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  • [佳]  墓石論 - 蛾兆ボルカ  (2015-07)

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墓石論

  蛾兆ボルカ

引用(昨日の日記より)・・・・・

僕は才能という語を、『成長や努力によって乗り越えられる可能性の限界より高い壁』という意味で使ってます。
街を歩けば、いろんなところに現実に壁が存在してるじゃないですか。
それと同じ感じのことで、ひとはみな壁だらけの世界で生きてますが、豊かな才能をもつひとは巨大な壁をもっているし、独創的な才能をもつひとは、不思議な場所に壁をもっている、というイメージです。

引用終わり・・・・・


ひとつ前の日記に、『才能とは壁である』、ということを書きました。
石川淳の安部公房批評なんかの材料をトントン積み木して書いたのではありますが、自分がこれまで考えてきたことにはよくフィットする表現だったような気がします。
カフカの『門』と漱石の『門』に言及して、開かない門ってことは、壁に門の絵を描いたってことだよね、と述べたのも、『してやったり』と思いました。
壁論、自分ではかなり気に入ってます。


そこでこの壁論を、都市論に展開してみているのですが、やりはじめて暫く想像の都市を探索散歩してたら、墓地の風景が想像の視界に入りました。
今日はそれについて書きます。


才能が壁なら、壁はひとつじゃないはずですよね。ですよね、と言われても、その前提条件の『才能とは壁である』に、誰も賛成しないかもしれないけど。

それでも良いので話を進めると、一人の人間につき、数十個から数万個ぐらいの壁があるはずであり、それはそのひとひとりが居住する主観世界、僕の造語で言い換えて、【絶対都市】を構成すると思います。
壁でできた、住民1名の架空都市が、人間1人につき一個あるわけです。


だけど人間の世界観ってやつはやはり、他人がいないとつまんないというか、なんかシックリこないものなので、この絶対都市は、他のひとの絶対都市と共通の宇宙内に存在し、みんなでひとつの【相対都市】を構成していると想像したほうがピンときます。

そこで一段階戻って、絶対都市と呼んだものは、よく見たらやっぱり、一個の建築物だったと考えます。
それらの形は様々で、ビルもタワーも方舟もピラミッドもあれば、病院みたいなのもツェッペリン号みたいなのもあるでしょう。だけど、どれもみんな何らかの仕組みで内側と外側が混在する、開いた形態をしていると考えます。
で、それらが複雑に内外で混ざりあいながら、世界すなわち【相対都市】が形成されていると想像します。

例えば、僕の絶対都市の一隅に、僕の『詩の才能』が一枚の壁として存在してるのですね。
でも空間的にそれにくっついて、誰か他のひとの『詩の才能』が一枚の別の壁として存在してる。建築物としては空間的に混在してても、そこは別の絶対都市だから、その『他者の詩の才能』たる壁には、僕は触れません。でも見える。蜃気楼みたいなものです。

概略そんなメトロポリスを散歩します。

すると、ある角を曲がったところに、広大な墓地があるんですね。
そこには大小の壁が整然と整理されて並んでるんですが、それは死者が生前持っていた才能(イコール壁)が、コンパクト
な長方形の石に変形したものなのです。

例えばですね。

今、我々の目の前にある、この黒い墓石が宮澤賢治の才能です。

ああ、これが彼の才能かあ、と思いますよね。
そんなに巨大なわけじゃないです。むしろたいへんコンパクト。なぜかというと、なにせ彼は死者だから、可能性という要素の大半を失ってるからですね。
でもやはり美しい。

そんな墓石が何兆個のオーダーを遥かに超える数で、だーっと、静かに並んでいるのです。

結構、いい感じの墓地だと思います。

賢治の才能の墓石を過ぎて、暫く小路を歩いていくと、生前、童話作家だった僕の母の墓石があるのですね。
彼女は200篇の童話を書いて、最後まで創作に悩みながら亡くなりましたが、たぶん無名のまま、だんだん忘れられていくのではないかと思います。

そんな彼女の才能のお墓に、僕はお花を供えるのですけど、これがですね。なかなか素敵なお墓なんですよ。明るい灰色の大理石のね。
彼女が敬愛した賢治のお墓と、素敵さではそんなに違うわけじゃない。訪れるひとの数とか、供えられた花の数は、さすがに違いますけどね。

彼女の墓から立ち上がって、周囲を見渡すと、穏やかな風が少し吹くんだな。
ここは比喩の都市だから、この風もなんかの比喩なんだろう。だけど、なんの比喩なのか、僕にはわからないのです。

文学極道

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