雨はなぜ私をすり抜けていくのか
そんなことを考えながら歩いている
死者を飛び越える猫のように
あるいは歩きはじめた老人のように
それは古寺へと続く苔生した山道であり
田植えが終わったばかりの田園であり
ゴミ箱が転がる街の裏通りであり
兵士たちが塹壕に蹲る戦場でもある
呼び止める声が聞こえても振り返らない
どうせ歩き続けるしかないのだから
相変わらず雨は私の細胞を素通りして
水溜まりに次々と新たな宇宙を造る
見上げれば眩しい空白の向こうから
終わりなくそれらは降り続いている
しかし見開いている私の両の瞳には
何時まで経っても世界は生まれない
感覚を統べる王宮をトカゲが這う
君は永遠にオリジナルにはなれない
かわいそうなベテルギウスと
暗闇の中のミルク・クラウン
そして置き去りにされた卵たちとの
意図しない共同生活を夢見る
電話の向こうで啜り泣く夜明けを
上の空でなだめながら
先細りの希望を額に塗りつけ
瞑想の向こうにある孵化を待つ
こちらを見るな
煙草を吸うな
初めて見る世界は暗号のよう
濁った発音の不規則な反復
人は匂いだけで泣けるというのに
五感を駆使しても共食いは終わらない
もう諦めろと道端の空き缶が忠告する
舌打ちをして目をやるがそこには何もない
最初のため息はいつの事だったのか
誇らしいカンバスを切りつけたのは誰か
すべてを忘れ果てても疑問だけは残る
本当に雨はなぜ私をすり抜けていくのか
下らない問いだと吐き捨てた子どもが
遺伝子の螺旋を軽やかに滑り降りていく
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選出作品 (投稿日時順 / 全27作)
- [佳] 饒舌な散歩 (2013-05)
- [佳] 夜の風 (2013-06)
- [佳] ある朝 (2013-07)
- [佳] 1990年のライアン (2013-07)
- [優] バベル (2013-10)
- [佳] 揺りかご (2013-11)
- [佳] こわれた日 (2017-02)
- [優] 愛こそはすべて (2017-03)
- [優] のんちゃんの映画を観たんだ (2017-04)
- [佳] むげんの (2017-05)
- [優] マジック・バス (2017-05)
- [優] 噂 (2017-07)
- [佳] 流出 (2017-08)
- [佳] ドイツ・イデオロギー (2017-09)
- [優] ニーゼ (2017-10)
- [優] 白夜 (2017-10)
- [優] ゆれる、かげ (2017-11)
- [佳] 夢の人 (2017-12)
- [佳] カケル (2018-01)
- [優] 沈黙のための音楽 (2018-01)
- [佳] 雨を泳ぐ (2018-02)
- [佳] 数学以前 (2018-03)
- [優] 早朝 (2018-03)
- [優] モーニングスター (2018-04)
- [佳] いと (2018-06)
- [佳] 誕生 (2018-07)
- [佳] DEAR FUTURE (2018-07)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
饒舌な散歩
夜の風
夜が悪魔の姿でやって来て言った
「何もかも捨ててしまえよ」
私は新しい靴を履いて部屋を出た
どこかで赤ん坊が泣いているようだ
綺麗な花の感想を両親に聞かれて
ダ・ヴィンチの要塞都市と答えた
彼らはその思考に石を投げつけた
あの時から私は夜の中を歩いている
国籍と匂いを区別できない
資格と愛情を分離できない
青い空に浮かぶ雲はすべて怪物
だから夜の中を歩くしかなかった
暗い空には雨を孕んだ雲たち
星はすべて食い尽くされている
誰かが零した墨が微かに波打ち
我々が虚無と呼ぶものを模している
歩きまわる内に世界は迷路になり
方向も目的もすべて剥がれ落ちる
見上げれば一羽の大きな鳥が
夜への同化を拒んで飛んでいる
確信があって羽ばたいているのか
それとも単に彷徨い続けているのか
さらに深い闇を目指しているようにも
夜明けを迎えに行くようにも見える
どちらにせよ鳥は飛び続けている
ただ鳥としてあり続けるために
夜を歩こうと決意した者なら
無視することのできないフォルムで
だから私も後に続くことにする
それもまた選択のひとつだから
生まれたばかりの自分の産声を
今は明瞭に聞き取ることができる
誰にも会わずに歩き続けたい
闇を飛び続ける鳥を追いかけて
夜の風は祝福するかのように
青臭い木々の枝を震わせている
ある朝
寒すぎるサーバー室で眠った彼は
真冬に新月で小指を切る夢を見た
次の朝になって彼が目覚めると
世界の半分が失われていた
空腹の彼はコードで繋がったまま
駅前まで歩いて喫茶店に入った
注文した熱いコーヒーが運ばれると
彼は陶器の砂糖入れに入っている
小さなアンモナイトの化石たちを
一つ、二つとカップの中に入れた
世界が再生するまでの時間は
夜明け前の永遠の次に長いから
彼は寝ぼけ顔のウエイトレスに
避雷針を注文して粘ることにした
窓の外ではポツリポツリと
戦争が降りはじめていた
彼はコーヒーをすすりながら
半分の世界と共に失われた人々が
再生を果たした時に必要となる
新しい名前を考え続けていた
それはとても楽しい作業だった
小指の微かな痛みを忘れるほどに
彼はコーヒーのお代りを頼むために
ウエイトレスに向かって中指を立てた
1990年のライアン
1990年の独立記念日の少し前から
あのお祭り騒ぎが嫌いな僕とライアンは
ずっと彼のアパートに閉じこもって過ごした
冷蔵庫にはバドワイザーと冷凍ピザ
籠城の準備は万端だった
部屋は古かったがエアコンは最新式
外界を遮断するために閉じたブラインドの
わずかな隙間から差し込む光を受けて
ライアンの逞しい腕の金色の産毛が
人工的な闇の中に薄っすらと浮かび上がる
それ自体が独立した美しい生き物のように
あの頃のライアンは東洋かぶれで
チャイナタウンで買ってきたという
パッケージからして怪しげな香を
朝から晩まで焚き続けていた
僕は渡米の目的であったはずの学校へ
ほとんど行かなくなっていたから
あまり好きではない香の匂いが
すっかり体に染みついてしまった
ライアンは国を愛していなかった
国が彼を愛さなかったからだ
彼は父親からも愛されていなかったが
父親のことは愛していたようだ
そして父親と同じくらいに
彼は神を愛していた
神が彼を愛していたのかは
いまだに分からないが
少なくとも神の周囲にいる連中は
ライアンを愛してはいなかった
あいつらはロクなもんじゃない
神様の名前を使って
悪事を働くならず者たちだ
十字軍なんて強盗と変わらないだろ?
