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かとり

選出作品 (投稿日時順 / 全12作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


庭園

  かとり

八階の部屋の
鳥が事故死する
壁面に 鉄が浮き
割れた
排水塔に 
水が満ちていく

正午の折被さる入道雲が
幾枚もの透明硝子に乱反射し
わらうともなく眼を細めた あなたの
心臓を街に投げたい

壁紙に私達の呼吸が刺さっている
灰になって白磁に積もる言葉は微動だにしない


流産

  かとり



つちくれを
つかんでは箱に投げる
乾燥したふるいつちの
はじける煙をかぶって
衣服や靴に粒子が付く
髪や 瞼にも粒子
目を開くとじぶんの
肉や筋が思いどおりによく動く
まったくみすぼらしい表情だが
そこには指示語も何も必要がない
うるさいヘリコの音
わたしは仕事を終わらせてはやく手を洗いたかった


スフィンクスが言うところの夜
指先が3本目の
足に変わっていく
わたしの年老いた歴史が
奇形児たちにむけて
彗星をフリックする
オイディプスは小人症で
声が小さくてよく聞き取れない


涙はついにでないし
言葉にすべきことも
許せないこともない
ただ何となくわたしは
いじけているのだと思っていた
そしてポケットに
手を突っ込んで
底の方にあった手ざわりをつまみ
たき火の中にぽとぽとと落として
昇る火の粉に微笑んで
坐りこんでその場所で眠ってしまう
そんな夢をみた
そんな上演があった
観客は すくすくと育ち
演目は けして悲劇にはならない
舞台だけが その場所に残り風化していく


厚く
水底に積もっているのは
流産への恐怖だ
黙って
耳を澄ませていると
予感として 
余韻として
叫びが聞こえる
冷たい
泥を掬う手が
乾燥して衣に
暖かさを移して
美しくずるい男女が
やさしくなっていく
また会おうと
つぶやくこともなく
つぶやきながら


泡に関するノエマ

  かとり

まだ、

しゃぼん玉が浮かんでいた。「あ」と「ひ」の中間の声が漏れいで、号砲として轟いた。街とともに、私は止まっており、止まっている、ということを知るほどに、ぴりりと痺れる指先が、陽光の投射を、あちらこちらから、透過させてみせる素振りで、ひっそりと立ち上っていく、ひとりっきりの油膜、仮説としての界面を、ピンク、レッド、オレンジ、と、順番に滑り降りていきながら、明るさの、巨きくなった広場へ、金木犀の、匂いがいきおいよく流入し、吸気が、肺の奥で渦を巻く。あらゆる、先端のあいまを漂う、午後としての私は、クロックスをつっかけていて、いや、つっかけていたのは、クロックスのまがい物であって、足先を包む、型どられたゴムや、靴底はうすく、やわく、尖った、路面の感触を、私は感じることができる。

あるいは、

ドードーのけむくじゃらの翼。泡の残滓、その乾いた図柄が、腐った、石鹸水の匂いを振りまいて、そこいら中を闊歩しており、嘴で羽繕いをしたり、所構わずふんを漏らして、ひしめきあっていたかと思えば、羽毛を逆立てて争い、交尾をしては卵を産む。そして産まれたときにはすでに、絶滅していた、青春時代へ、不様で、かわいいね、と、臭いに鼻を、つまらせながら、西日を浴びて、生活している、私たちの、北半球の、図鑑の、中で、愛しい、侵略者たちの、美しい、マスケット銃が、火を吹いているから、尾羽を振って、元気よく、足にぶつかった鳥が、前方へ、駆け抜けていくことがあれば、後姿に向けて、何気もなく引金を引いては、膨らんだ翼に銃を仕舞う。そのときは、振るえなかった指。

そして、

分離していた、「わたし」たちや「あなた」たちが、かき集めた記憶が、手首の、なめらかなスナップで、泡立てられた、風景の、日持ちの悪い、乳成質、その白色が、階調に飲まれていくとき、ぽこぽこと沸き上がった、新しい小さな、感情が小さく弾けて、粉のように小さな、泡が、また小さく舞い、窓から風が入れば、粒を含んで、甘くなった、風は、口へ、舌は、視神経の端っこを引っ張って、次にぱっちりと眼を開けた時には、心細くて、まだ手を動かし続けることしかできない。そうやって甘みを味わった、若白髪が1本2本、ここに立って、かたわらに積もっていく、書物、ゲノム、明細書、様々に巨大な、大きさをとった、海楼の高さから、重力の失せた、地上を見下ろす、風は、更に、甘く、熱くなっている。ミルクセーキは飲み頃だ。カップを傾けた、君のその口元をなぞる、分子間力の世界線。

