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作品 - 20150608_523_8113p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


観賞魚

  リンネ

アダンの葉の裏に隠れたナナホシキンカメムシの光沢が照り返った日差しを受けて乱反射している。その輝きに呼応するようにして鬱蒼とした茂みのなかから浮かび上がる無数の頭蓋骨が、眼窩の空洞にくらやみを蓄えて近寄るもののなにもかもを飲み込んでいた。ひんやりとした地面のそこかしこで小さな甲虫が土埃をかすかに舞い散らせながら交錯して、いくつもの読み取ることのできないメッセージを繰り返し描いている。断末魔の叫び声が洞窟のなかにこだまし、そこで増幅した声音がいつまでもスローモーションのように重たい時間のうずまきに滞留している。あたりに満ちているのは水の揺れる音すら聞こえる驚くほどの静寂だった。ふと幻想の魚が洞窟から流れてくるひとすじの空気に逆らって泳いでいくのが見える。尾ひれからほとばしる虹色を浮かべた水滴が、透明な歴史の軌跡を色づけするようにしていつまでも消えずに宙づりになって残っている。その魚の顔面には無垢な輝きがあった。いずれ死ぬはずのものに特有の痺れるような輝きが、その洞窟のなかに堆積したあらゆる記憶を順々に照らしていくのだ。気がつけば数えきれぬほどの観賞魚があたりに散らばる頭蓋のなかから溢れ出て洞窟の方へ流れている。もう洞窟の内部は生きることも死ぬこともできないほどにまぶしい光の洪水に満ちて見えない。



まっくらな世界に、おまえは生まれまいと抵抗している。粘膜のようにまとわりつく時間が、時間の周りに幾重にも重なってはりついて、おまえは微動だにできないまま産み落とされかけている。むりやりのように開かれた目やにだらけの瞳を通じて、ようやくおまえはいまおまえの抜け殻を眺める。おまえはおまえの抜け殻の周りにあつまる虫けらのようなおまえの親族たちを眺める。そこでおまえはおまえの抜け殻に近づくおまえの息子に気がつく。おまえはおまえの抜け殻に火を放つおまえの息子を眺める。おまえはおまえの抜け殻に放たれた火が、おまえの抜け殻の顔面を焦がしていくのを眺める。おまえはおまえの抜け殻を燃やし尽くす炎に怯えて逃げ惑うおまえのまわりに集まる虫けらのようなおまえ同然の親族たちが燃えていくのを眺める。おまえはおまえの息子がおまえの抜け殻がごみくずのように燃えていくのを眺めて笑うのを眺めている。

おまえはおまえの息子がそのひんやりとした洞窟のなかにおまえの息子の家族を連れていくのを見てなにを思うか。おまえはこのまっくらな世界のなかで一段とくらやみに包まれたこの場所でおまえの息子がおまえの息子の家族に手をかけるさまを見せつけられてなにを思うか。おまえはなにもかもを見なければならない。おまえはおまえのほかだれでもないおまえじしんの息子の演じる一幕の唯一の観客なのだ。おまえは知らず知らずのうちに泣き始めた。おまえはおまえじしんの涙の表面に何重にもゆがんだおまえじしんの息子が映っているのをしらないのか。さあおまえは新たな命を生きねばならない。もはやおまえはおまえじしんをおまえのまま生きていくことはできない。おまえはもうおまえの息子に見せられたすべてを忘れることはできない。



Kがまだ高等専門学校に在学していた頃、父親が、巨大な水槽と何匹かの熱帯魚を突然家に持ち運び、自室にそれを置いて飼育を始めた。父は毎日朝早く家を出て仕事場に行き、いつも決まった時間に帰宅したあとはご飯を食べてテレビを見る。そうしてだいたい十二時前には床に着くという単調な生活を送る父には、それまでなんの趣味もないようにみえた。Kとしてはそうした父親の非人間的とも言えるような単調さに畏怖の念すら抱いていたものだから、意外に人間臭い一面もあるのだと、ある程度の好感を持って父親のその急な行動を見ていた。ところが何ヶ月かしたある夜、父が不気味に明るい声で観賞魚の一部が死んでいることを母に伝えた。そうして死んだ魚を網で乱雑にすくうとすぐにトイレに駆け込み、その魚を便器の中の汚水に放り込み、水洗レバーを大の方へまわし、勢いよく渦をまく便座の水流に飲み込まれて、死んだ魚は消えてしまった。母はやめなさいよ、と半分笑いながら諭すが、恐怖がその表情の裏側でふかく流れているのがKにはわかった。Kはそれまでの漠然とした父への恐れが、決定的な具象性をもってあるかたちを帯びていくのを感じた。何の感慨もなく屍体を処理するその光景に彼は初めて悪魔的なものを見た思いがし、それが自分の父親の行為であることがにわかに信じられなかった。その夜から、Kは自分の死骸が父親によって巨大なトイレの底に流されていく悪夢を、たびたび見るようになった。