俺だっていつかヒュパティアのように
生きたまま肉を削がれるかも知れないよ
ライアンは酔うたびに同じことを言った
彼の引き締まった脇腹には
ケロイド状の傷があった
それは彼がまだ幼い頃に
父親によってつけられたものだが
ライアンはその傷をネタにして
自分をイエス・キリストになぞらえた
下手なジョークを言うのが好きだった
ライアンは暴力を憎んでいたが
暴力は彼につき纏い続けた
彼だけでなく僕や仲間たちも
常に暴力と隣合わせだった
黒人やヒスパニックや先住民
障碍者や母子家庭や貧困層の人々
聖書からはみ出した者たちは
みんな正義の暴力に苦しめられた
数が少ないということが
それだけで罪であるかのように
僕も普通に街を歩いているだけで
JapとかNipと罵られることがあった
通りすがりの名前も知らない連中が
憎悪と侮蔑の表情でそう言うのだ
ひどい時には殴られることもあった
あの負の感情はどこから来るのだろう
心にポッカリと開いた穴からだろうか
ライアンほど忍耐強くない僕は
安物のリボルバーを手に入れて
それを持ち歩くようになった
幸か不幸か射撃練習場以外で
そいつを撃つことはなかったが
独立記念日の夜
僕たちは互いのために乾杯した
そして未来のために夢想したのだ
殺すことも殺されることもない世界を
神に仕えているつもりのあの連中が
神と同じように僕たちを無視する世界を
「もうすぐ帰ろうと思ってる」
僕がそう言うとライアンは小さく頷いた
彼も何となく分かっていたのだろう
楽しい時間には必ず終わりがある
当たり前のことを僕たちは受け入れた
その夜のライアンは特に優しかった
終わると神の役割について語り合った
最初から答えが出ないと分かっている
そんな話を夜明けまで続けた
今でもたまにライアンのことを思い出す
例えば人混みの中を歩いている時に
彼が焚いていたあの香の匂いが
どこからともなく流れてくるのだ
そうすると必ずその時のパートナーと
上手く行かなくなって別れることになる
あれは何かを後悔している僕自身の
無意識の仕業なのかも知れない
8月も近い最後の夜
僕たちは聖体礼儀の真似事をした
ダイエット・クッキーとライ・ウイスキーで
罰当たりな儀式を執り行ったのだ
俺は神様を侮辱してるんじゃない
取り巻き連中をからかっているだけだ
すでに泥酔していたライアンはそう言うと
ベッドにひっくり返って鼾をかきはじめた
残された僕はウイスキーのボトルを持って
テレビの前に移動してMTVを観た
しばらくして流れてきたPhil Collinsの
「Another Day In Paradise」を聴いて
僕は赤ん坊のように丸まって泣いた
ライアンが焚いた香に包まれて泣いた
バベル
磨りガラスの向こうの公園で
外国人に話しかけられた
どうやら、フランス語らしいが
何を言っているのか分からない
家に帰ると母親が叫んでいた
ひとつひとつは意味のある言葉
けれど、つなげると耳に入らない
彼女は歌い方を忘れてしまった
テレビを付けたら色とりどりの人たち
カメラ目線で得意気に囀っている
でも、相変わらず理解できない
ぼくの方がおかしいのだろうか
病院へ行って医者に話をした
彼は首を傾げて僕を見ている
そして、ようやく口を開くと
様々な動物の声で鳴き始めた
ぼくは途方に暮れて街を歩いた
その時どこからか、ぼくを呼ぶ声
道路の向こう側に彼女はいた
「あたしのことを憶えてる?」
にこやかに笑う顔を見ても
なぜかパーツを識別できない
それでもぼくは道を渡った
車は一台も走っていなかった
そのことに気がついた途端に
ぼくは車というものを忘れた
彼女は、ぼくを待っていてくれた
とても懐かしい匂いがした
ぼくは泣きたくなって笑い出した
そして鼻の使い方を忘れた
心配しなくてもいいと彼女は言った
愛も、憎しみも、希望も、数式も、
すべてが生まれた海に還っただけ
そして私たちはもっと散らばるの
とても懐かしい見知らぬ彼女は
すぐに風景と見分けがつかなくなり
自分の存在を忘れてしまったぼくを
スカートの中に飲み込んで消えた
揺りかご
夕暮れの中で長い坂道を
ゆっくりと下っていく僕は
幽霊のように曖昧な輪郭で
揺りかごの記憶だけが頼りだ
草臥れた靴が愚痴をこぼすのを
僕は適当に聞き流している
口を開け剥離した季節の断片を
舌先に受けると青白く火花が散る
歩き続ける自分の後ろ姿を
僕は無言で見下ろしている
右手はインドのあたりにある
左手はドイツの森に隠れている
いつだって手ぶらで歩いていた
自分だけでも持ちきれないから
どこからか蜂の羽音が聞こえる
あるいは何者かのヴァイオリンが
いつからそうしているのかと
かつて母と呼んだ女が問う
それを知ってどうするのかと
答える言葉も薄闇に溶けていく
靴はまだ不満を漏らしている
僕はついに舌打ちをした
これは僕の靴じゃない
これは僕の人生じゃない
冷たいシーツの上で泳ぐ、溺れる
そんな空想に逃げ込みながら
そしてそれを瞬時に忘れながら
僕は揺りかごの記憶を下っていく
こわれた日
その日、
空がこわれた
その前から季節もこわれていた
いつの間にか人々もこわれていて
雨上がりの路面には
心のかけらが散乱していた
それなのに
誰もが見て見ぬふりをしていたのだ
雨上がりの路上に横たわる
子猫の死骸に対するように
見えないふり
聞こえないふり
そんな行為には
何の効力もないというのに
ずっと流れ続けていた音楽が
ついに終わりへ近づいて
すべての輪郭が崩れはじめる
永遠を構成する
「美しい細胞」であったはずの
わたしたちも崩れはじめる
こわれて燃えだした空を
みんながスマホで撮影している
だって頭がこわれているから
みんな腕を伸ばして
ぽかんと口を開けながら
こわれる世界をスマホで撮影している
焼け落ちていく空を
スマホ
スマホで
たくさんのスマホ、スマホ、スマホ……
