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前田ふむふむ

選出作品 (投稿日時順 / 全53作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


海の風景

  前田ふむふむ

海の風景

律動している自然の怒りを蔽う、薄皮で出来ている海の形象を、剥いで、赤裸々な実像を曝け出せば、煮えたぎる本質が、渇きの水を、欲して、知恵の回廊で語りかけるが、気づくものはいない。
風でさえ、空でさえ、ひかりでさえ。
誰も海の全貌を捕らえぬ儘、海の始めの半分は血まみれの海の意識を、世界の意識の外で隠している。
おぞましい生身の顔を見たものはいない。
海のあとの半分は痛みを持つ季節で成り立つ。
自然の美しき生と死との葛藤を、展開して、一度、海の眼の黒点に、集約されてから、いっせいに解き放たれた、
現在という海の景色。
その細胞を塩の臭いの濃い窓辺で老婆が、眺めている。
沖から一隻の船が戻ってくる。
老婆の人生の苦悩で痛んだ血管の中へ。

島に向かって歩く海鳥の夕暮れは、
欠落した空の形状を立ち上げて、浮かぶ船のほさきに、
繰り返しながら、港をつくる波は 
凪いだ水平線を飲み込んでゆく。
昇天する午後は 冷たい唇を海風に浸して、
錆付いた窓の中を抱擁する。
放浪する時間が海の濃厚な音律の中で、泳ぎだして、
黄色いひかりの、結晶体を産み出す。
そのひかりを浴びた老婆の住む海の家のドアノブに、
少年の手はいつまでも固定されている。
甲高い声をあげて、引き綱を船に乗せる、少年の背中を夕陽が照らして、細かく金色を撒き散らす。
遥か海の形相の上を、波に揉まれている色濃い魚影が、生臭い風に乗って、少年の腕の周りを勢い良く叩く。
期待に満ちた漁師たちの熱気が、船のいろどりを艶やかにする空隙を、勇ましい汽笛が埋める。次々と港を離れる船。また船。荒れ狂う戦場に向かう儀式か。
妻や家族たちが手を振り見送る。微笑ましい笑顔と不安。
見送る者のこころに闇が蠢く。

海に灯りが点滅すると、月が煌々とする海辺では、色彩を攪拌して黒くする瞑想の風景が、渇き出す抽象を燃やして、潮の香りを充たしている、ひかりが切断して裂けたベッドは、老婆の棲家を取り返す。
波の静けさが醒めた音を鳴らして、町並みを蔽い、細微な事柄を夜の卵の殻の中に仕舞い込み、
地上から封印してゆく。
夜は闇の手助けを受けて、海を波の上から、
少しずつ固めてゆく。
音だけが空に融けている。


いのちの情景

  前田ふむふむ

たえず流れゆく虚飾で彩られた十字路たちの、
過去の足音が、夜明けのしじまを、
気まずそうに囁いている。
燃え上がる水仙の咲き誇る彼岸は、
すでに、水底の夢の中に葬ってある。
落下する時をささえ続ける幼子が、
やさしく言葉で綾とりをする聖職者の午後が、
さりげなく黄ばんだモノクロの映像で充たされてゆく。

わたしは、溢れ出る、そして枯れてゆく出自が、
白骨のように、潔いまなざしで、
真夏を咀嚼する荒野を駆け抜けてゆくとき、
今日も、当て所も無く、
氾濫する炎をもてあます道化師のように、
偽りのみずうみをさ迷っている。
そして、爪垢ほどの重さの無いわずかの名声は、
絶えず枯葉のように舞い落ちて、
都会の妖婦に、いつか埋もれてゆくのだ。

静寂が波打っている。― 赤い血はまだ居るのか。
混沌が朽ち果ててゆく。― 青い息は、まだ聞いているのか。
わたしは、まだ、此処にいる。

見捨てられた世界の
止め処なく、沈みゆく地平線のはてに、
置き忘れた栞の一行のきらめきの中で、萌え出す、
手を差し伸べるあなたが、津波のようにどよめきを上げて、
押し寄せてから、凪いだ鬱蒼とした森の灯台になり、
垂直に横たわってゆく。

わたしは、運命が軋みをあげて、綻びる古城の季節に、
たとえ、抜け出せない寂寞とした厳寒の沼地のなかで、
もはや言葉を失った棒状の鉄杭になった足を束ねられても、
あなたの手を、しっかりと抱きしめて、
このいのちの絶えることの無い激痛を携えて、
瞳孔の暗闇の中に広がる、赤く染まる夕暮れを、
いつまでも、諦めることなく歩いていくのだ。
生まれ変わる瑞々しいいのちが一滴の源泉を射抜く
黎明の大鳥が訪れる、その時のために。


冷たい春

  前田ふむふむ

どんよりとした鉛色の雨が、わたしの空洞の胸を
突き刺して、滔々と流れてゆく冷たさが、
大きなみずたまりを溢れさせている。
みずたまりには、弱々しい街灯の温もりによって、
歪んだ姿のわたしの言葉が、硬直して映りこんでいる。
それは、無造作に鋏で切り抜かれた真冬の風景―― 、
コンクリートを覆うスクリーンで青白く燃えている。

わたしの内壁をわずかに点滅する、もがくような灯火が、
あっけなく消える一瞬に、
予告のない、手の届かない充たされた時間が
多くの歓喜とともに、強引に過ぎてゆく。
羨みながら、濃厚に、
かなしみの旋律の色を染めてゆく、わたしは、
骨だらけの過去を引き摺りながら
唾さえ出ない口で、乾いた砂粒を噛もうとしている。

幼かった頃、失われた純白の月が、
かならず見えた懐かしい場所に立って
悔悟のおもいを、行く先の見えない脳裏に、描いても、
槍のように尖った雨は、
わたしの衣服を突き破り、冷えている青ざめた肌を
滲んだ血で書いた古びた日記の切れ端の紙に変えてゆく。

わたしは、この春を、
美しく雨の中に咲く桜の花を
溢れる涙のはく膜で、ろ過しながら、
挫折した春を今年も見なければならないのか。

未来の呼吸を頑なに遮断している、春の雨を
この細く、やつれきった手で、掻き分けても
わたしの手には淀んだ赤い血液すらも掴めない。
唯、もがくばかりの、指先に
すれ違うわずかの暖かい季節の眼差しが、諦めるなと呟く。


  前田ふむふむ

 

ふかくふかく沈んでいく
ひかりが ひとつひとつみえなくなり
一番遠くのほうで白い水仙がゆれている
たびたび あわがすこしずつのぼっていくと
呼吸していることがわかる

鐘のおとがきこえる
まるで葬祭のように
悲しい高さで 眼の中にしみてくる
焼けるような赤い空が
野一面をおおっていて
たぶん こころのやさしい人が
世界を手放したのだろう

