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作品 - 20151102_014_8395p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ダメヤン

  葛原徹哉


 戦後生まれ、
 戦後生まれと言われて久しい僕たちは、
 あと五十年もすればもしかしたら、
 戦前生まれとして後世の人に記憶されるのかもしれない。

 ある日、
 家に帰ると郵便受けに、
 赤紙が入っている。

 その瞬間に僕の額には、
 小さく深く、
 『歩兵』と刻印され、
 一歩一歩、
 前進あるのみだ。
 後退はない。

 天皇陛下万歳、
 でもない、
 大日本帝国万歳、
 でもない、

 百歩譲って(歩兵だけに)
 死ぬのはいい、
 けれど二十一世紀の僕たちは、
 いったい何に万歳をして、
 死んでいけばいいのだろう。

 万歳のポーズというのは、
 まさか、
 『もはやお手上げ』の意じゃあるまいか‥‥‥。



 そんな詩をいつものようにポエムサイトに投稿して数日後、ぼくは突然、自宅の部屋の中に押し入ってきた数人の男たちに無理矢理部屋から連れ出され、大きな黒いワゴン車の後部座席に押し込まれた。何が起きたのかわけがわからず、混乱する頭の中で思い浮かんだのは、数日前に書いた自分の詩だった。そうか、ついに日本も戦時下に入ったのだ、言論の自由はもはやないのだ、戦争に批判的なことをネットに書き込んだぼくはどこか秘密の場所へ連行され、とても言葉では言えないほど残忍な拷問を受けたり、恥辱の責め苦を浴びて改心と国家への忠誠を誓わされるのだと、恐ろしい想像がふくらみ内心ブルブルと震えていると、走り出した車内で、男たちは手荒なやり方を詫びた後に自己紹介を始めた。彼らは、中学の頃からひきこもりで重度のネットポエム依存症であるぼくを更正させるために、ぼくの両親から依頼を受けた、NPOの職員なのだと言う。そのまま2時間ほどだろうか、車は市街地を抜けて山道をクネクネと走り続け、山奥に突如現れた小さな建物の前で止まった。

 施設の中は病院のように清潔で、天井も壁も真っ白だった。ぼくは持っていたスマホを没収され、白いジャージへと着替えさせられた。これから、ネットポエムのない生活が始まるのだ。PCどころか携帯もスマホもない。外部との連絡は堅く禁じられていた。脱走しようにも、深い森の奥である。方向オンチで土地勘のないぼくにはここが何県なのかすらわからなかった。職員の車を奪ったところで、ぼくは車の免許も持っていない。冬の気配近付く見知らぬ山の中を、徒歩で逃げる勇気はなかった。両親を恨んではみたものの、今さらどうなるというものでもない。拷問を受けるよりはマシだと自分を納得させるより他はなかった。

 施設の生活は規則正しい。朝6時に起床し、寝具を片付け、清掃をする。床をみがき、庭の落ち葉を掃き、ひととおりの清掃を終え、朝食に移る。ごはん、豆腐とワカメの味噌汁、里芋とカボチャの煮物、茹で卵、焼き海苔。朝食が済むと、毎朝恒例のグループカウンセリングが始める。ひとりひとり今まで自分が書いてきた詩を発表し、それを皆で否定し合うのだ。ここの言い回しが気取りすぎていて気持ちが悪い、隠喩が難解でただの自己満足である、等々。他人にハッキリと否定してもらうことで、自分の詩を客観的に見る視線を養い、自惚れのくだらなさを自覚させるのだと言う。ぼくの詩は毎朝さんざんに罵倒されている。

 二週間ほどたち、ぼくも少し周囲の入所者と親しくなってきた。施設のルールでは入所者同士、ネットで使用していたHNで呼び合うことは禁じられていたが、職員のいない自由時間など、ぼくたちは隠れてHNで呼び合った。むしろHNこそが、ぼくたちの本当の名前のようにすら思えるのだった。