さあ、

稜線は青く、内側から、赤い。互いに、居場所を計りあった、地図を整頓し、息を継ぐと、球体は、地底に透けている。君の、声からは、あらゆる中間の音が、既に、遣い果たされていて、今この瞬間に、発語されようとしている、具体的で、神話的な、文字列は、新しい遺跡、そこで、新しい羊を飼い、新しいパンを食べ、新しい星空を眺める。嘘みたいに、嘘になった、嘘、夢みたいに、夢になった、夢のなか、いつまでも、君と、出会い続ける、闇へと、沈む。


return

  かとり

ぼうっきれは
水に浮かばずに 沈み 
底のほうに 突ったって 
小魚たちに つつっかれる全身で
虫の卵を育てる 
気泡は 抜け
ほとけて名前になって
投げ出された 銀塩の陽のもとで
乾ききって千々れ 何だかよくわからないまま
発火して
また名前になって


[EOS]


(レースの、カーテンが、睫毛に、ちらちらと触れる 光を、散らす 刻々と、距離を、散らす)
(離れていく、忘れている、名前を、浮かべて、振り付ける、眼が、開いていても、瞑っていても、練習を、続けられますように)
(仕方のない、ものだけを、持ちあげる、腕が、うわずる、そばで、レコードが、選ばれているシーンに、ぴったりの曲が、かかっている)
(バーガー食べたい、7日かけて酸を、吐いてしまった夜 包み紙をひらく所作、手づかみで噛みちぎる所作、罪を伝える所作 ごちそうさま そうつぶやく頃には、前もって受けとったお釣りが泳いでいる)


[EOS]


王国では
日にやけた奴隷たち 使者たちが
預言者の焚火の 筋を見上げて
大臣たち 軍人たち 下女たちも
ぼんやりと覚悟をきめようとしている

卵はつるりと光沢し
不透明度をましてゆく
どうしてこんなにおおきくなった

奴隷のひとりがいきおいよくもどした
時間をだ


[EOS]


はじける アフロディーテの泡
あるいはどこかで 広がる デュオニソスの液体
組成する ペネローペの糸
ふるえる オデュッセウスの言葉


[EOS]


排泄
される皮膚が 酸化する
瞬間を覚えている 真っ赤な
口を開いて やかましい
彫像が移動し 何も知らない
月に重なり


[EOS]


(そしてまた名前になって)


[EOS]


篠田くん
きみは
青い自転車を かかえ
やはり煮え切らない笑顔をたたえている

消えいる 夏の思い出として
かげろうは増殖し
そこいらじゅうがかげろうだらけだ

ペットボトルの 頭をとりはずし
首に食らい付いて 飲み下すと
冷やりと シャツはしめっている

だまれと言う 
そのうちに 二人きりになったら 
自転車に 乗りこんで海へ 
漕ぎだしていく 
何だかよくわからないまま
何も残さないためだけに


[EOS]


[EOS]


そしてそしてを
掻き混ぜる 手つきが
なるべく優しく
あらせられますように


[EOS]


弱冷車にて

  かとり



循環する体臭に吹かれて
おもわず近しい人の
襟元を嗅ぐ
風を演繹している
静物たる役者達を
朝陽は刻々とスキャンして
震える窓の映像と
干渉し合う音声とが
熱の移動を証してくれる
ミニストップのコーヒーを
啜ろうとして離れゆく
8時47分
取り残されたカーブに
一際高い音は鳴り
お弁当箱の数々は
吹き飛び
青空に散りばめられた
たくあんも
ウインナーも
ひじきも
ほうれん草のおひたしも
たまご焼きも
ミートボールも
野菜炒めも
コロッケも
メロンパンも
麻婆茄子も
プチトマトも
からあげも
グリンピースも
そぼろご飯も
林檎の兎も
梅干しも
扉が開くと
私は弾かれたように歩きだす
まるで今まで
歩いたことがなかったかのように


rem

  かとり

今まで眠ったことがなかったかのように眠かった。
黒い原野に、手紙よりも浅い膜、
とめどなく増えた蟹達が、泥を穿つ、爪先、
低い、低い、複眼の、階調に、平行する、山並みを、越えて、
マーチが流れていた、距離を細めていた。

