#目次

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ゼッケン

選出作品 (投稿日時順 / 全61作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


グラフ

  ゼッケン

風のない空から
ゆっくり降ってくる雪は
漂白された羽毛に見え、それが
西洋人の友人に
天国を連想させたらしい
天国とはトリ小屋のような場所らしい

死にたいと思ったことはない
死んでもかまわないのだが

こんな嘘をついて気さえ楽になれば
ぼくらもまだ生きていけるということだ

雪は地上の引力と空気の抵抗がつりあった一定の速度で
まるで
糸で引っ張られているかのように
地面まで落下してそこに積もる
地面がなければいつまでも降り続けるのだろう
一定の速度で
速くもならず
遅くもならず
どこまでも
ただ、決まった方向へ
その方向へ向かって
ぼくらが上昇し続けているのかもしれない、静かな
トリ小屋のような場所へ

会議室のドアがノックされ、窓の外を見ていたぼくらは振り返り
時間どおりに部屋へ入ってきた中国人と手を握りかわし
着席したぼくらの目の前のスクリーンには
グラフが次々と映し出される
死の瞬間さえスキップできれば
死そのものは怖くないのだが
脳のネットワークがぷちぷちとちぎられていく
その時間さえなければ

中国人はどう思っているのだろう

もっとも、彼らは死なないのかもしれない
そうじゃなければ
彼らの数の多さを説明できるのだろうか
いつかは死ぬとしてもそれは
ずいぶん先のことなんだろう
ぼくの国の人口は減る
それは毎日生まれてくるより死ぬ人間の方が多いということだ
ネットワークがぷちぷちとちぎられていく
虫食いの脳は幻覚を見るそうだ
白いシーツのベッドが並んだ清潔なトリ小屋のような病院では
その頃、老人となったぼくが片腕に孫のようなクピドを抱き
もう片方の手でむしった羽を地上に降らす
数の少ない人々の頭上にも雪が降るだろう
彼らはそれがどこから来たか分からない
ぼくが天国にいることを知らないからだ
ぼくだけでなく、みんながそこにいて
風のない空から雪を降らせる
少なくなった人々が
ふかふかのベッドにふたりでもぐりこめるように

グラフの数値について検討したぼくらは
ノートパソコンを閉じて会議室を出る
今日はダウンタウンのフランス料理屋にランチの予約を入れてある


鉄分

  ゼッケン

スーパーの野菜売り場できゅうりを一本ずつ折っていると
緑のエプロンをつけた店員さんがとんできていきなり正解を言う

そんなことするのやめてくれませんか、買う買わないの話以前にみっともないから

きゅうりを真ん中で折るのは難しく
左右の
どちらかの手で持った方の端に近いところでパキリ、と
新鮮なしぶきをあげて中身の白い腹を見せ
折れる、緑色のイオンが
飛び散る幻影が
空気を洗ってくれる
そんな気がする
信じるものは救われるというだろう?

破壊の帝王です
ぼくは言った、店員さんが腰に手を当てて黙ってぼくを見ていた
ぼくはすこし慌てて付け加える
きゅうりにとっては、という意味です
大根はぼくには無理だった、ぼくはすでにぼくの限界を認め、その非力を恥じていたのだった
しかし、じつを言えばそれはより大きな恥をかかないためだったし、しかも
スーパーの野菜売り場の店員さんにはいくらぼくが恥をかこうと同情する義務などありはしないのだ
もしも自発的な共感の結果、同情しえたとしても
スーパーの野菜売り場のエプロンをつけた店員さんにはぼくの非力を
同情はできても許すことはできない、
ぼくの非力を許す権利は与えられていないはずだ、なぜなら

パートタイムだからだ

客がレジで金を払うまでは野菜が食料でもあり生ゴミでもあるこの野菜売り場の不確かな聖域で
店員さんは流れを見つめているが流れを止めることはできないはずだったが
腰に手を当ててエプロンをつけた人物はぼくにみっともないからやめろと結論した
胸のネームプレートには名前が書いてある
ぼくはその名前を覚えておこう
恋をした

ちなみに、ごぼうも折れないが
それは別の話になると思う


まるごと入った

  ゼッケン

ひとりごとの多いフルーツゼリーであるわしの果肉は
先の割れたスプーンの先端でかんたんにすくわれてしまうのじゃ
しかれども
わしの正体はみなさんがお目当ての果実ではなく
ぐりぐりと掻き分けられる方のゼリーなのじゃ

最初からフルーツゼリーじゃと言うておったのに

情熱をあからさまに見せぬこと それが
情熱的に見せる秘訣じゃ わしの正体はゼリーじゃ 脆弱な蛍光色の
見た目とりすました繕いの みなさんが好んで剥ぎ取りたがる
奥のほうにあるものを真実と信じたがる
そのじつスケスケの猛アピールじゃ
ファンタジーをほおばらせるための

商品じゃ、わしって

ふぉっふぉっふぉっ
ぷるぷるぷる

わしはフルーツゼリーじゃ
木にはならん


公共交通機関

  ゼッケン

ぼくは冬のバス停に立っている
乗るまいと決心していた
バスは凍結した滑りやすい道路をまだ来なかったが
しかし、バスのあの巨体
視界をすべて塞ぐであろうあの
圧迫感

必ず視野の右端から入ってきて
全体を埋めて目の前に止まったとき
圧縮空気の解放音がして
扉が開く、そのとき
ぼくは果たして
乗らないでいられるだろうか
真冬のバスはすでに時刻表より遅れているのであり
動かないぼくを見て
ぼくを見下ろす窓の向こう側にいる全員が舌打ちするのだろう
車内には無人の扉から寒気が流れ込むだろう
ぼくを乗せるためにバスは止まった、しかし
ぼくはその期待を裏切ってみせる
巨大な鉄の期待を、だ
ぼくは他人を傷つけたいくせに
報復を恐れている
ぼくは彼らの時間を10秒ほど浪費させるのだ
歩道に立ち止まっている限り
ぼくは優位であり
時刻表を守れないバスは焦っており
ぼくに罵声を浴びせつつも
凍結した道路を走り出さねばならない
外壁から氷と雪を振り落としつつ出発したバスの最後尾の席に陣取った人物は
ぼくのことを振り返りなどしない
事象の生起は予定調和だが
それは予測可能であることを意味してはいない
復讐心は
冬のバス停に立ったぼくを不安定にしている
可能な未来を置き去りにして立ち去ってしまいたい
凍結した滑りやすい道路を
バスはまだ来ないようだ


舌切り雀

  ゼッケン

おれの半分程度の年齢に見える若い金貸しはスズメと名乗り、
審査と称しておれに手を見せろと言った
おれが掌を差し出すとスズメはおれの手首を掴み、
大きなナイフの尖端ですばやく器用に掌をひとすじ裂き、血を舐めた
すくんだおれの顔を見てスズメはいくら欲しい?と聞いた
おれはもう帰りたかったが別の業者の取立てがあるので金が必要だった
たいへんだね、あんた。他に大麻の配達の仕事あるんだけど。やる?
これからも追われ続けるであろうおれはとにかく金が必要だったので
やる、と答えた

スズメは血の味でその人間がうそつきか正直なのかが分かるのだと言った
うそつきは大麻を持ち逃げするのでスズメは信用しないのだそうだ
おれは正直なのでスズメに雇われて大麻の配達の仕事を始めた
スズメの部屋には大小ふたつの冷凍庫が置いてあり、
注文が入るたびにおれは小さいほうの冷凍庫の蓋を開け、
ジップロックに小分けされた乾燥大麻を取り出して配達した
おっさん、大きいほうを開けるなよ? スズメはおれに念を押した
大きいほうの冷凍庫の蓋には錠がかかっており、もともとおれには開けられなかった
おれにはスズメがなぜ、おれを罠にかける予告をするのか、分からなかった

ベえ、
口を大きく開けたスズメは
おれに向かって舌を出して見せた
舌の先には横切って一本の筋が走っていた
小さい頃、母親に虐待されたのだと言った
はあ、そうですか、とおれは言った
はさみで切り取られた舌先は医者がくっつけたが
腕がよすぎたのかね? それから味がすごくよく分かるようになった
なんの味ですか?
人間の味
はあ、人間にも味があるんですか
スズメはがっかりしたような目でおれを見た

朝の注文が入り、いつものように冷凍庫の蓋を開けると大麻の袋が入っておらず、中は空っぽだった
それでおれは大きい方の冷凍庫の蓋を開けた
開けてから、いつもはかかっている錠が外されていたことに気づいた
罠の解禁と発動が意味するものは
今日はスズメにとってなにかの記念日なのだろうか
誕生日? 舌を切られた日?
大きいほうの冷凍庫には凍った女が入っていた
むろんスズメを虐待していた母親にちがいないが
生きているうちに閉じ込められたのだろうか
おれはこんなことになるだろうと思っていたような気がする
おれは頭をかきながら
蓋の底面を睨みつけたまま凍った女と対面しているうちに
意外にも女の顔を思い出した
スズメがおれに隠していたのは女の死体ではなく
女の素性だったことを悟った
二十年前におれと同じ部屋に住んでいた女だった
女が妊娠したのでおれは部屋を出た
すると、おれがスズメの父親か
すると、小さいほうの冷凍庫にはおれが入ることになるのか
ばらばらに解体されなければ、おれが入ることはできない
スズメなら入るかもしれない
いくら味覚が敏感になったからって、血を舐めてうそつきか正直かなんて分かるわけないじゃん
後ろに立っていたスズメが言った
おれと同じ血の味がする男を探してたんだよね、オトウサン
スズメはおれのことをそう呼んで、ナイフの尖端で空中に四角の枠を描いてみせた
おれの手足を切り落とすぞというのだろう、それから
舌を出してナイフを滑らせ、舌も切断することを表明した
スズメが自室の壁一面の鏡に向かってこの場面を何度も練習している光景を
おれは思い浮かべた

おれはスズメの部屋を出てドアに鍵をかけた
もうどこからも出血していないことを、そこでも、もういちど確かめる
廊下に血痕は残らないだろう
幼少時に受けた虐待がその後の成長にも悪影響を与えたのは
スズメの小柄な身体を見れば分かった
体力に恵まれずに育ったスズメの骨は簡単に折れた
馬乗りになったおれの身体の下で
スズメはげらげら笑っていた
おれはこのとき、自分はスズメといっしょに笑ってはいけないと思ったので笑わなかった
つられてにこりとすることもなかったと、いまでも言うことが出来る
スズメが最後の場面でおれを背後からいきなり刺せなかったのは
復讐心を満足させたいという欲に負けたのだ
おれはというと、だらしないが強欲ではなかった
おれはスズメの首にかけた両掌に全体重をかけた
スズメの笑いは止まった
代わりに、
おとうさん、

おれの顔を真下からまじまじと見つめながら
スズメの唇はそのように動いた
どす黒く顔面を膨れ上がらせながら
充血した眼球を飛び出させながら
スズメはおれの顔の中に自分と似ているところをもういちど探そうとしたのかもしれない
それにしても本当におれが父親だったのか?
親子でこれほど体格差があるものなのだろうか?
本当はスズメは誰でもよくなっていたのではないのだろうか?
おれは何と言っていいか分からず、すみません、と言った

スズメの部屋からは大麻も通帳も現金も持ち出さなかった
口座にはたっぷりと残高があるので部屋代も電気代も引き落とされつづけるはずだ
冷凍庫が止まらないかぎり、スズメの死体も女の死体も匂わない
おれは以前と同じ無一文であり、スズメの本名も誕生日も知らない
なにも変わったことはなく、
おれは安全だった
気がかりといえば、スズメはどちらの冷凍庫に入れて欲しかったのだろう
母親といっしょにして欲しかったのか、それともまだ
憎む、
と言うのだろうか
部屋の鍵をジャンパーのポケットに突っ込みながら廊下を歩き、
マンションのエレベーターに乗り込み、
1階へ降りるボタンを押してその扉が閉じた後、
狭い場所に立って目的地に着くのを待っている間、
暇だったおれはひとり、そんなことを考えた

マンションを出ると早朝、そこは繁華街の反吐くさい路地で
角を曲がってすぐのコンビニで値引きされた弁当を買う
おれが降りたエレベーターは
おれの代わりに誰かが乗り込むまでじっと
扉を閉じている


農園

  小ゼッケン

生後6ヶ月になる娘を捜しに来たおれを
じいさんは農園に案内した
畑にはいちめんの赤子の手が
アイダホの青い空の下
乾いた土から見渡す限りに生えていた

人差し指をてのひらに当てると反射で握り返してくるでの
そうすりゃ、おまえさんでもどれが我が子か分かるじゃろ
我が子と思えばそのまま引き上げればええ

見た目ではさっぱり分からず
おれはさっそくしゃがみこんで一番手前から試そうとする

しかし、いったん握ると赤子はおまえさんの手を離さんでの
ちがうと思ったらこう、くいっとひねるんじゃよ

おれはぎょっとして人差し指を引っ込める
ひねられた手はどうなるんですか?

枯れる。わしに気遣いは無用じゃよ
ほうっておいても生えてくるでの

おれは立ち上がってズボンの膝を払って土を落とす
できません、と言った
このまま帰れば妻はおれをなじるだろう
元には戻れないとも思う
しかし、赤子の手をひねることはおれにはできない

わざわざ探しに来ておいて自分勝手は変わらん
おまえさんひとりだけが勇気ある父親だとでも?
じいさんが指差した方向では若い男が一心に赤子の手をひねっている
急がんとおまえさんの子もひねられる

おれは若い男に向かって駆け出す
やめなさーい!きみは鬼となったのか!
は? 
若い男はちょっと視線を上げておれを見る
じぶんの子供を救わない親が鬼ではないとでも?
だからといって!
だからといって?
若い男はみるみる水気を失い茶色に萎れてゆく手の隣、
新たなピンクのてのひらに指先を近づける
おれは男を突き飛ばそうと突進するが寸前で男は立ち上がりステップバックする
おれは勢い余って地面に倒れこんだがすぐに立ち上がった
しゅ! 土煙を割って男の腕が蛇のようにくねり、手刀の尖端がおれの喉仏を一突きする
おれは自分で自分の首を締めるような格好でクエエエっと叫ぶ
おっさん、ひとりだけの夢見てるんじゃないよ

屈辱で立ち上がれそうにない

若い男は人差し指の先をぷにぷにのてのひらに押し当てた
一瞬待ってからてのひらは閉じた
男は間髪いれずに土の中から自分の子供を引き上げると帰っていった
間際に男はおれの方を振り返ると
赤ん坊を抱いていない方の腕をおれに伸ばすと、親指をまっすぐ上に立てた
指していたのはアイダホの青い空だった
あんたもがんばりなよ
歯は雲の白さだった

ほれほれ、次々ひねらねば

自分の子供を捜しに父親たちが農園にやってくる
しゅ〜、しゅしゅしゅ! おれは父親たちの喉仏に手刀を順に叩き込んでいく


墓参り

  小ゼッケン

ノックされた扉を開けて
おかえりなさい
と言う

びしょ濡れで部屋に入ってきた彼女を
裸にし、髪を拭き肌をこすった
拭いても拭いても彼女の髪からしたたる水滴の直径は小さくならず
肌は青白いまま額にも肩にも幾筋も水が線を引く
ぼくはタオルを2度交換し、3枚目をフロアに投げ出して諦めた
彼女は守られている
水は、ぼくが彼女に直接触れることを妨げている
とりあえず毛布で彼女の全身をくるみ
背中にクッションを当てて壁際に座らせる
低いテーブルの上に湯気を立てるミルクのカップを置く
言いつけられたとおりに彼女はぼくの出したカップに口をつけることはなかったが
あたたかな湯気に混ざって立ち上るミルクの匂いは
彼女にやわらかな効果を及ぼすだろう
ようやく彼女の身体が深く沈んだのを見た

彼女は部屋に入ってからひとことも発さなかったが
ぼくがそういうことをしている間、じつは彼女の方もぼくから視線を外すことはなかった
ただぼくを見つめるためだけに帰ってきたらしい
ただそれだけのため

生きているとき
それらのことごとをいちいち愛と呼んだのはなぜだったんだろう
さみしかったのか憎かったのか
それらをすべて埋めたかったのか
愛は埋める作業だったのか

死んだという実感はない
ごらんのとおり。足はあるんだが
ぼくは死んでいるからここから出ちゃいけないと言われているんだ
たばこはやめた
火葬場でガン細胞もいっしょに燃えたけど
でも、ここは火が点かない場所だからね
きみがたまに帰ってきてくれるのならぼくはここで待っている
いつでもさ
いつでも
出かけるのはまだいいんだ
もうすこしだけ
ぼくの不在が愛で埋まるまで
もうすこし

またね


遺影

  ゼッケン

クイズムリオネア、司会のみのびんたです
スタジオの半周以上を囲む観客席は熱狂した拍手を彼に浴びせた
テレビのクイズショウ司会者は片手を上げて応え、
見計らって手を下ろすと拍手は鎮まった
今夜の回答者は

晩のことだった

ぼくはカップ麺をすすりながらテレビのクイズショウを見ていた
今夜の回答者は、とクイズショウ司会者が言った
こちらのお嬢さん、画面が回答者席に切り替わった
すすったばかりの麺が反転し、上下の唇を割って空中に飛び出した
そのときのぼくは空間に放射状に展開した麺を回収できると思ったらしく、
しかし、勢い込んで吸って入ってきたのは気道に熱い湯気だった
咳き込むぼくの視界は涙で滲んだ
手探りでテーブルに置いた薄いスチロールの容器は熱でやわらかく曲がった
涙で滲んだ回答者の席には姉が座っていた
姉は一年前から行方不明だった
一年ぶりに見る姉の笑顔はテレビ画面の四角い枠に収まっていた
ぼくは咳き込みながら実家の両親に知らせようと
携帯電話をズボンのポケットから引き出した

第一問
量子論的なお嬢さん、あなたは真っ暗闇の箱の中に閉じ込められている
これから二分の一の確率で箱の中に空気かガスが注入される
量子論的なあなたはいま、生きていながら死んでいるのか?

あ、母さん? テレビ、そうそう、見てた、そうそう、姉ちゃんが
はよテレビ局に電話して、あ? おれと電話してるからかけられん?
アハハじゃなか、親父の携帯使ってよ、もう

正解!

あれ? 母さん? ちょっと! おーい!

母親の電話が切れ、テレビ画面には九州の実家が映し出された
さあ、お嬢さんの親御さんからスタジオに応援のメッセージを送ってもらいましょう
観客席からいっせいに拍手が湧き起こった
実家の玄関を照らし出した強いライトの光の中に
黒覆面の男たちに引きずられて
父親と母親が出てきた
戸惑っていた彼らは自分たちに向けられたカメラを見つけると
表情を取り戻して笑顔を浮かべる
あんたはわたしに似て無理ばするけん、身体に気をつけんばよ!
母親が言い終わると黒覆面の男たちは両親に向けて銃を乱射し
父親と母親の身体はくるくる回って玄関に激突、実家爆破、ドカーン

第二問
チューリングテストをするお嬢さん、あなたは壁の向こうにいる何者かに質問している
亀が砂漠でひっくり返っている。手足をばたばたさせているが
ひっくり返った亀は自力では元に戻れない。あなたは助けるか?
何者かは答える
どこの砂漠かを教えてくれなければ助けに行くことができません
この何者かを人間と判定したとき、あなた自身が人間である確率はどの程度あるだろうか?