撮影する母に抱かれた赤子や
幼い子どもたちや
機械が苦手な老人たちだけが
肉眼で見ていた
焼け落ちていく空を
肉眼
肉眼で
無力な肉眼、肉眼、肉眼……
最後の音がEコードで終わると
空の炎が人々へ燃え移った
スマホを通して見ている者も
肉眼で見ている者も
みんな平等に燃えている
人が、その歴史が
愛が、憎悪が
不安が、やすらぎが
あらゆる記憶と記録が
砂紋のような文明が
やがて炎は
人以外にも燃え移った
空を飛ぶ鳥も
水に潜む魚も
大地を駆ける獣も
始まりの記憶を持つ微生物も
みんな平等に燃え尽きていく
こわれた神様だけが
泣きながらそれを見ていた
のんちゃんの映画を観たんだ
のんちゃんの映画を観たんだ
アニメの主役を演じてたんだ
日本が戦争をしてた頃の物語で
マンガが原作らしいんだ
のんちゃんは昔は本名だったけど
大人の事情で今はのんちゃんなんだ
それはともかく
映画はとても面白かったんだ
笑って泣いて感動したんだけど
本当はちょっと怖かったんだ
みんな平和に暮らしていたのに
少しずつ戦争に慣れていくんだ
食べ物が配給になることにも
いつもお腹が空いていることにも
千人針や出征祝いや万歳三唱にも
防空壕を掘ったり疎開することにも
竹槍演習や防空訓練にも
毎晩のように続く空襲警報にも
やがて本当に飛んできた敵機にも
降り注ぐ爆弾や焼夷弾にも
知っている人が焼かれることにも
大切な家族の戦死公報にも
異常なことばかりなのに
それが日常になっていくんだ
そうして、すっかり戦争に慣れた頃に
最初は広島に、
続いて長崎に、
取り返しのつかない爆弾が落ちて
ようやく戦いが終わりになったんだ
みんな色々なものを失ったけど
もう空襲警報のサイレンは鳴らないんだ
最後に新しい希望が家にやってきて
物語は静かに幕を閉じたんだ
僕たちは満足して映画館を出たんだ
あまり、きれいではない空の下で
あまり、きれではない空気を
胸いっぱいに吸い込んだ時に
いきなり
みんなのスマホが鳴り出したんだ
それは僕たちの時代の空襲警報
どこかの国のミサイルが発射されて
もうすぐ僕たちの街に落ちるらしいんだ
のんちゃんの映画で終わった戦争が
のんちゃんのいる現代に蘇ったんだ
僕たちは防空壕の代わりに
地下鉄の駅を目指して走り始めた
何人かはスマホで空を撮影している
そんなことをしていたら死んじゃうよ
バラバラになった君たちの死体を
あとから僕たちが撮影しちゃうよ
だいじょうぶ、僕たちもすぐ戦争に慣れるさ
そして大切なものを次々に失いながら
取り返しのつかないことになる時を
ただ息を潜めて待ち続けるんだ
その後に平和はやって来るのかな
その時に僕は生きているのかな
僕はダメでも、のんちゃんだけは
今度も何とか生き残ってほしいな
むげんの
そこでは夕焼けの空だけが美しかった。
溶鉱炉で鍛造されたばかりの金貨が、地平線から空へ向かって撒き散らされている。
その輝きは反対側の地平線へ近付くにつれて少しずつ穏やかな燠火へ変化し、ついには空の半分近くを覆う闇へと溶け込んでいく。
そんな空とは違い、夕闇に包まれた大地は一面が岩だらけでであった。わずかに惨めな形状の草が申しわけ程度に生えてはいたが、それは却って大地の不毛さを強調する役割しか果たしていなかった。
はるか遠くに見える山々も荒々しい岩で構成されていて、空を飛ぶ鳥も地を駆ける獣も見えない。川はその痕跡を残して干上がり、小さな虫すら飛んでいない。
そんな不毛の地の片隅に、テーブルのような形状の平らな巨岩があった。大きさは、ちょっとしたプールくらいあるだろう。その上で、燃え上がる空から飛び火したように真っ赤な炎がゆらめいていた。
焚き火の中で燃えているのは、木の枝ではなかった。大きな布の塊のようなものが、まるで油を吸っているかのように勢いよく燃え続けているのである。
そして、その火を囲むようにして短い腰布を付けただけの男たちが数人、無言で蹲っていた。
彼らは皆、身体を細かく震わせていた。暖かいのは火に面した部分だけで、氷点下に近い外気に触れている肌は冷え切っているのだ。
寒さに震える彼らをさらに苦しめているのが、飢えであった。極度の空腹のために胃が切り裂かれるような痛みが走り、彼らはときおり思い出したように獣のような唸り声を漏らした。
彼らの中でいちばん髪が長い男は、詩人であった。その右横にいる小柄な男は歌人だ。他の男たちも俳人や小説家や劇作家、それに画家や彫刻家や作曲家など、それぞれが芸術のために生きてきた人間ばかりだ。
だが今の彼らは壮絶なほど美しい黄昏の景色も目に入らず、ただただ飢えと寒さに責め苛まれ続けている。少なくとも今の彼らにとっては、芸術など何の意味もなかった。そんなものより暖かさと食い物だ。
それに、今の彼らは「かつで自分が何者であったのか」ということ自体を完全に忘れ果てていた。それどころか、すでに言葉すら口から出てこない有様であった。
そんな彼らの元へ、音もなく近付いてくる黒い影があった。
フードの付いた焦げ茶色のローブで全身を覆っているので、顔は見えない。だがローブの袖から突き出た腕を見ると、どうやら男であるらしい。
口ひげを生やした作曲家が、最初にローブの男に気付いた。彼は焚き火を挟んで、男と向かい合う位置に座っていたのだ。
作曲家の口が、悲鳴を上げるように大きく開かれた。その眼には、はっきりと恐怖の色が浮かんでいる。
彼の様子に気付いた他の者たちも、フードの男を見た。すると彼らもまた恐ろしいものを見たように口から悲鳴を漏らし、その場から這い逃げようとした。だが、あまりの恐怖に身体が硬直して、動くことができないようだ。
やがてローブの男は、男たちのすぐそばまで来ると立ち止まった。すぐ近くで火が燃えているというのに、なぜかフードの中は光が届かないかのように真っ暗なままだった。顔が見えないどころか、そこに顔が存在しているのかどうかすら分からないほどだ。