 談話室の、いつも窓際の日当たりのいい席に座っている、白いヒゲがご自慢のおじいちゃんのHNは、ヒカル現詩さん。もう六十過ぎだというのに、フランク・ミュラーの腕時計を愛用し、天気のいい日の自由時間には庭で颯爽とローラースケートを乗りこなす粋なおじいちゃんだ。昔はかなりの男前だったらしく、ジャニーズの面接も受けたことがあると自慢している。HNは、光GENJIというグループ名をもじったものだそうだ。続いて、紅一点のマドンナ、エデンの園子さん。三十才くらいだろうか、物静かで、長い黒髪の華奢な女性。いつも白いジャージの袖を指が隠れるほど伸ばしているので気付かなかったが、ほんとか嘘か彼女の左腕には、リストカットの傷がいくつもあるらしい。
「こいつな、若い頃男に捨てられよってん。四股かけられてな。」
 現詩さんが欠けた前歯を見せてゲラゲラ笑いながらぼくに言う。
「しかもそれが発覚したのが結婚式の当日や。見たこともない女が3人も式場に乗り込んできてな、フィーリングカップル1対4や、そらもう修羅場やで、わかるやろ? 家族親類、会社の上司同僚の前で赤っ恥かかされて、そっからちょっとおかしなってもうてな、その恨み辛みをポエムで晴らそうとしたっちゅうわけや。いわば復讐やな。辛気臭い詩書きよんねん。笑うやろ?」
「違います。勝手に話をつくらないでください。怒りますよ。」
「わはは。すまんすまん。新入りのにいちゃんも退屈やろ思てな、リップサービスや。」
「どんなリップサービスなんですか。よくもまあそんなありもしないデタラメをペラペラと、ほんと現詩さんは骨の髄までポエマーですよね。空想好きと言うか、ただの虚言癖じゃないですか。」
 横から口を挟んだのは、坊主頭でよく日に焼けた少しコワモテの中年、ヌンチャクさん。左耳にピアスを2つしている。
「何が虚言癖や。嘘から出たまこと言うやろ。ひょうたんから駒、棚からぼた餅や。ポエムっちゅうのはな、何書いてもほんまになんねん。そこにポエジーがあればの話やけどな。」
「ポエジーどころかポエじじいのくせに何格好つけてるんですか。前歯半分ありませんよ。」
 現詩さんとヌンチャクさんのやり取りは、いつもこんな調子だ。はじめはケンカしているのかと思ったが、犬猿の仲のようで案外、これはこれで気が合うということなのだろうか。
「これはおまえ、名誉の負傷っちゅうやつやないか。先の大戦中、竹槍で戦闘機撃ち落とす訓練中にやな、顔から派手にこけたんや。」
「現詩さん、思いっきり戦後生まれじゃないですか。誰が信じるんですかその話。どうせローラースケートでこけたんでしょう? 昔ジャニーズに入ってたっていうのも嘘だったじゃないですか。」
「災いなるかな、信仰心の薄い者よ。嘘って言うなポエジーと言え。信じるも信じないもあるかい。地球の歴史は人類の共有財産や。親から子へ、子から孫へ、人類みんなで受け継いでいくもんや。石垣りんが『空をかついで』で言うとったやろ。なあ、にいちゃん。」
 急に話を振られて、ぼくは口ごもった。
「‥‥‥そんな詩じゃなかったと思うんですけど‥‥‥。」
「ほんまに読んだことあるんかいな。にいちゃん、HNなんやったっけ?」
「‥‥‥sclapです‥‥‥。」
「せやせや、スクラップや、クズ鉄やな。乗り鉄、撮り鉄は知ってんねんけど、クズ鉄は聞いたことないわ。廃線マニアか。廃棄車両が好きなんか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど‥‥‥」
「新人いびりはその辺にしたらどうですか?」
 左手の裾を伸ばしながら園子さんが、助け船を出してくれた。
「いびってへんわい失礼な。わしは詩の話をしとんねん。」
「もう詩の話はいいじゃないですか。」
 今まで黙って聞いていた吉永さんが口を開く。
「僕達は詩を辞めるために集まったのですから、施設を出た後の生活のこととか、もっと前向きな話しましょうよ。」
 若い十代や二十代の入所者は、たいていはぼくのように、自身の意思に反して家族に無理矢理入所させられてしまった人がほとんどだが、吉永さんはネットポエム依存から脱却するため、自らの意思でここへ来たという変わり種だ。国立大を出ているのに、ネットポエム依存が原因で就職を棒に振ってしまったことを今でも悔やんでいる。
「たまに口開いたと思たらまたそれか、極寒メガネ。」
「極寒メガネじゃありません、僕の名前は吉永隆太郎です。」
 吉永さんは一人だけ、HNで呼ばれることを頑なに拒否している。極寒メガネというのは、現詩さんが付けたあだ名だ。
「吉永隆太郎て名前だけはいかにも詩人ぽいけどな、きょうびネットポエムで実名なんか流行らんぞ。おもろいHN考えたほうがマシやで。」
「いいんです、僕は詩を辞めて早くまっとうな生活をしたいのですから。」
「まっとうな生活? なんや、結婚でもすんのか? やめとけやめとけ女なんか。騙されて捨てられるのがオチや。ポエムのほうがええぞ。」
「ポエムで飯が食えますか? 結婚よりもまず就職ですよ。」
「就職ぅ? ポエムキチガイに就職先なんてあるわけないやろ。いっそ自分で商売やったらええねや。バーなんてどうや? ポエムバー『北極』のマスター、極寒メガネこと吉永隆太郎です。どうぞ、今宵のオススメ、ドライジンにライム果汁と谷川俊太郎をミックスしたカクテル、『ネリリとキルル』です。いかがですか? 口中に広がる宇宙感覚が舌の上でハララするでしょう? ってそれただのジンライムやないかい! 言うてな、どやこれ? おもろいやろ?」
「店開けるのにどれだけ資金がいると思ってるんですか? あなたが無利子無担保で全額貸してくれると言うなら考えますけどね。」
「アホか。わしみたいな独居老人のわずかな貯えを狙うとはおまえ鬼か? わしこれから先どないして生活していったらええねん。」
「知りませんよ、自分が言い出したんじゃないですか。とにかく、僕はもうネットポエムを辞めたいんです。」
「辞めんのなんか簡単やないかい。一、詩を書かないこと、二、ネットを見ないこと、それだけや。」
「へっ、それが出来たらおれらみんな、今頃もっと幸せな人生送ってますよ。」
 そうだ、みんなわかっているんだ。それが出来ずに、こんな山奥に幽閉されている。ヌンチャクさんの皮肉に一同、苦笑するしかなかった。

 職員がやってきて言った。
「そろそろ消灯の時間です。皆さん各自の部屋へお戻りください。」



 ここ、ネットポエム依存症患者のためのリハビリ更正施設、『実りある生活』は、毎晩10時に消灯となる。

 入所者には一人ずつ部屋が与えられている。6畳ほどの部屋にベッドと、鏡台のついた小さな机、椅子、タンスがおいてあり、奥のほうにユニットバスと小さなベランダがある。洗濯物は共用の洗濯機を使い、各自でベランダに干すのだ。15インチのテレビはあるが、もちろんPCやタブレットはない。電話もない。ネットポエム依存から脱却するためには、やはりネットに接続しないということが重要なのだろう。部屋のドアには鍵も付いていて、プライベートは保障されている。部屋から出る時は必ず鍵をかけるように指導されている。過去には、入所者による窃盗の被害などもあったらしい。そして、この施設のいちばんの懸案事項は、入所者同士の恋愛のもつれによる対人トラブルなのだそうだ。詩を書く人間などというものは、もともと自分の感情に酔いしれるところがあるし、その分、大げさに他人に共感したり、恋愛感情も芽生えやすいのかもしれない。施設では恋愛はご法度とされていて、トラブルを未然に防ぐため、職員たちも人間関係には特に目を光らせている。こうして消灯時間が過ぎた後も、入所者同士の密会がないかどうか、当直の職員が1時間おきに廊下を見回っているのだ。自分の生活が他人の監視管理下にあるのかと思うと、鉄格子こそなけれど、ここは半分、刑務所のようなものなのか、と後ろ暗い気持ちになってくる。ネトポ廃人。ネットポエム依存なんて、世間の人たちから見ると、もはや人ではないのだろう。