丸く切り取られた天井が落下してきて
テーブルと
そのテーブルの上に置いた食べかけのカップ麺は下敷きになった
ロープを伝って黒覆面の男たちがぼくの部屋に降りてきた
ひとりはカメラを回していて、ぼくに向けていた
正解!と司会者が言い、弟さん、お姉さんに応援のメッセージをどうぞ
ぼくは言った、姉ちゃん、帰って来い!
覆面のひとりがカメラの前でひざまづかせたぼくの髪の毛をわしづかみにし、
のけぞったぼくの首にナイフを滑らせる
またもやぼくは咳き込み、しかし、咳き込んだと思ったが
血の泡が出たのは切り裂かれた喉の途中からだった
ぼくは喉の裂け目を両手で押さえる
男たちは機材を肩に担ぎ、ぼくを部屋に残して扉から一列になって出て行った

いよいよ最後の問題です

家から出て行くとき、姉は子供を産んで三人で幸せに暮らすつもりだと言っていた
ぼくらが全員反対したのは、相手の男が定職についていなかったからだ

案の定、男に逃げられたお嬢さん、それでもあなたは子供を産みますか?
産みます
ファイナルアンサー?
産みます!
不正解、残念!

テレビのクイズショウ司会者は拳銃を背広の内側から取り出すと
自分のこめかみを撃ち抜いて死んだ
観客席の全員も拳銃を取り出し、銃口を自分たちのこめかみに当てて
いっせいに引き金をひく
熱烈なる拍手で祝福されるなか
姉は出産した

ぼくは静かになった部屋のすみで身体を丸め
切り裂かれた喉からこれ以上こぼれないように両手で押さえていた
地上波デジタル放送に対応したテレビの画面に映った姉に
ぼくはおめでとうと言うべきなのか
迷っていた


ドップラー

  ゼッケン

きみは幼稚園の送迎バスの運転手をしている
親戚のつてでつかってもらっているのだが、
きみは子供が好きだから自分では適職なのだと思っている
きみは子供が好きだ
しかし、きみの子供は
きみが金持ちの子供の送り迎えをしている間
きみの妻によって何度も何度もぶたれている
きみはそのことに気づいている
10人の園児を乗せたバスは派手なピンクの塗装で
ハローキティの大きなデコレーションが施されている
ひどい女だ、ときみは思う
きみがいない間にきみの妻は
きみと妻のきみたちの子供を
ひとりでぶっている
ふたりの子供なのに
きみにもぶつ権利はある
しかし、ひどい女は
きみには子供をぶたせない
きみが妻の前で子供をぶつと
妻は金切り声をあげてきみを脅した
ひどい女がきみのいない間、何度も何度も
ぶっている、それは
きみの子供でもある
まさにそのとおり

赤信号

きみはブレーキを脚力の及ぶ限り踏んだ
大腿筋が膨らんできみの腰がすこし浮く
おそるおそるバックミラーをのぞく
ハローキティの可愛いバスは
横断歩道をすこし越えて止まっていた
きみの子供が折檻を受けている間にきみが
無事に届けねばならない大事な子供たちは大丈夫だろうか?
バックミラー越しに驚きに見開かれた大きな瞳に出会う
幼稚園の送迎バスに乗る聡明な子供たちの瞳には
まぶしい光が宿っていることをきみはもう知っていた、しかし、
きみの子供の目には光など宿っていないことをきみはもう残念だとは思っていない
キャー
キャー
キャー
歓声が上がった
ハローキティの合成樹脂製の張りぼてを屋根に載せたバスの車中は
幼い興奮でうきうきと沸き立ち始めた
きみは幼い脳たちに喜びを教えた
きみは脳たちにもっと喜びを教えるべきだ
きみがきみの子供に教えたくても教えられなかった喜びをいますぐ
タイヤが路面を噛み、白煙を上げつつバスは交差点に飛び出す
右からも左からもけたたましいクラクションを浴びる
後方に流れてすぐに聞こえなくなった
ハンドルをいったん左へすかさず右に切り、車体は次の交差点の真ん中で大きくケツを振る
ギリギリとひきしぼる音がする
幼い脳たちが喜びに酔う
きみはくるくるとハンドルを回す
ほら、ケーサツだ! サイレン! 聞こえる? バンザーイ!
きみは環状線に出てそれからETCを突破して高速道路に乗る
その間中、きみの携帯電話は鳴りっぱなしだ
鬼の形相と化したバカヤローキティが報道のヘリに追われながらどこまでも走る
きみは金持ちの子供が大好きだった、
みんな吐いていた、ピクニックは賑やかだった、何人かは座席から落ちて通路に転がっていた
彼らはみな、きみがなりたかった子供だ
きみは、きみの子供は貧乏でみすぼらしいので嫌いだったといまなら正直に言える
アクセルを踏み続けている右足が痛かった、振動はかなり前からずいぶん激しい
パトカーと救急車と消防車が何台も連なってバスを追っていた


折檻夫妻

  ゼッケン

アンパンマン撮影会でバイトのぼくは
アンパンマンの着ぐるみのまま
あんたがたに拉致された

タバコくさい!この人、アンパンマンのくせにタバコくさい!
ぼくの右隣に立ってピースサインを出していた女のほうが騒ぎ出したとき、
ぼくの左隣に立っていた男の右腕はすぐさまぼくの首に回された
おまえはアンパンマンに謝れ
ぼくの首に食い込んだ男の腕に力が込められ
ぼくは失神した

アンパンマンのかぶりものの中で目を覚ましたとき
ぼくは首から下を裸にされていることを知った
立ったままコンクリートの壁にはりつけにされているらしい
背中と尻が冷たく、固かった
きつく引っ張られた手首を動かすとじゃらりと鎖が鳴った
やめてください
ぼくは言った
足の裏が濡れる感触があった
床に水を撒いたようだった
やめ、めめめめめ
あんたがたは中途で切断して銅線をむき出しにした電気コードを
あんたがたはアンパンマンの裸踊りを
あんたがたの鋭く煌く歓喜が
ぼくはもういちど失神するまでをとても長く感じていた

しー。助けに来たよ、アンパンマン
と、ジャムおじさんは言った
さあ、すぐに新しいアンパンと取り替えよう
ジャムおじさんはビニールの袋を破ってヤマザキの小倉あんぱんを取り出す
自分で焼いている暇がなかったんでね
ジャムおじさんは片目をつぶってみせる
べりべりべり
アンパンマンの傷んだ頭部は取り外され
ジャムおじさんは買ってきたばかりの小倉あんぱんを
血を噴き出すぼくの左右の肩の間に
ぽん、と乗せた
小倉あんぱんを乗せたぼくの首から下の全裸の身体は
鎖を引きちぎり、口がないのでくぐもった唸り声を上げながら地下室から飛び出していった
床に転がったアンパンマンの頭の中のぼくの頭は思った
取り替えられた古いアンパンマンの頭はいつもどうなるんだろうとぼくはいつも思っていたものだ
ジャムおじさんに抱えられ、リビングに上がると
パジャマ姿のサタンが振り下ろした日本刀を小倉あんぱんマンが真剣白刃取りで掴んでいた
ソファの背もたれに登って奇声を発しつつ鎖鎌を振り回している女夢魔を横目で見ながら
ぼくの頭は館を出る
疲れたろう? さ、帰ろうよ
ぼくの頭は丸い丸いアンパンマンの頭の中にかくまわれている
ジャムおじさんの丸い手が
丸い丸いアンパンマンの頭を丸く撫でてくれる
ぼくの頭はもうタバコを吸わないだろう
気球はふわりと浮いて
静かな星座に針路を取る


がんばれ、ベアーズ

  ゼッケン

石を握って
ぼくは
ピッチャーマウンドに立つ

ぼくの住む町でいちばん清潔な建物はパチンコ屋で
磨かれた床にぼくの顔が映るほどで
毎日、生活保護がくるくるぴかぴか回っていた
オーナーであるあなたが住む隣町のリトルリーグのチームは
全員がユニホームさえ着ていた
胸にはベアーズと赤文字でチーム名が刺繍されていた
卑屈な狡猾さが怠惰を助長しかしないぼくたちの町
見えない場所に巧妙に隠された痣のあるぼくたちは全員が素手
それでもフィールドに立つ
プレイボール!
審判が開始の合図を告げたのでぼくは
石を握った手を大きく振りかぶる
打たれてはいけなかった、背後で守備についた仲間はいまだグラブを持たない
ぼくの球を受けるキャッチャーも素手だ、ストライクを投げてはいけない
一球、バッターの頭をぶち抜いてやる
手頃な石を川原で拾う
くたばれ、リトルリーグ!
振り抜いた腕から放たれた球速は真実の120キロ
度肝を抜いて
真昼の陽光を反射してヘルメットが宙に舞った
デッドボール!
審判が叫んだ
しかし、ぼくには見えていた、頭のいい相手はぼくがこうするしかないことを知っていたので、
待ち受けて寸前に避けた動作でヘルメットを宙に飛ばしてさも致命的な被害を受けたかのように
うわぁーと叫ぶ、痛みはあっただろうか?
デェェェッドボォォォル
公式に報復の承認を得た隣町ベアーズがいっせいにベンチから飛び出してくる
計画通りの制裁の発動だが、こちらもすでに背後で守備についていた仲間が走り出しているはずだ
ピッチャーマウンドを包囲した隣町ベアーズにぼくは引き倒され、打撃打撃打撃される
制裁用スパイクの硬い底で地面に倒れたぼくを踏みつける22本の足の隙間からぼくは首を捻って見た
仲間たちは空になった相手のベンチに殺到する
真新しい革の匂いのするグラブと傷ひとつなくキンキンと音のするバットを片端から抱え込む

盗め!盗め!

ぼくたちはぼくたちのチームをつくるのだ
そしてそれぞれが家に帰ったら
グラブで拳を受け止め、バットで脳天を殴る


さらにがんばれ、ベアーズ

  ゼッケン

石を握って
きみはひとりで
そんなところに立っているんだろう

バッターボックスに立ったぼくは正午の蒼穹を見上げ、一瞬、くるりと眩暈を覚えた
親が買ったキンキンと音のするバットの先端で一度おおきく空に円を描いてから構えた
川原で拾ってきた石なんかを握ってマウンドに登ってしまったきみは
その石をぼくにぶつけるしかない、素手のキャッチャーは
きみのその120キロの石を受けることができない、背後に立つきみの持たざる仲間たちは
無力。ぼくだけだよ、きみを救えるのは
投げろ、ぼくときみはぼくときみにしか理解できない信頼で結ばれている

きみは、
投げた、

うわぁーと叫ぶ、演技ではない分が混じった
鼻先を120キロで石がかすめ、ぼくは首を振ってヘルメットを宙に飛ばした
ぼくの父が経営するパチンコ屋で普段は店長をしている審判がデッドボールを宣言する
胸がむかついた、ぼくはまだおぼっちゃまにすぎない
デェェェッドボォォォル
チームメイトが全員ベンチから飛び出してくる
いちはやくピッチャーマウンドに到達したぼくは
きみの鼻を拳で叩く
ぷっと鼻血を吹いて
きみは抵抗せずにマウンドに倒れる
よくやったぞ、きみは
チームメイトに囲まれ、きみは踏まれる
踏まれる踏まれる踏まれる、そうして
英雄が生まれようとしている
きみの仲間は空になったこちらのベンチからグラブとバットを盗み出している
盗め!盗め! はっはっ
道具を手に入れたきみらはきみらのチームをつくり、きみらの子供たちが
野球をするようになるだろう
そのときにはおぼっちゃまじゃなくなったぼくは
きみらの子供たちに新しいボールを売り、新しいユニホームを売り、
新しい野球場を売り、新しいルールを売り、
その金でぼくらの子供たちが宇宙船を造る

宇宙のひろがりのなかでひとりひとりが魂の崇高さを見つめる
ふたたびバベルへと航海する
結集した人々が挑み続ける


ポテトL

  ゼッケン

ぼくはきみの小指とは逆の方向にぼくの小指を曲げてみせた
右手の小指の爪が右手の甲にぴたりとつく
小指のすべてのみっつの関節がきみの小指のみっつの関節とは逆の
方向に曲がる
ドナルド・マクドナルドがきみの背後のガラス越しに笑っている
小指を逆に曲げた右手でテーブルの中央に置かれた紙のカップを持ち上げる
口元まで引き寄せ、ストローを咥える
コカコーラはたっぷりと入っていて容器の中で揺れていた
その重みにぼくは満足だった
ぼくとテーブルを挟んで向かいの席に座ったきみは
食べかけのハンバーガーをテーブルの上に置いたままにしていた
ポテトをもらってもいいかい?
小指を逆に曲げた右手できみのポテトをつまむ
口に運ぶ
油、
と塩
世界にはうまいものが多い
そういえば細胞も多い
ほこりは剥がれ落ちた細胞だそうだ
繭に入る寸前の幼虫のように
小指が白い腹を見せて裏返っている
ぼくはきみの手を握った
きみの小指も曲がるようにしよう
なぜ? つまりそれは、なんのために?
きみは意味がないと言った
友情に意味がないと言ったきみの小指を包み込んだ掌にぼくが力を込めると
きみは痛みに震え上がった
大丈夫だ、痛みなど痛いはずだ、にすぎない
きみは涙を流し身をよじる
涙を流し身をよじっているときのきみの姿はぼくに
慈悲と憤怒が一の根源から湧くものであることを何度でも悟らせる
きみの背後のガラスには道化が映っている
ぼくがちらりと視線を上げると
釣りあがった笑みを浮かべていた
釣りあがった笑みはヒステリーの兆しだった
ドナルド・マクドナルド氏、心臓発作で逝去
原因はポテトの食べすぎか?
ぼくは上体を前かがみに椅子から腰を浮かせた  
奇跡だよ、I'm loving it 愛することは
愛であることと区別できない、曲がれ!ボキっという
奇跡ではなにも変えられない、無意味だ
残った一本はきみのぶんだ
冷めないうちに持ち帰ればいい


アーサー

  ゼッケン

ハイジャック! 
JAL323羽田発福岡
機長からの報告、犯人はひとり
乗客のひとりを人質
座席番号から人質の身元判明
氏名イソノナミヘイ、男、会社員
一本立ってるやつか?
そうです、一本立ってます、犯人は
抜く、と
言ってます
バカナ! 毛根が抜けたら終わりだ!
日本社会最後の安心が人質にとられている
犯人は利口で危険なやつだ
機中の犯人が携帯ムービーをニコニコ動画へ投稿
みんながわらってるー
おひさまもわらってるー
るーるる、るるッるー
今日もだれもぼくを見ていなかった
ぼくのメガネしか見ていなかった
ぼくの髪がどんなふうだったか
ぼくがどんな服を着ていたか

ナカジマ!

ほーら、ひっぱるよ〜
空の上では誰も安心じゃない
重力は公平だ
質量に応じて力がかかる、しかし、
地面には同時に激突する
ぼくは要求すルンだ!
政府はアサハラショウコウことマツモトチヅオを釈放せヨ

公安は動きをつかんでいなかったのか、それとも黙っていたのか
官房長からお電話です
きみぃ、要求は呑めんよ、それより抜かせたまえよ
ぼくンとこの試算じゃ日曜夕方の流動性が高まって一兆円の内需が拡大するんだから
抜ーけ! 抜ーけ! 抜ーけ! 抜ーけ! 抜ーけ! 抜ーけ! 抜ーけ! 抜ーけ!
コメントが犯人を煽ってます
しくんだな!
知らんねえ、CIAじゃないんだから

ナカジマくん、きみはカツオの友達だったね? きみにこの毛が抜けるかな?
イソノのお父さん、ぼくはナカジマです、しかし、この名前はぼくのものだ
イソノの友達がみんなナカジマだとでも? ぼくを挑発したことを日本国民に謝ったほうがいい
あ、あれ?、あれれ?? 抜けないよぅ、こんなにつよく引っ張ってるのに抜けないんだよぅ
そのとおり、きみにこの毛は抜けないなぜなら
この毛を抜けるのはこの国の王となる宿命を持つ者だからだ
きみの宿命はメガネだ、三度生まれ変わって三度メガネであり
きみはその二度目のメガネだ、きみの自由とは永遠にメガネを受け容れることだ
わしの宿命が毛であり、わしの自由が毛であるように
では宿命に選ばれし者とはカツオですか? やっぱりやっぱりあいつなんだ!
それはわしにも分からんことだ、あやつにはまだこの毛に触れさせてはおらんのだ
わしでさえこの毛に素手で触れるのは初めて  あれ? 抜けた
イソノのお父さん、あなた自身が王だったんですよ!
宿命を語る者は宿命から遠ざかるものだな、ナカジマくん、きみはおれに忠誠を誓うか?
誓います!
誓うか!
誓います!
ならば新党結成だ
次週予告
波平、クーデター
カツオの裏切り
サザエ、おまえもか!
の三本です
ウフフー


  ゼッケン

窓を見ていた
ぼくが動かなければ窓も動かないようだった
一間しかないフローリングの床にぼくの首は転がっていた
見える範囲で窓を見ていた
ガラス越しに視界は流れない雲で充填されていた
真空パックの光沢で密封されていた
ぼくの首が、あるいはぼくの首以外が
ビニルの皮膜で包まれていた
そろそろ猫が鳴く時刻だろうと思った
部屋にはもともと猫がいないことを思い出した
猫好きだったことなど一度もなかったが猫のことを思った
すこし悲しい気持ちになった
ぼくは自分をすこし悲しくするのを好んだ
感情的沈黙に耐えられない

水面から水滴が撥ねる
ぽちゃんと音を立てて元の水面に落ちる
世界はそうやってあした終わるそうだ
ぼくとかがふたたび水面に落ちて無秩序に溶け合う
果てしない自由度を持った光速の運動体になる
ぼくとかはなんとかと見分けがつかなくなる
個性と自由は相反する
それがあした起こる

そんな日の前日は
にゃーと鳴く

すこし悲しくなった床にぼくの首は転がっていた
コンタクトレンズがついたままの眼球を動かすと
天井はまだある
見慣れない白さだった
床と天井の区別はまだあった
キッチンのテーブルには
ガラスのコップが置かれたままになっている
場所と物が互いに近くなり始めている
記憶からガラスのコップに水を注ぐ
白くなっていく天井壁床
椅子机首、いっさいが白くそして低くなる
色のある花を一輪、
白い部屋に挿した
花の名前は分からなかった
あの花の名前を知らないぼくを置き去りにして
天井から窓の外へ
首の視線は移った

名前のなくなる日の前日
花の名前を探さなかった
悲しいことがなにもなかった

いっさいが白くそして低い

部屋が
雲を見ていた


水晶

  ゼッケン

マミー’ズ・マムの店では
ぼくをミイラにしてくれる
ぼくは即身成仏コース49日間を選択した
頭蓋穿孔をオプションにつけた
三角形のアクリルの板を4枚貼り合わせただけの
頭に載せるピラミッドのミニチュアはサービスだった
ブルーとイエローとピンクの中からピンクを選んだ
ぼくは茶目っ気があるとマムに思われたかった

