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作品 - 20160108_124_8551p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


くちびる、くちびる、スモークサーモンのような……

  リンネ

 ──この国では、年間だぞ、二三万人の人間が自殺をするんだ。

 大学時代、「文化の政治学」と題した講義の中で、在日朝鮮人二世の先生がなにかの話の流れでそんなことを教えてくださりました。たしかそれはワーキングプアだとか現代の貧困に関する授業をしている最中だったかもわかりません。梅雨明けの日差しの強い日でしたが、まだ時期が早く冷房の動き始めていないときで、二百人ほど収容できる中規模の講義室には、不快なぬめりのある空気が満ちていました。学生たちの汗が蒸発してあたりを覆い始めているのでしょうか。買ってきたばかりのスポーツドリンクのペットボトルも汗をかいて白い机の上に露を広げています。 
 毎年二三万の人間が消えていく。まったく、その話をする前に9・11同時多発テロの話題や様々な大量殺人や自然災害に関する死者数のデータを提示されていたので、二三万人、それも毎年毎年それだけの数の人がこの見かけのうえでは平和の保たれた日本のどこかでみずから命を絶っているのかと思うと、その数字の只事でないことが胸に突きつけられるのです。というのもわたしは自殺について決してけっして他人事にはできない事情があったのです。先生はそれを知ってかわたしの目を張り付くように見つめてくるのです。この授業がすべてわたしに対する先生の鮮やかな恋の謀略であると考えると、その弁舌の巧みさに驚嘆の念を感じえませんでした。まだ恋人もいないうぶな少女だったわたしはそのときはじめて、その男性教師に対する憧れのような気分を抱きつつありました。しかし棒のように痩せさらばえた先生のからだがわたしの心を愚鈍にして、それ以上に別のことを考えさせていたのです。

 ──この人は自殺を考えたことがあるんだろうか。

 ああ! わたしは恋の甘さよりも死の崇高さのほうに魅せられていたのでした。よく見れば先生の目はすでにたっぷりの死兆を含んで濁っているのです。四十代にまだ入ったばかりにしては頭髪がだいぶ荒廃していて、眉間には深い皺が断層のように刻まれています。日本の抱える欺瞞的な闇について、いくつかの事例を交えながら小気味良い調子で説明する先生は、講義室の窓から差し込む光のなかに移動すると、まったく木漏れ日を浴びる死にかけた蝉のように乾燥して見えるのです。あるいは使い終わって炭になったマッチ棒のように悲しいのです。若い学生を啓蒙する人間にしては滑稽なほどに使い古された容貌なのです。しかしそれでいてわたしを見るときの目は猛禽のように鋭いのでした。
 先生は講義を終えると、授業のプリントの残りをまとめてベージュの薄ぺらい布製のトートカバンに丁寧にしまっています。そのカバンがまたくたびれた雑巾のように薄汚いものなのです。けれど先生はそれに偏執的の愛着を持っているようで、まったく新品のカバンを取り扱うかのように幸福な眼差しを下ろして布を手で何度も摩るのです。それでその部分だけ手垢がこびりついて紅茶をこぼしたような染みが浮かび上がっているのです。先生の屈託は尋常の域ではないことが窺い知れました。そしてそれだけ深い屈託にまみれた人間が自殺という概念に全く無関係であるはずはありませんでした。
 他の学生たちは倒れたペットボトルの口から流れる清涼飲料水のように教室の外へこぼれて行きました。わたしは熱病にうなされる心持ちで、右に左にふらつきながら先生の方へ歩いていきます。以前授業で紹介された、ヴィクトール・エリセ『エル・スール』の録画したものを先生にお借りしようと思ったのです。ほんの十数メートルの距離が、砂丘三つ分は離れているように感じました。喉が乾こうにも先ほど倒れたペットボトルの中身は一滴のしずくも残さずに干からびています。わたしは一歩一歩足を引きずるようにして前に進みますが、そのたびにからだが縮みあがるような悲鳴をあげています。そうしてようやく教壇で待ち構える先生のところへ辿り着く頃には、わたしは何匹もの蝶に変形していました。

