葉しか残っていなかった。腰布だけの彼らは、再び厳しい寒さに身を震わせていた。
その時、それまで彫像のように立ち尽くしていたローブの男が、ゆっくりとフードを脱いだ。
その下から現れたのは、詩人の顔であった。詩人は、ローブ自体も脱ぎ捨てると、それを丸めて平たい岩の中央部に投げた。
すると布の塊となったローブに火が点き、たちまち激しく燃えはじめた。
それを見た男たちは、急いで火の周りに集まった。詩人も、彼らと共に火を囲んで座り込んだ。
だが、身体が暖かいのは火に面した部分だけで、氷点下に近い外気に触れている肌は冷え切っている。
虚ろな表情の男たちは、腹を抉るような空腹と寒さに苦しんでいた。もう、誰も美しい黄昏時の風景など見ていなかった。

そんな彼らの元へ、音もなく近付いてくる黒い影があった……。

文学極道

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