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暗くなるまで待って

  蛾兆ボルカ

今日は出張先の博物館で、ふと、オードリー・ヘップバーンが主演した古い映画、『暗くなるまで待って』を思い出したのだった。
池袋から電車に乗って、終点近くまでいく。そこからバスでまた遠くまでいく。その博物館に着いたときは、僕はすっかり疲れていた。

小さな市立の博物館だが、小綺麗で、大事にされている感じだった。
周辺は工業団地だが、最近は工場というのはどこへ行ってもあまり人の気配がない。オートメーションが進んだからだろう。静かな町に、ぽつんとある博物館だ。
その館内で、なぜか唐突に、僕は『暗くなるまで待って』を思い出していた。

あの映画では、サムという男が見知らぬひとからぬいぐるみを預かる。サムはそれを自宅に置いて仕事に出掛けるが、盲目の妻・スージーが家に残される。スージーは交通事故の後遺症で目が見えないのだ。
実はぬいぐるみの中には、ヤバイあれが入っていて、ギャング団が必死でそれを探しているのだ。
ギャングたちはついにスージーの家を突き止め、あの手この手で色んな職人に化けて、家に入って探そうとする。
目は見えないけど勘のいいスージーは、やがて異変に気づき、目的も人数もわからない敵から、未知の何かを守って戦おうとする。
と、いうところが始まりで、そこからの映画なのだが、このオードリー演じるスージーが、滅茶苦茶に可愛いのだ。
何がそんなに可愛いのかなあ、と自分でも思う。役者がオードリーだからなのだろうか。

そう言えば僕は、なぜかときどきオードリーを思い出すのだ。
たんにオードリーが好きなのかもしれないが、僕にとってスージーは何かの象徴なのかもしれない。

あとは夢で考えよう。

・・・・・・・・

昨日、『暗くなるまで待って』を夢で見た。
ご都合主義のように思われるかもしれないが、僕にはそういう能力がある。つまり、夢をリクエストするという能力がある。
夢の中で映画を観ながら、僕は詩について考えていた。
僕の回りには象徴があり、それを僕は詩に留めようとして詩を書く。いつもそうだというわけではないが、ときどきはそうだ。
例えば僕が散歩をするときは、僕の目に映る森羅万象が象徴である。例えばガードレールが、横断歩道のしましまが、信号機が、すべて僕には象徴に見える。
そして象徴はすべて意味を語る、あるいは秘める。
だから森羅万象が意味を語る、または秘める。
それがたぶん、僕が自分の日常と考え、言葉としてはたんに日常と呼ぶものだ。

昨日、夢の中で、僕は盲目のスージーが何をしていたのか、わかったのだった。
彼女は、ギャングから生活を守るために一生懸命に戦う。そうすることにより、彼女が守ろうとする生活が、僕の意味での【日常】にとても近いのだ。
オードリーの演じるスージーの指先に何かが触れる。それが何なのか、盲目のスージーは見えない。しかし瞬時に覚る。
そのとき花瓶であれ、皿であれ、彼女が指先で理解する器物は、おそらくすべて、象徴として認識にとらえられ、示された/または隠された意味として彼女の回りに存在するのだ。
それがきっと、彼女の毎日の暮らしであり、僕が詩にとどめようとすることがらでもあるのだ。
暴漢がスージーの大事にしてる皿を一枚割る。
そのことが何を意味するか、僕にはわかる。スージーが指先で知覚したその皿は、象徴としてのその皿だ。そこにどんな色でどんな絵が描いてあるか、スージーは夫に訊いただろう。その皿がどんな値打ちの皿で、どんな料理に似合うか、スージーは友人に訊いただろう。そしてスージーはその皿を記憶し、使用し、好きになる。
スージーの家の皿は、一枚たりともただの皿ではあり得ない。スージーの世界を構成する、もろもろの伝説の中の、ひとつの伝説としての皿なのだ。
だから暴漢がそれを無造作に割るとき、世界は悲鳴をあげる。
しかしスージーは怯まない。なぜか?それも僕にはよくわかる。世界とは、そうしたものだからなのだ。幾度スージーの世界は引き裂かれただろう。それでもまた繕い、スージーは生活する。だから皿が何枚割れようと、スージーはけして怯まない。
そして、それが僕が日常と呼ぶものなのだ。

こうして昨夜、女優オードリー・ヘップバーンから、彼女が脚本のスージーをどう解釈して演じたかについての手紙が、オードリーからのダイレクトメールのように僕に届いたのだった。
それは、完全無欠のプライベートフィルムだった。

僕は、一切が象徴である世界を今夜も歩いている。
すべての闇に魔が潜んでいるし、すべての事物が伝説を秘めて立ち上がるが、すべての挫折やすべての悲しみが、この世界を破壊していくし、すべての暴力が刻一刻とこの世界を引き裂いている。
しかし、盲目のスージーのように手を伸ばせば、そこに必ず何かが触れるのだ。
例えばそれは今、道の端に続く石の壁であり、外気より少し冷たい。

目をつぶってみると、川の水音と、車の走る音が耳に響き、指が触れる石は深く深く地球に繋がっている。
僕はまた世界を繕い、目をあけて歩いていく。

文学極道

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