そこでは激しい血の轟きが聞こえる。
とあるひとりの少女が流した血の轟きが。
人々は耳を塞ぎ、目を塞ぎ、声ばかりを張り上げている。
聞き取れない言葉をけたたましく張り上げている。
血流は塞き止められず、彼らの足を次々と掬い上げ、
その冷ややかな誇りを飲み込んでいく。
少し離れたここでは喉を胃酸に焼かれた青年が、
足元にある、輪郭を失った感情を見つめている。
いつか腹の底に沈めたそいつがアスファルトの上で、
わざとらしく干乾びていく様子を見つめている。
“君が死んだのは僕のせいじゃない。
見てはいけないものを見るような、奴らが悪いんだ。
わかろうとしない奴らが悪いんだ。
知るのを恐れて、同じだと決め付けたのは奴らじゃないか。
どうしてそんな顔しているんだよ。”
青年にも微かに聞こえる。
血の轟きが。少女の咽び泣く声が。
たった今血だらけの理由など考えもせず、心の平穏を傷つける音が。
聞こえながら、ズボンを下ろし、自分の熱(いき)る器官を握りしめていた。
嘔吐した輪郭のない感情を片手に纏わり付かせ、頻りに動かした。
直に血流は彼のいる下流まで辿り着く。
分別を失くした少女の激情が、このまごついた性(さが)を飲み干してくれるのだ。
青年は悦びに身を捩り、間もなく果てた。
鼻の奥を刺激臭と鼻水と、不気味な甘みで満たしながら。
アスファルトに目を遣ると、ねっとりとした白い命が、感情の亡骸に埋まっていた。
すやすやと、眠るように埋まっていた。
「どうしてそんな顔しているんだよ。」
輪郭を取り戻そうと掘り返した記憶の中で、ひとりの男が青年に聞いている。
青年は答えず、質問を質問で返しながら、想いが生きようとする音を聞いている。
絶えず、聞こえてくる。
胃酸に焼かれた喉から張り上げる、ガマ蛙のような声が聞こえてくる。
聞こえながら、白々しく、聞こえない振りをしている。
最新情報
相沢才永
選出作品 (投稿日時順 / 全2作)
- [佳] 葬送 (2015-03)
- [優] この地面が揺れ出す前から (2016-07)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
葬送
この地面が揺れ出す前から
動けない彼女の尻を拭きながら、嘔吐したその口にキスしたくて仕方がなかった。拒まれて、ごめんねと言いながらなるべく愛に似せて背中を擦るのは、それでもここには何かがあると信じたかったからだ。たった今、この瞬間に限ってはこの世に僕らしかいないのだから。だけどまたすぐに、ゲロで汚れた口を不機嫌そうに拭う彼女を抱きしめていて、しまった、と僕は胸を潰す。彼女は気づいている。何故ならこれは僕の夢だから。
朝方、僕は緑色の便を何度も拭き取っていた。ペーパーを肛門に押し付けぐいと拭うのだが、拭けど拭けど綺麗にならない。諦めてシャワーを浴びることにした。湯煙に含まれた便の臭いが立ち込めるなか、また懸命に尻を洗った。漸く綺麗に流し終え、今度は石鹸を泡立て手を洗い始める。爪の隙間の汚れをもう一方の爪で掻き出し、掻き出した爪を洗った方の爪で掻き出すのを繰り返す。
もう嫌だ。何度目になるかわからない文句を溜め息と共に漏らした。溜まらず頭上から熱い湯を被ると、額に伸びる脚が顎から胸へと下りていき、幻のような、影のような、だけど確かに感じられる僅かな優しさを手繰り寄せる。
いちいち涙なんか流れなくなった。なのに関係のないことで不意に涙ぐむのは何故だ。
今朝のニュースに熊本で被災した犬が、飼い主と再会して喜んでいる様子が流されていた。飼い主に腹を向け、撫でてと言いたげにくねりくねりと全身で懇願しているのだ。僕は涙ぐみながらそれを見ていた。見ながら、もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だと、涙が乾かぬよう努めるのだが、案の定あっという間に乾いて、弱々しい足取りでトイレへと向かっていた。
自然の猛威を前に、僕には歯向かう意欲がまるでない。僕は喜びを噛みしめたかった。僕よりも不幸な奴がいる。だから彼女を抱きしめた。汚い口にキスしたかった。それなのに、わからないのに、わかることがある。
心から涙を流す人。守りたいと願う人々。その傍らで焦燥感を噛み千切り、手を伸ばす魂。日常に隠れた不幸の塊。みんなみんなトイレに流された。息を止め、顔を背けられ。
頭上から走る湯がばしゃばしゃと唇を濡らす。それを舌で舐め、何となく味のするものを飲み込み、何となく命の在り処を確かめる。もう沢山だ。だけどそうではなかった。この地面が揺れ出す前から。
胸に込み上げる。それがゲロとなってばしゃばしゃと爪先を掴む。引っ掴まれて尻餅ついて、腹の上をもうひとつ汚いものが撫で下ろす。もう沢山だろう。だけどそうではない。僕は間違っている。僕は懇願している。僕は生きている。なのに動けない。ちっとも動けない。この地面が揺れ出す前から。