(幻想は、払拭される余地を、いつも、少しだけ残して、そのことによって、何度でも、甦ることができる。)

床にも白壁にも、血液。寝床には、溜。
静止した細波に、三人称が、瞑る、か細い音。
回転椅子に、乗って、つぶさに、飲み込む、昏い水の、末えた、冷たさ、その、
刺戟によって、働き、やわらかな、関節のために、祈る、
石積みの、果てなき、何故、それはね。見詰め合ったまま、過ぎ、フロアを渡る。

(拡散してゆく、身体・仮説はしばしば、全能であるがごとく振る舞う。)

1993年の、月光に、晒されて、階下、
降り、積もったまま、震えそうな、廊下の、陰を、食んで、
膨らんだ、界面に、何もかも、浸した、生命があること。
観月機関が、引き裂いてゆく、風景を、押倒す、凪模様の右指、
熱は、投げかけられて、残った。

(追いつめながら、安堵しながら、翻りながら、反覆しながら、忘れ去ってそして、思いきり黙って。)

潜んだ、徴候は、ベッド脇のチェストの陰から次々と出で這い寄る。
くぐもった、躯体で問う、深々と、砂粒を残して、
均す、眉間から田園へ、移り、踊り、改行する、
白球の窓辺、月輪の複製された、原野に、
打ち上げられた、歯を拾う。

(熱と熱との、落差で世界が震える光景は、ロマンチックでなければならないと、断崖の魂は、想像するでしょう。)

リドゥ。
不可解なタスクの稜線は、たったひとつの岩窟寺院。
空の、緒を踏み、聖歌に、すさぶ、カーテンに、爪を、たてて、
並んだ、窓枠に、通れ、通ってゆけと、
あぶくを、吹きかける、兄たちの、ポテトチップスを、奪え。

(忘れるために、持ち寄って、しかし、隠し持って、出し抜こうとしている、浅ましい、物語が、どうか、始まりませんように。)

毎夜、
昨日と、明後日の分だけ、
懺悔する、明日、
演繹する、口腔に、残響する、おやすみ、
おやすみ。

(仮説は終わったことも知らずに終わる。終わりを与えられることによって終わる。)


きせつ (Interlude)

  かとり

よみがえるようにとちを
みすてようとしているのにきれいなまま
よこがおをかさねて
かんすいするふうけいにくっきりとしていく

さかながうかぶきせつ
きせつにさかなはうかんでいる
のこされたうさぎが
はねまわっているようだけどちなまぐさい
くろずんだあしを
つたってははなれ
はなれてはむすばれ
さよならをいうことができない
ねんまくのかんしょくは
したのものだろうかそれともがんきゅうのものだろうか



ゆびをふやすことはゆるされない
へらしてゆくことはできないのだから
かりのなをうたって
ちいさくなっていこうとうそぶく

そうげんのみちがかつて
ひかっているところをみたことがあったころ
そのむかしついに
ひろわれずにすんだほしぼしのねどこへ
つののはえたいきものがなにかと
みつめあっているけしきを
ほおばってとおりすぎてしまうとあさがき
ふっているともなくふりしきりつもりつもってゆく 
ゆめをふみしめてまえあしはかすか
しゃめんはこいしをころがりおちていった
よみがえるようにあなたはきれいなまま
さかなになったならきせつをうかべてみようとおもう


水槽の埋立地

  かとり

弓なりの夜、
もう少しで底に達する

シャツが
膨らみながら拗れて
海岸へ帰ろうとしている


闇のノエマ

  かとり

野垂れ死ね
そう言い放ったあと
まっすぐに覗きあった
あなたは出ていった

夕闇に鳥の影が滑り
テーブルの上にはカード立て
肖像画にマジックインキで
悪戯書きがなされている

残された煙草がくゆる
この火は紀元前の野に焚かれ
天体が凍てつく夜にも
絶えず木切れが投げ込まれている

/

運び出される幻想曲 
泥の匂が運びこまれると
風に乗って散り散りになりながら
虫たちの声の隙間で
それぞれの手が
おずおずと闇合に浸され
指先の溶けて滴る 
音がする
 