ローブの男は、ゆっくりと左腕を上げた。そして無言のままで、人差し指を伸ばす。
彼が指差したのは、詩人だった。詩人は、いやいやをするようにかぶりを振りながら、両手を使って必死に後ずさろうとした。
だがローブの男は、意外な敏捷さで詩人に迫った。その右手には、いつの間にか大型のナイフが握られている。
詩人が何とか立ち上がったのと同時に、ローブの男のナイフが閃いた。
その場にいた者たちは、全員が動きを止めた。まるで各人が物言わぬ石像と化したかのように。焚き火の炎だけが、そんな彼らを嘲笑うかのようにゆらめき続けていた。
どれだけの時間が経ったのか。いや、実際にはほんの数秒のことだったのだろう。
詩人が、呪縛から解かれたように動いた。きびすを返して走り逃げようとする。
だが次の瞬間、彼の喉に一筋の赤い線が浮き上がった。そして走り出した途端に、その線がぱっくりと口を開けて多量の血が一気に噴き出した。他の男たちが悲鳴をあげる。
立ち止まった詩人は、目の前の夕空を見上げた。その顔には、もう恐怖の表情はない。いや、それどころか穏やかな笑みすら浮かんでいる。この時の彼は、寒さや飢えだけでなく、喉の傷の痛みすら感じていなかった。黄金色の空に向かって両手を広げた彼は、そのまま朽ち木のようにゆっくりと前のめりに倒れた。
ローブの男は詩人に近付くと、その両足を掴んで持ち上げた。すでに息絶えた彼の喉の傷から、再び血が流れ出す。
やがて放血を終えルと、ローブの男は再びナイフを手にした。詩人の身体を岩の上に横たえると、手際よくその身体を処理しはじめる。
その様子を見守る他の男たちの顔からは、徐々に恐怖の色が消えていった。それどころか、いつしか獲物を前にした獣のような表情になっていった。
一時間後、男たちはこんがりと焼けた骨付きの肉塊にかぶりついていた。肉を歯で噛みちぎるたびに、彼らは狼のような唸り声を漏らす。食欲という本能だけに支配された男たちは、虚空を睨みながら肉を食い続けた。
やがて彼らは満腹になり、無限に続くかと思われた飢えから解放された。しかし腹が満ちると、今度は理性の方が目を覚ました。彼らは自分たちの所業を冷静に認識し、分析して、その罪の深さに気付いた。そして今度は、激しい罪悪感から全身を震わせはじめたのである。
それだけではない。今の彼らは、言葉も取り戻していた。
「ああ、私は何ということを!」
「とんでもないことをしてしまった……」
「違うんだ!……私はただ……」
口々にそう叫んで狼狽えながら、いつしか彼らの目は薄暮の空に向けられていた。
空全体における夕映えと闇の比率は、なぜかローブの男が現れる前からまったく変化していなかった。
金色、オレンジ色、茜色、赤色……様々な色彩が絶妙なバランスでグラデーションを描く空を見つめる男たちの顔には、いつしか子どものように無邪気な笑顔が浮かんでいた。
「ああ、きれいだなあ」
「うん、とてもきれいだ」
「いいなあ……」
どこか懐かしい匂いのする夕暮れ時の空を見上げながら、男たちは口々にそうつぶやいた。やがて、彼らの目からは大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「俺は、この気持ちを誰かに伝えたくて作曲をはじめたんだ」
「ぼくもだよ。こういう感情を短歌に込めたかったんだ」
「ああ、いま絵筆があったらなあ!」
今や彼らは、完全に過去の記憶を取り戻していた。自分が今まで歩いてきた道と、その過程を。かつて自分が望んだもの、愛した人たち、たどり着きたかった場所、そのすべてを。
この一時だけ、彼らの心は平穏であった。すべてを赦され、すべてから解き放たれた気持ち。言い様のない至福感が、男たちの魂全体を包んでいるようであった。
だが次の瞬間、いきなり風が吹いた。
それは嵐のような突風だった。荒野の彼方から物凄い勢いでやってきて、一瞬で男たちをなぎ倒す。彼らは悲鳴を上げて両手で顔を覆い、胎児のように身を丸めて地面に転がった。
焚き火の炎も、あっという間に吹き消された。そして燃えていた布のようなものも、ボロボロに崩れて細かな灰となり、吹き去る風と共に彼方へと散っていった。
やがて、のろのろと身を起こした男たちの顔からは、先ほどまでの笑みが失われていた。それだけではない。やっと取り戻したはずの記憶や言葉も、再び彼らから奪い去られていた。
(サムイ……)
(ヒモジイ……)
男たちの頭の中には、そんな言葉しか残っていなかった。腰布だけの彼らは、再び厳しい寒さに身を震わせていた。
その時、それまで彫像のように立ち尽くしていたローブの男が、ゆっくりとフードを脱いだ。
その下から現れたのは、詩人の顔であった。詩人は、ローブ自体も脱ぎ捨てると、それを丸めて平たい岩の中央部に投げた。
すると布の塊となったローブに火が点き、たちまち激しく燃えはじめた。
それを見た男たちは、急いで火の周りに集まった。詩人も、彼らと共に火を囲んで座り込んだ。
だが、身体が暖かいのは火に面した部分だけで、氷点下に近い外気に触れている肌は冷え切っている。
虚ろな表情の男たちは、腹を抉るような空腹と寒さに苦しんでいた。もう、誰も美しい黄昏時の風景など見ていなかった。
そんな彼らの元へ、音もなく近付いてくる黒い影があった……。
マジック・バス
人の歴史が終わったと噂される午後
1台のバスが牧草地を縫う道を走る
車内にはたっぷりと湯が満たされて
ぼくたちは長い旅の疲れを癒やす
おや、前方の薬湯に入っているのは
中学の時に同級生だったN美じゃないか
なぜか彼女だけは当時のままで
その白い肌にぼくの感情は乱された
番台のおばさんに教えられて
邪なぼくの視線に気付いたN美は
未成熟な裸身を隠そうともせずに
勢いよく湯船から立ちあがった
