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作品 - 20151116_591_8426p

  • [佳]  甘露 -  (2015-11)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


甘露

  

 
 今日も終わろうとしている。冷たい小雨の降る夕方、女は駐車場へと向かいながらため息を吐く。
 吹きつけた風がビルの狭間で渦を巻き、少し前を歩いていた男が手にしていた紙束を舞い上げた。男が集め損ねた一枚を彼女は拾い、無言で手渡す。何かの伝票だった。
 雨に濡れた一枚の紙が暮れていくだけの彼女の一日を差し換える。

 乗り込んでドアを閉めると車はシェルターのように硬く外を阻んだ。女はシートに深く身を沈める。降り注ぐ雨の音を微かに聞きながら、なびく枝と飛び去る落葉に風を見る。そして思い出すのはこの夏のささやかな出来事だ。


・・・・・・
 
「ボールペンがない」
上司が自分の机を探している。
お気に入りのペンをなくしたらしい。
「それ、たぶんわかります。会議室じゃないでしょうか」
私と共に上司は隣接する会議室に戻る。
先程まで使われていた会議室は冷房の名残でひんやりしている。
「たぶんこの辺り」
私は繋ぎ合わされた机と机の隙間に上手くはまり込んだボールペンを見つけだし、取り出して渡す。
「あー、これ。これだよ……ありがとう」
上司は安堵したような、狐につままれたような顔をした。

 私は会議の間、発言している上司をぼんやりと眺めていた。視界の端の転がる動きに違和感を覚え、無意識に記憶していた。上司が探すボールペンがその記憶とリンクして映像となって再生された。 




「そろそろA社に返答を聞いてみようかしら。聞きにくいけどなぁ。」
と同僚。
「あー、あれね。そろそろ返事くると思うけれど。もう少し待ってみたら?」
次の日昼前にA社からの郵便が届いた。
「あんた宝くじ買いなよ。何それ、霊感?」
同僚は郵便物を手にしながら目を丸くした。

 A社に手紙を発送したのは私だったから、発送日から担当者の手元に届くまでに要する時間、検討と返答に要する時間をあらかじめ推測していたにすぎない。たまたまそれが当たっただけ。




 職員駐車場にハザードランプの点滅している車があって、駐車場の係員に連絡しに行ったりもしたっけ。これはよくある話。ハザードランプという単語が出て来なくて両手でグーパーしてピカピカ、のゼスチャーをしたら係員のおじさんが噴き出したんだった。
 
 これも私がちょっと輝いた出来事。以来駐車場のおじさんと顔見知りになった。

 


 夏の終わりの蜘蛛が増える時期を過ぎるとカツオブシ虫が目につき始める。ちょうど秋の衣替えの頃。
 カツオブシ虫は衣類を喰らう。私はクローゼットの防虫剤を総入れ換えし、蜘蛛と同様、見かけたらかならず殺る構えだ。
 カツオブシ虫は古い家の押入れからついてきた負の遺産だ。困ったことに新しい家の珪藻土の壁材も好物であるらしく、彼らにとって我が家はお菓子の家なのだ。なかなか撲滅には至らない。
 カツオブシ虫を潰したときには私はつぶさに観察する。彼らは全身が胃袋みたいな輩だから、直前に何を食したか一目瞭然だ。

 モスグリーンのカーディガンを箪笥から出してきた父に、「たぶんそのカーディガン、虫が喰いがあるはず」と教えることができた。


・・・・・・

 こんな些細な出来事が深まる秋の彼女を暖める。気分のよい折りに一人、反芻するように思い出す。この夕方のように。
 人より秀でている能力といえば、彼女には観察力と観察に基づく推論の柔軟さ、それくらいしかない。発揮できる機会もそうそうないが、誰かの何かの役に立ち、且つ、「不思議なひと」と印象づけることが何より嬉しいらしい。
 そんなささやかな能力も、もっと生かせる場や職があったのだろうと思う。けれども未来を堅実に見積もることをしなかったから、いや、現実的に見積もりすぎたからか、今、彼女は世の中の需要に即した労働力を提供し、僅かな対価をいただいて生活しているにすぎない。小さな甘露が行く先々の葉の上に輝くことを期待しながら。
 
 たぶん明日も書類や伝票の束が机に積まれるだろう。彼女は適切に処理するだけだ。車のエンジンをかけ、ワイパーでフロントガラスを拭う。今日は近くのコンビニに寄って甘いカフェオレを買って飲みながら帰ろう。こんな夕暮れもまた良いものだ。

文学極道

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