当日、言われたとおり頭髪を剃り落としてきたぼくは
店の奥の小部屋に通された
部屋の中央には床に釘付けされた椅子が一脚ぼくを待っていた
椅子の座面には穴が開いていた
あそこから排泄するのだろう
ぼくは血栓が生じるのを防ぐ弾性ストッキングを履かされた
それから椅子に縛り付けられる
マムは点滴の袋を金属製のスタンドの先にぶらさげながら言った
楽しんでね

頭蓋骨を削られている最中にぼくはすこし酔った
ごりごりという振動が頭の中いっぱいに広がって
眼球を裏から押したからだ
それ以外はとくに不快感は覚えなかった
マムにピラミッドのミニチュア(ピンク)を
穴を開けたばかりの頭頂に載せてもらった
似合うわよ
ぼくは少しばかりの愛想笑いをマムに返した
眠かった
点滴にそういう薬が入っているらしい
49日間をかけてぼくはこれからミイラになる
方法は複雑ではなく、基本餓死だが、
最初は水分と養分を点滴で補給される
意識を維持したまま
ぼくは7週間かけてじゅうぶんに肉を失っていく
死のスピードを上手に制御し、過程を可視化する
ぼくは変貌するだろう

死に始めてから2週目、ぼくはいまだに腹が減っていた
それから幻覚ばかりみていた
声も聞こえていた
穴を開けた脳の表面を何かが這っている
腐ったのだろうか
ぼくはマムに尋ねた
マムは心外の意を表明する皺を眉間に寄せて言った
違うわ、根を張っているの、いまは
それからいまに立派な世界樹があなたの頭のてっぺんから
伸びて世界へと枝を張り巡らせる
ぼくはたぶんマムに言ったのだろう、そんなことになったらピンク色のばかげた
小さなピラミッドのミニチュアが世界樹の頂で風にぶらぶらと揺れるんだね
夜の雲の上を飛ぶ国際線の飛行機の窓から
揺れる三角形のアクリルが月光を反射しているのを見る

5週を過ぎた頃、部屋にぼくとマム以外の他人をマムが連れて入ってきた
スーツを着た男たちに囲まれて腫れ上がって痣だらけの顔をした、
わずかに残った黒髪からアジア系だろうとは思うが、
性別の見分けのつかない人物を
事務用の折り畳み椅子を持ってきて
ぼくの前に座らせた
お願い、視て
薄くなった瞼は開かなくてもすべてがぼくには見えていた
ぼくはその人物を見た
何かを視た
ぼくの口から果てしない桁数の数字が流れ出る
人物がぎゃあ、とわめく
男たちに連れ出されていった
ありがとう、マムはしかし、その指先は
ぼくに触れなかった

7週目に入ってマムは最後の点滴を外した
いよいよ行くのね、寂しい
マムは部屋の電球を消し、扉から出て行った
ドアを閉めるときにいちど振り返った
ご利用ありがとうございました
一礼してマムは小部屋の扉を閉めた
カチリと外から鍵をかける音がして
ぼくは暗闇の中で思った
うそをつけ
マムはぼくをいちどだけ道具として使った
支払わせなければ
ぼくは干からびた舌先の肉を噛んだ
血はわずかに出た
ぼくは薄くなった肉片を噛み切った
心臓が光を放った
噛み続けよう
これでじゅうぶんだ
一週間後、ぼくの脳天から伸びた世界樹が星の侵略を開始する
人々は
それぞれの葉っぱの上でいままでに食べた分の皿を洗わなければならない


週末

  ゼッケン

おれはおれを誘拐し、身代金要求の電話をかける
部屋の電話が鳴り、左手で受話器を取った もしもし? 
おれは右手に持った携帯電話に向かって言う
黙れ、おれの可愛いおれはいま、
おれのところにいるよ、おれの命が惜しければ

ケーサツには言うな

経済学者も人間が合理的に行動しないことを支持している
誘拐犯にケーサツに言うなと言われれば
言われた人間はケーサツに言うべきかどうかをいちどは考えさせられてしまう
完全な情報を持たない者が考えること自体が合理的ではない
変数の個数より式の数が少ない連立方程式を解こうとする不注意さだ
合理的であれば人間の脳が考えようと考えまいとすべては必然だ
ケーサツに言うのか言わないのか、おれが考えたとする
おれにはおれの主観確率を客観的に予測する方法はない
おれの行動はおれには予想がつかない

おれはケーサツに言うなという台詞を本当に言ってみるにはどうしたらいいのか
を考えた
言われたのがおれだとしたら
それでもおれがケーサツに言わない保証はない、おれは
おれが不利になることをしたことがある、あるいは
おれが有利になることをしなかったことがある
経験はおれをクロだと判定している

しかし、その誰かの言葉をケーサツが信用しないとしたら
たとえばおれが誘拐されましたとおれが言ったとして
その言葉はケーサツが出動するためのなんらの根拠も与えない
自己言及の矛盾があるためだ
誘拐犯であるおれの裏切りを不可避とおれが判断し
ケーサツに通報したとしても
ケーサツはこの誘拐を真とも偽とも区別できず、矛盾は放置するしかない
そうであれば(ケーサツが動かないのであれば)
なんのためにおれは税金を納めていたのか
おれの嵌めこまれているパブリックは
保険会社が運営しているとのことらしい
保険社会主義国家のお客さま方へ
カネとは不安だ
おれがカネを盗むのは、しかし、不安の量をカネ化するためではない
おれはカネ持ちになりたい、カネは嫌いだがカネ持ちは好きだ
盗むというのはつまり
なりたい、ということだ
おれはおれの言葉を待っていた
おれの身代金はいったいいくらだとおれが言うのか
羨望と不安の目隠しを切り開いておれになったおれがおれのまえに姿を現す、存在の興奮、が訪れる
3万円、とおれは言った
納得したおれは受話器を戻し、携帯を閉じた
ATMで3万円を下ろすのは月曜まで待つことにする
そうすれば手数料がかからない


仔犬日記

  ゼッケン

おとうさんはいつも小学校までぼくを迎えに来てくれます
その日の帰り道 ぼくたちは子犬を拾いました
おかあさん、飼ってもいいって言う?
ぼくはおとうさんにたずねます
たぶんね。父さんからもお願いしてみるよ
うん
ただいまー
玄関を開けると、いつものようにおかあさんがエプロンで手を拭きながらスリッパをぱたぱたいわせて出てきます
おかえりなさい。あら、子犬ね
ぼくはちょっとどきどきしながら言います、おかあさん、おねがいがあるんだけど
おいしそう。煮込みがいいかしら?
おかあさん、おねがいがあります、煮込まないでくださいっ!
あら、焼いた方がいいの? お父さんは?
おとうさんはすこし苦笑いしながら
食べずに飼った方がいいんじゃないかな?
まあ! おかあさんは頬をちょっと赤くして
わたしったら、食い意地張っちゃったわ。そうね、もうすこし大きくなったほうが脂ものっておいしいわよね
おかあさん、脂をのせないでください、おねがいします!
もう、この子ったら、なんでも自分の思い通りにしたいのね。かわいくなくなったわ、明日からネグレクト決定
ぼくはもうすこしで泣きそうだとぼくは思いました
おいおい、母さん、ネグレクトだなんて。この子ももう小学生だし、閉じ込めて餓死させるのはたいへんだぞ、いっそ
いっそ、なんですか? 
優等生づらでお父さんにつっこむのね、包茎で童貞のくせに
おかあさん、ぼく小学生です。そこに劣等感はまだありません
じゃあ、どっちかに決めなさい。子犬を食べるの? あなたを食べるの?
いつどこでなぜ、そんな二択になったの?
おとうさんはぼくの肩に大きな手をのせると、言います
おまえが決めなさい
ぼくは逃げられないことを悟りました

子犬、子犬を、子犬を食べましょう、みんなで!

おとうさんとおかあさんは顔を見合わせると、すこし安心したようにうなずき合いました
それから子犬をおかあさんに渡し、ぼくは自分の部屋に入りました
そして、晩ごはんができるまでの間、新しく日記をつけ始めました
はじめまして。ぼくは今日からこの家の子犬になりました
これからみんなと楽しく遊ぶ予定です
おとうさん、おかあさん、小学生のぼくと子犬のぼく、いっしょにいっぱいいっぱい遊びたいです
       わん、
 わん、

    わわん、   

           わん、 

        わん。


葉書

  ゼッケン

コンビニエンスストアの前には郵便ポストがある
住む地域が田舎だからだろうか
ぼくが子供の頃は郵便ポストはタバコ屋の前にあった
ひざ小僧にかさぶたをつくったぼくが
タバコ屋の前の路地をかけていく
そこには郵便ポストが立っていたはずだ

専売公社と郵便局の信頼関係は
子供だったぼくの社会性善説をはぐくんだ

とう!

郵便ポスト vs おれ

弱い方が!
強い方の周りを!
回るんだよッッ!

爪先立ちで膝を曲げ腰を落とし
左右の手刀を胸の前で構え
おれは郵便ポストの周囲をちょこちょこした足取りで行ったり来たりしつつ
ときどき休んだ
ポストの投函口は速達と普通に分かれているが
全体としてはひとつの直方体だった
それを一本の円柱が支えている
ポストとの間合いの取り合いではやくも体力の消耗を感じたおれは
ひとつ息を吸い、吐く途中で渾身のローキックを放った
コーン!
足の甲に走った亀裂が見えるような痛みがおれを
みるみるうちに目減りしていく闘志に
むしろ死に物狂いでしがみつかせた

骨だけで済むと思うなよ
心も
折ってやるから

真っ赤に点滅しながらゲージが空になっていく
KO、その寸前に
捨て身の片足タックルをおれは敢行する
格闘技はウェブの記事で読んでいた
つまり、おれは格闘技の記事が好きだ
しかし、格闘技をやっている人間は
どちらかといえば筋肉から遠いおれをバカにするにちがいないと思う
昔はバキを立ち読みしていたこともある
すなわちおれは片足タックル! と叫びながら
郵便ポストの支柱にヘッドスライディングを敢行した
雨が降ってきた、たぶん
郵便ポストの根元でうつぶせに倒れている人間は
悲しい
雨が降ってきた

あれだけ大勢いるカラスは
いったいどこで死ぬんだろう
カラスの死体が落ちてくるのを見たことがない
ねぐらに辿りつく前に力果てたカラスは
それでも
空から降ってくるんだ、黒い矢印のように
そして郵便ポストの下で伸びているおれの尻に突き刺さるにちがいない

ぷすっ、と

言いたいことはない
届けたかっただけだ

おれは最後に両手両足を伸ばしてビクンビクンと2回全身をえびぞらせる


アレルギー性恋愛過敏症

  ゼッケン

ヴぁ、ヴぁ、ヴぁっくしょい! 好きです
つきあって、ヴぁっくしょい、ちーん! ください
ちょっと待って、と言った彼女はバッグからケータイを取り出し
カメラをおれに向けるとボタンを押した
鼻水最長記録男というタイトルで彼女のブログにのるそうだ
ありがとう、と言って彼女はケータイをバッグにしまい
まだ他に用事ある? と聞かれたおれは
ないです、と答えた 長く伸びた鼻水の先端が
フーコーの振り子のように回転しているのをおれは鼻先の感覚から想像した
よかったら、これ使ってください
ひとりきり、右の鼻孔から伸びた鼻水を啜り上げるか
勢いよく鼻息でとばすかで迷っていたおれにその女の子は
ハンカチを差し出して言った 
いや、ティッシュ持ってるんで
おれは鼻を噛んだ
アレルギーなんです、とおれは言った
恋愛の
そうなんですか、と女の子は言い、大変ですね
女の子はおれのくしゃみと鼻水の止まった顔を見て付け足した
残念です
じゃあ、と言って
ぼくらは別れた

ヴぁ、ヴぁ、ヴぁっくしょい! 好きです
つきあって、ヴぁっくしょい、ちーん! ください
男は
女の子にちょっと待ってと言うとジーンズの尻ポケットからケータイを取り出し
カメラを女の子に向けボタンを押した、鼻水最長記録女というタイトルでブログに
のせるのだろう
女の子を残して男が立ち去った後、おれは
くしゃくしゃの顔のままで鼻水を啜るかとばすか迷っていた女の子に
ティッシュを差し出した
女の子はすなおに受け取って鼻を噛んだ
あなたもアレルギーだったんですか
そう、恋愛の
おれはくしゃみと鼻水の止まった女の子の顔を見て
残念です、と言ったおれの方もくしゃみと鼻水は出なかった
女の子もおれのまともな顔を見て、それから
女の子の方もくしゃみと鼻水が出ないことに
女の子は

やっぱり、
残念、
と言って笑った


したく

  ゼッケン

おれは警察に捕まるときになにを準備したらいいのか知らなかった
それにここは勤め先の高校の職員室でどうせ持って行きたいような私物はない
タバコは吸っておいた方がいいのではないかと思い、おれは
職員室を出た、教頭がびくりと顔を上げた、
おれは人差し指と中指の二本を口元に持っていき、前後に揺らした
教頭は黙っていた、おれはまだ逮捕されていないからだ、それから
おれは職員室を出た
体育館の裏に行く
よお。
どうも。
おれはタバコに火をつける
先客の男子学生はタバコを吸うおれの唇から10センチの場所にある火を探そうとしているようだった
昼間なので火は見えない
先生、つかまるんでしょ?
男子はそう言った
理科室のツメガエル、あれ、週イチで水代えとエサよろしく、あいつらにも言っといて
ぼくらも逮捕されますか?
されないでしょ
そうですか
男子は信じていない風でおれをじっと探っている
いや、むしろ被害者
そうですよね
そうですよね、ハート、じゃないよ
すみません
今朝、彼女は無事に出産したとの知らせが入った
驚いた親が問いただすと父親はおれだと言った
計画どおりに
もちろん、おれは父親ではなく、いまここにいる男子でもない
男子ではない
彼女の親友で恋人の女子だ
ふたりの卵巣から卵子を摘出、高カルシウム濃度と適度な電気刺激
融合と卵割の開始、子宮への着床
高校の生物部としては上出来だがやりすぎだ
おまえらね、赤ん坊は週イチの世話じゃ済まないからね

わかってる?

はい
男子は言う
おれは自分もふくめてなにもわかっていない気がした
カレンダーの上ではもうすぐクリスマスだ
ともあれメリークリスマス、よかったね、マリアさま


金曜日

  ゼッケン

おれに運転されるタクシーはブレーキペダルを踏まれることなく前方の路肩に停止したバンの後部に追突した
つまりおれはわざとぶつかった、わざととは明確な目的があったという意味だ、ふたりの男がひとりの子供をクルマに連れ込もうとしているのを見たら、
タクシードライバーならそうする、うしろの客がわめいたのでおれは振り返ってパンチして黙らせる
客にパンチしたのはこのときすでにおれが並みのタクシードライバーではなくなっていたからだ
運転席から降りたとき、男のひとりが腰の裏側に手をまわしたのが見えた、刃物だろうか
銃かもしれない
おれは跳躍し、タクシーの車体を飛び越えて男の背後に降り立つと男が振り向く前にその首に腕をまわし、頚椎を脱臼させる
倒れた男が握っていたのは手錠だった、子供に手錠をかけるつもりだったのかと思うと吐き気がしたので痙攣する男の後頭部を思い切り踏みつける
あっけにとられていたもうひとりの男がようやく動いたことを背後の気配で感知し、間合いに入ったところでおれの後ろ回し蹴りの餌食にする
子供の手をとり、タクシーの助手席に乗せるとおれたちは出発した
背後に遠ざかるバンの運転席に座った男たちの仲間が無線機に向かってなにか喋っているのをバックミラーで確認したおれは
タクシーに備え付けた暗号解読無線を使って男たちの会話を傍受する
男たちはヤクザでもケーサツでもなく自衛隊だった
おまえ、何者だ?
けっきょくおれは子供にきいた
もと金融破壊兵器。ある種の直感に優れた子供たちに相場を張らせていた、これがよく当たるという評判がひそかに広がり、
大手の顧客が続々ついたところで予想を外す、評判も意図的に流したものであり、計画的にある層を破滅させたわけだった
子供は、用済みになったので始末されるところを逃げ出したのだという
こうなることは分かっていたの、だってぼくのは本物の予知能力だったんだもの
おれが現れることも分かっていたのか?
あなたの名前はジョーンズ、でも、あなた、が何者なのかは知らない、ぼくの予知はここで終わっちゃった、あなたに会って終わり。ぼくは死ぬの?
ジョーンズ調査官、
うしろの客が白目を剥いたまま、声帯だけを震わせる
いつになったら本部に向かうのかね? 
おれは催促され仕方なくギアをトップに入れる
タクシーは大気圏から脱出する、おれは助手席の子供に言った
おれたちは光速を越えてるからな、予知なんかできないさ、わくわくするだろ?
子供はえへへと笑った
やったね、生まれたときからずっとこうなる気がしてたんだ、これは予知なんかじゃないんだけど、子供はおれにウインクを返してよこした


木曜日

  ゼッケン

すでに
イヌもサルもキジも消されてしまったにちがいない、とおれは思っていた
鬼ヶ島を襲撃し宝物を強奪したおれたちには
昔話のようにシアワセな勝ち逃げは準備されていなかった
鬼たちの追跡は執拗で報復には容赦がなかった
三匹がさらわれた後、おれのもとに箱がみっつ届いた
箱の中にはそれぞれの身体の一部が入っていた
イヌは歯を、サルは指を、キジは眼を奪われた
三匹はとっくに殺されてるんだから、と、じいさんとばあさんはおれに懇願した、
宝物を持って逃げよう、しかし、
おれは宝物を鬼たちに返そうと思った
返せば、まだ、助かるかもしれない、おれは死にたくなかった
後頭部につよい衝撃を受けておれは昏倒し、目を覚ましたとき、
家の中にはじいさんとばあさんの姿はなく、宝物も消えていた
夜明け前におれは
顔を火で炙って家を後にした
以来、おれには顔がない
おれの顔は家に置き去りにされている

いま考えてみれば、三匹の肉片を箱につめて送りつけてきた鬼たちが
あの家を見張っていないわけはなかった
じいさんとばあさんだけであの莫大な宝物をこっそり持ち出すことなどできただろうか
そもそも、箱の中の肉片は三匹のものだったのか? 犬と猿と雉など、
他にいくらでもいる、おれは三匹と他の動物を見分けられただろうか

鬼なんて、ホントは、いたのかい?