その両腕には着剣したAK-74
慣れた様子で銃口をぼくに向ける
彼女の背後には屈強な男たち
やはり全裸のままで武装している
男たちを従えてぼくに迫るN美
ぼくも仕方なくFA-MAS G1を構えると
N美の可愛い乳房の間に狙いをつけた
その時、いきなりバスが急停車して
ぼくたちはみんな湯の中に放り込まれた
窓の外を見ると無数の象たちが
バスの前方を右から左へ横断している
ぼくは思わず象の数を数えはじめた
最後の1頭が通過し終えた時
その数は実に999頭に達していた
そしてバスの左手前方にそびえ立つ
先のとがった塔の最上階の部分にも
もう1頭の象がいて地上を睥睨している
「そういえば今日は1年で一番昼が短い日ね」
いつの間にかぼくの横に立っていたN美が
さっきまでとは打って変わった笑顔で言う
気が付けば湯船には色鮮やかな柚子が浮かび
リウマチや神経痛などに悩む老人たちが
あらたにバスへ乗り込んできて湯に入る
ぼくとN美も再び熱い湯に肩までつかり
あの頃のことを懐かしく語り合うのだった
噂
托卵によって
成長した、この星の
片隅の街で
そろそろ
何もかも
あきらめてしまえよと
誰かが
つぶやきながら
空に火を放つ時刻に
先を争って
エジソン電球を
買い求める主婦たちは
みんな鯨のヒゲで
駆動しているし
通り過ぎる
路面電車の窓には
異国のテロで死んだ
友の顔が
べったりと張りついていて
とても遠いところを
見つめているから
ぼくは
昆虫のように
落ち着かないのだ
と、狼の血が濃い犬が
テレビの中から囁く
ので
ビデオラックの
片隅に置かれた
艶やかな骨壺の中で
残り少なくなった
母の骨が
こらえきれずに
小さな、
くしゃみをした
流出
伝えたいことを見つける前に
言葉が流れ出てくる
やつらが「病気」と呼ぶ現象だ
心のバルブが壊れているらしい
よく晴れて風が強い日には
油断すると空へ落ちてしまう
そんな錯覚と同じだという
たいていの場合はその後で
あふれ出た無意味な言葉たちを
溜め息まじりに片付けることになる
あまりにも情けないから
何とか意味を見出そうとする
とまらない悪循環というわけだ
この薄い壁の向こうでは
多くの言葉が流通している
たとえば政治や差別や貧困といった
実にくだらないものから
愛や神様や戦争といった
本当にくだらないものまで
でもやつらは言うのだ
それらには価値があると
あるように思えると
では、なぜ「病気」と呼ぶのか
奴らの中では矛盾しないらしい
でも実際はどうなのだろう
意味があると思われた言葉が
実は空っぽなことも珍しくない
それもまた錯覚なのだろうか
もしかしたら言葉自体が
幽霊のようなものなのだろうか
結局はおれもやつらも
何一つ変えることができず
誰一人救えないというのに
今日もまたこんな風にして
世界中の「病気」なやつらの口から
情けなく、だらしなく、果てしなく、
言葉は流れ続けているのだ
ドイツ・イデオロギー
(詩人を拗らせると本当に厄介だね)
今年も夏の終わりと共に
夥しい数の天使の死骸が
色褪せた砂浜へ打ちあげられる
天使なので腐敗することはなく
少しずつ結晶化していくばかり
彼らの心臓はとても繊細で
細い管を挿して息を吹き込めば
びいどろのように寂しい音をたてる
詩人になりたいなー
なれないならニートでいいや
自作の詩をYouTubeで朗読して
食べていけたら最高なんだけどな
ブコフのバイトも続かなかったし
俺って本当にクズだよね
死んだら地獄確定
まー、どうせガキの頃から
神様とは相性悪かったしー(鼻ほじ
(天使の魂を持つ子どもたちは)
(その清らかさゆえ)
(世界の密度に耐えきれず)
(再び天に還っていくのだ)
(遠眼鏡を逆さまにして)
(見つめる世界には音がない)
残暑が厳しい路上には
ころころ転がる蝉の死骸
魂の重さを差し引いても
あまりにも悲しいその軽さ
神様なんて人間の裏返し
それなら天使たちの瞳に
映っているのは何者か
魔女が馬鹿笑いしながら
山を駆け下りてきやがった
頭が痛くて自殺してぇw
ムカつくから親から盗んだ金で
朝からファミレスでビールを呷り
ソーセージを切り刻んで貪り食う
きっと二時間後には全部吐いてる
やっぱ無理だわこの人生ww
何もかもが絶望的に遠すぎるwww
(仔牛とパセリのソーセージ)
(とても美味しいのだが)
(すぐに痛んでしまう)
(ところでそのソーセージ)
(本当に仔牛の肉なの?)
たいていの青春において
疾風怒濤の時代は短い
あらゆる座標での闘争に敗れ
消えていく無名の戦士たち
今日もまた夜が更ければ
どこかで一つの歌が終わる
新たに結晶化する天使
新たに転がる蝉の死骸
新たに切り刻まれるソーセージ
柳の木から落ちて死んだ
狂気の女を真似て漂う
哀れハンスの川流れ
ニーゼ
「ニーゼ」(パターン1)
おおニーゼ
君がいれば何でも買える
美味い酒
美味い食べ物
高級腕時計に高級車
自家用ジェットにクルーザー
広大な敷地の豪邸
いくつもの別荘
欲しいものは何でも買える
美女だって選り取り見取り
愛だって買い叩ける
おおニーゼ
君がいれば何でもできる
世界中どこにでも行けるよ
その気になれば宇宙から
地球を見下ろすことも
テレビ局のスポンサーになり
愚民共を洗脳することも
ニーゼがあれば可能になる
それだけじゃないんだぜ
この命を永遠にすることも
不可能なことじゃない
今は無理でも冷凍保存で
遠い未来に復活さ
ニーゼがあれば医学も科学も
SFの向こう側へ突き抜ける
地球より長生きして
やがて外宇宙へ出発だ
この宇宙が終わる時は
別の宇宙へジャンプするのさ
たくさんのニーゼがあれば
すべての夢が現実になる
おおニーゼ
君がいれば神にもなれる
ニーゼを空へ積み上げれば
天国の扉もノックできる
ニーゼで買えないものはない
え? 何だって?
死んだ命は買い戻せない?