おびただしいあわがみえなくなると
透けるような肌の少女が
ラセン階段を昇っている
そして降りている
流れるみずを境にして

脂ぎった手で窓をあけると
言葉の破片が流れていく
それは、やがて雪のように
誰も知らないところで
積もっていくのだろう
数世代前の
胸に真っ赤な花を咲かせた先達は
他者の声をきいたというが
わたしにはきこえない

青白い指先にあたたかな
質量がともる
この心地よい場所は
陽光の冷たさをすこしずつ
なじませていくのだろう

ふかくふかく沈んでいく
そのなかを
ひばりが旋回している


かなしみ

  前田ふむふむ



               
夕日が地平に没しても
なお 街々の西の空が
かすかに明るみをおびている
足を止めて
やや赤みがかった
仄白いものを
見ていると
無性に泣きたくなってくる
そのかなしみは
わたしの影だ

      
あの明るさのむこうでは
花も木も風も
声をあげることはない
生きた足跡を
否定されて
泥のように 沈んだものたちが
ふりかえっている
そして
冬のイチョウのように
ざわめきもせず
なんの弁明もなく
清々しいほどに 立っている
そのまなざしは
わたしの影だ

わたしが
傷口を嫌い
捨ててきたしがらみ
無為に
置き忘れてきた
ふるさとの声
手にすることが
できなかったものにたいする
後悔と羨望
それぞれの来歴が
なつかしそうに
手を振っている
その姿は
いつまでも
わたしを引きずっている

たぶん
父も母も
わたしもあそこにいるのだろう
そして家族と親しく
夕餉を囲んでいるのだろう

直視するには
神々しいものを
見送るような
測れない大きさになって
しかも穏やかだ
わたしは
夜の先端で
影になっている

戯れる
海の波が引くように
その
心地よさを
受け入れて
わたしという途方もない
ものから
逃れるために
わたしは
仄白い空を見て
涙ぐむのだ



   


顔についての三つの詩

  前田ふむふむ



怒鳴る男

 
           
ひどい罵声が飛んでくる
いきなり物が飛んでくる
わたしも避けながら 投げかえそうとする
むこうでは 言葉が渦を巻いていて
次の言葉が 今にも襲いかかろうとしている
よく見ると 無精ひげを生やした
青白い顔の男が
喚いているではないか
わたしは余りにうるさいので
その男にたいして
反撃して 怒鳴りつけた
すると 歪んだ醜い顔は
さらに顔を歪めて
怒鳴っている
涙をいっぱい溜めて
そんなに悲しいのか
そんなに辛いのか
鏡に映っているわたしの姿は
惨めで 悲しかった
この世の中が
忘れ去った男の
最も愛する人が死んだのだ




一方の始まりから
終焉にむかう 
わずかな直線のなかに
仮面をかけた顔はある

わたしは
正直にいえば
ほんとうの顔を知らない
疑りながら
被っている仮面をみて
渋々納得しているのだ

そして
問われると
普段の顔は
いつも仮面をかけていて
カメレオンのように
そのときのこころの色に
染まるのだと
答えるだろう
ときに 微笑ましく
ときに 激情的に
ときに 陰鬱に

でも実を言えば
確かめずにいられないのだ
だから
わたしは
誰もいない
一ミリの剃刀も通さない
厳粛な場所で
夜の 
神もふかく眠るとき
ふるえる心臓の高なりとともに
仮面の下の
おぞましい顔を見るだろう

そのとき
わたしは
鏡をみて
鏡のなかの顔は
すでに仮面をかけていることを
知るのだ
ときに青く
痩せほそった病人のように
    弱々しく
ときに黒く紳士のように
     気取っているのだ

そして
誰も 仮面の下の
顔を見ることはできないと
公理を立てるのだ

でも
欲望に終わりはない
きょうも
この世界のどこかで
野心にみちた
若い
物理学者が
ひとり
仮面の下を見ようと
実験室の奥ふかく
神話の階段に
足をかけている


誕生    3.11に寄せて    

離別すること
それははじまりである
丸い空が
しわがれ声をあげて
許しを乞う
そのとなりで
友はしずかに
そして
激しく雨になる

空がにわかに
なまりを
たくわえてくれば
きみの来歴は
砕かれた壁の
内部に
雨とともに
刻まれるだろう

朝焼けのとき
こわれた水面を
きみを
称える
いくえの書物が埋めている
その紙のうえを
船が出港する

広がる波跡に
ひとはあつまり
ひとは散り
やがて
すこしずつ 足の先から
道ができ
新しい顔をもった
きみは生まれるだろう


蒼い思考

  前田ふむふむ

       
     1
                   
凍りつくような寒い夜である
沈んでいく 冬の街灯のひかり
ライトの下 くすんだ羽毛ふとんに覆われた あどけなさの残る 
少女のような女が ビルの脇で横たわっていた 透けるほど白い頬
 凍るかぜがふとんを叩いた 女は冷たい息を弱く吐いて うすく
開いた眼は 遠く来歴をみているようだった 路上で寝る女を見る
のは はじめてだった 未知の感覚を 母に話したら 不幸を呼び
こむから やめなさいと諭された 拒否した母の声から 少女のよ
うな女が流れている 柔らかな乳液のように

     2

雨が降ってきた
冬空がざわついている
こんなとき わたしの安閑を
破って それはやってくる
わたしはいつから薄光に揺れる塔を
意識しはじめたのだろうか
場所は全くわからないのだ
それは存在として
高くいつまでもあった
あの塔について考えることが 
わたしの命題として
いつも手の汗のなかに 狭い眼窩のなかに
あって その感触を忘れないことが
わたしの役割でもあるようだった
その塔のうえには 
無謬性のひかりの場所があって
一本のハクモクレンが
咲いているのだ
わたしは夢中になって
そのことを父に話したが
父は黙って壁のように立っていた
     3

父は家族が買いそろえた
白い羽毛ふとんのなかで
夏を待たずに死んだ
大きなあじさいの絵がかかった部屋には
羽毛ふとんがない以外に
何も変わっていない
たびたび その部屋にある
漆塗りの仏壇に線香をあげると
父がすぐうしろに座っている感覚が
からだ一面にひろがり
ほそい芯で灯っている胸に
父の視線が突き刺さってくる
夕暮れのような視線
心拍が激しく血液を流れて
わたしのからだは 殻におおわれた

     4

雨はやんだらしい
あれから梅雨のまんなかで
泣くのをやめたのだ
夜は静かになり
新しい羽毛ふとんをしいている

仏壇の鈴を鳴らすと
眼の前の
ロウソクが揺れている
そうだ
なぜ飛んでいるのか
わからなかったが
今思えば
あの塔を守るように
あたりを監視する飛ぶ鳥の群れを
もうずいぶんとみていない
毎日 飛んでいた空を 
燃やしているような 
ロウソクが 
やがて消えると
あたりは暗くなり
わたしは 座ったまま
白い羽毛ふとんに包まれて 
眠っていった