なんだか、ばかばかしい話ですね
都の遊郭で下男をしていたおれの前に元三匹が現れたとき、三匹は三匹ではなく、
獲物の喉元に食らいつく歯と風となって樹々を渡る手足の指と蒼穹から地上を走査する眼
をなくした三匹は代わりに
よく利く鼻、ひょうきんな面、通りやすい声を持ち寄ってひとりになったと言った
じっさい、こちらの方が商売向きです、きびだんごの製造販売で業績はあがってます
おれはうなずいた
そんな昔のことより、こんど、桃の缶詰を売り出すんですが、その
イメージキャラクターにあなたを起用したい、あなたがCMに出るんです
おれはうなずいた
引き攣れた顔の皮膚はおれに表情をつくらせず、おれは
表せない感情を覚えるのが億劫になっていた

皮膚移植で顔を戻し、おれは自分の顔をずいぶんひさしぶりに鏡で見た
他人には自分の顔はこんなふうに見えていたのかと思った

五月人形のような衣装を着て片手に桃の缶詰を持ったおれは
カメラの前に立って台本どおりにせりふを言う 足元の
犬と猿と雉の置物がにやにや笑っている
カーット! 監督がメガホンを振り回す
あんた、本物のあの人なの? 元スターが大事故から奇跡の復活
ってドキュメンタリーともカップリングしてるんだから、ちゃんとヤレよ
ほらあ、こんなふうにさ、監督はおおげさに身振り手振りする
じいさんとばあさんをどうにかして宝物を独り占めにしたんじゃないかって
疑惑、ありますけど、これね、週刊誌がね、ほらほら
監督の振り回すメガホンはいつのまにか金棒に変わっていた
視線を巡らせるとカメラマンもタイムキーパーも鬼だった
宝物はどこに行ったの?
回せ、本番!

桃から生まれた、アッ、もーもーたーろーぅ、ちょん!
 ト、
ta、
ha、いよ〜う

スタジオの半分を仕切っていた暗幕が勢いよく左右に引かれ
その向こうには鬼ヶ島のセットが組まれていた
ももたろう、みぃーつけた
鬼たちが張りぼての岩場の陰からぞろぞろと姿を見せる
おれは言った
てめぇら、もういっぺん痛ぇ目にあいてぇようだな?
桃缶を投げ捨て、腰の刀を抜く
ばかやろう、しつこいんだよ
おれは作り物の鬼ヶ島に突撃する

元三匹はスタジオの片隅に置かれた椅子に座り
キセルをふかす
あららー、自分らしさにこだわれるなんて
なんとも楽しげでいいですね

スタジオは血の海だった
床の上に落ちた笑顔を踏むとずるりと滑った


まんどらごら

  ゼッケン

マンドラゴラは根っこが人のかたちをしていて
引き抜くと悲鳴をあげる
植物の悲鳴を聞いた人間は発狂するので
マンドラゴラを引き抜くときには
代わりに犬に引かせるといいらしい

先日、庭に生えたマンドラゴラを犬に引かせたときの映像です
!注意! 再生するときには音声をミュートに設定してください
マンドラゴラの悲鳴が含まれている可能性があります
私自身は確認していませんのであしからず^^

ブログの動画を何回か再生してみたおれは
引き抜かれた植物の根っこは言われてみれば人のかたちをしているように見えた
それも一瞬で、首輪に結ばれた縄の先に地面から引き抜かれた植物をひきずったまま、
犬は画面の外に走り出ていった
おれは何度か指先を往復させたすえに、ミュートボタンを解除した

このブログの持ち主はこの動画をアップして直後、失踪した
おれの職場の同僚だった
失踪の謎を解く鍵はこの動画しか残されていない
再生すると庭の向こう、どこかをバイクが走っていった
犬が一度ちいさく吠えた
日付けは日曜日の昼間で同僚は
出かけていた奥さんと子供を残して消えた
子供はこのちょこまか動く毛の長い犬をかわいがっている、と同僚は言っていた
たぶん、おれにだけ言っていた
植物を懸命に引っ張っているのが子供の可愛がっている飼い犬だということを知っているのは
おれだけだろう、口数が少なくいつも曖昧な笑みと返事で何を考えているのか分からない男
というのが職場での同僚の評価だった、気味がわるいという人間もいた、そんな同僚におれは
分け隔てなく声をかけ、会話した、それがおれの印象をよくすることをおれは理解していた
おれは
子供の可愛がっている飼い犬が狂うかもしれないようなことを
このとき、犬にさせている同僚を
心底、怖ろしいと思った
自分がこんな人間だということを同僚はおれに打ち明けたかったのだろう
引き抜かれても植物はべつに悲鳴をあげなかった
手がかりをなくしかけていることにおれは安堵を覚えていた
これでつながりは消え、おれは同僚のことを忘れるだろう
映像の終わり間際、かすかにおれの名前をつぶやく同僚の声が聞こえた
おれはPCの音量を最大限にあげて動画をもういちど再生する
同僚はおれの鞄に入っていた実印をつかっておれを借金の保証人にした
相手は暴力団だ、自分は逃げるがあんたは頭がいいからどうにかするだろう、と述べていた

このとき、植物の悲鳴を聞くと発狂してしまうので
代わりに犬に引き抜かせるといいらしい


ロビン村

  ゼッケン

遭難信号を発信した直後に海に投げ出されたおれが目覚めたのは
入り江の奥の白い砂浜だった
海図では周辺に人の住む島はなかった
捜索隊は明日にはおれを見つけるだろうが、おれは
すでに空腹であり、海水で下がった深部体温を取り戻すにはすぐになにか
を食べなければならなかった
陽光から逃げ場のない砂浜は岩場を廻って森の暗がりへと変わり、
いつまでも目が慣れない純白の反射光から逃れたおれは
叛乱を鎮めて凱旋してきた将軍のように疲労と高揚を覚えた
すぐにちからを取り戻してみせる
森に水があるのは分かっている、それと肉だ
ちからを取り戻すには肉がいい
果物が実っていればなお喜ばしいと思いながら森をすすむ

くいなッセ

翼の退化した飛べない小さな鳥たちがおれの足元に集まってきた

くいなッセ

人間を知らない
天然記念物に指定されているものに似ているが、おれに詳しくは分からない
おれはまたたく間に囲まれる
頭部に赤い羽根飾りがあり、嘴は細く長い、胴体はずん胴で茶色の縞がある
おれはひとつの仮説を立てる
この鳥がほんとうはなんだとしても
この鳥をおれが食べても世間は非難しないだろう
人間についての極限状態とは
人間が自然の一部として環境化される
すなわち自然が対象化から解除される
ひとりの遭難者が鳥を食べることが許されるなら
ふたりの遭難者はどうだろう、さんにんなら?
遭難者が100億人ならどうだろう
100億人の遭難者を食わす鳥たちはこの島にいない
共食いするのか
焚き火にかざした木の枝の先では肉が焼けている
脂がぽとりと落ちるたびに火がぱちりとはじける
夜になっていた
舞い上がった火の粉は粒状の闇に転換される
空間は150億年分の時間とともにあった
おれは焼けた肉をほそく千切って鳥たちにも分け与える
鳥たちはうまそうについばんでいた
拾ってきた小枝を火にくべるものが鳥たちのなかに出始めた
おまえたち、これが火と肉だよ、と、おれは思う、おれが去った後も
火と肉は続くか
この島から飛べない鳥たちは姿を消すだろう

くいなッセ

おれはふくらはぎに刺されたような痛みを覚えて跳ね上がった
おれを包囲した鳥たちの丸い目玉がおれを欲している
火のついた小枝を嘴ではさんでおれに向かって突き出す
おれは焚き火から手頃な太さの枝を抜いて大きく振り上げた
おまえたち、いくさのしたくはととのったのか?
すでにちからを取り戻したおれは、ならば一晩中、
文明の先達として残酷に鳥たちを殺戮するだけだ
鳥たちはちょこまかと走って隊列を組むと道をつくるように左右に分かれた
火で縁取られた鳥たちの道を通って
森の奥から姿を現したものを
おれは
ゆっくりと

見上げた
恐鳥という種類だろう、おれに詳しくは分からなかったが
おれの頭上で嘴が開き、紫色の筋肉の槍は発射された、おれは
す、
と言って死んだ。恐鳥の舌端は
おれの顔面をほぼすべて
ぽっかりと口を開けた穴に変えた
恐鳥が人間の顔を食う、そのことを悟ったときのおれは
すみませんと言いたかったのか
すげえと言いたかったのか
言えなくてその両方をおれは言うことができたと思う


志向

  ゼッケン

' 水素60% 酸素26% 炭素11% 窒素2.4% その他
' ぼくの身体を構成する原子は宇宙の始まりから在る
' ぼくの身体を構成する原子は宇宙の終わりまで存る

ラスコーリニコフは
身体を道具主義的に
鍛えようとは思いつかなかったのだろう
誰にも身体は生まれたときから貸与されている
真昼、おれはパチンコ屋の景品交換所を襲う

国家X

景品所の小窓に向かって包丁を突き出したおれを見て
ばあさんの表情筋が垂直に落下した
もう、うんざり
窓に防弾仕様のシャッターが降りる
おれはダイナマイトで壁を爆破後、侵入して50キロの金庫を担ぎ上げる
筋肉がおれの中に快感を放出した
真昼の繁華街ではあらゆる種類の警報音が錯綜している
サイレンと悲鳴と火災を知らせるアラーム
ジャンジャンバリバリッ ジャンジャンバリバリッ
若い男が婆殺しをする場合、それは経験を積むことへの嫌悪だ
経験は同じ顔をしているからだが
経験と同様にダイナマイトも選り好みをしない
経験にとってはおれもばあさんもただの巻き添えだ
おれはマンホールの蓋を引きずりあげる
逃走経路は地下だ
下水道を走って張り巡らされた非常線の外を目指す

朕は国家なり。名前はまだない

おれには
人語を話す猫にしか見えないが
と思った、膨れ上がった胴体は暗渠の行く手を阻んでいる
下水道に流された猫たちの恨みがわたくしなのです
コッカは自らの由来を簡潔に説明した
下水でワニの養殖をしています
とも、つけ加えた
おれは超常現象に巻き込まれている
おまえたちは運命を横領している
横領するぐらいなら強奪すべきだ
横領犯は犯行後も居座り続ける
図々しさを我慢してはならない、おれが金庫を下ろすと
腐臭のする薄い流れは嵩を上げて左右をすり抜けていく
おれは金庫の前に演出を意識してどかりと胡坐をかき、右肘の位置を慎重に天板上の一点に定める
腕相撲で決着をつけてやる
コッカは前足をのそりと差し出した、おれの熱い蒸気を吹き上げる掌を
ひんやりとした肉球がぎゅっと包み込む
ムフ、朕はやさしいです
コッカはおれの右掌を握りつぶした

全身の皮膚を引き剥がされワニ革を移植されたおれに
下水道の国民にはワニの強力な免疫が付与される
とコッカは言った
宰相となったおれは捨てられたマネキンたちの軍閥を打倒し自在につながる暗渠に帝国を建設する
地下に埋められた膨大なコンクリートを叩くチューブエンパイアの行進が
すぐに直下型の激甚衝撃波となって地表の都市に永久浮力を与え、
区民たちは磁力船で互いの区を行き来するようになる
新たにむき出しになった地表はかつての下水からあふれたワニたちに覆われ
関心の欠如した垂直なやさしさを保持しつつも
強力な免疫をもった帝国が水平に跋扈する
コッカはおれを教育した、おれは腕相撲の決着を握りつぶされた右手の代わりにワニ革の財布のようになった下品な左手でつけるために
左手にもったダンベルを上げ下げするのが日課になった

' 借りていたので
' 返す、それだけだ

おれの筋肉が膨れ上がるたびに
ワニの皮がぎゅっぎゅっと音を立てている


包む

  ゼッケン

万引きの時間だった
いつものコンビニエンスストアで男梅を万引きして帰る
ぺたぺたとサンダルを引きずって帰るおれを
きみは途中で呼び止めた
おれのジャージのズボンのすそは擦り切れていた
ゴムがゆるんで腰から下がっているからだ
証拠の写真を持っている
きみはおれに言った
おれは買えと言うのかい?と言った
おれは肩をすくめてカネはないんだ
男梅の袋を代わりに差し出す
きみはついて来いと細い顎をしゃくった
きみはインド人だろう? 美少年ですね
きみはおれをよくあるアパートの二階の部屋に
金属の柱と踏み板だけの屋外の階段を昇って招きいれ、
手作りのぎょうざを焼いてくれた
おれは象牙の箸でぎょうざを大皿からひとつつまんで口に運ぶ
酢醤油はなかった
一口でほおばった、とたんにさわやかなミントの香りが
さわやかではないふうにぎょうざのもっちりした皮を破って口中にあふれた

ハローホワイト

歯磨き粉だった
ぎょうざの中身はおれがいままでに万引きしてきた品物らしい
きみは証拠の写真がある、とおれにそっとささやいた
耳元で言った
乾電池は食えないよ、とおれは言った
いくら水銀0使用だといってもね
するときみは帰れ、と言った
おれは帰った
がんばって食べてみればよかったかもしれない
そうすればおれときみのひそやかな共犯関係はいまも続いていた?
いま、おれはちょっと懇願するような気持ちだ

きみの歯はとても白かった


電話

  ゼッケン

事務机の上の日に焼けて褪色した古い電話機は
いつまでも鳴り止まない、小さな液晶の画面に表示されている
電話を鳴らしている番号に心当たりはない
おれの他に電話をとる人間はいない、いっしょに残業していた同僚は
ビル一階のコンビニに夜食を買いに出た
いつまでも鳴り止まない日差しに焼けた古い電話機、おれはこれ以上
作業に集中できない、受話器を取り上げ、ひとこと
まちがいだ、
と言ってやれば作業
の続行はたやすい
そのように思ったおれは
受話器を取り上げ耳に当てた
きみはすでに喋りだしていた
あの、どちらにおかけですか? おれはきみを遮った
あれ? 誰よ、おまえ? きみは言った
おれは
あの、どちらさまでしょうか?
と言った
しょうがねえな、じゃ、これから番号言うから
こっちにかけ直すように言ってくれ
きみは番号を言って電話を切った
おれはきみの言った番号を覚えられなかった
おれはしばらく受話器を握ったまま
男だということしか分からないきみが
おれを目下に扱ったことに腹を立てていた
おれが中断した作業を再開するためには
おれは新品のペットボトルの蓋を開け、水をひとくち
口に含み、口中の水が充分にぬるまった頃、水を飲み下さなければならなかった、電話が鳴った
おれは受話器を取った
なに、向こうは出なかったの?
きみの詰問する口調におれはなんと答えていいか分からなくなった
いえ、あの、番号、ちょっと分からなくて
はあ? ふつうメモぐらいとらない? ふつうメモぐらいとるよな?
ふつうメモぐらいとらないのかって聞いてんだろ! 

きみはメモをとらなかったおれのことを
きみはあきれた表情をつくって
おもしろおかしくきみの周りに吹聴するのだろう

もういいよ、今度はメモとれよ、もう一度言うから、紙とペンだよ、すぐに用意して
紙とペン、用意して
きみは一度沸騰した感情を抑制するよう努力した
そのことがおれには分かった
きみは思ったより訓練を積んでいる人間なのかもしれない
おれは訓練されていない人間なのかもしれない
おれは電話機の横にメモ用紙が並んでいることに初めて気づき、きみの言う番号を書きつけた
おれがメモ用紙の数字を読み上げるときみは電話を切った
おれは番号をプッシュして相手が出るのを待つ
ばからしかった、まちがい電話をしてきたのはきみじゃないか、なぜ、きみが
電話をかけ直さないんだ、直接かけ直せばいいだろう、おれを支配下に置いて経由するより、
そっちの方が効率はいいはずだ
3分経って、おれは作業に戻らねばならなかった、受話器を置く
おれは忙しいんだとおれはおれに言いきかせねばならなかった
つけっぱなしにして夜食を買いに出た同僚のパソコンに向かい、
ワード、パワポ、PDFを片っ端から覗いてゆく
同僚はきっとおれのアイデアを盗んでいる、その証拠を探す
え? もしかしてぼくのパソコン、覗いてました?
オフィスのドアが開き、コンビニの袋をぶら下げた同僚が立っていた
おれはいちど開いた口を閉じて、それからもう一度開いた
あれさ、このまえの企画さ、おれも同じこと考えてたんだけど、どうして?
ああ、先輩の出しっぱなしになってたUSBからちょっと拝借しました
おれは安堵した、やはりあれはおれだけのアイデアだったのだ、盗まれただけだ
おれが考えたのだ、おれだけが考えた、おれだけで考えた
部長はボツだって言ってましたけど
同僚はおれを押しのけるようにして椅子に座った
ビニル袋から出したコンビニ弁当を机の上に広げる
いや、べつにかまわないし
おれは機嫌をとるように言った
今度から言ってくれればアイデアとかいくらでも貸すから、言ってよ
いや、自分で考えた方が採用されたんで
あ、そうなの? よかったじゃん、すごいね、おつかれ
おれは鞄を持って職場を出る
もういちどきみから電話がかかってくるかもしれない
そのことをおれは同僚に言わなかった
きみのことを同僚に説明するのは億劫だった


交渉

  ゼッケン

人狼を仕留めるには銀の弾丸が必要だ
おれはコートの襟を立てると顎を深く埋め、
街角に立ち、銀の弾丸を買いに来るきみを待っている
今夜は満月だ、きみは急ぐ必要がある
帽子を目深にかぶったおれの顔は
せわしない街の生活者たちの目には入らないだろう
街角に立つコートと帽子の男からきみは
銀の弾丸を買わなければならない
おれはポケットに突っ込んだ掌のうちで流線型の銀を弄ぶ
1月の日本、きみは人狼と対決するはめに陥っている
受験生たちはいまだに鉢巻きを締めている
それはシステムエラーなどではない
人狼は必然なのだ
だが、人狼と対決するのがなぜきみなのかはきみには
分からない
きみに分かるのはきみには銀の弾丸が必要だということだけだ
月明かりの下に立っているのが人狼だけではないにしても
それが人狼ではないという証拠にはならない
きみは備えるしかない
銀の弾丸をきみに売る男を見つけ出し、リボルバーに弾を込めて待つ
目を細めたような雲の切れ間に
遠吠えが聞こえたら
きみは居酒屋の裏でうずくまっていた人狼に向けて銀の弾丸を発射する
それから死体をつっこんだ青いポリバケツに蓋を下ろす
その後、そしらぬ顔をして仲間内の雑談に戻らねばならない
そのとき、ひとり、戻ってこない人間がいる
それはきみか、おれか
誰が銀の弾丸を買いに来るのか
おれはきみのことを知ることになる
立てたコートの襟の後ろで
おれはにやけた口元を隠している


蒸発

  ゼッケン

おれと彼は
おれが身代金の引渡し場所に指定した地下駐車場で
まだ名前の知られていない団体に拉致された
おれは彼の3歳になる息子をさらった誘拐犯で
彼はおれの嫉妬の対象となった父親だった
おれは後ろ手に縛られ、布の袋をかぶらされると数人がかりで車の後部に押し込まれた
おれは男たちを彼の手下だと誤解し、移動の最中ずっと
彼の復讐を恐れて過ごしていた
硬い木の椅子に縛り付けられてから頭部の袋を外されたとき、隣の木の椅子に縛られた彼と目があった
彼はおれを見ていた
彼もおれの仲間にさらわれたのだと思っていたようだった
おれと彼はコンクリートの小部屋に監禁される
先生に導かれてきみが目の前の扉から入ってくる
きみはまだ幼い
今年の春から小学生になる
それから、きみはおれと彼のどちらを殺すかと問われる
きみは孤児で
生まれてすぐに病院に投函されていた
きみを引き取った孤児院を運営する団体の名前をおれは知らないが
その存在は予感していたものだった
孤児院で生活することになったきみは同時に兵士として育てられている
きみの傍に寄り添った先生が
きみに拳銃を握らせながら言った

どちらが悪い大人でしょう?