 ──気づいたら生まれてた、きみもそうなんでしょう。

 先生がそう言うと、わたしたちはちょっとしたはにかみのあと、教卓の陰で先生とこもごもに交尾をはじめています。
 終始淡白な情事。みなで力を合わせて先生の洗いざらしの衣服を引っぺがすと、意外にも中身の体には人間らしい屈託がほとんどありませんでした。その代わりに先生には昆虫のような機械的な精力があって、何の感情もなしに興奮しているようなのです。わたしたちは純粋な交尾というそんな人間離れした経験に無感動な歓びを感じるまま、先生の体につぎつぎと口吻を擦り付け始めました。温かみのない体を盲滅法に愛撫していると、先生はディーゼルエンジンのような粗雑な振動音を立てて喜ぶのでした。わたしたちもそれを見て興奮します。とはいえそうした絡み合いにはまったく人間の男女の生み出す情熱のようなものはまるでなく、複雑な機械同士が少々センチメンタルに人間を模倣しているだけのようなものでした。先生は何かぶつぶつと口ごもっています。黙々と空気を食べているのでした。それから存分に精を放つと、先生はあの屈託に塗みれたトートカバンを脇に抱えてどこかへ飛んでいきました。
 教室の中にはどことなくかれの生臭い香りが残っています。そこにたまにブルガリプールオム・オーデトワレの香水の匂いが点滅するように感じられました。一期一会の情事はなんともあっけないもの。わたしたちはさっそく先生の陰嚢にあった星型の痣のことを思い出して悦に浸ります。スモークサーモンのような濃厚な唇。無花果のように赤黒い舌。そしてシリンジのように無機質な突起物。事後的に情欲が湧き出してきたのです。しかし悲しいかな、そんな性的な妄想によって時間を無為にすることはできません。張り詰めたお腹には、いまやたっぷりの子種が植えつけられているのです。喉まで達しているように息苦しい。出しかけたげっぷを飲み込んでしまったような不快感。どうにかして産み落とさなくては収まりがつきません。わたしたちは意気込みました。こんなに力が湧くのは久しぶりだね、いつぶりだろう、楽しいね、幸せだね、気分は悪いのですが、みんなで嬉しそうにささやいています。
 わたしたちはさっそく、授業を抜けて遊びに出かける学生さながらに胸を躍らせながら、窓の隙間から教室の外に飛び立ちました。そのまま大学裏にある市営公園に向かい、産卵に最適な植物を探しはじめましたが、よく考えてみれば、自分たちがどんな種類の蝶か知らないのに、見つけ出せるはずもない。けれど、もはや卵を産み落とす以外、目的といっていいものがまるでないのだから、なにも心配せずに森じゅうを飛び回っていました。おまけに蝶のくせに、のべつ大声をあげて公園じゅうにわらいごえの大合唱を響かせているのです。

 ──くちびる、くちびる、スモークサーモンのような……。

 けれどしばらくして、わたしはすでに何の変哲も無い妊婦に戻っていました。そのとたんに、あの棒のような大学講師と行きずりに交接したことがどうも恐ろしくなってきました。もしあの先生が人間でなかったらこのお腹にあるものは何なのでしょう。歪なからだをした地球外生命体が、人間のからだに卵を植え付ける映画などを何度か見たことがあるので、これは当然の不安でした。とはいえ、わたしの想像力の範疇はその程度のものです。けれど一方で一度イメージしたものは心の核心にしっかりと張り付くだけの信仰心はありました。腹部が地面に吸い寄せられるように重たく、皮膚が薄く張っています。馬蹄形の痣がいくつか浮かび上がっているところからすると、子宮の中に馬型の人間かなにかが眠っているのでしょうか──。
 そういえばこの都営団地に引っ越してきたばかりのある日、隣室から、馬の嘶く音と、甲高い女の喘ぎ声が聞こえてきたことがありました。わたしが掃除洗濯を終えて台所で昼食の豆ご飯をつくる準備をしていると、突然それは聞こえてきたのです。良人は休日でしたので寝室でまだ眠りを貪っていました。わたしははじめぼんやりとかべを伝わってくる音に耳をすませていましたが、ふとそれが獣姦をテーマにした成人映画の音声ではないかと気がついて、顔がいっぺんに熱を帯びました。そしてどうしてか自分がなんと定型的な主婦であるかということに恥じらいを感じていたのです!

 ──くちびる、くちびる、スモークサーモンのような……。

 お前のひやりとした足が、わたしの体のなかでしなやかに動きました。
 寝室の扉の隙間から、良人がこちらを覗いています。
 わたしは横目でそれを確認しました。
 

文学極道

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