ベッドに伏す父親の周りに、喪服に身を包んだ親族がびっしりと集まっている。Kは枕元に行き線香を焚く。近くで見ると、実に穏やかな表情である。死化粧をしているからか、どことなくマネキンのようなうさんくさい顔つきになっている。しかしそれはただ化粧をしているからではない。眉間から頭頂にかけて、見えずらいが一筋の切れ目が入っているのが見える。それは父親の抜け殻なのであった。Kはそうして抜け殻となった父のまわりに集まる親族たちが、なにか滑稽なものに見えてしょうがなかった。すべての欺瞞を暴くために、Kはおもむろにライターを取り出すと、父のその抜け殻の表面を燃やした。するとみるみるうちに火は勢いを増して燃えあがり、吹き上がるように天井まで炎が登っていく。頭上に広がる炎の海の中からなにかがKの額にぶつかって足元に落ちた。目前の炎に照りかえって青白く光るそれは、一匹の観賞魚であった。くねくねとのたうちまわりながら、死へと急速に向かっている。Kはその見覚えのある観賞魚を踏み潰そうといきおいよく足を上げた。一瞬、かれは父にすべてを見られているような気がして、それ以上動くことができなかった。Kはそのまま反転して生家を飛び出し、扁平な甲虫のように素早く自動車へ乗り込んでアクセルを踏んだ。かれはすべての因縁を追い抜くようにして何台もの車を幾度となく追い越した。そして翌日の早朝、Kは羽田空港から家族とともに沖縄本島へ向かい、そのまま読谷村にある有名な自然洞窟のなかで家族心中した。こうしたすべてのことは人々の記憶から水洗トイレへ流れるようにあっけなく消えていった。



インターネットを開きながら、おれは沖縄戦で集団自決を経験した人物の証言を覗いている。山の中の壕で家族をカミソリによって失血死させ、最後に自らも自殺を図るが、どうしても死にきれないで助かってしまった父親というのは、いったい何を感じるのだろうか。おれは試みに、自らの父親が自分の首元にカミソリの刃を突き刺すところを妄想してみた。ぐさりとやられた感触を首に感じる。血しぶきを浴びる父の顔を見ようと、振り返り、いまわのきわに目を見開いた。父の顔のあるはずのところには、無数の甲虫がひしめき蠢いており、容易にはうかがい知れなかった。となりでは妹と母親が血の海に溺れて、すでに傷口から白いものがはみ出して動いている。気づけば周りでは複数の家族が殺し合いを始めており、馬乗りになり、包丁で兄弟をどすどすと刺し続ける者や、赤ん坊を岩に叩きつける母親、注射を片手に毒殺の説明を始める看護婦などがいた。ふいに、そんな窒息しそうな妄想を取り消す明るい調子で、現実の台所から妻の呼ぶ声がした。それでも無視したままでいるおれを呼びに、今年小学校に入学したばかりの娘が部屋に入ってくる。おれは妄想をやめ、娘に怒られながら台所へ行き食卓につく。突然、電話が鳴る。母からだった。父が死んだという。原因はなんだというおれの質問に、母はにわかには答えづらい様子で沈黙している。本当は死んでいないのかもしれない。父が死ぬはずはないのだ。包丁をもったまま台所で立ち尽くす妻に話を伝えると、身支度を始めた。一人車に乗り込み、エンジンをかける。大きな舌打ちをしてから、おれはせき切ったように嗚咽した。

文学極道

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