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作品 - 20160101_029_8537p

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吹くようになったやかん

  

 
 やかん、というかコーヒーを淹れるときに湯を沸かす、ステンレス製のドリップポットなんだけれど。数日前の昼下がり、その日ニ度目のコーヒーを淹れようとして空焚きしてしまった。
 朝沸かしたお湯、残ってたよなって、そのままコンロに点火してのんびり本をめくってみたりして、顔を上げたら焼けていた。ポットの底周辺が、馬の蹄鉄を鍛えるみたいに赤く輝いていた。
 そのとき手にしていた本はトールキンの『農夫ジャイルズの冒険』。子供向けの物語なんだけれど、あんな面白い話が書けたらなぁなんて考えていたら、この始末。
 いや、そもそも空焚きしたのがいけない。一度目に沸かしたお湯はポットにたっぷり残っていたのに、熱湯消毒にちょうどいいからって、まな板に全部かけ流したこと、忘れてた。
 コンロにのったまま冷めていったポットは見た目は何も変わらないのに、それ以来、沸騰するなり熱湯をぴゅっぴゅと吹くようになった。
 沸騰したらすぐ火を消すか、こぼれたお湯を拭けばすむから買い換える気はないんだけれど、なんて、今日もキッチンでケチな胸算用している間に、やかんが吹いた。
 やかんは吹いてカンカン音まで立てて騒ぐ。こんなときは妻が低気圧を背負って近づいている。このやかん、嫉妬深かった昔の彼女からのプレゼントだからか、女の気配に敏感なんだ。
 カンカン、カタ、カタ、今日はやけに騒がしい。料理用ミトンを着けた右手で、飛び跳ねるやかんの持ち手を慌ててつかんだそのとたん、やかんは僕を連れたまま妻の面前へ飛び出した。
 僕はシュウシュウ湯気を吹き熱湯をプップと飛ばすやかんで妻を威圧し(たように見え)、まずは妻の隠していたヘソクリをあらかたテーブルに並べさせた。それから家事を僕にばかり押し付けないと約束させた(せめて半々だ)。ついでになんやかやと口を出してくる妻の両親を追い払わせた。こうして僕は晴れてこの家の、真の主となったのだ!
 やかんを「剣」に、妻を「竜」に取り換えれば、おおよそ『農夫ジャイルズの冒険』の粗筋なんだけれど。でも、愚かな犬と賢い雌馬、妬むかじやにナイスな坊さん、役立たずの騎士たちやドケチな王様が怠惰な農夫を取り巻いて。あんな「オードブル各種てんこ盛り」みたいな楽しさはうまく伝えられないな。
 なーんて、ふざけている間に、やかんがお湯を盛んに吹いていた。
 

文学極道

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