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作品 - 20170314_361_9493p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


phosphorescence

  紅月

[line]

彼女が不可思議な行動を見せるようになったのは僕たちが同棲をはじめてから数ヶ月ほど経ったころだった。ある朝、肌を逆撫でるような寒気に目を覚ますと、あけっぴろげにされた窓からあざやかに燃えひろがる暁がのぞいていた。窓は閉めて寝たはずだが、寝苦しくなった彼女が開けたのだろうか、などとそのときは特段気にすることもなく、隣で熟睡する彼女が起きてくるころには窓のことなどすっかり忘れていたのだけれど、次の朝もその次の朝も、ひらかれた窓辺には白いレースカーテンが踊っていた。彼女もまったく覚えがないというし、さすがにちょっと気味が悪くなって、四日目の夜、背合わせで彼女が眠りにおちたあとも、僕はサイドボードに置かれた青いLEDのデジタル時計の点滅を眺めつづけていた。彼女の呼吸と電子的な明滅のテンポは隔たりと交わりを繰りかえす。繰りかえす。

背越しの物音に半睡から覚醒する。彼女が身を起こしたようだ。衣擦れの音がきこえ、それからしばらくして彼女はベッドから降りる。気付かれぬように様子を窺うと、全裸の彼女がおぼつかない足取りで窓辺へと歩いていくのが見えた。彼女のあまりの異様さにしばし声をかけるかどうかの逡巡がうまれ、そのうちに窓をあけた彼女はするりと滑るようにベランダに出ていってしまう。ここからでは外の様子を確認することができない。しかしなぜか、見てはいけない、知ってはいけない、そう思って、どうすることもせずに僕はひとりのベッドのなかでつめたい石彫刻のようにかたまりつづけていた。すこしばかり経っただろうか、ふいに窓の外からぽつりぽつりとちいさな水音が聴こえてきたかと思うと、ささめきはすぐに陶器を叩きつけるようなかしがましい蝉騒へと変わる。驟雨が降りだしたらしい。全裸の彼女がはげしい雨に打たれる姿を想像する。彼女の腰ほどあるゆたかな黒髪は水のながれを宿し、みずみずしい曲線はおそらく、打ちつけられる強さをもってつぶてを押しかえすのだろう。

とてもながい時間が経って、ようやく部屋に戻ってきた彼女は不思議なことに少しも雨濡れしていない。窓の向こうの雨音は彼女が戻ってくると途端におさまり、すぐに未明はもとのしじまを取り戻した。何事もなかったかのように寝巻を着てそのまま眠りについた彼女はやはり夜のことをなにひとつ覚えてはいないだろう。朝のニュースはどの局も歴史的干魃による水不足の話題で持ちきりだった。

その日から毎晩、彼女はこの街に雨を降らせつづけた。そして、彼女に呼応するように世界は乾きつづけた。






[around]

飲み会が終わったあとの自宅への帰りのバスのなかでうっかり寝過ごしてしまって、目を覚ますとさっぱり見覚えのない薄暗い山道を走っていた。とりあえず聞いたこともないような名前の停留所で降り、iPhoneで地図を確認するのだけれど、そこにはいくつもの線が波紋のように広がっている不思議な図形だけが描かれている。手持ち金もわずかばかりしか残っておらず、仕方がないからバスが走り抜けていった方角と逆方向に歩きはじめる。はじめはどうしようもなく憂鬱な気分だったのだけれど、眼下に海が望める崖沿いの緩やかなカーブや、蔦に侵食され罅割れたアスファルトを踏みしめるうちにだんだん朗らかな気分になってきて、路傍の小さな草花を摘んでみたり、スキップしながら鼻歌をうたってみたりした。月はまとわりつくような群雲にしずみ、わずかばかり漏れだした光が植物のつややかな暗緑色を濡らしている。