 『実りある生活』では当然のごとく、詩を書くことは禁じられている。代わりに日記帳を与えられ、
毎日、日記を書くことが義務付けられているのだ。その日記を翌日職員が読み、事実のみを簡潔に述べるようにだとか、無意味な改行はやめましょうとか、文章に過度な装飾はしないように等と、丁寧に添削するのである。今までぼくは、ポエムサイトに作品を投稿しては、「こんなものは詩ではない」と馬鹿にされてきたものだけれど、ここでは反対に、「これでは詩ですね。日記を書いてください。」と言われるのだから不思議なものだ。詩と日記の境界線なんて、結局は読者それぞれの主観の中にしかないんじゃないか、そんな気もしてくる。

 ベランダに出て、夜風にあたる。深い森を渡ってくる風はひんやりと、心の中にまで染み込んでくるようだ。おっといけない、ここでは詩的な言い回しをしようとしてはいけないのだ。葉が揺すれる音、虫の声、なんだか鳥の鳴き声も聞こえるけれど、なんていう名前の鳥なのか、ぼくは知らない。植物の名前、昆虫の名前、鳥の名前、星の名前、世の中にはたくさんの名前があるけれど、ぼくはそのほとんどを知らない。世界を知らない、知識もないということは、やっぱりぼくには詩は向いてないのだろう。ぼくの名前はsclap。現詩さんの言うとおり、人生のクズ鉄なんだ。
 フィッ、クション!! 嘘みたいなくしゃみが出たところで、今夜は、もう寝よう。おやすみなさい。(誰に話かけてるんだ、ぼくは?)


 6時起床。シーツと枕カバーを外し、洗濯機置場のカゴへ入れ、職員からクリーニングされた新しいものを受け取る。衣類やタオルは自分で洗濯することになっているけれど、シーツと枕カバーだけは業者に任せているのだ。

 続いて部屋の掃除。掃除と言っても私物がほとんどないので、部屋の中が散らかることもないし、軽く掃除機をかける程度で、掃除らしい掃除といえば、トイレとバスタブくらいだ。ぼくは今まで実家では、部屋の掃除をほとんどしたことがなかった。中学の頃から引きこもりで、一日中部屋にこもり、母親も入れないようにしていたし、脱いだ衣類や雑誌、ゲーム機、食べ残しのカップ麺、缶ジュース、ゴミ屋敷と大差ないような部屋でずっと生活してきたのだ。深夜に部屋の明かりもつけずPCのモニターを見つめ、複数のポエムサイトを行き来しながら、今日はぼくの投稿作に何ポイント入っているだろうかとか、コメントは来ているだろうかとか、そんなことばかり気にしていたものだ。実生活で人との繋がりがなかったぼくには、ポエムサイトの中が現実そのものだったし、そこでの顔の見えない言葉のやり取りが、人間関係のすべてだった。この施設に来て、久し振りに他人と顔を合わせて直に話をして(それも詩についての話!)、ぼくはまだまだうまく喋ることができないけれど、確かな充実感があった。生身の人間とのふれあい、他人との交流、長い間怖れてきたもの、拒否し続けてきたものが、本当はぼくの欲してきたものだったんだろうか。

 今こうして、無駄なものがまるでないきれいな部屋で過ごしてみると、なんだか頭の中まですっきりと整理されたような気になる。いつか家に帰る日がきたら、まずは部屋の掃除から始めてみよう。燃えるものは燃やすゴミ、燃えないものは燃やさないゴミ、余計なものを全部捨てれば、だいぶさっぱりするに違いない。けれど、心の中のいらないものは、どこへ捨てたらいいんだろう。

  そして理屈はいつでもはつきりしてゐるのに
  気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。
  『憔悴/中原中也』

 大人になったらいつか、そんな気持ちも薄れるのだろうか。

 7時には食堂に集まり、皆で朝食。今朝は、ちょっとした事件が起こった。



 今日の朝食には、デザートにリンゴがひときれ付いていた。現詩さんがうれしそうにぼくに耳打ちする。
「見てみ、クズ鉄。エデンの園子が禁断の果実食いよるで。あかんあかん、それ食うたらここ追い出されるで、あ、でもアダムがおらんからな、四股して逃げて行ったんや、信じてた男に捨てられるって惨めなもんや、アダムっちゅうよりむしろ蛇やな、まあしゃあないわ、男なんてみんなそんなもんや、股間に鎌首一匹飼うとる。騙される女が悪いねん、ええかクズ鉄、ポエムこそが禁断の果実やで、わしらみんなもう楽園には戻られへんねん、なんでこんなもん食うてもうたんやろなぁ、あー、あかん園子食いよった、知恵付いて自分の姿が恥ずかしなんねん、イチジクの葉っぱでな、股間は隠せても左手の傷はよう隠さんてか‥‥‥。」
 バンッ!!
 黙って聞いていた園子さんが、テーブルを叩いて立ち上がり、無言のまま部屋へ帰ってしまった。
「なんやなんや、ヒステリーか。これやからメンヘラはかなんのう。」
「現詩さん、今のは言い過ぎじゃないですか。」
 ヌンチャクさんが咎める。
「何がや。わしはみんなを楽しませようと思ってやな、冗談や冗談、ポエジーやないか。本気にするほうがアホやねん。」
「ペンは剣よりも強し。冗談も過ぎれば人を殺します。」
「なんやツンドラメガネ! わしとやるっちゅうんかい!」
「吉永です。」
「前からおまえのその優等生ヅラ気にいらんかったんじゃ! 大学出がそんな偉いんか!? いつもいつもくだらん文学論振りかざしよって!」
「僕がいつ大卒を自慢しました? 文学論てなんですか、そんなものは知りませんよ、中卒だかなんだか知りませんが、学歴コンプレックスはそっちじゃないですか! つまらない言いがかりはやめてください!」
「言うやないか小僧! 表出ろやボケェ!」
 現詩さんが派手に椅子を蹴飛ばしながら立ち上がった。続いて吉永さんも静かに立ち上がり、無言のままにらみ合う。うつむいたぼくの視界に一瞬、吉永さんの握りこぶしが入った。青い血管が浮いていた。