     5

背中のほうから 湿った呻き声が聞こえた ベンチで まどろんで
いたわたしは 寒さですくんだ手を口にほおばった 街灯のあかり
が ゆらゆらと眼のなか一面に泳いでくる ビル風がうずを巻いて
くる 禁煙 と書かれた看板が 無機的に貼られた公園で たむろ
している男の浮浪者たちが 鶏のようにたどたどしく動いている 
女が子を産んだらしい 透けるほど白い 少女のような女がタオル
を添えて 赤子を抱えているのだ 柔らかいいのちが 夜の冷気に
ひたり ふるえている なぜだろう 赤子の泣き声が聞えない 耳
のなかで砂あらしが吹いているようだ ひとりの浮浪者が壊れかけ
た電話ボックスで しきりに懇願をしている 他の浮浪者たちはあ
わてふためいている ぐったりと 地面に横たわりはじめた女の湿
った太股が あかりに浮かんでいる 傍らに 脈打つやわらかい白
磁のような赤子 鶏のような浮浪者が見守っている
公園に横づける 無音の救急車

    6

わたしはベンチから立ち 公園の門をくぐった
煌々と昼の顔をしたビルの電灯が いっせいに消えた わたしは大
通りにでて コートの襟を立てた ひとは歩いていなかった 塔の
ようなビルが断崖のように並んでいる でも あのむこうに いく
必要はないのだ それだけは わかるようになった いつからか 
そう思うようになった 少女のような女と赤子が吸う おなじ 空
気がとけて わたしのからだを流れている

耳のおくで ひとつ水滴が落ちた
わたしは寝返りをうった

 白い羽毛ふとんのなかで


透明な統計表

  前田ふむふむ

東日本大震災・死者・行方不明者数
            二〇十二年三月十日(警察庁資料)
 

死者 15854名
 宮城県 9512名 岩手県 4671名 福島県 1605名
 茨城県   24名 千葉県   20名 東京都    7名
 栃木県    4名 神奈川県   4名 青森県    3名
 山形県    2名 群馬県    1名 北海道    1名
行方不明者 3155名


      1

わたしは この数字を知ることはできない
むろん 死者にふれることもできない
さらにいえば 
死者の名前を呼ぶこともできないのだ

世界がどんよりとした空をはぎとり
彼らの出自を たんねんに訪ねると
彼らは すこしずつ色合いを際立たせるが
そうすることによって
彼らは ますます
かたく甲羅のなかに隠れるだろう

そして
記憶が老いて 地平線の底に沈むまで
限りなく
彼らの視線の高さで
一度も避けることなく
血のように
わたしをみているのだ

    2
    
そこにいる
眠れる数字を
アサガオと言おう
もし
それがアサガオでなければ
きみは誰だ

でも
アサガオにしては
蔓がない
葉もない
だから それを
なんと名づけるのか

アサガオだ
アサガオをアサガオと言おう
ほら
みずみずしく
赤い花を咲かせている
その花の名を


  3

これは数ではない
いかにも数を装っているが
実は肉体だ
そしていまも呼吸している
生きている肉体だ
その豊かな来歴は
真夏の森のようだ
仮に
それを数と捉えるならば
永遠に 
肉体をもつ
自分に会うことはできない


「 わたしの
眼のなかで
輝いている
一組の家族である
稲を刈る人たち

そのふむ土に
青く塗された
草は
セイヨウタンポポ
一面
夕日にむかって
繁茂している 」       

「 耳の中で沸騰している
熱気をあげて
海の
魚を待つ人たち

その市場を
通った
冷たい風が
だれもいない
街の
剥がれかけた
バス停の
時刻表を
ゆらしている 」

「 木棺のなかの
きみたちは
いつも
熱狂的だった
あたたかい血は
雨に
すこしずつ
冷やされて

小学校の
体育館で
片づけそこなった
椅子が
山積みにして
置いてある 」


「 それは切望の声だっただろうか
かつて
希望と安住の地であった  
川面に
身体を休めている
老いた水鳥の群れ

やがて
空に一羽ずつ
飛散する
皮膚を斬るような
声をあげて
世界の冬に
翼を
むけている

いくべき場所には
数字を
ひとつひとつ
背負っているだろう 」

   4
   

これは記録に過ぎない
ここに真実などほんとうにあるのだろうか
敢えていえば
ここに書いていないすべてが
確かなことだ
だから
わたしは
彼らに監視されているように
見られているのだ

それは
痛々しい数字に隠れている
空と海と大地と
その間にある
昼と夜のひかりと影だ


森の夢―古いボート

  前田ふむふむ

     1

青い幻視の揺らめきが 森を覆い 
緩んだ熱を 舐めるように歩み 
きつい冷気を増してゆく
うすく流れるみずをわたる動物は 息をころし
微風をすする夜に 眼を凍らせる
昏々と深みを低める いのちの破片が
夜の波に転がり
静かな夢の温みへ動きはじめる

     2

みずうみは 湖面を空よりも高く
持ち上げては ひかりの眼差しを
水鏡の四方にくばり
穏やかにわたしの躰を 透過してゆく
そのみずの透明なやすらぎに
涙を弛めているわたしの孤独なこころよ
今 永遠が爽やかに繋がっている

     3

青い時間の空隙を埋めるように
一艘の古いボートが湖岸で眠っている
かつては、恋人たちが乗り 愛を語り合い
親子を乗せて喜ばせただろう
今は 打ち捨てられて
船底には大きな傷口が開いて 
萎えた体液を溢れさせている

傷口は傷むか 悲しいボートよ
おまえは 今日も 
そこで朽ち果てたままで眠っているのか

時間の一ページが剥がされて
ゆらゆらと空を舞う
青い月を煌々と照らす夜が
翼を大きく広げて
美しい娘がおまえに乗って みずうみを流れてゆく
月に導かれながら 湖面をゆっくりと弧を描いて
時折 夜の気まぐれが 強い風を吹かせて
おまえは 勢いよく進むが
森の硬質な赤い血がざわめいて 風をたしなめる
ふたたび おまえはゆっくりと湖面を歩く
娘の 繊細な櫂の動きに合わせて
夜のとばりが醒めるころ
娘を乗せる 白い馬がみずを飲みに来るまで
おまえの優しい夜は、永遠を流れつづける
過去の鮮やかなページの中で

     4

名もない鳥が飛ぶ
  みずの音が、わずかに聴こえる
    みずうみは 森の靄のなかで 孤独に佇む

       
零落する秋が 枯野にとどまるわたしに
失われた遠いひかりを抱かせる
目覚めはじめる朝が 指先に立ち上がり
思わずわたしの鼓動に 微熱をあたえるが
砕けた夢からは 寒々とした流砂が 零れおちてゆく