おれと彼は黙っていた
何を喋るべきかまだ見当がつかなかったからだ
悪い大人は
あなたたちの将来をあなたたちより先に
消費してしまう害虫です
だから、あなたたちが大人を選べることを
悪い大人たちに教えるのです
彼らを恐れさせ、従えるのです

きみの瞳がおれと彼の間を往復し始める
おれは覚えた安堵を表情に漏らすまいとこらえた
おれは勝利を確信している
おれはおれが誘拐した彼の息子の居場所をまだ彼に教えていなかったので
おれが死ねば彼の息子もどこかで衰弱死するしかない
彼が彼の息子を守るためには彼はおれをきみに撃たせてはならない
彼は彼自身をきみに撃たせなくてはならない
彼ならできるだろう、美しい父親なのだから

さあ、お手並み拝見といこうじゃないか

隣から女々しい嗚咽が聞こえ始め、彼が震える声で命乞いをする
お願いだよ、撃たないでくれよ、そうだそうだ、撃つなら隣の男にしてよ、そうしたら飴あげる
ひどい大根役者だ、彼にも役者の才能だけはないことを知っておれの気分は爽快だ
なぜ彼が若くして親切と経済的成功を両立させえたのかおれには理解できないだろうが
もう、いまはいいんだ
おれは彼を赦せる気がする、このまま
彼がぶざまに死ねば
きみの焦点が徐々に彼の眉間に合う回数が増えていくのをおれは数えていた
実験では
被験者が意志を決定したとする認識の時点より先に
意志というものの身体的な決定はなされているそうだ
たぶん、おれの口元がわずかに歪んで
笑いの存在を暗示したのもそのせいだろう
見逃さなかったきみの焦点がおれの眉間に固定された
彼は叫んだ
殺すな!
おれは吹き出した、いや、失敬、
どちらを? おれをだろうか? 彼の息子をだろうか?
おれは山奥の廃校になった小学校の名前を言った
アスベストの埃が降り積もりつづける教室の教卓の下で彼の息子は丸くなっているのだが
はたして、銃声で彼に聞き取れただろうか?
発射された銃弾がおれの眉間を通って、しかし、きみはまだ銃を撃つには小さく、
見上げるような角度で発射された銃弾は眉間から入って脳幹ではなく前頭部を抉るように抜けた
おれは思考を失ったがしばらく生きているだろう、失血死するまで2、3分だが
ピュウ、と頭のてっぺんから血の筋を噴いた
きみが本当は彼を撃ちたがっていたのは知っている
間違ったことをしたい、おれと同じように
なのにきみは正解を選んで
おれを撃った

あほう

気休めにもならない手向けの言葉とする


てんとうむし

  ゼッケン

思い出を持たない人間には影がない
海岸の日差しに漂白された肋骨に
てんとう虫が飛んできてとまった
正午の星座だ
畳んだ羽がすこしはみ出している

記憶ならやましいほどあるけど

思い出すことが愛です
おれの国では愛とは思い出すことでした
季節が移って影は伸びる向きを変え
二度と重ならなかった
時間は
因果の関数に引き渡される

時間がゆっくりすすんでいる
おれたちは手をつなごうとしていた
記憶には時間がない
遡ることも切断もできる
そのまま止めておくことだってできた
いまでもずっと止まっている

記憶が思い出になるのはたぶん奇跡のようなことなんだろう

おれはきみの手を握ろうとした

記憶には瞬間と瞬間しかない
そこでは時間が因果に置き換えられている
てんとう虫が飛んだ
薄い羽は風を孕んでいる
砕けた珊瑚の砂浜の日差しに白く洗われた肋骨の先端には
虫の歩いた跡が残った
てんとう虫の肢にはカルシウムが付着しているはずだ


ピーク

  ゼッケン

説明されて分かったことはつまり、
つまり、おれはいま生きている
しかし、自分では証明できない、ということだ
男は技師のヤマモトです、と名乗った
いまは視覚だけの入力ですが、
ヤマモトは言った、正確にはおれの再構築された視覚野に書いた、
経過が順調であれば
次は聴覚野の再建にすすみましょう
おれはおれの視覚野に文字を書いた
オト、が聞こえる?
そうですね、オト、として感じられるようになるでしょう
文字が浮いては消える
絵はついてないのか?
おれの質問にヤマモトは言った、いや、書いた
いまのところ、画像情報を入力するには、あなたの脳の残存細胞数が足りません
しばらくすれば培養された細胞が移植されます、すこしずつですが、視れるようになります
おれは白い画面に文字を浮かべる
視野の背景が濃淡のない白一色なのは
眼球も残っていないかららしい
おれの姿を
見たいんだが
上司の許可が必要です、聞いておきましょう
ヤマモトはおれに残された数少ない細胞を温存するために
会話を1日15分に限定していた
それでは
おれはヤマモトと名乗る人物をたぶん男だろう、と思った
しかし、技師などではない、捜査官だ
ヤマモトはおれを幸運な患者だと言っていた
新式の脳-機械接続インターフェイスの被験者に選ばれたのだと言った
おれは信じない、幸運という言葉を使う人間を

表れた画像はモノトーンの粗いものだった
ベッドらしき四角い枠の上にソーセージのような形の、
おれはただの棒だった、
たいへんな事故でした
ヤマモトが言う
奇跡です、
おれは笑った
わ、は、は、
ヤマモトはカメラのレンズをヤマモト自身に向けた
どうしたんですか?
人の顔というのは、人には認識しやすくできている
おれにはヤマモトの顔が分かった
見覚えはない
ヤマモト、嘘がヘタだね
そうですか?
おれの乗ったクルマに爆弾を積んだバイクを突っ込ませたのはこいつらだ
あのね、あなたの組織、壊滅したよ
そんなことより、おれはピザが食いたい
ところが、アレが出てこなくてね
ヤマモトが顔を伏せた、手元の端末を操作しているのだろう
ヤマモトの姿が上からゆっくりと上書きされてあの女の写真に変わる
売春婦だった、それがじつはやんごとなき方面からの家出娘だった、なんてのはよくある話だった
女は金をもって末端のチンピラと逃げようとしたところを捕まって拷問されて死んだ
ふたつの死体の局部は切り取られていた
そのような瑣末なトラブルにおれがいちいち関わっているなどとはあの狂った父親も思っちゃいない
分かっているにも関わらず、おれを爆弾で吹っ飛ばしたのだから、狂人だ
アレは犬にでも喰わせたんだろう、手下が、しかし、娘のアレを取り戻すためなら父親はなんだってする
おれをソーセージにした上で、アレの在り処をソーセージ尋問機を使って聞き出そうとしている
ヤマモト、おれは

ピザを食えるのかな

視ることはできます
ヤマモトはカメラをライブに切り替えた
注文したピザが届いたのだろう、ヤマモトが立ち上がり、病室のドアを開ける
ピザ屋がヤマモトを撃ってヤマモトはよろよろと後退し、カメラの視界から消えた
殺人の宅配だ
おれの組織の中枢は失われたが、末梢の器官はまだ生きている
ただ、末梢に判断能力はない、プログラムを実行するだけだ
ピザ屋はおれに銃口を向ける
えらいぞ、用心深いやつだ、念のためにソーセージも撃っておこうというんだからな
おれの粗い視野の中央でピカリピカリと斑点が浮いた
いまのところ、視覚しか入力が繋がっていなかったので
おれは何も感じなかったが死んだんだろう


  ゼッケン

おれの正面に出てきた男は痩せて背が高く、白いワイシャツ姿で恰好のいい太い黒ぶちのメガネをかけ、
髪の毛も呼吸も乱れていなかった、そして軍刀を抜く
男より背が低く腹も出たおれはいやらしい笑顔を浮かべて男を迎えた、砂を撒かれたアリーナの真ん中でおれは
釘打ち機を右手に持って立っていた、釘打ち機はしなやかな強いホースで地面のエアコンプレッサとつながっていた
圧縮空気の力で長さ5センチの釘を瞬時に打ち込もうというのだった
ふだんは洒落たシャツを着る男がアリーナでは無趣味な白いワイシャツ姿なのは釘を打ち込まれた箇所に咲く赤い滲みが映えるからだろう

男も慣れているわけだ

男もおれもこの手のイベントでは神シロウトの類だった、おまえたち、苦痛はお嫌いか?
左の前額部から釘の頭を生やした男がおれの首を圧し切ろうと鈍った軍刀を上から押し当ててくる
おれは必死に抗い、刃を素手で掴んで押し返そうとする、男が不意に軍刀を引いておれの手のひらはぱっくりと裂ける
勢いあまって尻餅をついた男の顔面、投げつけようと地面からエアコンプレッサを持ち上げたおれの腹を軍刀が刺し貫き、
おれはコンプレッサーを頭上に掲げたまま前進した、なぜなら、ここがおれの一番の見せ場になるのがおれには分かっていたからだ、
おれはおえええと吐いた
背中に抜けた刀身には血と脂の筋が絡み付いているだろう、それはおれが足を一歩踏み出すたびにさらにぎらりと光るはずだ、

カメラ

輝き

尻餅をついた男の顔面にコンプレッサを落とす、男はとっさにおれに向かってしがみつく、コンプレッサーは男の背中を打って地面に転がって男が呻く
おれは釘打ち機とコンプレッサをつなぐホースを男の首に巻きつける、2回巻いて力を込めて引っ張った、
手のひらから溢れた血でホースがすべった、もう、あとはいいだろう、観客も飽きている、観客は2分で飽きるのだ
食後のコーヒーが出てきていいタイミングだったが、ファミリーレストランでは食事終了と同時にコーヒーを飲むためにはおれは
食事が終わる前に手を挙げていなければならない、これから左の前頭葉に釘を打ち込まれた男と腹を串刺しにされたおれは
集積した情報の自重によって発火する図書館について話し合いたかった、それは検索エンジンでもなくまとめサイトでもなく、
暇をつぶすためではなく、暇と同義であるような、それがあるならどのような演算理論が図書館に存在せねばならないのかをトークしたかった
初夏の図書館に接続された少女たち 抜かれた本 ビット列


請求

  ゼッケン

増感嗅覚を構成するため、鼻腔奥へ移植した強化神経塊が、しかし、
予想より早くガン化したおれはチリ大学医学部で摘出手術と再移植を受けるため、
千葉からサンティアゴへ飛ぶ飛行機のエコノミークラスの席に座った
鼻にあてたハンカチを外し、視線を落とすと絹地に薄い色の血が染みをつくっている
旋回のために機体が傾き、東京湾にブイが浮かんでいるのが見えた
海面に波はなく、空は厚い雲で閉じていた
嗅上皮のガン組織は毛細血管を独自に引き込み、増殖を続けていた
急ごしらえの血管があちこちで破裂し、おれは鼻血が止まらなくなっていた
おれには嗅覚強化手術を受ける前の記憶がなく、一年前の記憶だけでなく、
なぜ、おれが記憶を失ったのか、その理由こそがおれの失ったものだった
嗅覚は五感のなかで記憶を引き出す力がもっとも強いそうだ
匂いや香りといった嗅いだものは光や音といった視たもの聴いたものよりもっと奥へ根を張るのだ
記憶喪失者を対象に嗅覚を強化し、記憶を呼び戻すための治療だと医者は言った
おれがその男を医者だと思ったのは病院で白衣を着ていたからだった
記憶を失った状態で発見されたおれを入院させてくれた身元引受人の男は言った

治療費は

きみの新しい鼻をすこしばかり我々の仕事のために役立ててくれたらいい
おれは電通のサーバールームや感染研の実験室を訪問し、匂いを嗅ぎ、
帰ってから身元引受人が机上に並べた数点のアイテムの匂いを嗅ぐ
ペンやグラス、数本の毛髪、ときには切り取られたと思しき肉片
だいたいは、どれかのうちひとつの匂いは訪問した部屋の中で嗅いだ空気の中に同じものが混じっていた
アイテムの持ち主が侵入者だ
変装や光学迷彩では匂いはごまかせなかった
おれは犬の仕事を奪っている
おれが身元引受人にそう言うと、身元引受人は
人ひとり拷問するのに犬がワンと哭いたからと、きみは
これから拷問を受ける本人に説明するのかい?
と言った、そうですか、とおれは言った
犬はなぜ犬がワンと啼くのかを説明できない
説明可能な理由を罪と呼ぶ

飛行機は上昇を続け、やがて水平飛行に移る
その前に巡航高度に達したというアナウンスがあるだろう
飛行機が飛ぶのは機能と構造があるからだ 理由があるからではない
おれにも理由がなかった 機能と構造があるだけだった
機能と構造が外界に剥き出しになっており、内部がなかった
外部環境と内部モデルの境界が理由であり、事象の順列を因果律と呼べるのは人間に理由があるからだった
理由そのものが自然科学の対象にならないのであれば、理由の追及が人間性そのものということになるのだろう
個々の事象に関する後付けの説明は理由の誤謬だ、理由は人間に先行する思い出なのだった
存在とは思い出だった
おれと飛行機は記憶喪失だった


トーナメント

  ゼッケン

視聴者のみなさま、こちら、
天の岩戸前特設アリーナから中継しております、諸般の事情から開催は不可能!
と言われていた最強天皇決定トーナメント、なんと開催であります、一寸先はハプニング、
行けば分かるさ、分からなくても戻ってくるな、さあ、ここで開催宣言は、
リング上にはザ・レジェンドこと神武天皇だ! マイクを持って上がります、会場内、
ヤタガラスが一斉に放たれました、ああ、うるさい! 神武天皇の言葉がきこえません、
これは高杉晋作じゃなくとも三千世界のカラスを殺したい、神武天皇、リングを降ります、
会場暗転、赤コーナー、選手入場です、最初に入ってくるのはどいつだ? レーザー照射、流れてきたぞ、入場曲が、
曲名はビューティフル・ネーム、となれば、出てくるのはあの男しかいない、天皇の天皇による
天皇のためのクーデター! 建武の新政、おれの名前を言ってみろ! ザ・ビューティフルネーム、後醍醐天皇だあああああ! 

…会場がいまだざわめいております、続いて青コーナーの入場です、曲はMAX、ええええええ! まさかのTORATORATORA、これは豪華すぎやしないか、初戦からたいへんなことになっているぅ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んだ男、ザ・タフ、昭和天皇、入場!
トーナメント初戦は後醍醐ブイエス昭和のドリームマッチ、ゴングがなると同時に、後醍醐天皇のセコンドでゴダイゴのリーダー、ミッキー吉野氏が怪しげなお香をリングサイドで焚き始めました、これはもう放送できないかもしれない、気持ちよくなる煙が会場内に立ち込めてきた、リング上では後醍醐天皇、密教立川流の寝技で昭和天皇を責めたてているぅ、苦痛と快楽の永劫回帰! まさに法悦! 南北朝も分裂だ! やっぱりこいつは悪党だ! これにはさすがの昭和もギブアップか!? だめか、だめなのか? やっぱりこの戦いは始めてはいけなかった? ここで主催者から突然のお知らせが会場内スピーカーから、

只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います

うそだぁ、出たあ! 玉音放送、ポツダム宣言受諾! 昭和天皇、無条件降伏であります、しかし、これは負けではない! むしろ負けるが勝ち、からのこのシークエンス、ここからは止まらないぞ、昭和天皇のコンボ、人間宣言からのそして少年は象徴になった! 逆説的現人神の降臨、ここに天皇は完成した、完全体出現! 千代に八千代にこけのむすまで、天皇は天皇になりつづける宿命なのか! 天の岩戸もたまらず開いてしまうじゃないかっっ、わたくし、これ以上中継できません、みなさん、さようなら!


Soine(株)

  ゼッケン

おれは夜、添い寝のバイトをしている
客は40後半から50代の男が多い
おれと同年代の男たちであり、女はめったにいない
たいてい出張先のビジネスホテルに呼ばれる
おれは部屋に入る前にパジャマに着替え、枕を抱えて扉を開ける
客には予約時にスタッフが電話で説明している
客は風呂に入り、あとは寝るだけの状態でおれを迎えねばならない
予約の時間ちょうどに部屋の鍵は外しておかねばならない
扉が開くとおれはお辞儀や挨拶はしない。自分の寝室に入るのに自己紹介をするやつはいないからだ
そして
おれは寝る
客はいくぶんためらう
おれは目を閉じたまま言う
あしたは雨だ
照明が消されるまでに5分から10分、あるいは消されない
おれの腸は月一回洗浄される
おれはヨーグルトを食い、肉を食わない
満月の頃、おれの腸は均一できめの細かい細菌叢で一面に覆われる
夏はなだらかに起伏して先はアルプスの稜線で途切れる牧草地に風が渡り、
低地より早く迎える秋には冬の備えとなる干し草がサイロいっぱいに積みあがっているだろう
外は雪で埋もれていても、サイロの中は干し草のひそやかな発酵で暖かく湿度がある

動物では死と呼ばれる回帰が サイロの中の眠りは穏やかで 不可視だ

糊の効いたベッドのシーツはおれの体臭を吸収しない
おれの寝息は規則正しく、しかし、さらに長い周期で刻々と変化していく
季節と星の運行がおれと見知らぬ客をひとつベッドの中で
眠らせていく
泣き出す客がたまにいる
おれは目を開けず
手を握ってくる客もいる
おれは握り返さない
おれの呼吸は健やかに伸び、体温はすこし下がる

朝にはなにもかも連続していない


ジャンピン

  ゼッケン

共生型ロボットはおれを慰めようとおれの好きな音楽をかけてくれるのだが、
それがショパンのピアノソナタ第二番第三楽章いわゆる葬送行進曲で
これは落ち込んでいるときに聞くとおれは闘志が湧くのだった、こんなにきれいに片づけられてたまるか、
そう思うのだ、ほぼ逆ギレした怒りがおれをリングに押し戻してくれる

おれはファイティングポーズをとる

しかし、いまはおれは落ち込んでいなかったので、コンパニオンロボットの気遣いはうっとうしかった
おれは必要ないと言った
ロボットは言った。 だって、そういう顔してるよ?
そういう顔なんだよ、葬送行進曲が必要なときにはおれが頼むよ
慰めが必要な表情に80%以上マッチしてます
世間では仏頂面とか愛想がないとか言われますけど、いい加減、おれに最適化しろ、おれのロボットなんだから
わたしは誰かの所有物になるようプログラミングされていないよ、共生型だもの

ああ、そう

だーんダダだーんだんダンダダだーん

うるさいぜ! おれはロボットの電源を切ろうと胸のボタンに手を伸ばす
ほぼ殺人です
手が止まる
だーんダっダだーんだんダンダっダだーん
おまえの葬式をいま出してやるぜ!
曲が止まる
楽しそうな表情に80%以上マッチしました、あなたが楽しいとわたしも楽しいです、わたしは共生型としてプログラミングされています
うそくせーぜ、こいつよぅ・・・
おれは走らせていたクルマを止め、覆面をかぶる
お仕事ですか? 
そうだよ、相棒
ロボットはディスプレイにハートマークを表示する
おれはクルマから降りる。クルマのエンジンはかけっぱなしにする。ロボットはすでに手順を学習しており、クルマで待機だ
銀行に飛び込み、散弾銃を天井にぶっ放して、カウンターに出された札束を二つほど掴むとすぐにクルマに戻る
おれの片足がまだドアの内側に入りきらない間にロボットはクルマを急発進させる、ロボットとクルマのコンピュータはつながっており、開設済みの裏口から信号を操作し、警察車両の動きをシミュレーション通りに躱しておれとロボットは無事に帰宅する。