 沈黙。

 ピリピリした空気を破るように、ヌンチャクさんが静かに口を開いた。
「現詩さん、もちろんそれも冗談なんでしょう?もし本当にここで一戦始めるっていうならおれも――。」
 口調は柔らかかったけれど、日に焼けたヌンチャクさんの顔は紅潮してさらに赤黒く、仁王像のような有無を言わさぬ迫力があった。
「わかったわかった、謝ったらええんやろ? みんなわしが悪いねん、いつの時代でもそうやおまえら若者はな、何でも年寄りを悪者扱いにして、自分らは関係ありません、責任ありません言うとったらええんじゃ!」
「どこへ行くんですか? 食事中ですよ。」
「飯はもうええ。頭冷やして来るわ。‥‥‥すまんかったな、吉永。」
 張りつめていた空気が一気に緩み、ぼくはふうっと息をついた。
「それでは僕もこれで失礼します。」
 吉永さんも席を立ち、後にはヌンチャクさんとぼくだけが残った。ぼくはどうしていいかわからず終始うつむき、子ウサギのように震えながら、リンゴをシャリシャリとかじっていた。これだから人付き合いは嫌なんだ。仲良くなったと思っても、些細なことでいがみ合い、いさかいが起こる。人は憎しみや怒りをぶつけ合わなければ、コミュニケーションが出来ない生き物なんだろうか、ぼくはそんなのは嫌だ、早く家に帰って、また一人だけの世界に閉じこもりたい、こんな世界はみんな嘘だ、ネットポエムの中にこそ、本当のぼくが生きる世界がある、そんなことを頭の中でグルグルと思い巡らせていると、
「詩を書く人間も色々いる。無闇に他人を排除するのもよくないが、他人の意見に振り回されず、自分をしっかりと見つめることだ。自分の詩は、自分で書くしかないのだから。」
 ひとりごとのように呟いたヌンチャクさんの言葉に、ぼくはなんだか胸の内を見透かされたような気がして恥ずかしくなり、慌てて話題をそらした。
「皆さん、大丈夫でしょうか?」
「うん、現詩さんは大丈夫だろう。口は悪いけどああ見えて、根はいい人なんだ。年を取ると、自分が悪いとわかっていても、なかなか引っ込みがつかなくなるものなんだよ。大声を出して威嚇しながら心の中では、誰かが止めてくれるのを待ってたのさ。吉永君はまだ若いから、その辺りの心の機微っていうのかな、わからなかったのか、それか、わかってても我慢できなかったんだろう、いやいや、彼も男気のある、いい青年だよ。」
「園子さんは?」
「‥‥‥どうだろう、吉永君もそうだけど園子さんも、生真面目過ぎるというか、思いつめるところがあるから‥‥‥、もしかしたら、もう一波乱あるかもしれない。」
「どういうことですか?」
「ごちそうさま。お先。」
 ぼくの質問には答えずに、ヌンチャクさんはそそくさと食器を片付け、意味ありげな笑みを残して部屋へと戻っていった。

 その後、グループカウンセリングのために集まったぼくたちは、気まずい空気のまま、けれど誰も朝の一件には触れることなく、表面上はいつもと変わらない一日が静かに過ぎていった。

