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作品 - 20151012_508_8366p

  • [優]  希死 - zero  (2015-10)

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希死

  zero

死にたい、という発語が季節の初めての落葉のように池に浮かんだ。毎日ひげを剃ってはコーヒーを飲んでスーツを着ていつもの道を出勤する、そんな生の周到な殻が静かに割れたかのように。僕は部屋で本やCDが平積みになったテーブルの前に座りながら、小さな蛍光灯の光を斜めに浴びて、己の生が抉られた痕の傷をなぞっていた。この人間の生というものは、心とも命とも魂とも違い、ましてや体とも衝動とも息吹とも違う。どんな比喩からもするするとすり抜けてしまうので、もはや言葉ですらないかのようだ。言葉ではなく体験や流れそのものであり、言葉にすることにより実体が隠蔽されてしまう繊細な基底、それが生である。この滑らかな生はどこまでも届いていくはずだった。太陽の熱と共に伸縮し、夜の闇とともに形を消す自然の一部として、遥かな消失点ですべての存在と共に混じり合うはずだった。この生の殻の内側に何があるのか、僕にはよく分からない。時間や空間の素になるような始原的なものが入っているかのようにも思えるし、空虚であることすら否定する絶対的な空虚が入っているかのようにも思える。ただ今回分かったことは、そんな生の周到な殻が割れたとき、内側からにじみ出てきたものはすぐさま外気と化学変化を起こし、死にたい、という発語に姿を変えるということだ。生の殻の内側にあるものは単純な死ではなく、むしろすべてが始まるときのかすかな音響のようなものが積もっているのかもしれない。死にたい、という発語は、実は、生きたい、を意味しているのではないか。実際、死にたい、という発語には、生きなければ、という意志がすばやく続き、そのあとに、なんでこんな言葉が発されたのか、という驚異が僕を覆い尽くした。死にたい、は漠然と死に向かう人間を生の側に呼び戻す警笛の音であり、死の眠りをまどろんでいる人間を覚醒させる冷水に他ならない。しかしそれは本当だろうか、死にたい、が訪れたときの異様な静けさ、その瞬間に垣間見た何もかもが混然となった真実のようなもの、そして絶望に似た甘い法悦、それらは生とも死とも違う属性を帯びていた。生や死が答えであるのなら問いのようなもの、生や死が方向であるのなら点のようなもの。僕の生の殻はひどく抉られていて、痛みははなはだしく、その抉られて薄くなったところが割れて何かがにじみ出し、それはすぐさま、死にたい、という発語に変わった。僕はバッグに入れて持ち運ぶものが一つ増えた気がした。長旅の際に思いを巡らす中継地点ができた気がした。過去にも未来にも同じだけの傷がたくさんちりばめられた気がした。

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