美しくみずのように癒されたい

曲折する願望は 森のいのちを刻む
みずのたおやかな静けさを
わたしの 冷めた呼吸のなかに浸して
滑らかな岩を撫でる 清流の意志に身を沈める

森の戯れとともに沈む 眠りの空は
わたしの鮮やかな視野を 飲み込んで
森は 夢を もえる緑野のなかで閉じる

うすい陽だまりがうまれて
鶏が、忘れた鳴き声を上げる


三つの抽象的な語彙の詩

  前田ふむふむ

距離


       
凍るような闇に
おおわれている
もう先が見えなくなっている
わたしは手さぐりで
広い歩道にでるが
そこには夜はない

誰もいない路上
灰色の靴音を
ききながら歩くと
その乾いた響きのなかに
はじめて 夜が生まれる

街路灯が
わたしを照らして
影をつくっている
その蹲るようなわたしに
しずかさはない

わたしが影のなかに
街路灯のひかりを見つけたとき
その距離の間に
やがて
しずかさは生まれる

木々にとまる鳥が
眠りにつき
霧でかすみをふかめている
わたしは湿った呼気で
手をあたためる
そして
寒さに耐えるために
強く 公園のブランコにゆれるとき
わたしは ただひとり孤独を
帯びるだけだ

わたしの背に
聳えている街は
脈を打ちながら
いつまでも高々として
わたしを威圧して
夜をつくり
そして
しずかである


自由
            

名前をつける
無名の
草に
そして
草に眼があらわれて
顔が生まれる

名刺のように
空にも
海にも

白紙の便箋のように
無所属だった
街を闊歩するきみ
そして わたしも
顔をもつだろう

けれども
この個性をもつ
まぶしい世界に眩暈をかんじて
わたしは 仮に充足を
嫌ってもいいだろう
そして
名前を捨てれば
顔のない
盲人のように
その暗闇のなかで
すべて失うことを
感じるだろう

嘆くことはない
その真率な
しずかさのなかで
確信するだろう
世界が相互監視者であることを
やめているのを

そのとき
手さぐりで 
高々とした麒麟を撫ぜるように
くびのすわらない
赤子が母をさがすように
わたしはひとり
自由を獲得する


自分
      

雨が降っている
真夜中、階下の冷蔵庫が開いていて
あかりが零れている
男が冷蔵庫の前に
座りこんで前屈みになって
しきりに中のものを食べている

わたしは暑さのために
なかなか寝られず
みずを飲もうと
台所にいこうとしていたのだ

見ていると 男は手掴みで
まるで際限なく食べている
その血走った目つきといい
獣のようだった

少し近づき
よくみると
わたしが食べているのだ

通勤電車のなかで
吊り輪に持たれて
都会のありふれた景色を
窓越しに
眺めながら
そんなことを 
ふっと思い出したのだ

あれは昨日の夜のことだったと思う
そして あの生々しさから
あの出来事が決して夢なんかではないと
思えるのだ

でも見ていたのが 自分なのだから
あの男は わたしのはずがない
では
わたしでなければ誰なのだろう
鬼だったのか

考えてみれば
こうしている自分が
何の根拠にもとづいて
わたしなのだろう
他人は自分が思うように
わたしを見ていないはずだ
そう考えると 自分を
ほんとうのわたしなどと確信をもって
いえるのだろうか

もしかすると
みしらぬ世の中のどこかで
もう一人の自分がいて
ときに 得も言われない姿で
生きているのかもしれない

こうして街のなかにいるときにも
むこうから もうひとりの自分が
あらわれるかもしれない
そして
もうひとりの自分がこのわたしを見て
鬼のように思うのかもしれない

気がつけば
正午を過ぎている
レストランでランチを食べる
トイレに立ち
みだれた髪を梳かす
鏡のむこうに
わたしがいる


みずについての二つの詩

  前田ふむふむ

   


みずの描写


          
   1
みずが生まれる
一滴ずつ
その無数の点在は
やがて わずかな勾配ができると
引きつけ合うように集まり
生き物のように流れて しかも
かたちがない

   1
眼をとじて
ひとたびの微睡みの気分にひたると
みずはさらさらと
ひかりのような
音をたてて
わたしの
はるか内部を流れている
その穏やかさは 
やすらぎであり
遠く
胎児だったときの
不思議な
なつかしさが感じられる
その音の抑揚は
出自をかたどる
原景を形づくっている

    1
みずは
浄化のいしずえである
その流れは
個人の一滴のなみだから
都会の喧騒の濁流まで
わたしが
日常に溜めてきた
負債でできた
こころの汚れた隙間を
砂漠をうるおすように
水位を高め
少しずつ埋めてくれるのだ

    1
みずは気まぐれでもある
時として
わたしの内部に
隠れている傷口を
発見して
鋭い輝きを放ち
いつまでも
監視するように
留まっている

それは
傷口を不断に
やわらかく包みこみ
冷たく癒してくれるのであるが
同時に
いつまでも澱ませて
少しずつ
腐敗させるのである

そして
わたしがそのことに自覚する頃
あたらしい勾配ができると見るや
すべてを忘れるように
勢いよく
おのれ自身の内部から
撹拌して
きれいに
洗い流していくのである

    1

みずがはじめる
自由な
そのざわめきがなければ
わたしは自らを
ふりかえることはないだろう
きっと世界を再定義する
高邁な理想も
持とうとしないだろう
それが切望ならば
わたしは進んで
搾り出すような
汗を流すこともあるだろう

ちょうど
在らぬ意志が湧き出るように
みずは
肉体の奥深く
意識の胎盤に
横たわり
途切れることなく
いまも
わたしを生んでいる




みずのなかの空想


           
    1
相手があれば
その所作にあわせて
自由にかたちを変えて
自然の意志に逆らわずに
かならず 上から下へ流れる
その潔さ

    
みずのなかにいると
わたしの透けそうな肉体は
やわらかで 感覚をうしないながら
すこしずつ
みずの性質に溶けている

    1
みずのなかで
冷たい揺りかごのように
重力に逆らうことなく
なすがまま
身をまかせていると
この地上の重力に抵抗している
わたしの生き方は 自然に逆らう 
ならず者に見えてくる
恋人と
街を闊歩している姿は
言うまでもない
うやうやしく 神社にぬかずいて
神に祈るときですら
重力に逆らって
その両手を合わせて
柏手を打つのだ

それがみずのなかではどうだ
ただ みずのなかで
ものを見ることもなく
浮いていればいい
おそらく 水葬は 
ならず者の汚名を返上して
自然との調和をちかう
儀式なのだろう  

    1
みずのなかでは
上からあかるいひかりが
ゆれながら降っている
なんとしずかなことだろう
それは死の感覚を帯びている
丁度
棺のなかの落ち着きのようで
今まで生きてきた 過去のあらゆるものが
こころのなかで 俯瞰できてくる

    1
こうした ゆったりとした
五感を徐々に麻痺させる
みずの性質は
大きな楕円のような
感情の循環をつくり
おだやかな共生を生みだしている
そして
わたしは ここちよく
もう長い間
わたしの意味を
肯定されることもなく
否定されることもなく
みずのなかを漂っている