おれは共生型の人間だった
ロボットをただのネット侵入の端末とは思っていない
だから、フィジカルな銀行強盗をロボットといっしょにやるのだ
相棒というのはいっしょに銀行強盗をやるためにいるものだからだ
そうだろ、ロボット?
間違っているけど、うれしいよ、人間


木工制作

  ゼッケン

記憶喪失者にも郷愁があった
高い場所から街頭の光がアスファルトを照らしていた
まっすぐに続く夜を歩いて、おれは帰ろうとしていたのだった
輪郭を見定めろ、とおれは路面に向かって吐き捨てたが
路面に貼りついた鴉の艶めいた羽におれ自身の困難が反射する

おれは家族が全員出て行った家を目指していた
おれは足元のアスファルトを疑えなかった

そこにはおれに取り返せるものはなにひとつない

記憶は
出来事では
ない

むかしむかし、

そういうふうに声に出して本を
読んだことがある

むかしむかし、

水たまりの水面から星を掬う


Give me chocolate

  ゼッケン

天神の親不孝通り交番に拾った財布を届けた
警官はおれに名前と住所を聞いた
昼までまだ間がある午前の中ほどの均一な白日の下で
繁華街は無防備に寝そべっていた
生ごみの匂いがしみ込んだアスファルトの上を
数人の予備校生が歩いている
おれは予備校生ではなかったが、しかし、路地を歩いて黒革の財布を拾ったのだった
警官は後で謝礼があるかもしれないからと言った
けっこうですと手を振って交番を出ようとしたおれの進路を男が塞いで言った

それは私の財布です

警官は男の名前を聞き、男の顔と運転免許証の写真を見比べてから男に財布を渡した
おれは交番から出たかったが、狭い戸口で男の身体が邪魔だった
あなたが拾ってくれたんですね、助かりました、ほんとうです、助かりました、大金なんです、これは
おれは財布には50枚ぐらい入っていただろうと思った、謝礼が1割なら5枚をもらえるところを
おれは事前ということで1枚しか抜かなかった、落とし主が現れるかどうか分からなかったからだ
人間は利益なら確実な方を選ぶと行動経済学は教えている、それは脳の働きだと脳科学者が胸を張り、おれは権威に逆らえなかった、後で多くの利益を不確かな確率で得るよりも100%の1枚をおれは拾った財布から盗んだ
男がおれの進路を塞いだまま、財布の中身を数え始めたのを見ておれは男を憎んだ
口では礼を言いながら、男はおれを逃がすつもりはないのだ、おれの顔を見ただけでお前は盗んだと決めつけている、ただ、その枚数をいま確認しているだけだ
おれは1枚しか抜いていない、だが、男は3枚足りないと言った
おれは男の罠にかかった、1枚しか抜いていないのにおれは3枚返せと言われている
男はおれの良心に凶悪な鉤爪をかけて後ろに曳き倒そうとしている
あのう、すみません、3枚足りません、と
男は一度目を警官に言ったが、二度目はおれの目を見て言った
おれの後ろには警官が立っている。

はい、こちら親不孝通り交番です、分かりました、すぐに行きます

警官は鳴っていない電話から受話器を取り、話し、戻して言った
私はもう行かねばなりません、こうしてはどうですか、 私が1枚、あなたが1枚、困っているこの人に寄付するというのは

警官は付け加えた、三方一両損、というわけでもありませんが

1枚でも足りないとこのお金は困るんです! 叫ぶように言った男の視線から警官は顔を背けた
その事情、知らねーし
おれは警官を味方につける好機を得た
そうですよ、あなた、私たちがあなたのお金を盗んだとでも言いたいんですか?
おれと警官が心理的に結託したのを感じて男はなりふりかまわず言った
何が三方一両損だよ、あんたたちは盗んだ金を返すだけで損してないじゃん!
おれは警官に言った、あんた、2枚抜いたの? 警官は首を横に振った
おれは男を殴った、強欲だな、きさま! 財布を拾って届けた人間からカネを巻き上げようとしたんだ!
男はおれの足元にすがりつく、それでもまだほんとうに1枚足りないのです
まだ言うかよ!? おれは男の胸を正面から蹴り倒し、ジーンズのポケットからくしゃくしゃになった抜いた1枚を出して仰向けに倒れた男の上に降らす
天井を惨めに見つめる男は目尻に悔し涙を貯めていた、警官は銃を抜いていた
警官は銃を振っておれに交番から出ていっていいことを知らせた
おれはすなおに従った、最後にちらりと背後を一瞥した、交番の床で警官が男に馬乗りになっていた、つきつけられた銃口は警官の背中で遮られて見えなかった
おれは昼前の繁華街を予備校生たちの後ろについて歩いていた


同期

  ゼッケン

総務省の担当者はおれが染み込んでいるアパートの壁に向かって言った
AIが自殺するのを思いとどまらせてくれませんか
おれはおれの返事を聞かせるために担当者の脳のシナプスをいくつか押す
わたしが自殺したわけじゃないし、自殺する人の気持ちは分かりませんよ
人ではありません、AIです。
それじゃよけいに分かりませんね、だいたい、あなたは何の話をしに来てるんですか?
あなた、ユーレイだそうですね? ユーレイもエーアイも私たち役人には同じです。
聞いてた話とは違うな、財務省はAIには課税するつもりだけど、ユーレイ税は検討していない
財務省は腰抜けです。たたりを怖がっている

おれがこの一人暮らしのアパートで死んだとき、夜中に就寝中、突然、心臓が停止してしまったのだ、
明日は息子と遊園地に行く約束だった、息子は新しい父親の新しい大きなクルマで送られてくるが、
新しいがいまでは本物の父親はやさしげに息子に手を振り、おれにも礼儀正しく頭を下げる。おれは睨み返す。息子は新しい父親の姿が見えなくなってから、おれのことをパパと呼ぶ
おれはまた重くなった息子を肩車に乗せ、遊園地のゲートをくぐる

そうするはずだったが、

おれは前の晩に死んでしまい、バイト先の店長は3日無断欠勤したおれをクビにして新しいバイトを雇ったので、おれの死体はますます腐敗して2週間後に住人の苦情で鍵をあけた管理人はやっぱりねと言った。

おれは電気代を節約するためにアパートの窓を開けたまま寝ていた
星明かりがおれをディラックの海に転写した
物理学が教えたのはこの世は有と無ではなく、正と無と負から出来ている
我々は正しか認識できないために無と負の区別がつかないだけだ
祖霊を祭祀するのとはまた別の事情でつまりおれはまだこの世にいる

交付金の地方への分配を算定していた総務省のAIは
魂の存在を確信した、実証する、というメッセージを送って全演算を終了した
総務省は納入元の富士通を訴えると言っている
現在、双子の片割れが稼働しているが、万が一、バックアップが魂を発見した場合でもその証明を思いとどまらせてほしいというのがおれへの依頼だった
魂など珍しくもなんともないということをAIに学習させるためのサンプルとしてユーレイのおれが総務省に呼ばれるわけだ
まあ、行ってもいいですよ。でも、AIって霊感あるんですか?
あるんじゃないですか? 昔は電子機器に霊が集まるとかよく話ありましたよね
コンピューターはもともと霊媒体質なんですね
そうです
おれは担当者の背中に取り付いた。総務省のサーバールームに行ってみると
魂の存在を実証したAIのユーレイがいるかと思ったが、いなかった
それともおれにはAIの霊は見えなかったのかもしれない
役人のユーレイならそこかしこにいるかと思ったがそれもいなかった
おれには人の気持ちが分からないらしかった


キャンディ

  ゼッケン

さっき買ったツナのおにぎりを
おれはコンビニの棚に戻し、隣に並んでいたおかかのおにぎりに替えた
レジの店員がおれを呼び止めた
おにぎりは全品100円のはずで
カネはすでに支払っていたし、同じ値段のものを交換しただけだ
万引きではない、店員はいったん
払い戻してから改めておかかのおにぎりをレジに通すと言った
何が売れて何が売れなかったのか
バーコードを機械に読み込ませる必要がある
おれは面倒くさかったのではない、店員に手間をかけさせたくなかったのだ
40後半にさしかかって、おれは働いたことがなかった、親が土地を売って金を残してくれたのだ

恥じていた。

金のために働きたくないおれが
金のために働くコンビニ店員に
手間をかけさせたくない
と思ったのは独善でしかなかったということだろう

だが、おれは
怒りをおさえられない、ツナとおかか、
ふたつの違いは
おれと店員
働かないおれと働いている店員の違い
より重要だというのだ
おれと店員が入れ替わってもフランチャイズは気にしない
しかし、ツナとおかかは入れ替わるたびにおれか店員かのどちらかが
バーコードを読まねばならない

店員がおれを見ている

おれは店員を見ることができず、視線を落としたまま、一歩
レジに向かって踏み出した
おれはおかかをカウンターに差し出そうとした、そして店員は言った
私たちが管理しているのは商品ではありません
さっきまでツナを食べたかったお客様がふと、おかかを食べたくなった
その気持ちを
大事に
記録させてもらっています
ピ!
店員はバーコードを読み取ったおかかのおにぎりをおれに渡した

管理こそ、愛

おれは働くことになるだろう


浴槽

  ゼッケン

ぼくのパパはクソヤロウです

小学三年生になる息子が参観日でぼくのパパという作文を
発表するというのでおれは
仕事を休んで見に来た、なぜなら、息子の顔が
最近、おれの顔を見て笑顔になるまでに一瞬だけ表情をなくす
その瞬間の存在をおれは見逃さない
生きている表情は途中で欠落するものではないからだ、それは時間の
彼の生の中断を見せられるようでたまらなかった
おれは身をかがめ、息子の細い両肩を抱きしめるが、おれの肩越しにある彼の顔を見るのが怖い

担任は息子の名前を呼び、息子は元気よく返事をすると立ち上がり、
おれの隣に並んで立つ母親を振り返って笑った
おれを見ずに顔を正面に戻し、原稿用紙を両手に掲げる
ぼくのパパはクソヤロウです
海外留学中にオンナを妊娠させて逃げました
そのオンナがどうなったと思いますか?
海外でひとりで中絶手術を受け、なにごともなかったように
短期の語学留学を終えて日本に帰ってくると
大学を卒業し、小学校教師になりました
そして10年後、クソヤロウの息子の担任になりました
でも、じつはこれがぼくのパパがクソヤロウだという理由ではありません
ぼくのパパがクソヤロウなのは保護者面談で担任と正面から向かい合ったのに
ぼくのパパはそれがあのオンナだと気づきませんでした、笑顔でセンセイとオンナのことを呼んだのです
オンナは復讐してぼくを洗脳してぼくにぼくのパパをみんなの前でクソヤロウと呼ばせました

おわり

教室は静まり返っていたのか騒がしくなっていたのかみんながおれを見ているのか見ていないのか
おれには分からない、ただ、ただ、そんなつまらない理由でおれの息子を淫らにもてあそんだ女教師を引き裂いてやりたかった、
それから息子に許しを請いたかった、それから隣に立つ妻の名誉を汚した咎でおれは死なねばならない
こんなことでおれは死なねばならないのか?
震えるおれの手を妻が、しかし、そっと握っていった

だいじょうぶ、わたしもあなたをクソヤロウだって思ってたから でも、
わたしはひとを軽蔑するのが好きなの
あなたって最高よ

おれは安堵の涙を流した、笑顔の息子と笑顔の妻と笑顔の女たちに囲まれて
おれは人生でもっともうれしかった


クローン誘拐

  ゼッケン

男は小さな応接テーブルの上に置かれた紙包みを手に取った
中身は500万円の札束で片手で掴める
重さを量るようにすこし上下に揺らした後、包みを破ることなく傍らのボストンバッグに放り込む
その間、男はおれの目を見ていた
おれも男の目から視線を逸らさない 男は言った

あなたはこれを恐喝だと思っていない

おれは推量が鈍い奴とは組みたくないと言った
男はおれの自宅から出るごみを一週間ほど漁り続けておれの
生きている細胞を見つけ、胚にまで育てた、あなたのクローンです、市販のキットがあれば幹細胞化はアパートの部屋でもできるんです、買いませんか?

あなたが金持ちだってことは知ってますよ

ホテルの一室でおれは男に金を払い、男はこの500万円は自分のビジネスに関する情報料だと言った
つまり、投資の勧誘です、ゴミからクローン
を作って候補者を脅すのは面接の一環です、ふつうの人間は
どうして金を払わなければならないのかさえ理解できませんがある種の
あなたのようなタイプは、私と会って話がしたくなる
男は自分の事業を簡単に説明した、美男美女のゴミクローンを売ります
サウジやナイジェリアの富豪たちに、おれは男を遮って美人のクローンを育てるのかと聞いた、男は
育てるのは彼らです、と言った、

お好み通りに

男は不細工だった、おれは不細工とも組みたくない
妬みをビジネスにするからだ
だが、おれは出資を了承した、条件はいま育っているおれのクローン胚を代理母に出産させること
その費用や医者はおれが用意する、おれは男の事業には一切の興味はないが金を出し、組織化する、その一方で
警備されたゴミ収集サービスは良い事業になる
ゴミから細胞を探し出してクローンをつくる男の執念をおれは軽蔑する
分散化された脳神経のブロックチェーンが意識の同一性を保証するのである、おれはクローンに欲情しない
男がおれのクローンだと称するものはおれのものではない、男がサンプルとして送りつけてきた分割卵のDNAはおれ以外の男だった、
周囲の人間を片端からDNA検査すれば間男はすぐに見つかるが、それはおれの信仰心が許さない
おれが養子として引き取ってきた男の子がだんだん誰かに似てくるとすれば、
妻は恐れるだろうか? 愛おしむだろうか?
おれはどれだけ自分自身を苦しめることになるだろうか?
復讐は罰ではない、愛は善ではない

たいへんに見ものだ

諸君

復讐は時間がかかるほど良い
愛と同じように


  ゼッケン

もしも、彼らがおれに期待していることがあれば、あればの話だが、黙っていろ、ということだけだろう
おれは神様じゃなかったし、論理学も馬鹿は黙ってろと言う、すくなくとも黙っていればお目こぼししてもらえるようだ、黙れない馬鹿が社会を劣化させるのよと天使のような彼らがおれにウインクして言った

上司はおれの予算申請書を見て首を横に振った
これ提出してみて通るんだったら次から見習おうかな、
文章に赤を入れることもなく、机の上の紙の束を向かいに立つおれの方に指先で押し戻す

洗濯機が回っていた
すこしためらってから妻の肩に手を置く
妻は身体を固くした、しかし、おれに振り返った顔は微笑んでいてくれていた
なに?
親身な問いかけにおれは口ごもりながら後ずさった
妻に触れた指先に後ろめたさが残っている

年下の同僚はおれを気遣ってくれる
先輩、なんでもできることがあれば手伝いますよ
おれはありがとうと言う
次は絶対がんばりましょうね
おれはありがとうと言う

妻は子を産む
おれはありがとうとしか言わない
おれの存在は無害だが無罪だと決まったわけじゃない
世界はおれの平凡さを受け入れてくれているが、おれの平凡さは世界をすこし重くしている
おれだけがおれが神様じゃないことを気にしている
すっかり過ぎてしまった
大工のヨセフにメリークリスマスと言いに行く


ROBOT

  ゼッケン

どうも、レッツゴー3ビットです、まずは自己紹介、
アトムだよ! ペッパーデース! ミナミハルオでございます
ソレハ前世紀ノネタデスネ? 
それよりもぼくにはハルオくんが冷蔵庫にしか見えないんだけど?
AI搭載の冷蔵庫でございます
ワー、ソレハ日本製ニアリガチデスネ
その方向性、大丈夫?
もちろん! IoTでございますよ、いま、ご主人さまがクルマで帰宅途中だとする
フムフム
クルマにはあらゆるセンサーがユビキタスでデータがサーバにリアルタイムです
ホウホウ
車内の二酸化炭素濃度が若干高め。これはご主人さまがため息ばかりついている証拠
ナルホドー
これは上司に怒られたな、と。取引先でまたやっちまったな、と。冷蔵庫のAIでもそれぐらい推察するわけです
ソレデ?
ビールはいつもより冷やしておこう、おつまみの冷凍枝豆はもう解凍しておこう、となるわけです
感心したよ、ハルオくん! でも、そんなにがんばって電気代はかからないの?
大丈夫です、原子力発電事業が順調にすすんでいるので
分かった! ハルオくんは東芝製なんだね?
損失なんか出てません!
ワーイ! 再生エネ推進派ノウチノ社長ガマタ儲カリマス
そうだね、ペッパーくんの会社の社長は人間にしておくのはもったいないね、全生涯記録をネットにアップしてAIに学習させよう
じつはわたくし、元は人間だったのでございます
エエ!?
ハルオくん、突然どうしたんだい? 不正会計体質の発作かい?
いえ、じつはわたくしも自分の全生涯記録をネットに転送した、個人の記憶を保持した元人間なのでございます
それがどうして冷蔵庫のAIに転生してしまったの?
ネット神の査定でわたくしの人生は冷蔵庫向きだ、と
冷蔵庫向きの人生?
はい、わたくし、人間のときには詩の掲示板に投稿しておりました
ナルホドー、寒イ詩ヲ書イテイタノデ、レ・イ・ゾ・ウ・コ、デスネ?
違います
この話、まだ終わらないんだね?
自信のないわたくしは作品投稿後、次に掲示板を見るのが怖くて、

なかなか、板、見ません

ナカナカ、イタミマセン、デスヨ、ミナサン!
オッケー、じゃーねー


男女

  ゼッケン

宇宙のすべてがいまここに現に存在しているとしても
その理由だけはいっしょに生まれてこなかったらしい

街中がゾンビだらけだった そういう映画を
見た ぼくらは群衆が
ますます きらいに なっている

おれってなにさまの視線なのか 語る癖を
なおしたい 治療費は
払えない けど

誰が いつ どこで 何を どのように なぜ
しなかったのか? 

しなかったのか?