まだ
何も
残らなくてよかった
空が息を落とすと
移動しているかたつむり
あなたは稜線となって
とっぷりと暮れなずむ

/

長く影を拾う
壁紙に刺さった画鋲にまつわるエピックだ
天井の隅まで
熱く火照った手足は伸び
視られている
その寂寥がつぎつぎ
飛び出して駆けてゆくと
影の踊る
流星の時間
遠く
描線のひとつひとつに
柱が立つ

/

塔の
冷たさ 静かに
そう
演奏する
低い 声が
半分開いた
滑り出し窓に
吸い込まれ
逆巻き
うねり
落ち

浸透する
溜の
乾燥する
明るさに
どこにもいきたくない
言葉が言葉を変えてゆく

/

沈黙が
拍子を打ってあなたは眠りにつく
眠りが
拍子を打ってあなたたちを刻む

あなたは誰で
そして何故
寝がえって枕に聞くと
身体は冷えきっているというのに
夢は毋になる

クラスで11人目のスターリンへ
あなたが誤って埋められた首だとしても
髭も髑髏も
黒々としている

スクリーンを手に口をつぐんだまま
明けていく夜がいくつ並んでも
始めから永遠にあなたはかわいい

/

愛をこめて
震える顔が
こぼれ
落ちて
着床する
腐葉土の硬さに
落ち込む低さ
世界は放射状
泡だった緑の肌に
集まった
誰のものだかしれない
涙の膜に
包み込まれた
ことを知らない
視界の端っこで
光が茹だる

/

ここから
蒸発する目鼻は
半減し
半減して
繰り上がる
横顔を同期する

かつてあなたを
目にしたことがありました
めくばせは
昼も夜も 零さないように
広く高くと 底面積を持ち上げて
そのまま遠く
重なった
どきどきとする 鼓動の在処が
関係のない 別のお話

顔たちは 石の
根を伸ばし 
葉を増やして
やがて色づくことでしょう

/

ざわめく 文法のほとり
木々が揺れ 砂利が動く
こわばった苔が
胞子を放ち
旋回する鳥が
滑り去って見えなくなる
降り はじめる気配に
集まったのか 集められたのか
細波に蛙が飛び込む

/

不思議な指
ここにない指を数えて

一本
一本と
数えるたびに

一つづつ
新しく
腕を
伸ばして

触れようとする
そのようにして
造形している

/

髪に
頬に
額に
耳に
触れ

横顔を 
はたく

首を
絞める

よろしければ共に 首を
絞め合ってみてください

/

あなたへ
あなたは
石になりました

おおきな 蛇の顔と
眼を合わせたなら石化する
そういう決まりだったから

石になった あなたは もう ここから 抜け出すことはできない
この 根本から 間違えた 物語のなかに
もしも 私が存在するのだとしたら

/

重なるほどに
関係のない
重なりを
束ねて
約束で
覆う
弓なりの夜

海岸が
追いかけてくるから
さよならを言うことができる

/

いちばん骨が
白くなる時間に
待っててって
苦しそうにつぶやいて
もういちど眠りにつく
21世紀の唇に
雨蛙はとまり
濡れ膨れた瞼で見あげている

ピアノの屋根へ
鳴声は吊られ
透明な
足跡を残して 
野に
貼付いたまま
ゆっくりと傾いていく


absolution

  かとり

石灰質の呼吸がひび割れる黄ばんだカーテンと液晶スクリーンのあいだ
彗星について行ってしまったアラームの落としたパンくずを探していた
降り注ぐマヨネーズの空模様が白黒と瞬かせていた静物の気分が悪くなって
肌の柔らかさに突き落としてしまうまでおびただしさは街路を不安にさせていたけれど
手を繋いで歩いてゆこうとしていたふたりそれぞれ微笑していて寂しそうではなかった

食器を手に階段を降りていった影を見送って煙草に火をつけ
後ろめたさに耳を澄ませながら空に向けて吹きかけていた息は
これまでに綴った言葉を流してしまうための嘘だったのだと思う
残された文字が階下で蛇口を開けたのは金木犀の歌う歴史の陰の出来事
お湯が注がれる振動にすべて過ちをまぎれこませた羽化の上映会に
追いかけてきたのか共鳴しているのかアラームは鳴り響く