 もう一波乱あるかもしれない、というヌンチャクさんの予言は、次の日の朝、現実となった。



 朝6時になると施設内には、起床の合図として音楽が流れる。カーペンターズの『Top Of The World』という曲だ。毎朝聞いているのですっかりメロディが頭に染み付いてしまい、口ずさみながら掃除を始める。なんだか今朝は職員たちが騒がしい。しばらくバタバタと走り回っていたかと思うと、じきに静かになった。ほとんどの職員がいなくなったようだ。何事だろうと思いながら食堂へ行くと、現詩さんとヌンチャクさんがもう座っていた。
「おはようございます。何かあったんですか?」
「まあ座れや。」
 3人が揃ったところで、職員の一人が声をかけてきた。
「すみませんが、今日一日、自由時間とさせていただきます。ただし、外出は控えてください。詳細はまた後日、お話いたします。」
 職員が事務所へ戻ったのを見て、現詩さんがヒソヒソと囁く。
「駆け落ちや。」
「えっ?」
「吉永君と園子さんさ。昨日の一件があるからもしかしたら、とは思っていたけど、まさか本当にやるとはね。」
「園子とメガネができとったとはのう。ヌンチャク、おまえ知っとったんか?」
「なんとなくですけどね、勘付いてはいましたよ。
現詩さん、何も気付かなかったんですか?」
「アホか! 気付いてたに決まってるやろ! わしぐらいになるとな、予感霊感千里眼、ポエジーさえあれば過去から現在未来まで、黙ってても何でもお見通しじゃ。」
「そのわりには結構動揺してるじゃないですか。」
「やかましわ。わしの心は明鏡止水、波風ひとつ立ってへんわい。クズ鉄、醤油とってくれ。」
 ぼくは醤油差しを手渡した。現詩さんは生卵を小皿に割る。カパッ。
「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界や。」
「デミアンですか、ヘッセの。」
 ぼくも読んだことがある。おどおどとした気の弱い主人公が、デミアンという少年に出会い、導かれるようにして人生を切り開いていく話だ。主人公に感情移入しながら読んだことを思い出し、ふと、ヌンチャクさんはなんとなくデミアンに似ている、と思った。
「まあおまえらはデミアンいうより、ダメヤンいう感じやけどな。なあ、ヌンチャクよ。」
「大きなお世話ですよ。」
「ケッ。それにしてもあいつらうまいことやりよったな。卵から抜け出よった。わしらはあかん、翼どころか雛にもなれん無精卵や。ええかクズ鉄、これがわしらの世界や、グッチャグチャにかき混ぜて、これがカオスや、我がの腹の中に、世界を飲み混むねんぞ。」
 そう言いながら現詩さんは大げさな身振りで、醤油の色に黒く染まった卵かけごはんを口一杯にかきこんだ。
「現詩さん、園子さんに気があったでしょ?」
 突然のヌンチャクさんの言葉に、現詩さんは大きく咳き込み、派手にごはん粒を撒き散らした。
「な、何言うとんねんアホちゃうか! なんでわしがあんなヒステリー女好きにならなあかんねん! 適当抜かすのも大概にせえよ! 怒るでしかし! 」
「園子さんによくちょっかい出してましたよね。」
「あれはやな、おまえ、あれや、ひま潰しやひま潰し。わしああいう辛気くさい女嫌いやねん。年がら年中じとじとぴっちゃん梅雨前線みたいやろ。心の中にまでカビ生えそうやないか。わし、カラッと晴れた秋晴れの後の鱗雲みたいな女が好きやねん。」
「鱗雲の喩えがよくわかりませんけど、女心と秋の空って言いますからね。そうそういつも明るく晴れ渡っているわけにはいきませんよ。誰にだって、人には言えない秘密もあります。」
「左手か? 小さい頃の火傷の痕やろ?」
「なんだ、それは知ってたんですか。」
「知ってるわそれくらい。母親の不注意で火傷したっちゅうやつやろ。ほんで結局それが原因で両親が離婚してもうたとかなんとか。」
「じゃあなんでためらい傷だなんて?」
「ギャグやギャグ! ポエジーやないか! ええ年こいていつまでも両親の離婚は自分の責任やとか火傷の痕気にしてウジウジしてるさかい、笑いに変えたっただけや!」
「誰も笑ってませんでしたけどね。」
「アホウ、メチャメチャウケとったわ、なあ、クズ鉄?」
「えっ? あの、いえ、その‥‥‥、見つかりますかね、二人とも?」
 ぼくは慌てて言葉を濁し、ヌンチャクさんに話を振った。
「深夜は職員の見回りがあったし、逃げ出したのはたぶん4時か5時、明け方近くだろうから、まだそれほど遠くには行ってないと思う。じきに見つかるだろうね。ただ、問題は、道路から外れて山の中へ入って行ってたとしたら。」
「遭難ですか。」
「それもあるけど、ほら、園子さんは少し情緒不安定なところがあるから‥‥‥。」
「心中か。」
「そうですね‥‥‥、いやいや、吉永君がついているから大丈夫でしょう、彼は若いけれどしっかりしている。おれの思い過ごしですよ。」
「そうやとええけどな。」
「もし見つかったら、またここに戻ってくるんでしょうか?」
「それはないね。二人が恋愛関係にあるとわかった以上は、同じ施設内で共同生活させるわけにはいかない。発見次第、家に帰されるんじゃないか。」
「まあとりあえず、騒動のおかげでわしらは一日、自由の身になったっちゅうわけや。カゴの鳥やけどな。ちゃうちゃう、生卵か。飛び立つことも出来んつまらん世界や。今日も一日ひまやのう。朝ドラも見飽きたし。なんやねんパテシエて? 山口県を舞台にしてやな、ネットポエムから中也賞目指すヒロインの朝ドラとかええんちゃうか。わし、ド田舎の美少女が書いたポエム読みたいわ。青空と入道雲と山の稜線とセーラー服と赤い自転車と、小さな恋と喜びと試験と放課後と親友とのケンカと涙と仲直りがあってやな、なんやもうキラキラして眩しくて目ェ開けてられへんようなやつ。もうこの年になるとな、ババアのズロースみたいな生活臭漂うクソポエムなんか読みたないねん。ぽたぽた焼きちゃうねんからやぁ、おばあちゃんの知恵袋みたいな詩読まされてもどないせえ言うねん、のう、クズ鉄、なんかおもろいことないんかい。」
「え、そんな、急に言われても‥‥‥。」
 口ごもるぼくを横目にヌンチャクさんが、悪巧みを思い付いたいたずらっ子のような笑顔で口を挟む。
「実は、こんな時のためにと思って、取って置きのものがあるんですよ。一緒にやりませんか? 現詩さん、いけるクチでしょう?」
「これか?」
 現詩さんはキョロキョロと辺りを伺い職員がいないのを確認すると、テーブルの上にグッと身を乗り出し、うれしそうに口をすぼめてお猪口を傾ける仕草をしてみせた。



