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作品 - 20160504_488_8800p

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指とカナエの物語

  かとり

携帯電話のベル音が鳴ってすぐに切れた。それだけで何が起こったのか理解できたような気がする。目が薄く開かれ、自分が眠っていたということに気づく。それでいて、悪い夢の中に迷い込んでいくような気分。音の余韻が、身体を駆け巡り、ベッドの足を伝って、カーペットを通り過ぎ鉄骨の構造体に吸い込まれていった。息が詰まる。息苦しさから逃れるために、とりあえずともう一度目を瞑り、旧い夢を手繰ろうとするけど、さっきまで見ていた夢はもう新しい夢と交じり合い、元の場所には戻れない。夢の住人たちへ向けて語りかけようとするけれど、言葉は失われ、顔のない顔が諭すように見つめ返してくるばかり。遺された場面が隆起し、砂嵐が舞うなかで、私はひとしきり?と喚いて再び目覚めていく。液晶スクリーンを手繰り寄せて着信履歴を確認すると電話は母から。ベッドから抜けだしてリダイヤルすると、3度目でつながり、電話口に母は出た。母はああ、ええとね、と調子のはずれた前置きをしてから、「いまカナエが死にました。」と言った。うん、と答えた。

カナエは15のときから飼っていた犬の名前で、ここ数日食べ物を口にしなくなっていた。犬は食べんようなるといよいよヤバい。先生もそう言っていたので私はすっかり覚悟ができているような気になっていたのだけど。昨日からインフルエンザで寝込んでいるらしい父は「昔犬は犬小屋で糞まみれで死んどったもんや」などと言い放ったというが、母は自室の床に柔らかな羽毛布団を敷いて介護のためのスペースを作ってやり、水や流動食をスポイトで口に流しこんでやったり、トイレの手伝いをしてやったりとひとりそばで世話をしていた。終末期の犬のために、背中に持ち手を取り付ける器具があることを私は母から電話で聴いて初めて知り、ファーバッグのような姿を想像して笑ってしまったりした。今朝、私はカナエに会いにいこうと思い立ってしばらくぶりに実家に帰る準備をしていたのだけど、父の病気のことを聞いて、うつされると困るという理由でやめてしまっていた。薄情。だけどプレゼンの準備もあったし、死という言葉が、蜃気楼のように遠くとらえどころのないものに感じられて仕方がなかった。「やっぱり土曜日に行くことにする。」そう言った瞬間に、何かが零れ落ちた気がしていた。何かが零れ落ち、落下して、だから?私はそれを見送って、のそのそと部屋着に着替え、PCに向かって作業をし、ひび割れた泥のように微睡んだ。そのあいだにカナエは死んでしまった。

電話を切った後、集合住宅から飛び出して、歩いて駅へと向かった。死んだ犬の最後の姿を見に行くことに迷いはなかった。ダウンジャケットを着こみ、なるべく皮膚が露出しないように、マスクを付け、マフラーをし、手袋をつけてニット帽を深く被っていたから、風は冷たかったけど少し暑かった。頭のなかではインフルエンザウィルスにどう始末をつけるか、そんなことばかり考えている。戻ってきたら着ている服を45リットルのゴミ袋に詰め込んで押し入れに隔離し、歯を磨いて風呂に入ろう。そう心に決めた。青々とした夕闇はだんだんと深くなる。滑り去る鳥の影を何の気なしに数えた。ふとさっき見た夢のことを考える。もしかしたら、夢のなかに犬が出てきたのではなかったかと思う。まったく覚えてはいなかったけど、そんな気がしはじめるとそうであったような気がしてならず、私は夢をつくりはじめた。語るべくもない、とってつけたような夢で、私が犬とただ散歩している夢だった。カナエは家のなかにいることを好んだので、散歩をした記憶はそれほど多くはないのだけど、思い浮かんだ風景にかたっぱしから犬と私を合成し、脈絡がなく一本調子の映像をつなげていった。夢をつくりながら歩いていると、目に映る風景にも次々に犬と私が付け加えられていく。橋の歩道から見下ろした黒い川面に犬がいて、私がいた。真っ青な夕暮れの屋根瓦の段々に影になった犬がいて、私がいた。路面店が光を競う石畳の中央に犬がいて、私がいた。細い路地の街灯の元に輪郭の滲んだ犬がいて、私がいた。しかし足元にはいない。口の中に虫が飛び込んできて、顔を歪めてべっと吐き出した。息をつき、吸い込むと春の夜の匂いがした。来年は除菌剤を買ったほうがいいかもしれない。犬の身体はまだあたたかいだろうか。

