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作品 - 20160713_824_8964p

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この地面が揺れ出す前から

  相沢才永


 動けない彼女の尻を拭きながら、嘔吐したその口にキスしたくて仕方がなかった。拒まれて、ごめんねと言いながらなるべく愛に似せて背中を擦るのは、それでもここには何かがあると信じたかったからだ。たった今、この瞬間に限ってはこの世に僕らしかいないのだから。だけどまたすぐに、ゲロで汚れた口を不機嫌そうに拭う彼女を抱きしめていて、しまった、と僕は胸を潰す。彼女は気づいている。何故ならこれは僕の夢だから。

 朝方、僕は緑色の便を何度も拭き取っていた。ペーパーを肛門に押し付けぐいと拭うのだが、拭けど拭けど綺麗にならない。諦めてシャワーを浴びることにした。湯煙に含まれた便の臭いが立ち込めるなか、また懸命に尻を洗った。漸く綺麗に流し終え、今度は石鹸を泡立て手を洗い始める。爪の隙間の汚れをもう一方の爪で掻き出し、掻き出した爪を洗った方の爪で掻き出すのを繰り返す。
 もう嫌だ。何度目になるかわからない文句を溜め息と共に漏らした。溜まらず頭上から熱い湯を被ると、額に伸びる脚が顎から胸へと下りていき、幻のような、影のような、だけど確かに感じられる僅かな優しさを手繰り寄せる。

 いちいち涙なんか流れなくなった。なのに関係のないことで不意に涙ぐむのは何故だ。
 今朝のニュースに熊本で被災した犬が、飼い主と再会して喜んでいる様子が流されていた。飼い主に腹を向け、撫でてと言いたげにくねりくねりと全身で懇願しているのだ。僕は涙ぐみながらそれを見ていた。見ながら、もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だと、涙が乾かぬよう努めるのだが、案の定あっという間に乾いて、弱々しい足取りでトイレへと向かっていた。

 自然の猛威を前に、僕には歯向かう意欲がまるでない。僕は喜びを噛みしめたかった。僕よりも不幸な奴がいる。だから彼女を抱きしめた。汚い口にキスしたかった。それなのに、わからないのに、わかることがある。

 心から涙を流す人。守りたいと願う人々。その傍らで焦燥感を噛み千切り、手を伸ばす魂。日常に隠れた不幸の塊。みんなみんなトイレに流された。息を止め、顔を背けられ。

 頭上から走る湯がばしゃばしゃと唇を濡らす。それを舌で舐め、何となく味のするものを飲み込み、何となく命の在り処を確かめる。もう沢山だ。だけどそうではなかった。この地面が揺れ出す前から。
 胸に込み上げる。それがゲロとなってばしゃばしゃと爪先を掴む。引っ掴まれて尻餅ついて、腹の上をもうひとつ汚いものが撫で下ろす。もう沢山だろう。だけどそうではない。僕は間違っている。僕は懇願している。僕は生きている。なのに動けない。ちっとも動けない。この地面が揺れ出す前から。

文学極道

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