 朝食後、ぼくらはヌンチャクさんの部屋に集まった。現詩さんは椅子に座り、ぼくはドアの近くの床に腰を下ろした。
「ちょっと待ってくださいよ。」
 ヌンチャクさんがゴソゴソとボストンバックから、ラベルの張ってない茶色い一升瓶を取り出し、3つのグラスに酒を注ぐ。
「怪しげな瓶やな。闇市みたいや。どっから盗んで来たんや。」
「人聞きの悪いこと言わないでください、おれの私物ですよ。ここに入所する時、コッソリ持ち込んだんです。もちろんメチルじゃないですよ、中身は普通の焼酎ですから。安物ですけどね。」
「飲めたら何でもええねん。久しぶりやからな。おいクズ鉄、廊下見張っとけよ。」
「はい、なんか、修学旅行みたいですね。」
「枕投げたろか? こんなところに閉じ込められてたら、隠れて酒飲むだけでもなんや悪いことしてる気になるわ。いただきます。‥‥‥。くうぅぅー、うまい、まさに至福のひとときやな。あとは横に酒ついでくれるねえちゃんがおったら言うことないわ。吉瀬美智子みたいなん。おっさんとガキンチョ相手ではのう。」
「まだ園子さんに未練があるんじゃないですか?」
「アホ抜かせ。来る者拒まず、去る者は追わず、男の恋に未練は似合わん。男は黙ってネットポエムじゃ。」
「やっぱり好きだったんですね。」
「知らん知らん。ふりむくな、ふりむくな、うしろには夢がない。寺山修二やったっけ? そんなこと言うとったな。」
「僕の後ろに道はできる、じゃなかったでしたっけ?」
「 sclap君、それは高村光太郎。」
「隅っこでレモンでもかじっとけやおまえは。おまえの本当の空なんかどこにもないぞ。そうやクズ鉄、食堂からレモンパクって来い。焼酎にはレモンいるやろ。梅干しはあかんぞ。わし、年寄りくさい食い物嫌いやねん。」
「もう十分年寄りですよ現詩さん。」
「そんなことあるかい。わしこう見えて、生まれたての仔猫みたくピュアやねん。気持ちはガラスの十代やねん。壊れそうなものばかり集めてまうねんな。なんでて思春期に少年から大人に変わりそこねてるやろ‥‥‥って誰が壊れてもうたRadioや! まだまだ現役じゃ! わしにもほんまのしあわせ教えてほしいわ!」
「うわ、飲んだらさらに面倒くせえなあんた! とにかく、レモンは諦めてください、職員に見つかると厄介ですから。sclap君は、酒はいけるのか?」
「いえ、ほとんど飲んだことないんです。」
「そうか、これも大人のたしなみだ、社会勉強だと思って飲んでみるといい。」
「せやせや、わしの注いだ酒飲めん言うたら張り倒すぞクズ鉄。」
「はい。」
 ぼくは恐る恐るグラスに口を付けた。
「‥‥‥うえっ、ゲホッ、ゲホッ‥‥‥。」
 それを見ていた二人が声を上げて笑う。
「そらそうや、いきなり焼酎のストレートなんて、お子ちゃまのクズ鉄には100年早いわ!」
「どれ、カルピスソーダで割ってやろう。」
「すみません‥‥‥。」
「何、謝ることはないよ。おれも若い頃はそうやって親方に仕込まれたもんさ。」
「親方?」
「うん、大工の見習いみたいなことをしていてね。」
「なんやヌンチャク、おまえ大工やったんか?」
「いえいえ、若い頃の話ですよ。厳しい上下関係が肌に合わずにすぐにやめました。」
「わかるわかる、おまえクソ生意気やもんな!」
「酷いな、現詩さん。おれのことそんなふうに見てたんですか?」
「家族はいてるのか?」
「昔結婚してましてね、子供も男の子が一人、朔太郎って名前なんですけど、十年前に離婚してそれきり、今は独り身ですよ。」
「なんや独り身か、わしと一緒やないか。朔太郎、ええやないか。『人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。』っちゅうやつやな。男は黙ってロンリーウルフや。孤独にもA級とB級があってやな、もちろん萩原朔太郎は文句なしのA級やけど、わしらみたいな、けして世に出ることない無名のネットポエマーでもやな、心持ちと覚悟だけはいつもA級でありたいわな。」
「たまにはいいことも言うんですね。」
「待て待てクズ鉄! たまにちゃうやろ! わし、人生もポエムも喋りも、いつでも全力投球真剣勝負、勇気100%やっちゅうねん! 常にええことしか言うてへんわい!」
「でも自己評価だけは恐ろしく高い。」
「当たり前やろ! わしの人生や他人の評価なんかあてにできるかい、わしの価値はわしが決める。そう言うおまえはどうやねんヌンチャク、ほんで、嫁はんに逃げられて、ネットポエムに慰めを見出だした、ってわけか。」
「まあ、そんなところですよ。」
「クズ鉄、おまえは女おるんかい?」
「いえ、あの、いないです‥‥‥。」
「せやろな。聞くまでもないわな。こないだのグループカウンセリングで見たおまえのポエム、モロゾフやったっけ? ほんまあれは酷かったわ。おまえ童貞やろ? 僕の前に女はいない、この遠い童貞のため、ってな。」
「‥‥‥。」
「まあまあ、気を落とすなよ、あれはあれで、思春期の煩悶が鮮やかに描かれていて、なかなか良かったよ。おれの子も君と同じくらいの年だから、あれから10年か、もう大きくなっているんだろうな。」
 ヌンチャクさんの優しい眼差し。ぼくに別れた息子さんの面影を重ねているのだろうか。なんだかくすぐったくなって、ぼくは目をそらした。
「せやせや、おまえよう見たら目ェクリッとして子グマみたいで、年増に可愛がられそうな顔しとるわ。将来マダムキラーになるんとちゃうか。世の中広いからな、どっかに年上の美女に囲まれてチヤホヤされる夢のような世界があるかもしらんぞ。」
「別にうれしくないですよ。」
「まあまあ、まだ若いんだから人生も詩もこれからさ。飲めよ。」
「孤独と、酒と、ネットポエム! それがわしらの人生や!」
「いよっ、自称天才詩人!!」
「自称は余計や! それが生意気やっちゅうねん!」
「酒の席とネットポエムは無礼講ですよ無礼講。そうそう、おれね、無礼派っていうHNも持ってるんです。」
「知らんがな! 誰得やねんその情報! ええかクズ鉄、ポエムはいつか現実を越えるぞ、ネットポエムが文学史を塗り変える日が来る! いつか来るその日のために、ネットの海で華々しく雄々しく散る、我等ポエジーに命捧げた幾千幾万の特攻兵や! ネットポエム万歳や! 死ぬ気で詩ィ書けよ! って言うてもほんまに死んだらあかんで、喩えや喩え、大人は見えないしゃかりきコロンブス、そういう気持ちやぞ、わかるか?」