虚空に繁る木の歌

  前田ふむふむ


序章

薄くけむる霧のほさきが 揺れている
墨を散らかしたように 配列されている
褐色の顔をした巨木の群を潜る
そして
かつて貧しい空を飛んでいた多感な白鳥が 
恐々と 裕福そうな自由の森に向かって
降り立つという逸話をもつ 
大きな門に
わたしは 夕暮れとともに
流れ着いた
そこは 眩いひかりを帯びていた

門の前では 多くの老婆が 朽ち果てた仏像にむかって
滾滾と 経文を唱えている
一度として声が整合されることがなく
錯乱した音階が縦横をゆすり
ずれを暗く低い空にばら撒いている
うねる恍惚する呟きは 途絶えることがない

わたしは 飽和した風船のように膨れた足を癒すために
曲折するひかりを足に絡ませて 草むらにみえる、
赤い窪みに 眼から倒れるように横たわる
少し疲れがとれると
それから 徐に 長い旅の記憶を攪拌して
老婆たちの伴奏で 追想の幕をあげるのだ

      1

海原の話から始めよう
それは 真夏であるのに ほとんど青みのない海である いや その海は色を
持っていたのだろうか どこまでも 曲線の丸みを拒否した 単調な線が 死
者の心電図の波形のように伸びている海である 時折 線の寸断がおこり 黄
色の砂を運んでいる鳥が 群をなして わたしの乗る船を威嚇する わたしは
その度に 夥しい篝火を焚いて 浅い船底に篭り 母のぬくもりの思い出を頬
張りながら 子供のように怯えていた
そのとき いつものように手をみると 必ず 父から受け継いだ しわだらけ
の指がひかっている わたしは 熱くこみあげる眼差しをして その手でくす
んだ 欄干を握りしめるのだ
線が繋がるまで

気まぐれか 少し経って 線は太く変貌する
一面 靄を転がしている浅瀬ができる 船は座礁して 汽笛を空に刺す 林立
する陽炎が 立ち上がり 八月の色をした服を纏う少年たちが 永遠の端に
立ち止まっている みずの流れを渇望して わたしに櫂をあてがう わたしは
櫂を捨てようとすると 少年たちは 足首を掴み なにかを口走っている 彼
らの後ろには 仏典の文字のような重層な垂直の壁が 見え隠れしている わ
たしは 少年たちが なにを話しているのか 言葉がわからずに かれらが眠
るのを待って 急ぎ逃走するが いけども声は 遠くから聴こえて わたしか
ら 離れなかった それは なぜか 遠き幼い頃 聴いたことがある懐かしい
声に似ていて 気がつくと 目の前を 幼いわたしが 広い浅瀬のなかで ひ
とり泣いているのだ 
線が細さを取り戻すまで

やさしい日々も思い出す
船上でのことだ
古いミシンだっただろうか
わたしが 失われたみどりの山河の文字の入った布を織る
恋人は潤んだひとみで 書いてある文字を わたしに尋ねた
わたしは 生涯教えないことが 愛であると思い
織物の文字を 夜ごと飛び交う 海鳥の唾液で
丹念に 白く消していった
線は さらに細くなり 風に靡いて

老婆たちは 経文を唱えつづけている
仏像にむかって
眠りながら 唱えている
門にむかって

わたしは 門を眺めながら 棘のようなこめかみを
過ぎゆく春に流し込む

    2

そうだ 都会の話をしよう
それは 楕円形にも見えたかもしれない 整然としたビルの窓が いっせいに
開かれていて カーテンが静かな風に揺れている 暑い夏の眩暈のなかで 人
の姿の全く見えない街が 情操的な佇まいを見せている白昼 街の中央の方か
ら 甘い感傷の酒に酔った音楽が流れてくる わたしは 寂しさと 湧きあが
る思いを感じて その音色を尋ねてゆくのだが 音色の下には 瓦礫の廃墟が
一面 広がっているのだ 若い父がいた 祖父がいた 祖母がいた すぐに
わたしは 声をかけたが 声は わたしの後ろに響いていって 前には届かな
い 逆光線だけが 少年になっている わたしを 優しく包んでくれている
溢れる汗を浴びて 声のあとを 振り返ると 世界は 時計のように 着実に
冷たく 賑やかに普段着で立っていた

こうして 内部で訂正された始まりから
楕円形はさらに 色づけされながら
わたしは 耳のなかで 立ち上がる
ぬるい都会の喧騒を 眺望すれば
やわらかい季節の湿地に
殺伐とした抒情の唇がせりだしてくる

にわかに 門は轟音をあげて 閉じる
老婆たちの口は 唯ならぬ勢いを増して
読経の声がもえだしている
脳裏を
幼き日の凍るような古い運河にある病棟の記憶がよぎる
眼を瞑れば
逝った父は わたしのために書き残せなかった白紙の便箋に向かって
闇をつくり昏々と眠っている
蒼白い炎が 門を包む
その熱によって
わたしの血管の彼方に滲みこんでいる春の香かに
きつい葬列のような月が またひとつ 浮ぶのだ

わたしの溢れる瞳孔をとおして
音もなく いまだに復員はつづいている
闇のなかに遠ざかる感傷の声が
書架の狭間で俯瞰する鳥の声が
沈黙してゆく門をみつめて


三つの奇妙な散文詩

  前田ふむふむ

洗濯物
            

白いTシャツが 十着干してある家がある
七メートルくらいの長さの二階のベランダに 物干し竿で均等の間隔をおいて
ハンガーに掛けられているのだ いかにも裕福そうな建物の家で 百坪くらい
の土地に鉄筋コンクリート造りの家だ そして和風のりっぱな門構えをしてい
る 私の家から見えるそのベランダには毎日 毎日新しく十着の白いTシャツ
が干してある 時にパタパタと風に揺れながら なぜか干してあるものが白い
Tシャツだけなのだ よくみれば決して高価そうなものではない ユニクロで
売っているようなものだ 四人家族の家であるのに十着という数も不自然だ
 全員が一着着ても余ってしまう もっと正確にいえば 男性用のTシャツで
あるのだから女性は着ないと思うし私の知るかぎり着るのは主人の父親と長男
の二人だろう なのになぜ十着干すのか 一日何度も着替えるのか 着替える
となるとちょうど五度着替えることが必要になる 実は四人家族というがほん
とうは十人の男がどこかにいて私たちの眼を盗んで住んでいるのだろうか 私
は四人家族以外には全く見たことがないのだが それから全部白いというのも
おかしい ふつうは青とか赤とかそれぞれ好みもあるだろう それにそもそも
Tシャツではなく他にも着るものがあるだろう 今は冬である セーターはど
うだろう 長袖のジャケット カーデガン ネックパーカー 分厚いジャージ
など良いではないか また洗濯物なのだから 男性用の下着とか女性用の衣類
もあってもおかしくない いやあるのが普通だ はっきりわかるのは干してい
る奥さんが着ているものだ 地味な服装だがTシャツじゃない ということは
普段の生活では家族がTシャツではない普通の服装をして生活をしていること
が想像される その服は別のところで干しているのだろうか でもあの家で別
のところで干してあるのを見たことがない 全部クリーニング屋に出している
のだろうか でもいくら考えても納得できないのは この寒い冬になぜTシャ
ツつまり半袖だけなのかということだ もしかすると奥さんは少し頭がおかし
くてあのような奇行を毎日行っているのだろうか でも私の知るかぎりいつも
気さくに挨拶をするのであり 決して不自然なところはないのである そこで
あるとき なぜ十着の白いTシャツを習慣のように毎日干すのですか と一度
聞いたことがあったが それまで穏やかだったその奥さんは豹変して まるで
罪人でもみるような怪訝な顔をして立ち去っていった そしてその時 私はと
ても寂しさを感じたのだ 世の中には不思議なことがあるがこの出来事もそれ
であるのだろうか わたしには全く理解できないが あの裕福な家ではそれが
ありふれた日常であり その奇怪な行為を行うことで 日常の平穏が維持され
ているのだろう 白いTシャツを干している奥さんの顔はとても幸せそうで 
極論をいえば毎日のその行為のために生きているようにも思えるのだ そして
その継続の純粋さにおいて奥さんの行為がとても神聖な行為のように 思えて
くるのだ きっと世の中にはこのような奇行が人知れずなされていて 実は人
間の根源的なものがわずかに表面に浸みだしただけで この世というものはこ
うした不条理なものが本質として深く沈んでいて成り立っているかもしれない
 そして世の中の秩序というものを辛うじて保っているのだろうか 
今日は典型的な冬空で雲一つなく晴れ渡っている 少し離れた家の二階のベラ
ンダに十着の白いTシャツが均等に並んで干してある


