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作品 - 20150328_994_7980p

  • [佳]  請求 - ゼッケン  (2015-03)

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  ゼッケン

増感嗅覚を構成するため、鼻腔奥へ移植した強化神経塊が、しかし、
予想より早くガン化したおれはチリ大学医学部で摘出手術と再移植を受けるため、
千葉からサンティアゴへ飛ぶ飛行機のエコノミークラスの席に座った
鼻にあてたハンカチを外し、視線を落とすと絹地に薄い色の血が染みをつくっている
旋回のために機体が傾き、東京湾にブイが浮かんでいるのが見えた
海面に波はなく、空は厚い雲で閉じていた
嗅上皮のガン組織は毛細血管を独自に引き込み、増殖を続けていた
急ごしらえの血管があちこちで破裂し、おれは鼻血が止まらなくなっていた
おれには嗅覚強化手術を受ける前の記憶がなく、一年前の記憶だけでなく、
なぜ、おれが記憶を失ったのか、その理由こそがおれの失ったものだった
嗅覚は五感のなかで記憶を引き出す力がもっとも強いそうだ
匂いや香りといった嗅いだものは光や音といった視たもの聴いたものよりもっと奥へ根を張るのだ
記憶喪失者を対象に嗅覚を強化し、記憶を呼び戻すための治療だと医者は言った
おれがその男を医者だと思ったのは病院で白衣を着ていたからだった
記憶を失った状態で発見されたおれを入院させてくれた身元引受人の男は言った

治療費は

きみの新しい鼻をすこしばかり我々の仕事のために役立ててくれたらいい
おれは電通のサーバールームや感染研の実験室を訪問し、匂いを嗅ぎ、
帰ってから身元引受人が机上に並べた数点のアイテムの匂いを嗅ぐ
ペンやグラス、数本の毛髪、ときには切り取られたと思しき肉片
だいたいは、どれかのうちひとつの匂いは訪問した部屋の中で嗅いだ空気の中に同じものが混じっていた
アイテムの持ち主が侵入者だ
変装や光学迷彩では匂いはごまかせなかった
おれは犬の仕事を奪っている
おれが身元引受人にそう言うと、身元引受人は
人ひとり拷問するのに犬がワンと哭いたからと、きみは
これから拷問を受ける本人に説明するのかい?
と言った、そうですか、とおれは言った
犬はなぜ犬がワンと啼くのかを説明できない
説明可能な理由を罪と呼ぶ

飛行機は上昇を続け、やがて水平飛行に移る
その前に巡航高度に達したというアナウンスがあるだろう
飛行機が飛ぶのは機能と構造があるからだ 理由があるからではない
おれにも理由がなかった 機能と構造があるだけだった
機能と構造が外界に剥き出しになっており、内部がなかった
外部環境と内部モデルの境界が理由であり、事象の順列を因果律と呼べるのは人間に理由があるからだった
理由そのものが自然科学の対象にならないのであれば、理由の追及が人間性そのものということになるのだろう
個々の事象に関する後付けの説明は理由の誤謬だ、理由は人間に先行する思い出なのだった
存在とは思い出だった
おれと飛行機は記憶喪失だった

文学極道

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