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相沢才永

選出作品 (投稿日時順 / 全2作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


葬送

  相沢才永



そこでは激しい血の轟きが聞こえる。
とあるひとりの少女が流した血の轟きが。
人々は耳を塞ぎ、目を塞ぎ、声ばかりを張り上げている。
聞き取れない言葉をけたたましく張り上げている。
血流は塞き止められず、彼らの足を次々と掬い上げ、
その冷ややかな誇りを飲み込んでいく。

少し離れたここでは喉を胃酸に焼かれた青年が、
足元にある、輪郭を失った感情を見つめている。
いつか腹の底に沈めたそいつがアスファルトの上で、
わざとらしく干乾びていく様子を見つめている。
“君が死んだのは僕のせいじゃない。
見てはいけないものを見るような、奴らが悪いんだ。
わかろうとしない奴らが悪いんだ。
知るのを恐れて、同じだと決め付けたのは奴らじゃないか。
どうしてそんな顔しているんだよ。”

青年にも微かに聞こえる。
血の轟きが。少女の咽び泣く声が。
たった今血だらけの理由など考えもせず、心の平穏を傷つける音が。
聞こえながら、ズボンを下ろし、自分の熱(いき)る器官を握りしめていた。
嘔吐した輪郭のない感情を片手に纏わり付かせ、頻りに動かした。
直に血流は彼のいる下流まで辿り着く。
分別を失くした少女の激情が、このまごついた性(さが)を飲み干してくれるのだ。
青年は悦びに身を捩り、間もなく果てた。
鼻の奥を刺激臭と鼻水と、不気味な甘みで満たしながら。
アスファルトに目を遣ると、ねっとりとした白い命が、感情の亡骸に埋まっていた。
すやすやと、眠るように埋まっていた。

「どうしてそんな顔しているんだよ。」

輪郭を取り戻そうと掘り返した記憶の中で、ひとりの男が青年に聞いている。
青年は答えず、質問を質問で返しながら、想いが生きようとする音を聞いている。
絶えず、聞こえてくる。
胃酸に焼かれた喉から張り上げる、ガマ蛙のような声が聞こえてくる。
聞こえながら、白々しく、聞こえない振りをしている。


この地面が揺れ出す前から

  相沢才永


 動けない彼女の尻を拭きながら、嘔吐したその口にキスしたくて仕方がなかった。拒まれて、ごめんねと言いながらなるべく愛に似せて背中を擦るのは、それでもここには何かがあると信じたかったからだ。たった今、この瞬間に限ってはこの世に僕らしかいないのだから。だけどまたすぐに、ゲロで汚れた口を不機嫌そうに拭う彼女を抱きしめていて、しまった、と僕は胸を潰す。彼女は気づいている。何故ならこれは僕の夢だから。

 朝方、僕は緑色の便を何度も拭き取っていた。ペーパーを肛門に押し付けぐいと拭うのだが、拭けど拭けど綺麗にならない。諦めてシャワーを浴びることにした。湯煙に含まれた便の臭いが立ち込めるなか、また懸命に尻を洗った。漸く綺麗に流し終え、今度は石鹸を泡立て手を洗い始める。爪の隙間の汚れをもう一方の爪で掻き出し、掻き出した爪を洗った方の爪で掻き出すのを繰り返す。
 もう嫌だ。何度目になるかわからない文句を溜め息と共に漏らした。溜まらず頭上から熱い湯を被ると、額に伸びる脚が顎から胸へと下りていき、幻のような、影のような、だけど確かに感じられる僅かな優しさを手繰り寄せる。

 いちいち涙なんか流れなくなった。なのに関係のないことで不意に涙ぐむのは何故だ。
 今朝のニュースに熊本で被災した犬が、飼い主と再会して喜んでいる様子が流されていた。飼い主に腹を向け、撫でてと言いたげにくねりくねりと全身で懇願しているのだ。僕は涙ぐみながらそれを見ていた。見ながら、もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だと、涙が乾かぬよう努めるのだが、案の定あっという間に乾いて、弱々しい足取りでトイレへと向かっていた。

 自然の猛威を前に、僕には歯向かう意欲がまるでない。僕は喜びを噛みしめたかった。僕よりも不幸な奴がいる。だから彼女を抱きしめた。汚い口にキスしたかった。それなのに、わからないのに、わかることがある。

 心から涙を流す人。守りたいと願う人々。その傍らで焦燥感を噛み千切り、手を伸ばす魂。日常に隠れた不幸の塊。みんなみんなトイレに流された。息を止め、顔を背けられ。

 頭上から走る湯がばしゃばしゃと唇を濡らす。それを舌で舐め、何となく味のするものを飲み込み、何となく命の在り処を確かめる。もう沢山だ。だけどそうではなかった。この地面が揺れ出す前から。
 胸に込み上げる。それがゲロとなってばしゃばしゃと爪先を掴む。引っ掴まれて尻餅ついて、腹の上をもうひとつ汚いものが撫で下ろす。もう沢山だろう。だけどそうではない。僕は間違っている。僕は懇願している。僕は生きている。なのに動けない。ちっとも動けない。この地面が揺れ出す前から。

文学極道

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