喜劇

正午を回った頃 空も地も真夏が茹だっている 窒息してしまいそうである 
巨大なビルが林立する大通りで 黒い丸帽子を被った男が 涙を流し喚きなが
らぼろぼろのリヤカーを引いている 男は汗が染み付いたワイシャツが透けて
いて 痩せこけた日焼けした肌が見えている リヤカーには一匹の犬の亡骸が
乗せてある あばら骨が剥き出しになり 内蔵が外から見えている その裂け
目から体液がこぼれて 焼けた地面に溶けている 傍らには 老婆が弱々しい
力でリヤカーに くっ付いていて 犬を撫でている 後ろから大きなフライパ
ンを鉄のバットで 叩きながら男の子と女の子が付いてくる
一団は街中を行ったり来たりしている 歩道には珍しそうだと 大勢のサラリ
ーマン風の人々が見ている 一団が信号機にさしかかると いきなり歩みを止
めた そして赤い信号機に向かって 男は喚いている 犬である子供の名を 
涙を流しながら叫んでいる
狂ったように
わが子の死を そのやり場の無いかなしみを
訴えているのだ



冬の動物園

真冬の動物園にゆくと 不思議な光景に遭遇することがある
例えば あるインド象が 真剣に雪を おいしそうに食べているのである 彼
は はたして象なのだろうか 生きている象は 熱帯のサバンナの赤い夕陽を
背に咆哮しているだろう ならば如何なる生き物なのだろうか 例えば 豹た
ちは冬の陽だまりのなかで まるで老人のように 便を垂れ流しにして恍惚と
している すでに 体内で得体の知れない液体が発酵しているのか あれでは
 中身が腐っている剥製だ 彼ら動物たちは 餌を自ら獲得する先鋭な野生は
すでに無く 弱々しい呻き声をあげて 決められた時間に病院食のように餌を
与えられる廃人のようだ それは同時に 古代の奴婢以上に厳しく管理されて
いるが 檻のなかでは 脱走以外には あらゆる自由が叶えられる選ばれた不
思議な生き物だ 子供たちは喜んで眺めているが もしかすると 彼らは幽霊
なのかもしれない 熱帯の大地で繰り広げられる たくましく燃えるような生
命の闘争 その物語を語る言葉を遥か緑の彼方へ すべて棄て去って来た幽霊
の群がショーウインドで季節はずれのドレスのように飾られているのだ だが
 夜一人でテレビを見ていると 動物の弱々しい呻き声を聞くことがある ど
こから聞こえるのか テレビのなかでは中年男が気難しそうに話しているだけ
である 彼も また多くの視聴者に見られるテレビの檻にいれられている不思
議な生き物だと感じながら テレビを消すと 黒い画面に鏡のように映るやつ
れた顔から動物の弱々しい呻き声を発していることに気付く それが自分であ
ることに気付く ある時 孤独な時間に 自分の断片をみて 自分が何者であ
るかを気付くことがあるのだ ある都会の片隅の 帰宅を急ぐひとたちのなか
で 動物の呻き声を聞いて 愕然とするひとがいるだろう だが 思考を甘受
させてくれる余裕を与えずに人間社会は 急ぎ足で進んでゆくのである そし
て すぐに忘れ去り 日常という自分の王国の時間を過ごすのである いつか
 ふたたび 一人孤独の部屋で 怪しげに去勢された動物に変身して 自分の
声に恐怖を覚えるまで 


浮遊する夢の形状

  前田ふむふむ



       1

鎖骨のようなライターを着火して
円熟した蝋燭を灯せば
仄暗いひかりの闇が 立ち上がり
うな垂れて 黄ばんでいる静物たちを照らしては
かつて丸い青空を支える尖塔があった寂しい空間に
つぎはぎだらけの絵画のような意志をあたえる
震える手で その冬の葬列を触れれば
忘れていた鼓動が 深くみずのように流れている

わたしの耳元に 幼い頃
おぼろげに見た 赤いアゲハ蝶が
二度までも舞う気配に 顔を横に寝かせれば
静寂の薫りを運んで
金色の雲に包まれた 羊水にひたるひかりが 遠くに見える

あの霞のむこうから わたしは来たのかもしれない

剥ぎ取られた灰色の断片が 少しずつ絞られて
長方形の鋏がはいる

わたしは 粗い木目の窓を眺めながら
捨てきれない 置き忘れた静物といっしょに
墜落する死者の夜を見送る
  まだ始まらない夜明けのときに――

     2

朝焼けが眩しい霧の荒野が 瞳孔の底辺にひろがる
赤みを帯びて 燃えている死者の潅木の足跡
そのひとつの俯瞰図に描かれた
白いらせん階段が 空に突き刺さるまで延びた
古いプラネタリウムで
降りそそぐ星座を浴びた少女がひとり
凍える冬の揺り篭をひろげた北極星を
指差しながら
わたしに振り返って
ここが廃墟であると微笑んだ
あの少女は 誰だったのだろう
なにゆえか 懐かしい

窓が正確な長方形を組み立てて
視界になぞるように 線を引く
線は浮遊して 静物に言葉をあたえる
次々と引きだされる個物のいのちは
波打つひかりのなかを 文字を刻んで泳いでいく
やがて 線が途絶えるところ
わたしは 線を拒絶した荒廃した群が 列をなして
窓枠をこえていくのを見つめる
見つめつづけて