  大いなる文学のために、
  死んで下さい。
  自分も死にます、
  この戦争のために。
  『散華/太宰治』


「しゃかりきコロンブスって何ですか?」
「なんや知らんのかいパラダイス銀河! まあええ、たとえ我等の詩が過去ログの藻屑と消えようとも、我等の高い志、崇高な魂は必ずや後世のネット詩人たちへと受け継がれて行くであろう、ええかクズ鉄、おまえのかついだ空、渡せよ次の世代に!」
「はい!」
「ネットポエムは永久に不滅やでな!」
「はい!」
「現詩さん、巨人ファンなんですか?」
「そんなわけあるかい、わし今でもバリバリの近鉄ファンや。おまえら知らんやろうけどな、藤井寺球場で野茂育てたん、あれ、わしや。」
「え、本当ですか?」
「sclap君、それ嘘だから! 簡単に人を信じない!」
「嘘ちゃうわい、ポエジーやっちゅうねん!」

 他人と笑いながら話をするなんて、何年振りだろう。酒の力も手伝って、ぼくは二人の話に大声で笑い、また自分もいつもより饒舌になった気がする。酒を飲んで詩の話をすることが、こんなに楽しかったなんて、ネットポエムとはまた違う興奮にぼくは包まれ、知らず知らずに飲めないはずの酒が進んでいたらしく、ひどく悪酔いして、いつの間にかその場で眠ってしまったようだった‥‥‥。


「おいっ! 起きろクズ鉄! いつまで寝とんねん!」
 どれくらいの時間がたったのだろうか、眠っていたぼくは、現詩さんに蹴り起こされた。
「‥‥‥おはようございます‥‥‥。」
「何寝ぼけとんねん。早よ起きて自分の部屋見てこい。」
 何が何やらわからないまま、ぼくは現詩さんに腕をつかまれ、無理矢理立たされた。
「すみません、ちょっと待ってください。」
 頭がガンガンする。目を閉じると頭を中心にして体と世界がグルグルと回っているような気がして、吐き気が込み上げてくる。これが二日酔いというやつなのだろうか。
「しっかりせえよ、おまえ、金目のもん取られてへんか?」
「はい?」
 ぐたりと座り込んだぼくを見下ろし、赤ら顔の現詩さんが言う。
「ヌンチャクや。あいつ、金持って逃げよったぞ。」
「何が?」
 突然叩き起こされ、まだ酔いの残っていたぼくは、正常な判断力を失い、現詩さんの言うことを理解できずにいた。
「何がやあるかい。ヌンチャクがわしらの金奪って逃げたんや。あいつ、始めからこれが狙いやったんや。騒ぎに便乗してわしらに酒飲ませて、酔うて寝てるあいだにまんまとやりよった!」
「窃盗、ですか? まさか――。」
 ぼくはなんとか話は理解したものの、酷い目眩と吐き気をどうすることもできなかった。
「ちょっと、吐いてもいいですか?」
「アホウ!こんな時に何言うてんねん!吐くのはクソポエムだけにしとけやクズ鉄!」
 ぼくは四つん這いのままトイレまで這って行き、そのまま洋式便器に顔を突っ込んで吐いた。酸っぱい透明な液体を噴水のように吐くだけ吐いて、悲しいのか悔しいのか涙と鼻水で顔中グシャグシャにしながら、しばらく身動きが取れずにいると、現詩さんが呼んだのだろう、二人の職員に両脇から体を抱え上げられ、ぼくの部屋へと連れていかれ、そのままベッドに寝かされた。その後、夜中も何度か目を覚ました記憶がある。ベッドの横で、職員が付き添っていたようだった。

 翌朝6時。いつものようにTop Of The World で目覚めたぼくは、昨夜の記憶を思い返していた。ヌンチャクさんが窃盗、本当のことなんだろうか。職員はもういない。事務所へ顔を出して、昨日はすみませんでした、と声をかけた。もうすぐご両親が来られますから、しばらく部屋でお待ちください、と職員に言われ、それ以上詳しい話は聞き出せなかった。