とちゅう、人のかたちをした幽霊とすれ違った。軽く会釈を交わしてから自宅への道を尋ねると、幽霊は何も言わずにみずからが歩いてきた方角を指差す。彼の輪郭は絶えずほころびをくりかえし、眼孔にはひとみのかわりにいくつもの語彙が渦を巻いていた。生の幽霊なんて都市部ではなかなかお目にかかれないし、物珍しさから、写真を撮ってもいいですかと聞いてみるが反応はない。きっと沈黙は承諾のあらわれなのだと解釈し、iPhoneのカメラ機能を使いふらふらと風になびいている彼を撮影する。しかし撮れた写真のどれを確認してもそこに彼の姿は映り込んではいない。とても残念だったけれど、彼をこれ以上引き止めるのも失礼だと思い、ありがとう、と礼を言って別れてから、彼がやってきた方角へと歩きつづける。

それからしばらく歩いたのだけれど、いっこうに人里は見えてこないし、もはやどれくらい歩いたのかすらわからなくなってきて、もしかしたら歩いているのではなく止まっているのかもしれない。しだいに体が金属のように重くなってきて、仕方がないから、ふらつくたびに身につけていたものをひとつずつ捨てていった。廃棄をくりかえし、風とおなじくらいのかるさになったころ、ふたたび人のかたちをした幽霊とすれ違う。軽く会釈を交わしてから自宅への道を尋ねてくる彼に、僕は歩いてきた方角を指差す。これから撮影されるたくさんの写真。そして僕は映らない。映ってはいけない。それが決まりごとなんだ。






[bunch]

暗室のなかで現像液を吸いあげる花々は撹拌と停止の指揮にあわせて示されたかたちを繕ってみせる。点を隠すなら点のなかなんだよ、と花が言って、言ったそばから花は他の花に覆われすぐに見えなくなる。群生する花々はたがいの弾力をおびやかしながら触角を絡めあう。点描の線がするすると延びていく。線はしだいに屈曲し円をかたちどるだろう。地面に散乱する不揃いな極彩色の果実。どこからともなく鳥があらわれて、むすばれたばかりの果実のやわらかさへと嘴を埋める。いつしか暗室のなかをたくさんの鳥が飛び交い、机に無造作に積まれた写真の束が彼らの羽撃きに巻きあげられてぱらぱらと宙を舞っていた。果実へと群れる鳥たちの集団はまるで合一したひとつの球体のようにうねり、撹拌と停止を指揮する人影の手には猟銃が握られている。やがて銃声が響いて、血の流れない淘汰がおこなわれるとき、線と線の交錯でことづけられた記号のおおくは奥行きを取り戻しながらみずからの重みに沈んでいくだろう。風にあそばれるたくさんの写真は刈りとられたシーンたちをこま送りのように明滅させる。立ちつくす人影の耳から色とりどりの歓声が勢いよく噴きだし、投げ捨てられた猟銃の銃口からたちのぼる硝煙が、抜きだされた景色と景色のあいだの余白を埋めるようにたちこめる。そして、結びには表題への解答として、発作的な暗転に取り残された人影だけが、屠殺した鳥たちの骸を抱えて黄みがかった現像液のなかへ溶ける。


そうして、かたどりだけがのこされた、
かたられるはかたるのかたちからはぐれ、ここにはなきがらばかり、






[(ref)line]

延びあがった影はやがて斥力に耐えかねて湾曲する。かさなりを拒む乳房のみずみずしい弾性。彼女のしろい乳はどこまでもたかく噴きあがり、なぐりつけるようなはげしい驟雨となって街を濡らす。山々の稜線をしろくなまあたたかい川がよごし、まるで彼女の髪のようにしなやかなながれを汲みあげては、いにしえから雨乞いをつづけていた人々はめいめいのながい乾きを癒していく。そうして、街はいちめん白に染まり、うるおいにひとみを焼かれた人々の眼孔からは次々と煤けた詩句がこぼれおちる。軽い挨拶を交わすたびに、ひとみをうしなった彼らはひとりずつ白の溟い渦のなかへ飛びこんでいくだろう。干からびて使い物にならなくなった文法だけが、ただそこに遺されて、降りそそぐ線の集合のふたしかさを距離に喩えつづけていた。

 

文学極道

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