どうせ命の値段なんて
下がり続ける一方じゃないか
死ななければ問題ないさ
そのためのニーゼなのさ
おおニーゼ
僕はニーゼを愛している
心の底から愛しているんだ
だけどニーゼは知らんぷり
僕のことなど見向きもしない
何て悲しい片思い
今日もカップ麺をすすりながら
安い酒をチビチビ飲みながら
三畳一間のボロアパートで
ハローワークのトイレで
競馬場の馬券売り場で
僕は君を恋い焦がれる
ニーゼ、ニーゼ、僕の女神よ
決して手に入ることのない
残酷すぎる万能の女神よ
「ニーゼ」(パターン2)
西行きのチケットを買って
旧式の列車に乗った
行き先は「ニーゼ」という小さな町
地図にも時刻表にも載っていない
そこに行けば死者と会えるという
もう一度だけ顔が見たい
もう一度だけ話がしたい
あの時のことを謝りたい
旅立った理由が聞きたい
いつまでも日が沈まない荒野を
列車は蛇のように進んでいく
乗客の姿はまばらで
誰もが口をつぐんだままだ
どれだけの時が過ぎたのか
数分のようでもあり
数年のようでもある
やがて列車は小さな駅に着く
僕の他にも数人が降りたが
たちまち四方へ消えていった
僕はニーゼの町を歩き回り
彼のことを必死で探した
けれど噂とは違って
いくら探しても見つからない
ついに僕は諦めて駅に戻り
今度は東行きのチケットを買い
再び旧式の列車に乗った
駅を離れてすぐに
広い河にかかる鉄橋を渡った
窓からニーゼの方を見ると
河の土手に人影が見えた
(彼だ)
僕は窓を開けて身を乗り出し
大声で彼の名を呼んだ
小さくなっていく彼は
黙って手を振り続けている
ああ、そういうことか
まだ早いのか
まだ残っているのか
まだ終わらないのか
僕は彼の名を呼ぶのをやめて
遠ざかっていく影を見つめた
どこからか医者や看護師の声が
エコーを伴って聞こえてくる
いつかまたニーゼの町に来るまで
僕は呼吸しなければならないのだ
白夜
真夜中にキッチンへ旅立ち
冷蔵庫の国境を越える
食べ残しのパイを頬張り
白夜の道を歩いていく
そこかしこで若々しい暴力が
ボールのように弾んでいる
(
聞く耳を持たない純粋さ)
道は続いていく
絶望的なほど遠くまで
どうして道など作ったのか
どうせ辿り着けないのに
(アスファ
(ルトの亀裂から
草が伸びて花を咲かせている)
私たちはずっと昔から
果たせないと分かっている約束に
「きぼう」などという
ふざけた名前を付けて
使えない遺伝子のように
子どもたちへ託してきた
(!
(みんな知っている
(それこそが
(不幸の種子である
ことを)
曇り空の下で
赤い色をした花だけが
世界からはみ出している
だから私は泣きながら
彼女を刈り取った
(大切なのは
(命じられる前に済ませること
(これで
(これからも続くだろう
道は)
白夜は)
うんざりするくらい)
(どこまでも
(いつまでも
涙が乾くまで
無色の空を見ている
鎌の刃に付いた血は
耐え難いほど
懐かしい香りがしている
ゆれる、かげ
黒い、鳥のような形をしたものが
空の中ほどで燃え盛っている
そういえば太陽はどこへ行った?
清冽な蒼ではなく
曇天の灰色でもなく
衰弱して色褪せた空で
黒い、鳥のような形をしたものだけが
青白い炎をあげている
ふと気がつけば
街は瓦礫の山に
僕たちは薄暗い影に
なってしまっていた
(何が起こったのだ?
今さらそれを聞いて何になる?)
●お前たちが
●鼻で笑っていたことが
●現実になったのだ
●空想上のグロテスクな獣が
●いきなり目の前に現れて
●お前たちの喉を食い破ったのだ
●念のために言っておくが
●これは比喩だ
(では死んだのか
(僕たちは?
だとしたら何だというのだ?)
今までだって生きていたか?)
すべての問いかけは
虚しい答えに中和され
やがて僕たちは諦めた
それだけは許されていたから
●失われた
●元に戻った
●旅に出た
●帰ってきた
(どうでもいいね
そうだ、どうでもいいのだ)
遠くで音楽が聞こえる、と
かつて誰かだった影が
僕の隣で囁いた
いったい誰だったのだろう
いや、それ以前に
僕は何者だったのだろう
そう思う頃には
もう音楽の意味を忘れていた
曖昧な影である僕たちは
埃のたちこめる瓦礫の山の
あちらこちらで揺れている
そうだ僕たちは
それ自体が墓標であり
次に訪れる者たちへの
教訓を秘めた道標であり
決して浄化されることのない
濁った大気の底で蠢く
新種の絶望生命体なのだ
そんな奇妙な確信が
それぞれの間を瞬時に伝い
世界中に林立する僕たちは
ひときわ激しく身をくねらせた
夢の人
世界が
存在のスープである以上
すべては
無の見ている夢にすぎないのです
青臭いですか?
その嗅覚は老いの証です
人は宇宙の膨張に合わせて
急速に真実から遠ざかっています
たとえば
忘れられない人は
今でも雨の中に立っています
明け方の夢で
それを見る私は
懐かしさに侵食されて
死体のように眠ります
あるいは私自身が
生きているという夢を見ている
青臭い死体なのかもしれません
教会の屋根の十字架は
高性能のアンテナです
だけど
誰も受信機を持っていません
大切なメッセージを
とらえることはできるのに
それを検波し
増幅する手段がないのです
ただ時折
午後の微睡みの中で
わずかに伝わってくる
哀しげな気配を
感じることがあります
それは降り続ける
雨の匂いに似ているけれど
わずかな違いがあるのです
そんなことを考えている間にも
今も降り続ける雨の中で
立ちつくしている人は
夢ですら届かない場所へと
遠ざかり続けているのです
カケル
どんなに注意していても
少しずつ失われていく
そんなものだと猫が呟く
それでも諦めきれずに
飛び散った破片を探して
白い夜道に這いつくばる
そうして気がついてみれば
コーヒーは冷めているのだ
過去の自分に警告するために
黒電話のダイヤルを回すけれど
数字の配列が次々に変わってしまい
いつまでたっても通じないのだ
ベテルギウスの爆発を見られたら
君にプロポーズするつもりだったんだ
すっかり老いぼれてしまった僕が
今日も縁側で独り言を繰り返す
背後で幼い僕がそれを見ている
最初から勝ち目などなかった
わかっていたのにそれを選んだのは
言い訳がほしかったからだろう
すでに彼女は影絵になっていて
古びた額縁に閉じ込められたまま