 食堂へ行くと、現詩さんが今か今かとぼくを待ちかまえていた。
「早よ座れや。二日酔いは覚めたか?」
「はい、昨日はすみませんでした。」
「そんなんええねん。おまえ何にも取られてへんか?」
「いや、ちょっとまだ、確認できてないんですけど、あの、本当なんですか、ヌンチャクさんがまさか、盗みなんて‥‥‥。」
「間違いない。わしも昨日の記憶が途切れてるんやけど、あいつ酒になんか入れたんちゃうか? わし酒は強いほうやねんけどな。油断したわ。現金とクレジットカード全部いかれてもうた。」
「‥‥‥‥。」
 ぼくは言葉を失っていた。もめ事が起こった際にはいつも仲裁役を買って出ていた、正義感の強いヌンチャクさんに、まさか窃盗癖があったなんて‥‥‥。信じたくなかった。嘘だと思いたかった。
「クズ鉄、目ェ剥いてよう見ろ、事実は小説よりもポエム、これが現実やぞ。」
「‥‥‥なんだか、昨日今日といろいろありすぎて、何を信じたらいいのか、よくわからなくなりました‥‥‥。」
「何言うとんねん。ネットポエムも現実の世界も一緒や。ようさん人間がおって、悪い奴もおればええ奴もおる。気の合う奴もおれば虫の好かん奴もおる。出会いがあって、それと同じ数だけの別れがある。おまえまだ、必死になってしゃかりきコロンブスで生きたことないやろ。早よ胸のリンゴ剥けや。人間ゆうのはな、おまえの知らんところで、笑ったり泣いたり傷付いたり怒ったり嘘ついたり裏切ったりしながら、それでも人間を諦めんと、ええ奴も悪い奴もみんな必死になって生きてんねんぞ。おまえそういうこと知らんやろ。せやから人の上っ面しか見ようとせえへんねん。ネットポエムも現実の世界も一緒や。ただひとつ違うのは、そこにポエジーがあるかないかや。」
「‥‥‥はい‥‥‥。」
「でも、まあ、良かったわ。」
「‥‥‥何がですか?」
「詩の次に大事なフランク三浦は盗まれへんかったわ。ほれ。」
 現詩さんが右腕をぐっと前に付き出して愛用の腕時計をぼくに見せた。よく見ると文字盤に、『フランク三浦』と書いてある。
「これ、フランク・ミュラーのニセモノじゃないですか。」
「アホウ、バッタもんちゃうわい、大阪は西成生まれのオリジナルブランドや。遊び心でリアルを越える、どや、これこそポエジーやろ?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥。」

 昼前、ぼくの両親が施設に到着し、事務所でしばらく話をした後、ぼくは現詩さんに別れの挨拶をする間もなく、実家へと連れ戻された。結局、ぼくの持ち物からも3万円ほど盗まれていたらしい。父親は施設への不信感を募らせ警察に被害届を出すと息巻いていたが、ぼくはなんとかやめてもらうように頼みこんだ。ヌンチャクさんの行方は、まだわかっていない。

「他人の意見に振り回されずに、自分をしっかり見つめることだ。」

 ヌンチャクさんの言葉が、今は虚しく響く。口先だけのきれい事を並べて本当はただのコソドロじゃないか、そういう気持ちはもちろんある。けれどなぜだか、ヌンチャクさんを恨む気にはなれなかった。ヌンチャクさんも、現詩さんも、駆け落ちした園子さんと吉永さんも、みんな本当は心の中にいらないものをたくさん抱えていて、やり場がどこにもなくて、それでも大人だから泣き言ひとつ言えずに、一生懸命虚勢を張って生きているのだ、そう思うと、今まで長いこと一人で抱え込んできた胸のつかえがすっと取れたような、ただ重苦しいだけだった人生が、儚く脆く、それでいて愛しいものに思えてきた。ぼくはまず、部屋の片付けから始めた。カーテンを開け、窓を開け、雨戸を開ける。何重にも覆ってきた心の殻を破り、世界を、光を受け入れる日が来たのだ。


 家に戻ってから2ヶ月後には、ぼくはコンビニでバイトをするようになっていた。1日4時間ほどの勤務で、パートタイマーの主婦たちに囲まれながら、慣れない仕事を教えてもらっている。人手が足りない時は、夕方から夜の時間帯に入ることもある。同年代の子と喋るのはまだ少し気後れするけれど、必要以上に劣等感を抱くことはない。
「誰にだって、人には言えない秘密もあります。」
 ヌンチャクさんの言葉だ。そりゃそうだ、と今では思う。けれども、引きこもっていた頃のぼくには、世間の人たちは皆、自信に溢れ、毎日を充実して送っているように見えて、いつも眩しかった。ぼくだけが暗い穴の中に落ちているように錯覚して、現実逃避からネットポエムに依存し、あがくことすら諦めてしまっていたのだ。

 実はまだ、ぼくはネットポエムを卒業できていない。『実りある生活』でリハビリを受けたけれど、結局、詩を辞めることはできなかった。今も毎日ポエムサイトを覗いている。ネットに投稿していると、たまに、酷い罵倒や批判を受けることもある。時にはそれが作品評を越えて、作者の人格を否定するような言葉になることもある。以前のぼくは、そういう厳しい言葉の表面的な意味ばかりにとらわれ、深く傷付いたり、落ち込んだりしていたものだけれど、最近は、酷いコメントを入れられても、その言葉の裏には何があるのだろう、相手はどういう表情をしているのだろう、と考えるようになった。
「クズ鉄、おまえの詩ほんまクズやのう。」
 毎朝そう言いながらうれしそうにぼくの詩を読んでくれた現詩さんの笑顔、名誉の負傷だと自慢していた半分欠けた前歯が思い浮かぶ。

 毎日のようにポエムサイトを覗いていると、人の動きがよくわかる。誰と誰が仲がいいとか悪いとか、やはりここも世間と変わらないのだ。なんだかみんな顔馴染みのような気さえしてくる。人の悪口ばかり言っている現詩さんに似た人もいれば、園子さんと吉永さんみたいなカップルもいる。他人のもめ事に横から余計な口を挟み便乗して騒いでいるあの人は、HNこそ違うけれど、本当にヌンチャクさんじゃないかとぼくは思う。もう二度と会うことはないだろうけど。

 いつの日か、ぼくがもっと年を取って、現詩さんやヌンチャクさんのようになって、ポエムバー『北極』で、若い子たちと、酒を飲める日が来ればいいなと思う。ぼくは言うだろう、ポエムもリアルも一緒なんだよって、そこに、ポエジーがありさえすれば、と笑いながら。

 ぼくの名前は葛原徹哉。初給料でフランク三浦買いました。最近、少し酒を覚えました。詩は、まだまだこれからです。あなたは、どなたですか?

文学極道

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