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作品 - 20150302_411_7935p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


都市のような罠

  リンネ

 そしてある国にて、ある日ある街あるところにて、ある明け方のある時間のこと、つまりある特定されない能面のような時間、歴史から切断されたところに現れる細切れの時間におけるしかしそれゆえに普遍的な物語であること。こうした幾何学的な時空間を用意する試みは、冒頭から、しかしまたあなたがこれを読むという出来事の圧倒的な諸力に対して、なんの力も持ち得ないことは明白である。どうしても作文というのは生身の人間によって読まれるしかないのだから。それでもあなたの共感を得ようとする作者からのこの見え透いたアプローチに対して、あなたはきっと不快に思い、あるいは拒絶する。わたしのこうした過剰な注釈すらたしかに不快ではある。なおさら一層不快であるとすらいえる。ならばおおいに読み飛ばして頂いて結構である。こうしてあなたはいまこの作文を読むことを拒絶することのできる自由に従属されている。そしてもはやその自由から逃れることはできない宿命なのだ。このようにして、わたしたちの時間や人生というものは、ある一定のかたちをすでに帯びていやがおうにも到来して、

 などと脳内に響き渡る愚にもつかぬ思想の音色を、肛門からおならのようにもらしつつ街なかを歩いていると、場末めいた繁華街のうすぼやりとした裏通りにて、とつじょ静止する中年男のすがたが目に入ってくる。ほうらいまいったとおりだ。この世界のあらゆる事物は虚構のようにとうとつなしかたでわたしの前に現れてくる。人生はテクストなのだ。わたしは敷かれたレールを走る公共交通機関のように駆け寄り、清潔に髭を剃られたその男の口元に対し、いまささやかで公式的なキッスを与えてみる。それは葉書に切手を貼るようにあたりまえになされたので、このとうとつな接吻が、たんなる儀礼的なしぐさであり、もっといえば、一種のレトリックにすぎないということが、誰の目にも明らかであった。しかしどうも不思議なのは、この男にははっきりとした顔がないことである。というより、淫部をかくすかのようにして白ぼんやりとしたもやもやが彼の顔の一面をおおいつくしてしまっているのだ。

 わたしはかれこれ一時間、接吻を続けている。男の顔はレトリックまみれだ。すると次第にかれの顔つきが明らかになってきた。この男、会社勤め人らしい、不自然にしわの見えない清潔なスーツに身をすべてつつまれている。しかし衣服で包装された人体模型とでもいうように、まったくといっていいほど人間らしさがない。それがむしろ彼のかくされた人間性を予感させる。だからこそよけに惹かれてしまう。こんなところでいったいこの男は何をしていたのだろう。足元を薄汚れたおがくずに埋もらせたまま仁王立ちをして動かないその男は、ひょっとすると死んでいるようにもみえる。こうした光景はそう珍しいことではない。死にかけた人間が、他人に記憶されるのを待ちわびて、道端でひかえめに直立不動していることは、こういう現代的な都市の中ではままあることだ。ただいつもよりもちょっと洒落ているのは、その壁面のような顔の正面に、眼球には似ても似つかない小ぶりの四角い窓枠が、しかしそれでいて眼球のように二箇所しっかりと取りつけられている、という点である。人間にも建築にもなることのできない曖昧で悲壮な雰囲気が、じつに自然と見るものを魅力するというわけだろうか。たしかに妙に魅力的ではある。そのとらえようのない無機質な表情には、しかし、どこかこの世のうらみつらみといった情念に対する、決然とした抵抗の意志も読み取れそうだ。

 その男は、とつぜんそれまで閉じきっていた口をかたかたと開閉させ始めた。それとは少し遅れるようにして、その口蓋の暗部からつぎのようなポエムの音色が流れてきた。

悲しみの涙ではなく
あふれる涙だったんだ
解放される感覚
あのあたりから
目が見えなくなった
そういうことさ
情報を見たくないから
ブロックしていたんだ
遮断しだしたみたいな感じで
強制的にね、一週間ぐらい
医者にはものもらいと言われたんだが
自分の感覚的になんだか
自分が変わり始めているサインなんだ

ちゃんと全部理由があるのさ

 根のない草のように均質な内容の詩。いったいこれが人間の生み出したものとはだれだって思えないような抽象性。しかしたしかにまたこれもなにもかも脚本通り、すべてかれの自作自演の演出であるという可能性もある。そう、ほんとうはきっといたって健康な男なのだ。人間の健康なんて、作者の描写次第でどうにでもなる。それでいて作者はテクストのなかの世界など全く関心がないのだ。これがたんなる文字のつらなりでしかないともっとも切実に理解しているのは作者なのだから。無機物に対する完全な降伏。諦念。それにわたしははっきりいってこのように生物学的に分類困難な男となど、すこしだっておなじ時間を共有したいとは思わない。あなただってそうだろう。面倒ではないか。今後、この男の容貌についてはいっさい描写しないことを作者に要請しよう。しかしその一方でわたしは、すくなくともこの男を記憶することだけは努力しよう。かれの吐く息の醜悪さと、顔面に施されたふたつの窓枠とを。あなただって無理に忘れることはないだろう。覚えることも忘れることも、すでに人間の向こう側にあって、わたしはどうにもそれに耐えきれない。わたしは作者から、そして読者と、その、忘却されつつある男、それらすべてから逃げるようにしていま大通りに向かって走っていく。しかしまわりの景色のなにもかもがそれ以上のスピードでわたしを追い越して前方に消えていく。それはこの都市がおおきく傾きはじめた最初の兆候であったが、わたしにはそんなこと知るよしもなかった。

 そもそもどうしてかれがあのような姿であのような惨めな場所に立ち尽くしていたのか。わたしはあの男の顔に見覚えがあるようにも感じる。どこか魅力的な、ある国にて、ある日ある街あるところにて、ある明け方のある時間のこと、つまりある特定されない能面のような時間、歴史から切断されたところに現れる細切れの時間におけるしかしそれゆえに普遍的な物語であること。冒頭からのこうした……

文学極道

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