今も廃校の壁に飾られている
あなたのことをずっと待っていました
白い夜道で星々を見上げながら
遠い海からの伝言を預かった風が
庭の雑草を波のリズムで揺らすと
居間の古時計が鳴りはじめた
(もう四十二時になったようだ)
幼い僕は老いぼれた僕の後ろで
あかんべぇをしてから庭におりると
自分で「よーい、どん!」と叫んで
夕闇の中へと走り出した
もう何も考えていないから
身体がとても軽く感じる
途中で黒い影にぶつかると
身体の半分がちぎれて飛んだ
それでも僕は構わず走り続ける
誰のため、何ため、どこへ向かって
そんなどうでも良いことを
すべて捨ててしまったから
身体がとても軽く感じる
何もかも空っぽになった僕は
光すら無造作に脱ぎ捨てて
この空っぽの世界を走り続ける
沈黙のための音楽
空は薄墨で塗り込められて
天使たちは地上へ降りられない
心ない言葉を投げつけられた魚が
砂浜に打ち上げられている
大切な誰かと歩いていたはずなのに
気がつけば足跡だけが残っていた
●何もかもが嘘ばかり
●きっと
●波の音だけが真実だ
言葉を話す小鳥を探している
遠い昔に
籠から逃げてしまった
そのままにしておけば
世界の寿命も延びるのに
人は愚かだ
しかし
だからこそ愛おしいのだ
そう囁く声を
確かに聞いた
●愛するということを
●愛される前に
●学ぶ術はないのだろうか
光の降る草原を
灰色の犬が走っている
彼は狼を追っているのだ
遠い昔に
その役割のためだけに
人が創った種族
でも
狼はもういない
そして
走り続ける彼は
寂しさを知らない
●目覚まし時計の音が
●ニュースキャスターの声が
●車のクラクションが
●地下鉄のブレーキ音が
●光の渦となって
●聖堂に満ちあふれている
朝
ベーコンの匂いの中で
牛乳瓶に挿された百合が
決して解けない数式を受胎した
雨を泳ぐ
雨が強くなってきたので
二階の窓を開けて
平泳ぎで空へ飛び出した
こんなに雨が降るのだから
それくらいは許されると思った
だけど泳げるくらいの雨の中では
息継ぎが出来ないのでは、と
思った途端に僕は溺れた
上昇しようと思ったのだが
天国はあまりに遠かった
部屋に戻ろうとしても
雨が強くて何も見えない
必死でもがいているうちに
意識が遠くなっていった
皮肉なことにこうなってから
雨は少しずつ弱まってきた
すべてを諦めた抜け殻として
仰向けに浮かんでいると
僕のように空へ漂っている
たくさんの人たちが見えた
それは灰色の宇宙に散らばる
小惑星帯のように美しかった
「やあ、たくさん捕れたなあ」
意識が途切れる直前に
そんな声が遠くから聞こえた
本当に変な夢だと思いながら
僕は死の中で再び目を閉じた
数学以前
それは小学生の時のこと
ある日、学校から帰った僕は
算数の宿題を冷蔵庫に入れて
友だちの家に遊びに出かけた
(僕は算数が苦手だったから)
帰宅後に冷蔵庫を開けてみると
庫内はひどいことになっていた
タマゴはひとつ残らず割られ
マヨネーズやケチャップの中身が
野菜や果物にかけられていた
飲みかけの牛乳には水が足され
算数の宿題は逃げ出した後だった
僕は顔から血の気が引くのを感じた
パパやママに怒られるということよりも
算数から見放されたことが悲しかった
人生という時の長さを考えたなら
学歴というものの価値は無視できない
それはエリートとしてのルートを
確実に保証してくれるものだからだ
でも僕は算数の怒りに触れてしまった
それは昨日今日の話ではなかった
堆積していた僕の算数への不満は
とっくの昔に見抜かれていたのだ
幼い子どもの心情は免責にならず
こうして数学にたどり着く前に
僕は失格者の烙印を押された
生まれた甲斐がないという気持ちが
僕の中に分子レベルまで浸透して
センチな気分へと変換されていく
どうしてこんなことになったのか
どうすれば算数を愛せたのか
あの日から繰り返される問いに
僕は今も回答を見つけられずにいる
早朝
早朝の穏やかな水面に
無意味な言語を浮かべれば
正しい方向を指し示して
いつかは真実にたどり着く
あるいは失ったものたちを
何もかも取り戻せる
などとという
蜃気楼のような幻想が
僕たちの信仰する
永久機関の正体だ
カビ臭い神の箱庭で
笑えない冗談ばかりを
ぶつけ合っている少女たちは
絶望をオブラートに包む巫女で
本当は本当の本当を教えてくれない
それを百も承知で僕たちは
遠浅の眠りの中に言葉を浸し
薄闇の去りゆく世界へと
心拍のリズムで波紋を広げる
(そこでようやく
自分が目覚めていないことに気づく)
また過ちを犯すのだろうと
心の隅では認めているのだが
水が氷になる瞬間のような
眩暈にも似た高揚感に包まれて
またしても僕たちは真実を否定する
とても容易く、躊躇いもなく
ノラネコに餌を与えるかのように
いつだって悪魔は魅力的に演説する
いつだって大衆は熱狂的に歓迎する
遠い過去の方角から
行進の足音が近づいてくる
高尚な何かを考えているつもりで
実は何も考えていない僕たちは
憎んでいるはずのものを愛し
葬ったはずのものと婚約する
そして再び朝がやってくる
同じ愚行を繰り返すために
僕たちは覚醒したふりをして
遠ざかる薄闇から悪夢を引き戻す
今度という今度こそ
夜にたどり着けないかも知れないのに
モーニングスター
朝
誰もいない食卓につくと
清潔な白磁の器には
電子パーツが盛られている
潮の香りがする朝刊を開けば
たちまち燃えあがって戦争がはじまる
言い訳を舌先で転がしていると
プチッと潰れて意味が溢れる
本来なら生きるという行為は
省略も延長も許されていない
本当のイコールなんて
滅多にあるもんじゃないし
そこにたどり着けたとしても
今さら埋葬された靴たちが
再び歩きはじめるわけでもない
「彼女」がリボンを振るたびに
警告音と共に世界がジャムる
鯨のヒゲで稼働する案山子が
クラウドバスターを空に向けると
スポイトの一滴から始まる連鎖反応が
僕たちを背中から手遅れにしていく
(だから鏡の中で振り向いた猫は
殺したはずの女の目をしている)
だいじょうぶ、
だいじょうぶ、
と
「彼女」が母親の声で囁くから
空の半分はママレード色で
まがいものの安心が満ちている
みんなも残り半分から目をそらし
だいじょうぶ、
だいじょうぶ、
と
笑顔で傾いている
なんて素敵な一日の始まり