眼のある風景

  かとり

本をたたんでは、ペンにキャップをつけた。はさみをひらいては、つけねで指のあいだをぐりぐりとした。靴下をつかんでは、投げた。たばこに火をつけた。そしてたばこの火は消される。紫から黄色へ、黄色から青へ、藍そして緑、緑から赤へ、くぐもった、昼下がりのまぶしさの、まぶしさのなかの色彩が、展開していった。きれぎれの眠りがまた、つぎの眠りへと移ろう。落ちる、というよりも引き裂かれるように、誘われ、壁に背をあずける。眠りが、裂かれてできた破け目は、瞳の形をしている。瞳から、小蟹の群が這い出、行列がフロアを渡ろうとしている。

 小高い丘の白い岩場はただ2人のためだけにある。朽ちた鉄柵をくぐり、茂みをかきわけ、摩耗し苔むしたコンクリートブロックを足がかりによじ登り、2人は岩場にやってきて腰を下ろした。半透明の蟹が一匹足を止めてじっと見ている。2人は平らな岩にお菓子の小袋を並べて語らっている。空には一切の雲がなく、見晴るかす彼方は海だ。見晴るかす彼方は海だと、あなたはそう思った。しかし実は、違う。それは水平線ではなく屋根。小さな家々が彼方まで、徹底的に並んでいた。東の空の片隅は昏く、霞の内部には黒い筋が見える。塔?いや、あれは竜巻。天から空が、地上に流入し、とめどなく拡散している。「あっ」と声が上がる。花が現れ、即座に立ち枯れ、丘が暗転し、竜巻は過ぎ去っている。丘には影がひとつ。2人のうちどちらか一方が、がもうひとりを突き落としたのだ、と蟹の眼は証言する。罪深いものが突き落とされ、罪深いものがまた突き落としたのだと。しかし、とあなたはおだやかに否定する。夢はおだやかに否定される。そのつぎの場面では、2人それぞれに微笑しながら腰をあげ、ずぼんを払った。蟹は岩場の陰へと滑りこんだ。あなたはそれ以上の光景を追うことに興味を失い、私は罪悪感をともなって目覚める。起こり得たことの全ては裂け目の闇に突き落とされたのだ。そして、と目覚めた私は続けるだろう。小高い丘の白い岩場はただ2人だけのためにあった。

アラームが鳴る
私は薄目を開ける
少し眠りたかったけど
眠れなくてもかまわなかった
カーテンのない
西向きの窓から落ちた
四辺形の光に
足をひたして
続けて数を数えた
水の音が大きくなり
光に焼かれた踝の
微細な痛みがともる
宙空を上方へくいくいと
移動する埃に
焦点が合わされることについて考えるが
答えは出ない
服を脱ぐ
開き戸を開けると
蒸気が部屋に流れ込み発光する
光には光が
音には音が紛れこむ
私はユニットバスを一瞥する
そして新しい服に着替え
靴を履いたら
たぶんもう
戻ってはこない


指とカナエの物語

  かとり

携帯電話のベル音が鳴ってすぐに切れた。それだけで何が起こったのか理解できたような気がする。目が薄く開かれ、自分が眠っていたということに気づく。それでいて、悪い夢の中に迷い込んでいくような気分。音の余韻が、身体を駆け巡り、ベッドの足を伝って、カーペットを通り過ぎ鉄骨の構造体に吸い込まれていった。息が詰まる。息苦しさから逃れるために、とりあえずともう一度目を瞑り、旧い夢を手繰ろうとするけど、さっきまで見ていた夢はもう新しい夢と交じり合い、元の場所には戻れない。夢の住人たちへ向けて語りかけようとするけれど、言葉は失われ、顔のない顔が諭すように見つめ返してくるばかり。遺された場面が隆起し、砂嵐が舞うなかで、私はひとしきり?と喚いて再び目覚めていく。液晶スクリーンを手繰り寄せて着信履歴を確認すると電話は母から。ベッドから抜けだしてリダイヤルすると、3度目でつながり、電話口に母は出た。母はああ、ええとね、と調子のはずれた前置きをしてから、「いまカナエが死にました。」と言った。うん、と答えた。