       3

思い出せないことがある
わたしの儚い恋の指紋だったかもしれない

単調な原色の青空を貼り付けた風景が 声をあげて
わたしに重奏な暗闇を 配りつづけている
時折 激しく叩きかえす驟雨を着飾れば
(空は季節の繊毛が荒れ狂い
        ――あれは、熱狂だったのか
白い雪が氾濫して 皮相の大地を埋めれば
(モノクロームの涙に 染める匂いを欲して
        ――あれは、渇望だったのか
わずかな灯火をたよりに 手を差しだせば
繰り返される忘却の岸に 傷ついた旗が見える

思わず瞑目すれば
ふたたび 貼り出される白々しい単調な音階に
身をまかせている わたしの青白い腕
すこし重さが増したようだ

長方形の額縁のような窓が 果てしなく遠のいてゆく
限りなく点を標榜して

いや はたして 窓などはあったのだろうか

仄暗い闇のなかで わたしは 痩せた視線で
忘れたものを いつまでも眺めている
眠っている静物たちを見つめて
灯りが弱々しく沈んでいくと
眠っている鏡台の奥ゆきから覗く
寂しい自画像がうつむく

茫漠と 時をやり過ごし
時計の秒針が崩れるように 不毛が溶けだすとき
微候を浮かべる冷気にそそがれて
燦燦とした文字で埋めたひかりが
硬直して 延びきった足のつま先に 顔を出す
わたしのうつむく眼は 輝くみずに洗われている

やがて、訪れるはじまりは
ふたたび、夢の形状をして――


三つの具象的な語彙の詩

  前田ふむふむ


帽子

かなり熱があるので 気分は悪く やっとの思いで病院についた
そして待合室に深々と腰をおろすと
その中央にあるテーブルの上に
いかにも高価そうな帽子が置いてある
それはクリーム色をした 軽く透けている生地を使っており 
上品な透け感と程良い張り感を持ち合わせていて 
固い風合いと光沢を帯びている
そして 右側面に赤いバラがさりげなくついている
その気高さに わたしもそうであったが
待合室の患者は みんな好奇な眼でみているのだ

ところで この高貴な帽子は患者を癒すために 
たとえば生け花のように 観賞物として置いてあるのだろうか
そうであるならば それを示す説明書きが
帽子のそばに添えてあっても不思議ではない
とにかく安物ではなく高級な帽子であるのだから
当然だと思うのだが それがない 多分 違うのだろう
あるいは誰かの持ち物なのだろうか
でも わたしは随分と待っているが
誰も取ろうとしない 忘れ物なのだろうか
そうであるならば 誰かが受付に申し出ても良いと思うのだが
誰もしようとしない

さて この帽子が忘れ物ならば 持ち主はここにはいない
欲しいと思って 仮に誰かが持っていっても
分からないのだから 盗み得になってしまうだろう
もしかすると 皆欲しいのだけれど このなかに持ち主がいたら
その場で 泥棒として捕まってしまうので
それを警戒して 相互に監視しているのだろうか
ああ もう二時間近くもテーブルに置いてある
あるいは 持ち主がこのなかにいて
こっそり盗む者がいないか じっと見ており
わたしを含めてみんなを試しているのかもしれない
時々 みんなを見回すと 誰も彼もが尋常ではない
鋭い眼で見ているように思える

わたしは こうして長い間 なにかに憑りつかれたように帽子をみている
でも余計な打算をはぶいて 没頭していると 
徐々にではあるが この帽子はちょうど 
殺風景な待合室に溶け込むように息づいていて その配置といい 
色合いといい この部屋に無くてはならない 
最も重要なものであるように見えてくる
だから わたしは この帽子に対して 触れることは勿論
何かをしてはいけないように思うようになった
それが最善に思えるのだ

診察室から名前を呼ばれた

医師から治療を受けていると 医師の言葉はまるでうわの空で 
待合室を留守にしている間に あの帽子を誰かが持っていってしまわないかと
そのことばかり気になっている
短い治療が終わり 待合室に戻ると 帽子はまだ そこにあった
わたしは ほっとして なぜか とても充たされていた
それだけではなく 帽子をとても愛しく思えた
そして 願えば この帽子が いつまでも 
そこにあり続けるように思えた

後ろ髪を引かれながら 受付で診察の清算を終える

そして 五日後 医師の指示に従って 再診で病院に来たが 
高熱の病気はすでに治っていた
わたしは待合室に行き 嬉々として 高貴な帽子の方に眼をやると 
中央のテーブルの上には
薄汚れた古い帽子が無雑作に置いてあった



帰宅するひと
            

三月十一日
国道122号線を 北にむかって ひたすら歩いた
前方から後方まで ひとびとの列が途切れることなく
つづいている
幸い街路灯は 消えていない
たよりないそのひかりが映す
ひとびとの顔は不安を浮かべている
そして黙々と帰路を急ぐ

帰宅するひと
そこに道があれば 帰宅するひとという所属が生まれる
理由などいらない
家に帰るという意識の旗を 胸にかかげて
黙って唱えれば もうりっぱな 帰宅するひとだ
そこには意志がやどる
そのたよりない列が 素晴らしい仲間に見えてくる
わたしは前を歩く 疲れている女性に
ペットボトルのみずを与えた
女性は真っ直ぐな眼で お礼を返した
目的地にむかう同志のように

ひとびとの白い吐く息は 熱気を孕み
わずかずつ会話が始まる
ときに笑いも浮かべて それに 夜はいつまでも
寄り添っていた

だいぶ歩いただろうか
もうすぐ自宅だ 
やや東の空から明るみを 帯びてきている
わたしの道が白く 浮かびあがっている
気がつかなかったが 見渡せば
わたしだけ
ひとりで歩いている


中二階
              

仕事が終わり 職場を出る
暗い夜の空気をふかく吸いこんで 一日を反芻する
そして 満ち足りた高揚感を 夜の乾いた冷気で
浸していると職場のビルの中二階に灯りが点いていて
男がひとり 寂しそうに立っている

わたしはその男が気になったので
中二階を探したが どうしても辿り着けない
もっとも中二階があるということは
今まで聞いたことはなかったし 外から見れば そのビルは
中二階が造られていない構造だということは すぐ分かることなのだ
念のために管理人に聞いてみたが やはりないという

でもわたしには見える
仕事がおわった帰り際に 夜ごと その中二階があらわれて
右角の一室の窓辺に 男が立っている

かなり不気味なことなので
幻覚を見るほど 疲れているのではないかと
自分を慰めたが 原因は分からない

そう思いながら もう一度 注意深く意識して
職場のビルを見ると 中二階などは存在しないで
均等に五階に分けられている
その窓はブラインドで閉じられていて
冷たい様相で 立っている