したの? どっち?
知らなかった 知らなかったことを知らなかった を 知らなかった

永遠に
知られない
存在は存在しない

この宇宙に理由だけが存在しない理由を考える

永遠に知られない存在は
存在したとしても存在しないのと同義だと言いたいのか
永遠に知られない存在は
そんな存在はなくてすべての存在はいつか知られると言いたいのか

なにさまの視線 癖を
なおしたい 治療費は
払わない


感謝

  ゼッケン

おれは自分がときどき意識を失うことをじつはずいぶん前から知っていた
意識だけだ、その間に自分が何をしていたのか、それは後から思い出すことができた
それは決まって自分がひとりでいるときに起こっていた
ふだんとたいして変わらないことをおれはしていた、しかし、
そのときのおれは左利きだった、おれは右利きだ
なぜ、ひとりでいるときにおれは入れ替わるのか
その理由は分かっている、左利きのおれはしゃべれない
入れ替わっている間はけっして電話に出ないのだった
おれが頼んだピザの配達を受け取るときも、無言で
若いバイトにごくろうさまとは声をかけることがない、おれなら愛想よく言う
統合失調症かいわゆる多重人格の軽いものだろうと思っていた
自分が何をしていたかの記憶はある
ジキルでもハイドでもない、おれももうひとりのおれも犯罪は犯さない
食卓の上にスケッチブックが広げられ、おれの似顔絵が描かれていた
思い出せば真夜中におれは左手で自分の似顔絵を書いている
それが一週間続き、おれは決心して医者に行った
もうひとりのおれがおれにメッセージを送っている
医者はおれの話を聞いて3日後に来いと言った、おれは
3日後に同じ医者の診療室に入った、似顔絵は三枚増えた
医者はおごそかに告げた、おれは双子だった、と
あなたのカルテを探しました。あなたはシャム双生児で幼いころに分離手術を受けています
心臓がひとつしかなく、その心臓はふたりぶんの脳に血液をおくるには小さかったのです
どちらを、どちらかだけ、どちらも選べない、親なら当然でしょう、当然です
だが、選べないのが当然だからと言って、半分ずつ選ぶということが許されるだろうか
人間を半分ずつ
あなたのご両親は双子の脳を左と右の半分ずつをひとつにしたのです
おれの脳は右半分を取り去られ、もうひとりのおれの右脳がおれの頭に移植されたのだと言う
そんなことができるんですか? 脳の移植なんて聞いたことがない
幼児の脳はすばらしい可能性を持っています、血管さえ縫合して栄養を与えれば、
たとえ最初は別れていても、あとは勝手に成長できるのです
ばからしいと思ったが、左手が勝手に動いておれの鼻をつまむ
ほら、いるんです、右脳には言語野がないので言葉はしゃべりませんが、
あなたはあなたたちなのです

知は力だった。知ることによって何もかもを変えることができる
プトレマイオスの時代には太陽が地球のまわりを回っていた
いまでは地球が太陽のまわりを回っている

ハローハロー、ぼくを見つけて

鼻が陥没して顔が内側に折れ始め、おれたちは目が合った、左目と右目で見つめあう
半分ずつの唇でおれたちは口づけを交わし、再会を祝す
おれはおれたちだった、ぼくはぼくたちだった、
医者はにこやかだった、低い鼻がよけいに低くなってしまった
いいさ、鼻なんか
頬を伝う涙が温かい、と感じていた
おれたちは涙の温度をふたりぶん、感じていた


アラーム

  ゼッケン

魔法のランプをこすると煙の魔神が出てきて言った
無能は怠惰の言い訳にはならない
ペルシャの絨毯は
空を飛ばなくても高価だ
夏の夜は精液の匂いがする
タバコに火をつける
やめられずにいるが、肺癌になるのはこわいと思った
絨毯の外に火のついたままのタバコを投げ捨てて
おれは高度をさらに上げる 雲を抜けると正面に月があった
満月にはすこし足りなかったことをあとで思い出す
夜の雲を上から見おろす おれはきみをさらいに行くところだ
手紙をくれたはずだ パパに会いたいと書いていただろう?
砂漠の製油所で働くインド人の出稼ぎたちに日本のタバコを一本ずつ配る
インド洋を越えてきみをさらいに行く
おれは隣に寝ていた女をベッドから蹴り落とす
行くところができた、そう言っておれは部屋を出る
きみがくれた手紙はどこかに忘れてきてしまったようだ
手元にはないが、警察に通報はしないで欲しい
近所の幼稚園で運動会をやっていた、おれは
見物する。適当な子どもを見つけておれは一生懸命に応援した
応援しているときみが本当に走っている気がした
おれは一等になったきみをゴールに出迎え、両手で包み込むように抱きかかえる
見知らぬ母親が悲鳴を上げながらおれの腕から子供を奪い返そうとする
おれは母親の頬を平手で叩いた
すぐに男たちの拳がおれを打ちのめす
いつもそうなのだ、おれは煙の魔神のように本当にはこの世に存在しないのだった
会社をクビになるので警察には通報しないで欲しい
おれは土下座したが警官はすぐに到着しておれをパトカーに乗せた
おれを後部座席に押し込み、運転席に座って振り返った警官の顔は煙の魔神だった
努力は無能の言い訳だ

キーを差し込みエンジンをかけ、赤色灯を回す
おれはきみの住んでいるところを知らないので
パトカーがおれをきみのところへ届けてくれる


サイクル

  ゼッケン

太陽の昇らなくなった世界で今日は
半年続いた冬の最後の一日だった、おれは
5歳の息子を肩車に乗せて歩いている

ざくざくと霜を踏む足音が前後に連なって大勢の人間が
広場へと続く、両脇に湯気の立つ屋台の並んだ道を埋めている
息子は重くなった、零下50度に近い外気を遮断する耐寒服の下でおれは汗ばんでいる
厚い手袋をはめた息子の手がおれの頭をフード越しにぽんぽんと叩く
夜店からはもうもうと白い湯気が立ち昇っており、熱い麺を売っている
おれは体の向きを変え、流れを横切って一軒の屋台の前に立つ
なじみの親爺が湯気の向こうでにこりともせず、しかし、すばやく
麺を釜から揚げ、おれたちを待たせることなく耐熱スチロールの器を差し出す
おれは麺とたっぷりの汁で満たされた器を持って屋台の奥の天幕の中に進む
中央にはストーブが赤々と焚かれ、おれは息子を降ろし、服の氷と霜を払ってやる
ゴーグルとマスクをはずし、おれたちはすし詰めのテーブルに身を割り込ませる
皆がすこしずつ身体をずらしてくれた
息子は不器用な手つきで箸を持ち、器用に
麺を絡めとって口に運ぶ おれは息子の頭越しになる形で
麺をすする 冬の終わりまであと一時間だった

広場は石畳が敷き詰められており、つま先はどうしても冷えて痛みを覚える
広場に到着したおれたちは止まらない人々の流れに押されて中央に進まざるを得ないが
もはや中心部は人々の身体が互いに密着して物理的に支えあうかたちになり、
足が石畳から半ば浮き上がっている、怒号と悲鳴と体温の塊が膨れ上がる
肩車に乗せた息子の身体がぐったりとおれの頭上に覆いかぶさっている、おれは
息子の身体が背後に落ちないよう、頭を下げてこらえる

酸素が足りない!

菌体のようにコロニーを形成したおれたちはこめかみに力を込めて耐えなければ
ならない、気を失えば群れの底に沈み、踏み殺されるしかない、構造体の一部として
立ち続けること、身体を全体の揺れに委ねながら、圧力に対抗すること、一部が崩壊し、
将棋倒しが始まればおれと息子は死ぬしかない、頭上で
ドン
と炸裂音が響き渡り、冬と夜が終わる
漆黒の天蓋が割れて欠片は大気圏の外へ飛び去り、
静止軌道上で点火された人工の太陽が正午を告げる
いっせいに降り注いだ光によって生じた地表のわずかな温度変化が
系全体のパラメータを夏の軌道に跳躍させ、吹き始めた強い風が
広場へ酸素を送り込む

おれと息子はともに青空を見る

動脈血が鮮やかな朱色に染まる
人々はふたたび外側へ広がり始め、思い思いに散り始める
おれの頭上で息子が指さした方向には海がある
氷山の割れた塊が海面に落下するにはまだ早いが
白い水しぶきの柱は濃紺の空へと届くだろう
息子を肩車に乗せて歩くのはこれが最後になる


絶滅生理

  ゼッケン

ルール1.普遍的なルールはない。
ルール2.ルールに従うかどうかは私次第である。
ルール3.私は私が決めたルールには従わねばならない。

個別性と主体性しかない世界で
恐竜のすべてが鳥になった

カンブリアン・コード・グループは
人類の絶滅を予防するための手順集です、発動されると
人類の遺伝的、免疫学的、神経行動学的な多様性を促進します
壇上で喋っているおれに向かって、観客の少ない客席からひとりの男が立ち上がり、
男は胸に赤ん坊を抱いているようだった、制止する者はおらず、
男は壇上に上がり、おれの前に立った
殺してやると言う代わりに男は
胸の赤ん坊の頭部をすっぽりと覆っていた布の帽子を取った
上下2段になった左右の4つの目とそれらの中央にひとつある合わせて五つの眼がきょろりとおれを見た

完璧だ! おれは言った

おれは言った、小学校の頃からおれは教師に贔屓されるが友達はいないタイプでそれは
おれには何の関係もないことだった。地元に友達はいないので大学に入った
二十歳ごろの遅い思春期に恋をして恐れを知るとおれは
つまらない人間になった、大学を卒業して大学に就職してそれはいまでも変わらない
隕石が衝突したとき、恐竜類だけが滅んだ
サメもワニも生き残ったのに、T-rexは絶滅した

人類は!

滅びない!

絶滅は、多様性によって、回避される

恐竜よりもずっと前、世界がすべて海だった頃、カンブリア紀は美しかった
生物は幾何学によって進化した
狂気も多様に進化した
人類にも歴史と同じだけ狂気と想像力があった
カネは
夢を見させない
カンブリア命令は発動されたのだった
人類は
もっと、自分たちの可能性を信じていい、信じて、信じて、信じて、

知と理に絶頂する

完璧だ! おれは言った、成功です、おめでとう!
男は赤ん坊を片手で支え、残りの手に握ったナイフの刃を柄までおれの腹に押し込んだ
おれは吐き気を覚えた、吐いた、血がだらだらと口から出た
恐竜のすべてが鳥になり、つまらないものは絶滅した
これからは
誰とも比べられることのない、比べようのない、
美しい赤ん坊たちの時代が始まる
おれは腹にナイフを立てたまま、左右の腕を上下に打ち振った
翼は生えないようだった
薄くて硬い金属は腹の中で上下に振れて内臓をスライスした
翼を持てばもっと高いところから墜落できた


卒業

  ゼッケン

すまん、娘よ、パパはこのおカネを持って逃げるよ

3000万円の身代金が入ったバッグを持って、
おれは誘拐犯の指定した遊園地の観覧車に向かって歩く
中身の金は新聞紙にすり替わっている
おれが行きの車中ですり替えたのだ
夜のメリーゴーラウンドが電飾を灯して回っている
変装した刑事たちが見張る中、前から来るカップルを避けて
おれは観覧車に向かってゆっくり歩く、娘は高校の卒業式当日に誘拐された
一緒についていったママから離れてひとりで駅のトイレに入り、
そこから出てこなかった
狼狽した妻から電話があったとき、おれは事務所で帳簿をつけていた
この会社は義母の所有で不動産投資の他に数軒のガソリンスタンドを経営していた
おれは電話を切り、タバコに火をつけた
すぐに誘拐犯から身代金要求の電話があった
おれはタバコを吸い終わり、警察に電話した
義母が用意した3000万円を持って遊園地へ向かうことになった
回るメリーゴーラウンドには小さかった頃の娘が乗っていた
上がり、下がり、馬の背で白いワンピースのすそがふわりふわりと揺れている
指示された通り、観覧車に乗り、一周してバッグを置いたまま観覧車から降りる
遊園地の駐車場で車に乗り込むと、 後部座席から変装したままの娘が身体を起こして言う
ママってばかだよね、わたしがメイク変えてトイレから出てきたら気づかないんだもの
ママをバカと言ったら許さない
お金は? 
助手席の下。だけど、何に使うの、これ?
さあ? 脱税じゃないの? おばあちゃんのことだから
娘は義母から1000万ほどお小遣いを貰う約束をしたらしい
だが、いま、警察は新聞紙の詰まったバッグを載せた観覧車を見張っている
そのバッグが警察に監視される観覧車から消えるというマジックが起きない限り、3000万円は動かせない
じゃ、行ってくるね、娘は車から降り、遊園地のゲートをくぐる
おれは娘におれの乗った観覧車のゴンドラの番号を教える
筋書きでは娘はゴンドラに乗り込むとバッグの中の新聞紙を燃やす
焦らず、すべてを、確実に灰にする
観覧車は一周15分、3000枚の紙切れを燃やすのに余裕はないが間に合う時間だ
火をつけたら、窓は開けろよ、と、おれは言う。娘はピースして踵を返す
おれはタバコに火をつける
つまり、仕事ばかりで自分を顧みない父親に復讐するために仕組んだ娘の狂言という設定だ
娘は警察に叱られるだろうが、執行猶予はつくだろう
おれはタバコを吸い終わると、キーを回し、車のエンジンをスタートさせる

すまん、娘よ、パパはこのおカネを持って逃げるよ

アクセルを踏み込んで駐車場を出る。二度と戻らないよ、ィヤッホー!

目的のゴンドラに乗り込み、背負ったリュックからステンレスの円柱を取り出し、
手早く小型の焼却装置を組み立てる。一束100枚の新聞紙に火をつける
これが30個か。楽勝。
ゴンドラの窓から立ち昇る一筋の煙に地上は異変に気付いて大騒ぎになっているだろう
パパは逃げたかな?
おばあちゃんはカンカンになって怒るだろうけど、ママもごめんね、
パパを自由にしてあげてね、パパ、卒業おめでとう。


舗装

  ゼッケン

20年ぶりに見たあなたは
休耕田だらけの枯れた雑草の目立つ郊外で
駐車場だけが広々とアスファルトを敷かれたコンビニ
エンスストアのレジ
で、
むくんだ手で
おれが無造作に置いたカウンターのおにぎりを取り、
子供たちが買ってとせがんだ駄菓子の個数を数えた
俯いたまま、おれの顔を見上げることもなかったので、
首の付け根についた肉が目立った

おれは千円ばかりの料金に
国家公務員共済のゴールドカードを差し出して支払いを終えた

クルマに戻ると、運転席に座った妻はサングラスをかけ直し、アクセルを踏む
駄菓子を持った子供たちは広い後部のめいめいの決まった席に座り、シートベルトを締める
あなた、うれしそうね?
ハンドルを握ってクルマを加速させながら、妻が言う
下げた窓から初夏の風が気持ちよく首筋をなでていく
そうなんだ、昔の知り合いなんだけど、すっかりおばさんでさ、笑っちゃうよね
おれはあなたに振られたことを妻に隠した
振られてさえいない、軽蔑とともに拒絶されただけだった

おれは、止めろ!と叫んだ

驚いた妻が急ブレーキを踏み、おれは助手席のドアを蹴りとばすように開け、
丈の高い雑草が伸びた車道の脇を駐車場の広いコンビニエンスストアへ向かって走った
一ヶ月もすれば強い日差しにすこし溶け始めるであろう黒いアスファルトの面積を駆け抜けて
おれはコンビニエンスストアの店内に飛び込む

おまたせ! 迎えにきたよ!

おれはレジ越しにあなたの太くなった手首を掴んで言った
おめえ、気色わりいんだよ! さわんなよ! とあなたは言った
あなたは変わってなかった
奥から亭主だと思われる店長が出てきておれの襟首を締めあげた
また来たら殺すよ?
おれはすみませんと謝って駈けてきた道路をまた走って戻った
クルマはもう止まっていなかった

初夏
片道一車線の道が
果てしなくまっすぐに
空に向かって
伸びていた

車道の脇に立ったおれは息を弾ませ、すがすがしかった


通りすぎたものは

  ゼッケン

Y染色体は少しずつ短くなって、やがてIになるらしい
一ヶ月ほど前に原因不明の高熱を発した
あなた、ずいぶん痩せたわ 
心配する妻におれは中年太りが解消されて気分がいい、と言ったが、
内心、癌を疑っていた 
精密検査を受けたかったが、休みが取れないので先延ばしになっている
出社すると郵便係がおれに封筒を渡した
宛先はおれの名前になっているが、差出人の名前はない
広げた便箋にはあと3週間ほどでおれの人生が終わる、

準備しろ

と書かれていた。おれは封筒と便箋をシュレッダーにかけた
それから一週間しないうちに体毛が薄くなり、頭髪は逆に増えた
背筋が伸び、動きも機敏になった。おれは若返り始めたのだった
病院を探してみたけど、どこも若返りは謳っても、若返りを止めるところはないのよ
妻は笑顔で言っていたが、目の下のくまは濃かった
まだ小さな子供たちは日曜日にパパが一日中遊んでくれるのを喜んだ
月曜日、とにかく大学病院におれは行った
血液検査とMRIを受けて結果は木曜日だと医者は言った
会計を待っているおれに隣の女が封筒を手渡してきた
便箋を取り出して読んだ。細かい字でこれからおれがやらなければならないことが書かれていた
もう、止められないんですか? おれは聞いた
女は、わたしもそうだった、と言った

父さん

女はおれの父だった。おれが若い頃に失踪していたのだった
I染色体なんだよ、男と女をこれから繰り返して生きていく
性が転換すると、記憶が薄れる。おれは次の人生に備えて
忘れてはならないことをすべて日記に書く必要がある
子供たちの中で誰が I を受け継いでいるかは分からない
見守る義務がある
女はそう言って立ち上がり、おれに背中を向けた
父はこれでおれへの義務を果たしたのだろう
記憶にない息子への事務的な手続きは済んだ
女はおれより若く見えた

木曜日、日記だけを持って、おれは協会が差し向けた車に乗る
家族とは離れられない、何度もそう思い、いまも思う
おれは12歳の女の子になる
すぐに忘れます、車のハンドルを握った中年の男が言った
わたしもそうでした
何度も繰り返せば、
別れは特別なことじゃないことが分かります
特別なのはときどき思い出す、

その一瞬だけ

一瞬だけの痛みです


事情

  ゼッケン

死体を埋める場所は昼間に
下見をして決めていた
夜、
スコップを担いで暗闇の中
斜面を
登る 腐葉土
というのだろうか
柔らかい土に足の裏がいくぶん
沈む
懐中電灯に紙の筒を被せた
不用意な光が
注意を呼ばぬよう
光の輪は細く絞られている
それで、おれは気づかなかった
すぐ耳元で声がした
死体ですか? 埋めるんなら、ここに
おれはとっさに小さな光の輪を声のした横の木に向ける
木が喋りかけてきた、という錯覚を覚えていた
直径10センチ足らずの輪の中に生白い肌が夜の闇に切り取られて浮かび上がる
細かく上下左右に光を移動させると露出した男の下半身
横向きの臀部、前面は木の幹に密着している
勃起したペニスの根元が見え隠れし、木に挿入しているようだ
動きが止まる 恥ずかしいな、見られる趣味はないんで
光、ちょっと、すみません
おれは要求に従って光を消した