カナエは15のときから飼っていた犬の名前で、ここ数日食べ物を口にしなくなっていた。犬は食べんようなるといよいよヤバい。先生もそう言っていたので私はすっかり覚悟ができているような気になっていたのだけど。昨日からインフルエンザで寝込んでいるらしい父は「昔犬は犬小屋で糞まみれで死んどったもんや」などと言い放ったというが、母は自室の床に柔らかな羽毛布団を敷いて介護のためのスペースを作ってやり、水や流動食をスポイトで口に流しこんでやったり、トイレの手伝いをしてやったりとひとりそばで世話をしていた。終末期の犬のために、背中に持ち手を取り付ける器具があることを私は母から電話で聴いて初めて知り、ファーバッグのような姿を想像して笑ってしまったりした。今朝、私はカナエに会いにいこうと思い立ってしばらくぶりに実家に帰る準備をしていたのだけど、父の病気のことを聞いて、うつされると困るという理由でやめてしまっていた。薄情。だけどプレゼンの準備もあったし、死という言葉が、蜃気楼のように遠くとらえどころのないものに感じられて仕方がなかった。「やっぱり土曜日に行くことにする。」そう言った瞬間に、何かが零れ落ちた気がしていた。何かが零れ落ち、落下して、だから?私はそれを見送って、のそのそと部屋着に着替え、PCに向かって作業をし、ひび割れた泥のように微睡んだ。そのあいだにカナエは死んでしまった。

電話を切った後、集合住宅から飛び出して、歩いて駅へと向かった。死んだ犬の最後の姿を見に行くことに迷いはなかった。ダウンジャケットを着こみ、なるべく皮膚が露出しないように、マスクを付け、マフラーをし、手袋をつけてニット帽を深く被っていたから、風は冷たかったけど少し暑かった。頭のなかではインフルエンザウィルスにどう始末をつけるか、そんなことばかり考えている。戻ってきたら着ている服を45リットルのゴミ袋に詰め込んで押し入れに隔離し、歯を磨いて風呂に入ろう。そう心に決めた。青々とした夕闇はだんだんと深くなる。滑り去る鳥の影を何の気なしに数えた。ふとさっき見た夢のことを考える。もしかしたら、夢のなかに犬が出てきたのではなかったかと思う。まったく覚えてはいなかったけど、そんな気がしはじめるとそうであったような気がしてならず、私は夢をつくりはじめた。語るべくもない、とってつけたような夢で、私が犬とただ散歩している夢だった。カナエは家のなかにいることを好んだので、散歩をした記憶はそれほど多くはないのだけど、思い浮かんだ風景にかたっぱしから犬と私を合成し、脈絡がなく一本調子の映像をつなげていった。夢をつくりながら歩いていると、目に映る風景にも次々に犬と私が付け加えられていく。橋の歩道から見下ろした黒い川面に犬がいて、私がいた。真っ青な夕暮れの屋根瓦の段々に影になった犬がいて、私がいた。路面店が光を競う石畳の中央に犬がいて、私がいた。細い路地の街灯の元に輪郭の滲んだ犬がいて、私がいた。しかし足元にはいない。口の中に虫が飛び込んできて、顔を歪めてべっと吐き出した。息をつき、吸い込むと春の夜の匂いがした。来年は除菌剤を買ったほうがいいかもしれない。犬の身体はまだあたたかいだろうか。

母が父にカナエが死んだことを伝えたとき、父は何も言わずに自室に行き、カナエの映った写真をひっぱりだしてきて犬の枕元にずらずらと並べはじめたらしい。「やめてよ。」と母は怒り、突き返したのだという。笑える話。そんな話を玄関で聞きながら、ゆっくりと靴を脱いだ。母の目は赤く腫れていた。私の目は青かったかもしれない。悼むということがわからないままに、私はここまできたのだと思う。しかしわからないなりに死からはじまるものがあるような気がし、何もかもがここからはじまるような気さえした。もしかしたら悼むということは私自身の物語に、その死が零れ落ちないよう、しっかりと嵌めこんでしまうことなのかもしれない。だけど私にカナエの存在を嵌めこむにたる物語があるのかわからない。だからせいぜいが白昼夢、いつまでも曖昧な幻想を浮かべて、死は受け入れられるということがなく、私はカナエを幽霊にしてしまうのかもしれない。そんな諦めに似た予感が全身を気だるくさせていた。カナエに対する感情は、地中深くのマグマのように、記憶の底をねっとりと流れ蠢いているようで、地表に現れる気配がなかった。もし父がインフルエンザにかからなかったら、今朝ここに来てカナエを看取ることができていたはずだけど、そうはなっていない。目の前でカナエが死んでいたとしたら、何が違っていたのだろう。わからないけどきっとすべてが少しづつ違い、未来ではその違いが膨れ上がり、世界の在り方を変えてしまうような気がする。今すぐそこの母の部屋ではカナエが死んでいて、刻々と硬直している。その真上の階では父が横たわっているはずだった。父は今眠っているだろうか。

