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作品 - 20141226_279_7820p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


青い声が聴こえる日

  前田ふむふむ



某月某日 午後1時

ふふふ と白い歯を見せて 
端正な顔立ちである
介護ケアマネージャのHさんが笑う 
深い座椅子に凭れるように座りながら
つられるように 母は顔をほころばせる
ふだん
わたしと母だけに ひかりがあたっている狭い空間が
朝 雨戸をあけた時のように
部屋の隅々まで 呼吸をはじめる
その明るさのなかで
母は 身体を乗り出して
今まで生きた足跡を 語りはじめる
もう暗記ができるほど 聞いた話だが
その話を聞くたびに 母の人生が日に日に 厚みを帯びてくる

(あの日 母さんが死んで 海辺で泣いたの
(悲しくて いつまでも浜辺を走っていたの
(海の向う岸は 一面見渡すかぎり 真っ赤に燃えていたわ
(まるで絵画のようにきれいで
(あのなかで従兄弟のさっちゃんも 邦夫おじさんも死んだわ
(とっても 怖かったの 覚えているわ
(きっと あの日から こころを裂くように
(無理にひらいて 受け容れたんだわ
(真っ赤な火を点けた人たちを
(でも 幼なじみの彼は そのとき 手を握ってくれていたわ
(とても 強く

母の話に 大きくうなずいて
笑顔を絶やさぬ
Hさんのお世話になって 三年がたつが
その間
母は子供に戻ったように 無邪気になり
ときに 少女のような優しさをみせる 

某月某日 午後四時

母は眠くなり 介護ベッドで横になる
少し眠り 寝ぼけながら
ひとりごとのように 呟く

(学校に遅れるからって 父さん バス停まで
(手を握って 引っ張るから わたし手がとても痛かった
(でも 父さん 嬉しそうだったわ

少し寝言を聞きながら
わたしは めくれ上がった掛布団を整えて
母の体温を計る 36.8℃ 

陽が短くなっただろうか もう外はうす暗くなっている

某月某日  午前0時

弧を描いて放物線が
地面に 小さなみずたまりをつくる
見上げると
家の傍の 街灯が消えかけていて
不規則に点滅している
そとは だいぶ寒くなってきた

母は二十分前 暖房付きのトイレに入って出てこない
用をたすのに時間がかかるのだ
二時間ごとの間隔で
トイレに行く
そのための歩行が 
母の運動機能を維持するために
大切なので トイレの独占という
この理不尽を容認している
ときどき 中から苦しそうな声を 
発していることがあるが
その声を聞くと
あの齢になり 生きることが 
自分との戦いのようで
いかに大変なことかがわかる
わたしは 尿意に耐えられないときは
さすがに浴室では 憚るので
たびたび 庭の隅で用を足す

いつものように用を足していると
となりの少年が不思議そうに見ていたが
傍に来ると
わたしの横で いっしょに用を足した
わたしと少年は 大きく放物線を描いた
そのときから わたしが そこで用をたすときは
決まって 少年と一緒だった
短かったが 笑いながらの少年との時間は
不思議と介護に疲れた わたしを癒してくれた

ある日 となりの奥さんに
息子さん 大きくなりましたね
というと 何を言ってるの
うちは 娘二人ですよと 怪訝そうにいった
そのときから少年は来なくなった

すっかり夜が更けて 
夜の十二時三十分を過ぎても
母はトイレから出てこない
心配になり 覗くと
もうすぐだからと 
まるで子供のように涙目でいう
わたしは いつものように庭の隅で
隠れるように用を足す

月は煌々として
身体をこおりのように冷やしている

文学極道

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