母が父にカナエが死んだことを伝えたとき、父は何も言わずに自室に行き、カナエの映った写真をひっぱりだしてきて犬の枕元にずらずらと並べはじめたらしい。「やめてよ。」と母は怒り、突き返したのだという。笑える話。そんな話を玄関で聞きながら、ゆっくりと靴を脱いだ。母の目は赤く腫れていた。私の目は青かったかもしれない。悼むということがわからないままに、私はここまできたのだと思う。しかしわからないなりに死からはじまるものがあるような気がし、何もかもがここからはじまるような気さえした。もしかしたら悼むということは私自身の物語に、その死が零れ落ちないよう、しっかりと嵌めこんでしまうことなのかもしれない。だけど私にカナエの存在を嵌めこむにたる物語があるのかわからない。だからせいぜいが白昼夢、いつまでも曖昧な幻想を浮かべて、死は受け入れられるということがなく、私はカナエを幽霊にしてしまうのかもしれない。そんな諦めに似た予感が全身を気だるくさせていた。カナエに対する感情は、地中深くのマグマのように、記憶の底をねっとりと流れ蠢いているようで、地表に現れる気配がなかった。もし父がインフルエンザにかからなかったら、今朝ここに来てカナエを看取ることができていたはずだけど、そうはなっていない。目の前でカナエが死んでいたとしたら、何が違っていたのだろう。わからないけどきっとすべてが少しづつ違い、未来ではその違いが膨れ上がり、世界の在り方を変えてしまうような気がする。今すぐそこの母の部屋ではカナエが死んでいて、刻々と硬直している。その真上の階では父が横たわっているはずだった。父は今眠っているだろうか。

そろそろ、と母が言い、部屋に入ると、カナエがいた。ファーバッグ。また少し笑う。空間が歪んだような心地がしたけど涙が出たわけじゃなかった。私が涙をながすことになるのはそれから13日後、背中に取っ手をつけて横たわる犬の絵を書いているときだ。笑った顔のまま母と雑談を続ける。音も匂いも押しつぶされて部屋の床にへばりついている。話をした先から声も言葉もへばりついていく。じっとカナエの顔を見ると、瞼も、鼻も、口元も、ひげの一本一本まで死んでいるようだった。マスクをはずして、手袋を外し、頭を撫でた。母はまだ父の文句を言っていた。何となく父のフォローをしつつ私はカナエについて話し始めた。好物の食べ物を狙うとき彼女がいかに腹黒い駆け引きを繰り広げたか、そのたくらみに満ちた表情について話す。母もカナエについて話し始める。死の直前の数時間の、それなりに壮絶な一部始終。死んだ犬の頭を撫でながら聞いた。体温はまだ少し残っている気がした。

私の人差し指がカナエの耳の付け根をまさぐり、中指と薬指、小指はそれぞれ別の場所を探って毛に分け入り、指の腹で頭皮を掻いた。親指は首元の毛を大きく波立たせるようにさすった。人差し指は耳の付け根から毛の流れに沿って耳の先端へ向けて動き、腹で表面の毛を漉くように撫でた。他の四本の指は毛のあいだを進んで追いかけ、耳の周りに集まって同時にさすった。何度かそんな動きを反復したら頭頂へ、額から耳を少し巻き込むようにして掌で撫でた。頭頂から胸へ。首周りの少し長い毛の奥へと5本の指をつっこんで腕を前後させるようにさすった。胸の少し薄い毛は掌全体で静かに撫でた。背中へ、爪の裏側で引っ掻くように幾度か縦断し、尻尾に向かって下り、尻尾の付け根を5本の指を集中させて念入りに掻いた。風を送るように尻尾の毛の流れをさっとなぞった。そしてまた耳元に指を差し込む。

カナエは撫でてほしい場所へ私の指を導いて、微妙に位置をずらしながら自ら身体を回転させたものだった。耳から尻尾まで撫でる一連の動きは、カナエの主張に指が反応して生まれたのだと思う。尻尾をひとしきり撫でるとまたくるりと回転して手に頭を潜り込ませたので、私の左手はしばらくふさがってしまうことになった。時にめんどうでうっとうしかったけど、頭をぐりぐりと手に押し付けてくる勢いに負けて、結局長時間撫でさせられることになった。指には実家にいる間毎日のように行ったこの動作が染み付いているので、同じ動きをひとりでに繰り返すことができた。これまでしてきたのと同じように、私の指は動き続けた。母と話をしながら、これからのことや、死の事、夢のこと、魂のこと、色々なことを考えながらずっと。

ふと私は自分の指の動きがいままでと変わっていることに気づいた。重力にたるみ、硬直を始めていたカナエの肉体の、反応のない反応に合わせて、私の指が撫で方を変えているのだと思う。どこがどうちがうのか言葉にすることはできないけど、たしかに微妙に動きが異なる。そしてこれは死んだ犬のための撫で方なのかもしれないと思う。もしかしたら死んだ犬の望む撫で方なのかもしれない。いつも指は犬の望むように動こうとしてきたのだから。死によって終わってしまった動きを、ただ生前を思い返して繰り返しているのだと思っていたけどそうではないのかもしれない。顔を上げ、黒い毛並みと動く指たちを眺めた。死んだ犬の体表で、何かが起こっているのだと思う。ここには、指たちがいて、カナエがいる。私の意識は今ここでは関係がないのかもしれないと思う。生者と死者、人間と犬の違いですらきっとここでは関係がない。私は考えることをやめる。目を瞑ると銀の雫が降った。私は落下する雫を追いかけていった。

文学極道

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