そろそろ、と母が言い、部屋に入ると、カナエがいた。ファーバッグ。また少し笑う。空間が歪んだような心地がしたけど涙が出たわけじゃなかった。私が涙をながすことになるのはそれから13日後、背中に取っ手をつけて横たわる犬の絵を書いているときだ。笑った顔のまま母と雑談を続ける。音も匂いも押しつぶされて部屋の床にへばりついている。話をした先から声も言葉もへばりついていく。じっとカナエの顔を見ると、瞼も、鼻も、口元も、ひげの一本一本まで死んでいるようだった。マスクをはずして、手袋を外し、頭を撫でた。母はまだ父の文句を言っていた。何となく父のフォローをしつつ私はカナエについて話し始めた。好物の食べ物を狙うとき彼女がいかに腹黒い駆け引きを繰り広げたか、そのたくらみに満ちた表情について話す。母もカナエについて話し始める。死の直前の数時間の、それなりに壮絶な一部始終。死んだ犬の頭を撫でながら聞いた。体温はまだ少し残っている気がした。

私の人差し指がカナエの耳の付け根をまさぐり、中指と薬指、小指はそれぞれ別の場所を探って毛に分け入り、指の腹で頭皮を掻いた。親指は首元の毛を大きく波立たせるようにさすった。人差し指は耳の付け根から毛の流れに沿って耳の先端へ向けて動き、腹で表面の毛を漉くように撫でた。他の四本の指は毛のあいだを進んで追いかけ、耳の周りに集まって同時にさすった。何度かそんな動きを反復したら頭頂へ、額から耳を少し巻き込むようにして掌で撫でた。頭頂から胸へ。首周りの少し長い毛の奥へと5本の指をつっこんで腕を前後させるようにさすった。胸の少し薄い毛は掌全体で静かに撫でた。背中へ、爪の裏側で引っ掻くように幾度か縦断し、尻尾に向かって下り、尻尾の付け根を5本の指を集中させて念入りに掻いた。風を送るように尻尾の毛の流れをさっとなぞった。そしてまた耳元に指を差し込む。

カナエは撫でてほしい場所へ私の指を導いて、微妙に位置をずらしながら自ら身体を回転させたものだった。耳から尻尾まで撫でる一連の動きは、カナエの主張に指が反応して生まれたのだと思う。尻尾をひとしきり撫でるとまたくるりと回転して手に頭を潜り込ませたので、私の左手はしばらくふさがってしまうことになった。時にめんどうでうっとうしかったけど、頭をぐりぐりと手に押し付けてくる勢いに負けて、結局長時間撫でさせられることになった。指には実家にいる間毎日のように行ったこの動作が染み付いているので、同じ動きをひとりでに繰り返すことができた。これまでしてきたのと同じように、私の指は動き続けた。母と話をしながら、これからのことや、死の事、夢のこと、魂のこと、色々なことを考えながらずっと。

ふと私は自分の指の動きがいままでと変わっていることに気づいた。重力にたるみ、硬直を始めていたカナエの肉体の、反応のない反応に合わせて、私の指が撫で方を変えているのだと思う。どこがどうちがうのか言葉にすることはできないけど、たしかに微妙に動きが異なる。そしてこれは死んだ犬のための撫で方なのかもしれないと思う。もしかしたら死んだ犬の望む撫で方なのかもしれない。いつも指は犬の望むように動こうとしてきたのだから。死によって終わってしまった動きを、ただ生前を思い返して繰り返しているのだと思っていたけどそうではないのかもしれない。顔を上げ、黒い毛並みと動く指たちを眺めた。死んだ犬の体表で、何かが起こっているのだと思う。ここには、指たちがいて、カナエがいる。私の意識は今ここでは関係がないのかもしれないと思う。生者と死者、人間と犬の違いですらきっとここでは関係がない。私は考えることをやめる。目を瞑ると銀の雫が降った。私は落下する雫を追いかけていった。

文学極道

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