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作品 - 20160919_078_9110p

  • [優]  空言 - Kolya  (2016-09)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


空言

  Kolya

川に行こうと、誘った。
男は疲れていた。
もう終わりだろうと、いうことは分かっていた。
女は頷いた。
知らない街は、古い色紙で継いだみたいに寂れている。
疎らな人の行き交い。湿気に煙った商店街。ゆるく手をつないだ女に、男は語り始める。
「過去の数度の大戦で、地球の総人口は最盛期の10%にまで減った」

女は不思議そうに男をみていたが、薄く、頷いた。
男たちは、途中のセブンでお茶とコーヒーゼリー、アイスクリームをひとつずつ買って、また川へと歩き出す。
さびれた路地を抜けると土手に出る。
広い河川敷。
薄曇りの空は透明な晩夏のフィルターを重ね、そのままなくなってしまいそうな色をしている。
男が「広いね」と言うと、
女は「うん」と言う。
ゴウンゴウンと鉄球が転がるような音がする。
すぐ頭上に渡されている高架では赤色の電車が走っている。
それ以外では遠くから微かな蝉の声。広場の脇にある公園の、なんの役にたつとも思えない遊具では、少年誌が仰向けになっている。
舗装されていない道。背の低い灌木。藪。飛び出すひとり猫。
「右手の方の野球場に行こう」
水の気配はするけど、川面はまだ望めない。

平日の昼間。
いくつか隣接している野球場にはプレイヤーの姿はひとりもなく、陽炎が忘れていった野球の玉が転がっている。
それを拾う。
「前世紀の遺物だ。
ここは、ヤキュウ、と呼ばれる球技専用のコロッセオの遺跡だ」
男は硬式の野球ボールを宙に投げる。
キャッチ。
投げる。
球は空中で宙返りし、陽光を一閃、照り返し、落下。
キャッチ。投げる。リフレクション。キャッチ。
女はそれを無表情にみている。
男は語り続ける。
「なんでも旧時代のひとびとは、この球を投げ、棒でひっぱたき、追いかけまわし、叫び、喜んだり、悲しんだりしていたそうだよ」
「野蛮なものね」と女が言う。
男は笑う。
「その野蛮人の巧者に、イチロー、という名の者がいたそうだ。
伝説いわく、彼の全盛期には、棒をスイングしただけでハリケーンを起こし、
投げる球はレーザービームと呼称されるほどの破壊力を持ち、地球の地表程度なら軽々と破砕したそうだ。
オデュッセウスが如き英雄だ」
「聞いたことがある、イチロー・スズキ。
プリインストールされた私のオリジナルの記憶データに残っている」
女のほうもだいぶ興が乗ってきたようだ。

キャッチボールをする。
すこししたら飽きる。
球場のベンチに腰掛けて、ぬるくなったゼリーと、スープになってしまったアイスを匙ですくう。
対岸に並ぶ高いビル群。
遠くの土手で自転車を漕いでいく中年。
見渡せるものはどれも作り物でミニチュアのようにみえた。
「ごらん彼岸の街を。
あちらが人間の街だ。
こちらは偽物の街。
いまではアジア連邦のひとつの省でしかない、この日本という地は、大戦中、一貫したナショナリズムとゆくりなく結合した全体主義を、半ば国民の本来の性向に則する形で体現した。
人びとは心を失い。
挙句、ほとんどが死に絶え、あるいはサイボーグ化、デジタル化した。
にもかかわらず情報技術の先鋭化の粋である社会コンピューターのOSの優位性は皮肉にも未だに証明されている。
これでも海の向こうに比べればまだ幸せ、だそうだ」
男は偶然に通った京急線の鈍行列車を指さす。
「人が乗っているだろう。
しかし彼岸の街とこちらの街をこれだけ頻繁に行き交う車両には、生者はおそらく、ひとり乗っていればいいくらいなもので、
乗客に見えるものどもは幽霊という名の立体ホログラム、AIによる人型ロボット、そんなものたちばかりだ。
生身をまだ保っているオリジナルな人間たちは、あちらの高層ビル。
無論あれもデジタル影像の照射に過ぎないが、本当は地下ドームのシェルターにいまだ篭っている。
システムだけがゆくりなく稼働しつづけているが、それから益をうけるものは誰もいない。
それらの存在理由は欠落している。
それだけがエラーを起こしつづけている。
ただしそのビープ音は誰にも聞かれることはない。
ここは、」
男と女は広場をなにげなく見渡す。
「誰もいない」

煙草に火を点けると、咎めるように女が男を見ている。
「前時代的な嗜好ね」
「うん。俺たちはクローンだが、オリジナルのすべてが定量化した後にトランジットしてある。
身体的データ、個人的経験、そして、もちろんこういった日常の習慣もダウンロード項目から除外されるものではない」
女は顔をしかめて、すこし離れた水飲み場まで歩いていく。
男は煙草の煙を眺める。
蝉の声が定量的に、まるで録音されたもののように、飽きもせず、ワンリピートされる。
煙草をもみ消し、女のほうに向かう。
女は手を丹念に洗い終わって、男の側に寄ってから「やっ」と指先の水しぶきを男の鼻めがけて弾く。
「冷てー」と言うと、女はやっと笑う。
男は駆けて、蛇口をひねり、手を洗うふりをしてから、女のほうに戻って、同じように水を弾きとばす、女は逃げる。
男は追う。
わっと女を捕まえる。
不思議だ、ぜんぶ偽物なのに。
と男は思った。
顔と顔を近づけようとするが、女は避ける。
「忘れたの。もうそんなことはできない。すべてが監視下にあるの。もし私達が禁を犯せば、この世界は崩落するわ」
と女は言った。

そしてなにも定量的でない夕暮れ。
SFごっこのネタも付きて、沈黙していた。
かいた汗も乾いて、男と女は川岸にたっていた。
向こう側に林立する死者たちのビルのいくつかは、
すでに儀式的に崩壊し、
紫の火炎につつまれ、
音のない仮想のエラー音があてもなく広い空に延焼していく。
川は黄金色をしていた。
ぜんぶデタラメだと、思った。
デタラメになってしまったのだった。

文学極道

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