「歯、は、ハ、が欠けてしまったんです」
ここは電車の中だ。ちなみに地下鉄である。当たり前だが窓の外は真っ黒である。そして、取引先の男と並んで座っている。目の前には女がいて、黙々と化粧をしている。ここは親切された男性専用車両だった。俺と取引先の男と女と、その三人の他に乗客がいなかった。俺たち二人は適当に足を伸ばすと、適当にズボンを脱ぎ、パンツを床に下ろした。女がこちらを全く顧みずにコンパクトに向かって口紅をつけている間、俺たちは今朝のビックで関係ない奴にはまるで関係のない、株価暴落のニュースをオカズにしながら自慰行為でストレスを発散させていた。最近はやりのモーニングショットというやつだ。化粧の段階というものを俺はあまりよく知らないが、女がアイプチをしている所はやはり気味が悪かった。すると何故か取引先の男が、急に昨日みた映画の批評を始めた。だが、その映画を見たこともなければ見る予定もなかった私にとっては正にどうでもいいことだった。私はその映画をみた風に装って適当に話を合わせながら、女を見て適当に通勤時間を潰すことにした。季節は春。段々と日差しが暖かくなってきたその春の兆しを一心に感じ、背負いながら、これから新しく始まる中学高の生活に胸を躍らせつつ、ラン、ランラララン↘ラン↗ラン↘と、まっすぐに伸びる坂を健気にスキップしていく、新一年共の麗らかな笑顔を見ていると、心が安らぎませんかと、隣にいた肩を叩こうとするが、手に当たるのは空気に貼られた不在の新聞広告の裏紙だけだった。私の左腕は文字通り空を掠ってそのままドブに転落し、ついでに左足も突っ込んで、更には右腕に持ったカバンは道路まで転がってトラックに轢かれた。私は四月早々にして、卸たての新品のスーツを台無しにしてしまった。街頭のテレビに流れるニュース速報によれば、一昨日の夜に誰かの母親が何かのワケによって急死したというが、その母親の通夜には誰もこなかったそうだ。僕はその時、回覧板をお隣さん家に届けに行かなければならなかったのだが、玄関を出た時ちょうどに、時馴染みの郵便屋さんが「僕宛に手紙が来ている」と言って速達だかなんだか知らないけど、慌ててハンコとサインを求めてきたので、色々とまぁおかしかったけれど、それを口実にして回すのをやめることにした。勿論親には内緒である。それから次に、カレンダーを通じて親に頼まれたことをすることにした。まず16時ぴったりに家に帰って学校の宿題を済ませる。それが終わったら浴槽を丹念に掃除する。その間にガスコンロで湯を沸かす。そしたら屍体を玄関から引っ張ってきて張っておいた湯船の中に浸し、そのまま放置して適当に臭くなったら緩くなったら肉を削ぎ落とし、むき出しになった骨を一本一本丁寧に洗い、最後に大きな瓶の中に入れて埋葬する。一番肝心なのは埋葬先のホテルに泊まって指定した女と交わり子を設けること、そして生まれた日に海に行って、生まれた子供を二人の間に挟んでゆっくり海岸線を歩いている所を上手く射殺されることだ。そして、僕は海に落とされて魚に食べられることになる。
「歯がかけてしまったんです」
「なんで、どうしてです?」
「天皇を、ちょっとこう、食べちゃいまして」
「そりゃぁ物騒ですね」
取引先の男はラーメンを食べたあとにタバコを吸った。銘柄はわからない。ただ、そこまで癖のある臭いじゃないことは確かだ。普通のタバコという感じである。「普通っていうのは、難しいよね」「定義するのが面倒だから普通なんですよ」割り箸を綺麗に割って、ラーメンを啜る。その後シャワーを浴びる。取引先の男の股間には一物がついておらず、代わりに大きな穴があいていた。これは…一体、なんです? などという野暮な質問はしなかった。多分、これは俺が読んだ小説の中に出てきた女と、同じ理由なんだろうなと思った。双子の姉弟の内、姉が早くに死んでしまったので自分の性器を切り落として代わりに穴をあけることで二つを一つにしようとした。みたいな。感じだったような気がする。それよりも、その本の記述を使って沢山自慰行為をしたことの方が今でもはっきり憶えている。
女が化粧している。男を気にせず化粧している。しかし正確には少しだけ違うものが混じっている。という話を、誰かがどこかでしている気がする。おそらく前後で、隣の車両に繋がる蛇腹状の通路で。通路には沢山の目が媚びり付いている。例えばの話、その視線がトンネルの壁に彫刻された、様々な文明の文様を古ぼけた映写機のように斑に映している。これは広告で、つまり人類の歴史を広告したものだ。歴史とは常に断続的である。その晩、女と取引先の男は性交したというが審議の程は確かではない。私はタバコを吸っている。ビチョビチョになったズボンが乾くまでタバコを吸っている。そして夜通し起きている。隣の部屋からヒソヒソ話や、笑い声が漏れる。私は何もしていないのに壁を叩いてくる。そして「歯が欠けてしまったんですよ」というオチの物語が、いつの間にか感動的な映画に仕上がったことを、取引先の男は熱弁していた。
女は相変わらず化粧をしている。その様子が動画サイトを通じて満員の地下鉄の車窓に流れていく。その光景は正にファインダーを開いたカメラの写真みたいに、天球に尾を引いていく神様の名前を持った星星や星座のように、底はどこにもなかった。星が焼かれている間に、僕や私たちは何れ死んでしまうのでしょう。今日は始発で会社に向かう予定だった。私の勤めている会社の性質は、この際どうだっていいが、ただ話しておきたいことというのはあって、それは僕が奇形児だということだ。割り箸は常に三つに折れる。そしてラーメンの麺は絶対に掴めない。常に日差しの当たらない方の壁に沿って廊下を歩いている。一番問題なのは、取ってつけたような奇形である事だ。腕が中途半端に曲がっている程度の奇形の何が問題か。奇形の中の存在が軽くなる。意識はずっとそこにあるが視線は常にずれていく。同じだが違う。という単純な理由が根底にある。だから、ニキビだらけの男と組体操をすることによって今をどうにか生きている。でも多分、こいつは頭が切れるので高校は、多分別の所になってしまうでしょう。そうしたら僕、どうすればいいんでしょうか? どうしたらいいと思いますか? 深夜ラジオに中高生からの重い質問が突きつけられ。困ったMCが、電波を通じて色々な人に共有してごまかそうとしました。そんな時に限って例外が入り込んでくるのです。「僕の方がもっと悲惨だから頑張って」と、違うそうじゃない。助けて欲しいんだ。誰か助けてください。小説やドラマの正解は僕を救ってくれません。
そして、少年たちが電車に乗り込んでくる。俺は皮に包まれた惨めな陰茎を見せつけながら自慰を続ける。
女はまだ化粧をしている。
「化粧っていうかメイク」
「…」
「おじさん、隣、いいですか」
「いいよ」
「君も一緒にどうだね」
「それじゃぁお言葉に甘えて…」
順番を間違えたのか、もういちど最初から化粧をやり直している。床には大量の丸まったティッシュと大量のメイク落としシートが散乱している、その隙間からそっとお札に付いた沢山の目がこちらを見ている感じがする。株価が暴落して取引先の男は地下鉄に身を投げたということだ、というわけで、最初からオナニーをやり直し。
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選出作品
作品 - 20160208_566_8610p
- [佳] おそらく、歯で終わる話 - 赤青黄 (2016-02)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
おそらく、歯で終わる話
赤青黄