なんて言葉を彼らは吐き出す
子どもたちはいまだに
廃園のあちらこちらで
パチパチと音を立てて
燃え続けているというのに
いと
ある日、
どこかで誰かが溜め息をつき
磨りガラスを貼った梅雨空から
一本の光る糸が垂れてきた
天女が羽衣を織るのに使うような
虹色に輝く美しい糸が
人々がぼんやりと見上げる中
糸は一本、また一本と垂らされて
その先端が地面に届いた
雲間から射し込む日の光にも似た
神々しくもどこか不吉な無数の糸
ほとんどの人々は相変わらず魚の目で
空を飾る美しい糸たちを眺めていたが
突然、
生きることに疲れた背広姿の中年男が
鞄を放り出して糸にしがみつき
するすると登りはじめた
それを合図にしたかのように
いじめに悩む女子中学生が
自らの人生が外れだと悟った老人が
親から要らないと思われている幼児が
手近な糸に取りついては
まるで訓練された兵士のように
楽々と糸をよじ登っていく
周囲の人間たちはそれが自分の家族でも
止めようともせずに無言で見送っている
磨りガラスを貼った梅雨空のあちこちに
空を目指す人々がぶら下がっている
どれだけの時が過ぎただろうか
やがて最後の一人が雲の上に消えると
無数の糸は雪のように溶けて消えて
同時に空も地上も赤黒く変色し始めた
辺り一面には硫黄の臭いが立ち込めて
地上はついに中立であることを放棄した
ほら、
あちらこちらで悲鳴があがり始める
肉が裂け骨が砕ける音が聞こえる
しかしそれは今までと大差ないので
人々はいつも通り歩き続けている
そのうち自分の番になるまでは
誰一人として気付くことはないのだろう
ここが本質に相応しい場所になり
すべてが無限に続くのだということを
誕生
工場地帯の外れにある
不自然なほど広い空き地は
意図的に繁栄から切り取られ
放置された偽りの草原だ
腰まで茂った草の下に
いったい何が潜むのか
誰も知らないし
知ろうともしない
私は陰鬱な空の下で
いつしか道に迷ってしまい
雑草の中で途方に暮れている
遠くに見える煙突を頼りに
歩いていけば良いはずなのに
草をかき分け進み続けても
一向に出口が見つからない
溜め息をつきながら
周囲を見回した時
二十メートルほど前方で
草むらの中にしゃがみ込む
白いワンピースの少女を見つけた
風に乗って聞こえてくるのは
彼女の苦しそうな呻き声
よく見ればその顔は苦痛に歪み
脂汗にまみれているようだ
おそらく両の手の指は
草を掻き毟っているのだろう
近づいて声をかけようとした時
突然、少女は絶叫した
アアアアアアアアアアアアアアアア!
その叫びに、
別の叫びが入り混じる
オギャアアアアアアアアアアアアアア!
あまりの凄まじい声に
私はその場から動けなかった
やがて少女は蹲り
身体の大部分が草に隠れた
微かに覗く白い背中が
ゆらゆらと蠢いている
耳に入ってくるのは
絶え間ない泣き声だけだ
しばらくしてから
少女は再び立ちあがった
白いワンピースの裾には
いくつかの赤い染み
彼女は放心した表情で
空の一点を見つめてから
私に背を向けて歩き去る
顔に吹き出た汗を腕で拭い
再び前方を見た時には
もう、
その姿は消えていた
その直後
彼女と入れ違いのように
右手の方から草を揺らして
泣き声のする茂みへと
近づいていくものがいる
威嚇するような唸り声は
間違いなく野犬のそれだ
私は金縛りにあったように
動くことができなかった
早く行って助けなければと
心の中では焦るのだが
得体の知れない恐怖から
どうしても足が進まない
唸り声の主は草の中を
高速で移動しながら
泣き声へと迫っていく
そして、
甲高い悲鳴
それに続き、
肉を裂き、骨を砕く
容赦ない、
音、音、音
それから、
唐突に訪れる、
沈黙
どれくらいの時が過ぎたか
正確にはわからないが
とにかく
再び音が戻ってきた
ピチャピチャと
何かを舐め啜る音の後
再び草をかき分けて
「それ」は
元来た方へと戻っていった
何もかもが終わってから
ようやく縛めから解かれた私は
思わず地面に両膝をついた
数回の深呼吸の後で
何とか再び立ちあがり
(おそらくは半泣き顔で)
声が聞こえていた方へと走る
絡み付く草に足を取られ
何度も転びながら
ようやく
少女がいた場所へどり着く
そこで見たのは
予想を覆す光景だった
あまりにも理解不能な状況に
思考を放棄した私は
蒼い波の中に立ち尽くす
ひとつのオブジェと化した
草が足で踏み倒された
半畳分ほどの場所には
小さな血の池ができており
大小様々な肉塊や骨片が
幼子が放り出した
オモチャのように
散らばっていた
残された皮の断片や
噛み砕かれて
脳を食われた頭部から
あきらかに
野犬のものだとわかる
生の残骸が
DEAR FUTURE
霊安室で君にプロポーズした夜
僕はまだ彼女の胎内で眠っていて
太古の姿のままで夢を見ていたんだ
それは霊安室で君にプロポーズする夢で
手にした花束は球状星団へと接続され
擬人化された時間は痙攣を続けていた
今なら迷いなく世界に発信できる
生まれる前に彼女を殺すべきだったと
フラットな心電図は神からの暗号通信で
解読に必要な犠牲がまだまだ足りない
いつだって死者たちの忘れ物だけは
意外と簡単に見つかってしまうものだ
それは異臭を放ちつつ周囲を侵食して
不必要なくらい存在を誇示するからだ
※誰か窓を開けてくれないか
※どうしても新しい風が必要だ
※僕は彼女の心臓マッサージで
※両手がふさがっているんだ
新聞記事の不幸を次々に切り抜いては
黄ばんだスクラップブックに貼り付ける人たち
無垢な子どもたちが敷き詰められた路上を
彼らはピカピカ光るハイブリッド・カーで疾走する
コンビニでは手軽に宗教が販売されていて
店員は救済をレンジで温めるか尋ねてくる
こんな一日が明日に繋がるはずがない
まだ気が付かないのか墓場なんだここは
僕の夜明けは永遠に引っ掛かったままで
黄昏はクラスの噂話でしか知らないから
動力としての救済が絶対に必要なんだ
すべての悲しい者たちを中和するために
化石になるのを待っていられないから
僕は霊安室で君にプロポーズするんだ
※誰か窓を開けてくれないか
※どうしても夜の湿度が必要だ
※僕は彼女の首を絞めていて
※両手がふさがっているんだ
僕たちの未来の想い出は未開封のまま
今も過去という薄闇の底で凝っている