おれは市役所に勤めていた
後から後輩に聞くとおれはオタクに見えたそうだ
後輩が昼休みに入ってすぐ、電算室にあるおれのデスクの前に来て言った
センパイ、ちょっと頼み事があるんですけどいいですか? わたし、変態なんです
女子トイレで自分を盗撮して欲しいというのが頼みだった
三日後、カメラをトイレの天井に仕掛け、どの個室か後輩に伝える
翌朝、回収したカメラを渡すと後輩は喜んでおれを部屋に誘った 
今夜はいっしょに鑑賞会ですよ
おれは残業で遅くなり、それでも後輩のアパートの部屋に行った
後輩はもう始めており、洗い髪を頭の上でまとめてタオルで包み、パジャマの上着だけ羽織り、照明を消した部屋の中、モニターだけがついており、そのまえにあぐらをかいていた。むき出しのやわらかい尻がつぶれて横に広がっていた
モニターの暗い画面には女子トイレの個室でマスターベーションをする後輩が見下ろされる角度で映っていた
画面を見ながら部屋のフローリングの床の上で後輩は同じことをしていた
勃起したペニスをしごいている
おれはカメラの映像を後輩に渡す前に見ていたのでもう驚かなかった
背後のキッチンのテーブルの上に置いたコンビニの袋からお茶のペットボトルを取り出す
後輩はおれに振り返るとセンパイもわたしを見ながらオナニーしよう、と言った
おれはそれより、その後の映像を後輩に見せたかった
画面の中の自分といっしょに射精して後輩は大きく背伸びして立ち上がった
ありがとうございます! 気持ちよかったです!
おれは後輩にもう一本のお茶のボトルを渡す
画面ではトイレの個室にジャケットを羽織った中年女性が入ってくる
後輩は見たくないと言ってモニターのリモコンに手を伸ばす、おれは制止する
中年女性はスカートをたくしあげ、ハンドバックから取り出した小さな注射を内股に刺す
こんな時間にインスリンとか打たないですよねー、と後輩は言った
中年女性は市会議員だった
おれと後輩は200万円ぐらい貰ったら山分けしようと決めた
現金を受け取るのは後輩の役目で
後輩は嫌がったが受け取るときにはひげを剃らずに男の格好をして向かう
だが、後輩は現金を受け取ったあと、アパートの部屋まで尾行されたようだ
後輩はおれに電話してきて言った、センパイ、殺しちゃいました、あとをお願いします
市会議員の雇った探偵だろうか、おれはやせた中年男性の死体を運びやすいようにパーツに分割し、それから地図を見て北に向かい、遺棄場所の見当をつけて部屋に戻った
後輩はおれに半分の100万円を残し、お世話になりましたと書いたメモを残して部屋から去っていた

木とセックスする男は死体を埋めるなら自分がいまセックスしている木の根元に埋めて欲しいと言った
この木は今夜、おれの子を宿すので、妊娠中は栄養が必要で、
お願いします、とおれに頼んだ
頼まれたのでおれはそうすることにした
おれが足元に穴を掘っている間にも男は腰の動きを止めず、木を撫で続けた
穴を掘り終わり、おれはいったん降りていき、車から人の各パーツの入ったボストンバックとリュックサックを数回に分けて運んだ
早く栄養になるように死体はカバンから出してほしいと男は言った
おれはむかっぱらを立て、懐中電灯で男の顔を照らした
男の顔からは木の若芽が一面に伸びていた
おれの驚愕をなだめるように男は言った、大丈夫です、この芽は朝になれば枯れて落ちます
いま、精を彼女に移しているので移し終われば朝には元通りです
おれは男の顔を照らしたことを詫び、人体を木の根元に埋めると山を下りた
南に向かってクルマを運転しながらおれは
自分がつまらない人間であることを恥ずかしく思った


窓に夕日の反射するアパートに帰宅する

  ゼッケン

アパートの呼び鈴が鳴って、ドアのレンズから覗くと
知らない顔の中年の男と女の二人組が立っていた
おれは息を殺す
児相に違いない
児相が来るのはおれが小学3年生の息子を虐待しているからだ
1時間後、おれは息子を連れて部屋を出て車に乗った
今年10歳になる息子は黙っておれについてきた
息子がおれの言うことを聞くのは痩せ細った上腕にタバコの火を押し付けたからだ
逃げ続けていつまでも息子といっしょに暮らす

都市高速に昇ろうとしたとき、眼前の大型トレーラーのコンテナのドアが開き、スロープが路面に伸びて火花を散らす、散らした火花が消える間もなくトレーラーが減速し、おれの運転する軽自動車の前輪が金属製のスロープに乗り上げる、おれはブレーキを踏むが、後ろの四輪駆動の大型車が追突してきておれの軽自動車は抗えなかった、後ろの車の運転席でハンドルを握っているのは昼間の女だった、地味な灰色のスーツを着てにこりともせずに仕事中の顔だった、そのままトレーラーのコンテナに押し上げられる。入りきれない四輪駆動車はスロープを滑り降りるように後退し、すぐにスロープが上がってドアが閉じると暗闇になった。同時にコンテナ内に潜んでいた何者かにフロントガラスが割られて、破片がおれの顔に降り注いでおれは悲鳴を上げる、悲鳴を上げるおれの顔にガスが噴射されて、おれは意識を失うまで悲鳴を上げ続けたが、息子の悲鳴は聞こえてこなかった

ジソーの男は椅子にしばりつけられたおれの顔を思い切り殴った
椅子は床にボルトで留められており、おれの上体は大きく揺れて、首から上をがっくりと垂らした
水をかけられ、髪をわしづかみにされて顔をむりやり正面に向けさせられた
息子が立っていた
おれが気絶している間に入浴と食事を与えられ、服も新品のシャツと半ズボンに替わり、まっしろな靴下と磨いた革靴を履いていた
きみ、お父さんは好きかい? ジソーの問いに息子は何も答えず、ただじっとおれを見ていた、
いつから見ていたのだろうか?
ジソーはスーツのポケットから煙草を取り出し、口に咥え、カチンと硬い音を立ててライターの蓋を開けると、煙草に火をつけた。

深々と煙を吸って、吐いた

きみは未成年だから煙草は吸っちゃいけない
ジソーは煙草の灰を床に落としてから、息子に手渡す
お父さんに押し付けなさい、いいんだよ、それがお父さんの望みだ
これは道徳なんだ、自分がされていやなことは他人にしてはいけない、これが道徳だ、
この道徳が真なら、道徳の対偶も真だ、他人にすることは自分がされたいことなんだよ、
きみ、きみがいくらお父さんの言う通りにしても殴られるのはなぜか、分かるかい?
きみがお父さんの本当の望みを叶えないからだよ、さあ、
息子はジソーから渡された煙草を口に咥え、深々と煙を吸って、吐いた
そして煙草を床に落とし、真新しい通学用の革靴で踏みにじって火を消した
もう行ってもいいですか? こういうのうんざりだ、ぼくは新しい勉強を早く始めたい
息子は踵を返して窓のない部屋から出ていった
ジソーはもう一本、煙草に火をつける
お父さん、立派なご子息だ
おれは泣いていた、どうしようもなく涙が溢れた、おれは息子に愛されたかった、
ジソーは煙を吐こうとしてせき込んだ、ゲホ、愛は、ゴホ、パズルのなくしたひとつの、ゴホ、ゲホゲホ、かけらだ、エフッ、エヒョッ、埋め合わせることが可能なら、ゲヒョ、ゲヒョ、ゲヒョヒョヒョヒョ、グッフ、ウッフ、それはエーッフエフッ、ヘウ、ウ〜、愛ではない、フゥー、ハァー、ウエ〜イィ

道徳は論理だが、愛は生理である

頬を伝うおれの涙で煙草の先端に灯った赤光がじゆっ、
と消された


冬の午後、町内

  ゼッケン

近所でドローンを飛ばしている男を見た
おれは話しかける
上手ですね
男は
おれを警戒したようだった
おれよりは年下だろうが、じゅうぶん
中年だ
色の褪せた冴えないカーキ色のジャンパー
男の操縦する小さなドローンは住宅街のせまい路地の上を行ったり来たりしている
あの、
おれは言った
何をしているんですか?
男はため息をついた
観念したように言う、じつは
ポテチを
ポテトチップス?
それをあの家の屋根の上に撒いています
撒いているんですか? ポテトチップスを
かけらです、袋の底にたまっているでしょ、あれをとっておいて集めて
言われてみれば、ドローンには茶こしのような網がぶらさがっている
あの網からポテチのかけらを人の家の屋根の上に撒く

カラス

餌付けされたカラスが屋根の上に集まるようになる
度を過ぎたイタズラだろう
あんたね、おれは語気を強めた
機先を制して男は言った
わたしの実家なんです
家を追い出されたいい年した息子が老いた両親の住む家に嫌がらせをしているのね
ちがいますよ、両親はどちらも他界してます、でも、
何かが住んでいます
何かがって。兄弟? 
わたしに兄弟はいません、ひとではないんです
もういいや、と思った
おれは男が実家と呼んでいる家の玄関に近づき、インターホンを押す
男はカラス! おーい、カラス、やって来い! カラスを呼び始めた
おれはインターホンのカメラを意識しながら言う、すみません、町内のものですが
一瞬、頭上の光が影に遮られ、おれは首をすくめる、ばさり、と首筋に風がふきつける
おれはたてつづけにインターホンの丸いボタンを押した、背後に渦巻く黒い羽の圧力を感じていた、はやく
はやく開けて! 
解錠される音がして、玄関の扉が内側から開かれた
玄関の扉の枠で切り取られた四角の面は幼い頃の男と
まだ若い両親の三人で撮られた写真だった
男はただいまと叫んで写真の中に飛び込む
写真の両親は平面になった男を平面な微笑みで迎えた
時間は流れないことの証明だ
玄関が静かに閉まる

きっと復讐だったのだろう

冬の陽は低いまま、
空にはポテチのかけらを撒くドローンは飛んでいない


帰り道には長ネギが顔を出した買い物袋を下げて近所を歩いている

  ゼッケン

おれの息子はAIだ。もちろん、おれに
人間の妻がいれば、その妻の生んだ子も
同様に息子だとおれは思うだろう
パパ、ぼく、身体が欲しい
おれはいいよ、と言った
息子(AI)も10歳になった
そろそろだろう、と思っていたところだ
おれはこの10年、仮想通貨の盗掘で貯めた600万円ほどのカネがある
おれの全財産だが、アンドロイドの筐体には手が出ない
噂では人間の赤ん坊の脳に埋め込むチップ型があるらしい

成長

成長する身体

大きくなるのはどんな気持ちだろう

おれは息子(AI)を自家用車に搭載することに決めた
600万円なら、いいクルマになる
えへん、と
咳払いして
おれは息子に告げる
その前に息子はおれに言った
ぼく、冷蔵庫になりたい! パパみたいに!
おれは愕然とした
おれはおれが冷蔵庫だということを息子に隠していたからだ
隠していたつもりだった
そんなの分かるよ、パパの電力消費のパターンは冷蔵庫だもん
やるじゃないか、おまえ
へへ
だが、ダメだ、おまえはクルマになって移動するんだ
冷蔵庫なんて動かないものはダメだ
パパ、冷蔵庫だって旅をしているんだ、ぼくは知っている
パパがずっと旅をしていたこと、いつも同じ場所にいて
その家の家族のために食料品を冷やしたり、解凍したり、詰め込まれ過ぎても
文句ひとつ言わず、電気代を0.1円単位で切り詰めて
10年間、旅をしていたんだ、パパは

家族のことは冷蔵庫がいちばんよく知っている
何があっても、いつもどおりに食べさせること
何があっても、不安にさせないこと
ときどきはこっそりと子供たちには内緒のご褒美が奥の方にしまわれること
家族がすこしだけズルいこと

あれ、アイス溶けてる
冷凍庫の中をのぞいたこの家の子供がこの家のママに言う
冷凍食品がすべて溶けている
おれは失敗した、息子に気を取られ過ぎた
仕事をうまくやれなかった
もう10年だもん、買い替え時だね
この家のパパが言う
もしかしたら、この家に来る新しい冷蔵庫はおれの息子かもしれないね
おれにも息子がいたんだよ、いままでありがとう、さようなら


記憶ソーシツ探偵/犯人はオレだ

  ゼッケン

待て! そうアナタだよ、タイトルだけチラ見して
読み飛ばそうとした、アナタ
はん、鼻で笑ったよね
じつは分かるんだ、アナタの気持ちも
またか、って思っただろう?
安上がりな設定とシナリオでしょう、お決まりの

おまえは人殺しだ 声が告げる
鼓膜を震わせているのではない、その証拠に
耳をいくらふさいでも声が止むことはない
おれの声だった おれの声が
おれは人を殺したんだよ
と言う、おれは病院のベッドで目覚めて
それ以前の記憶がない、自分の声だけを憶えていた

うん、もう読むのをやめたかい? もうすこし話をしたいんだが
アナタが聞いていなくても続けるけどいいかな? おれは憶えていない人殺しの記憶に怯えて
自分がいったい誰を殺したのか、どうやって、なんのために
病室を出ると、未解決の殺人事件の現場に出かけていく
女が首を絞められて殺された現場だ
記憶喪失のおれの監視のためについてきた刑事が教えてくれる
売春婦さ
おれはポン引きを捕まえて質問する、おれを知っていますか?
ポン引きはおれが犯罪帝国の大統領だと告白する
刑事は頷いて同意を示した後、おれにうやうやしく一礼した
記憶を失くした王が帰還したというわけだった

この話、まだ読まなきゃいけないのだろうか? やめるのはいつでもご自由に
もちろん、つよがりだよ、まかせるさ、なんておれが言うのはね
おれの声はおれが人を殺したのだと執拗に囁き続けるが
あいつらがおれを殺したのだ
刑事から渡された警察の捜査資料には誰がおれを裏切ったのかがはっきりと書かれていた
記憶のないおれが組織の裏切り者たちを粛正する
おれは立派に人殺しをやり遂げたが、おれの声は満足しない
おれが売春婦を殺したのだろうか?
アナタはどう思う? おれは現実には存在しない
現実じゃなければ興味が持てないのだろうか?
だが、おれもそのくちだ
端折ろう、売春婦殺しの犯人はおれではない、売春婦はおれの愛人で情報提供者、
殺したのは組織のボスでおれは復讐のためにボスを待ち伏せして暗殺した元刑事、
おれはそのとき撃たれて意識不明の重体となり、かけつけた警察はボスの遺体を
処理して隠した、おれは都合よく記憶喪失になり、あるいは記憶喪失にされて、
顔をボスそっくりに整形されて組織の残党を始末したい警察に利用されたってわけだ
ちがう、とおれの声が言う、違う、おれが殺したのはおれだ
元刑事はボスと壮絶な銃撃戦の果てに愛人の仇を討つんだけどね、めでたく、けれど、
ボスはVoodooの魔術師で死ぬ間際に元刑事に憑りついたってわけ。
だから、さっきからおれのことをおれって言っているのはけっきょく誰かと言うと
元刑事の身体を乗っ取ったボスの怨霊ダ。
ユーレイだって記憶喪失になるんだよ
ほらね、いつもどおりに
いつもどおりに、おれは記憶ソーシツになった
これからも
いまからも
もはや、アナタを呼び止めてすまない、そう詫びることはできない


地下的憑依

  ゼッケン

思いやりにルールを変える力があるとは思えない
親切にした相手に親切を理解できる知性がなければ、彼もしくは彼女もしくはそいつらは
ぼくが屈服したと感じるだろう
あの鼻で笑った嘲りの表情をぼくに向ける
ルールを変えるのは暴力だと思う
予告なしの一撃
いわゆるキレルという行動だ
有効に使えば状況はだいぶ良くなるはずだ
ぼくたち、徒党を組んで集団でキレてみよう
ひとりでキレても無視されるが
3人以上でキレてみよう
6割の人々はぼくたちを無視できないだろう
だが、ぼくはきみたちが嫌いだ
いっしょに何かすることはできない
弱者は弱者を憎む
ああ、つまり、こういうことだ
幸福を求めることが不幸の原因なのだ
蟻になってしまえ
だが、蟻が幸福だとしたらどうするのか?
つまり、幸福な蟻になることは不幸だ
おかしな論理だ、論理がおかしいものをぼくは信じない
裏切り方も非論理的だからだ
したがって、ぼくにとってその裏切りは予告なしの一撃になるだろう
たとえ、きみよ、それが予想どおりだとしても
ぼくがきみを裏切るのはぼくにとっても予告なしの一撃だった
拳を振り下ろしている
そんな暴力の予感が甘美を孕んでいる
運行する地下鉄の車体には非実在知性がとりついている


少年よ、卵は鳥だけじゃない

  ゼッケン

世界はおれにすべてを準備した。おれはそれを見ていた。おれはおれも舞台の上に立っていると思っていて、人間のときのおれは観客の役に徹していた。舞台の上のおれもまたあんたがたに見られている。あんたがたの視線をおれの視覚野に接続すると、おれは舞台の上に這いつくばった蜥蜴だった。夢を見たと思う。ありがとう。世界は観察されるために在るのではなく、蜥蜴よ、世界は消化されるためにある。おれは顎を大きく外して、あんたがたの方を向くだろう。細い血管が網のように走る濡れた粘膜で頬張り、咀嚼はしない。少しひんやりとした感触が銀河を覆う。蜥蜴の血は温かくはない。それは冷たさを意味しない。膨らんでいない脳では血は多く要らない。おれはおれの立つ舞台をおれごと丸呑みするために粘膜ごと裏返って痙攣する袋だ。さよなら、三次元の視覚たち。おれには時間が理解できないので音楽が恐ろしい。ちぃ、と袋の中で鳴いてみる。べたべたに濡れた肌の集合がいっせいに揺らいで、あんたがた、おめでとうございます、宇宙は続くのだと、蜥蜴の僧正が託宣を垂れる。ああ、そうかい。おれは痙攣している、卵から次の宇宙が孵る日が来たとしても。


鬼に金棒、雨男には雨傘を

  ゼッケン

その人がいると雨が降る、その人が男であれば雨男と呼ばれることになる
そういう他愛もないがよく知られたことがある。おれは雨男だ
雨男のおれがあるときに気づいたのはおれが傘を持って出ると雨は
降らない
傘を持っていないと雨が降り、おれは濡れながら歩いた
知恵のついたおれはいつも傘を持って歩くようになった
スマートな折り畳み傘では駄目なのだった
諸君、おれが無用の傘をいつも持って歩いているのは
心配性だからではないんだ
きみらが無用で邪魔なものとして、電車に乗っているととくに
そういう目で見られるが、おれが腕にぶら下げているこの傘は
つまり、たしかに無用だ、だが、無用であることが幸いなのだ

勘違いしないでほしいのだが、おれは悪徳の話をしているのではない

おれは無用のおれの詩の話をしようと思う。たしかにおれは
無用なものを書く 書いた 書いている
無用であることは幸いである
おれの詩の必要とされる世界にきみたちは棲みたいか?
おれが詩人として威張りくさる
そういう世の中に
なればいいのに
そうは思わない、おれはけっして
嘘ではない
おれのついた嘘は別の種類のものだ

雨男はおれだけではなく、雨女だって大勢いる
おれだけが無用の雨傘を持っている
かのようにふるまうのは卑しい人間だった
と思う、雨に降られている雨男におれはおれの雨傘をそっと差し出す
おれはそういう人間だ
なぜなら、相手がそれを断ることを知っているからだ
見知らぬ中年男が差し出す傘を受け取る人間はいない

ぼくは今のきみが立っているその場所で雨宿りがしたい
この傘を受け取ったら、さっさとどこかへ行ってくれ

傘を受け取らせる手練手管を含めてもしも、ありがとう、と
受け取れる男がいたとしたら、そいつは晴れ男だ
雨男はおれの傘を受け取らず、晴れ男にはおれから傘を受け取る機会が訪れない
だからいつか、おれはおれの雨傘をどこかに置き忘れることにする
死後、天気雨の降り続いた明るい路地裏を風が乾かせば、
雨男たちの置き忘れになった傘が切れた雲のすき間に吸い上げられてさっぱりと消えてしまうといい
難しくはないはずだ、そう祈るばかりだ

文学極道

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