わたしはほっとして やはり幻覚だったと納得する
そして その儀礼的な確認を終えると
心置きなく安心して 家族の待つ団欒に帰るのだ

こうした 懐疑的で夢のような出来事を
毎日を繰り返している わたしは長い間
この部屋を 出たことがない

ひまわりの贋作の絵画が 掛けられている この病室では
日が暮れて 窓から夕日が 射してくると クロッカスの球根に当たる
そして 一人きりの 寂しさを紛らわすために
まず球根にみずをやっている
窓辺では球根をグラスにいれて
もう何年も 育てているが 花が咲いたことがない

夜七時 決まったように部屋の灯りをつける
窓の外
きょうも 街路灯の下でひとりの男が 立ち止まり こちらを見ている
彼はいつになったら 階段を駈けあがり わたしに会いに
この部屋にくるのだろうか
窓辺に立って わたしはいつも
何かを待っている


森の心象

  前田ふむふむ



木がいさぎよく裂けてゆく
節目をまばらに散りばめている
湿り気を帯びた裂け目たち――みずの匂いを吐いて
晴れわたる空に茶色をばら撒いて
森は 仄かな冷気をひろげる 静寂の眩暈に佇む

森番の合図の声が
うすい陽光のなかから 立ち上がる
乾いた声は木霊して
わずかに残るみどりの葉紋に透過する
わたしは 新しい斧を振り上げて
父母の年輪のなかに 鋭い刃を沈める
ひらかれた木の裂け目が
みずみずしいいのちの曲線を描いて
夢のような長いときが鮮やかにもえだす
腕に積もる心地よい疲労で
爽やかな汗が ひたいに溢れ
あつい滴りが右眼を蔽い
わたしは 正確な季節の均衡を失う
軟らかく 萌えはじめる春の夜明けのなかで


春が息吹を吐き出す
眩い清流で充たされた春の右眼のなかを
クラクションを猛々しく鳴らす
ヘッドライトの閃光が 刺すように通り抜けた
右眼は流れを失い 世界の半分を白い暗闇のなかに隠す
崩れるように船は砕けて かたちを持たない破片が
わたしの右眼を蔽ってゆく

母に手を引かれて 坂をくだり
泣きながら辿った塩からい夏が
右眼のなかに浮ぶ
父が愛した 一輪のりんどうのような船を
悪戯っぽい豪雨が 壊してしまった朝が微かにめざめる
わたしは 血だらけの船を置き去りにして
うな垂れる父が
誰もいない凪いだ海の防波堤に蹲った
あの時から

次々と海鳥が 潮騒の立ち上がる床を蹴り
高い空をめざす
高さのない夏が 底辺から溶けだす
零れるみずだけは きよらかに季節を舐めている
少ないのだろうか
流れる血が足りないから
わたしは 父の風景を
いつまでも この右眼に抱えているのだろうか

痛々しい水平線を
右眼のなかにひろげれば
行き場のない瓦礫が 涙のなかに見える
わたしは 右眼のなかから零れた巻貝を拾い
耳に当てて
尚 忘れているなつかしい夏の声を聴く
激しくゆれる線を湛えて
潜在する空の心電図の波形のなかを
父の失意を奏でる夏の汗が
繰り返し 木霊していった
そのうしろから
母が幼い妹を背負って 泣いているわたしを窘めながら
昇りつづける坂が 緩やかに延びはじめて
父が辿れなかった ひろがる静寂をゆく
極寒に赤々と燃えていた 寂れたストーブのむこうへ


森番の作業停止の大きな声が 静寂を裂いて
水脈を削る音が いっせいに途切れる
わたしは 汗をしわだらけの手拭いで拭き
森の涼しい息に 眠るようにひたる
羽根を強く打ち鳴らしながら
鳥の声が みずの流れの傍らに降下して
おもむろに 降り出した夕暮れを 饒舌に編み上げている

わたしの視線は 忘れていた森を飲み込んで
いま 淡い春が 右眼になかにある
原色の夏を 真綿のように包んで


飛べない時代の言葉から 第一番

  前田ふむふむ

(序奏―――
          




「弦楽奏で
             低音で始まり少しずつ高く

         
一の始まりから――
一の終わりから――
アダージョの笛が
霞のなかからあらわれて
飛び交う梟で埋めつくしている
夜のふところの
世相の有刺鉄線に包まれた街はずれで
花を植え
時間を置かずに
花を摘む子供たちに
生涯を句読点のついた
冷たい断定の刻印をおしている
霧が流れている

  (牛の皮が打ちつけられている
太鼓が連打された――

アダージョの笛は
驟雨が降るなかで 
花にみずをやりつづける少女に 鳴りひびき   
眩しい日差しのなかで
雨傘をさしつづける少年に 鳴りひびき
世界の中心と周縁にむかって鳴りひびき

(言葉のロータリーは迷路になっているから 終わらない

               (間奏――
                  さらにアダージョ
                     ときにアレグロで
                  続ける


「はじめてみる黒い空 
すきまから  
ひかりが放射している草むらのなかを
わたしは 胎児のように包まっていた 」

傍らでは ぼくが焦点のない眼で
スコップをふり
ひたすら穴を掘りつづける
(この穴は きみのチチではない
(無論 ハハではない
(カゾクではない
(きみ自身の生きた証のぶんだけ深く広がるだろう
ぼくは気がついていた
いままで
こころの底から 泣いたことがなかった
こころの底から 笑ったことがなかった
ぼくはふたたび シャベルを持った
(まず きみの一番欲しいものから 埋めていこう
(葬儀場の煙突のなかでは いままでの人生で
(きみが欲した分だけ 燃えていくだろう
(透明な有刺鉄線のなかで 分別ゴミのように
(でも チチが積み木のように伝えてくれた 本当に大切なものは
(あのオーロラのむこうにある 誰もいけない雪原の窪みに隠すのだ
(そっと真夜中に
(誰かがその伝説を捜すまで

気がつかなかったが
いつから眼が見えなくなったのだろう
ぼくは ひたすら見えない眼で 空に向かって何かを叫んでいる
黒い空は その声を聞き取れずに
草むらから 剥きだしになっている 
夕暮れに咲く電波塔を包みながら―――

       太鼓がひとつ打たれた
       そして二つ目
       少しずつ速度を速めて―――

「わたしは 草むらだと思っていたが いつの間にか
揺り篭のようなベットに滑りこんでいた 」

この暖かさ
こうして振り返れば
/ぼくは 喜ばれたのだろうか
/いや 居なくなるのを望まれたのかもしれない
ぼくは親族の死者が行き交う 暗い階段を 
なつかしい顔に見送られながら


           混声合唱
(南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
(南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
(南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
(南無大師遍照金剛



転がりながら落下した
雪原のうえへ――
(湖のように 広々と血で充たした液体の


           管弦楽が鳴りひびき

太鼓が連打されて―――
「アレグロ


ぼくは 見たことのないひかりを浴びて
生まれて始めて
こころの底から泣いた
        /泣いた」泣いた


      連続するフーガ


海鳥が 交錯を描いて舞う 一面 雪原の白
わたしは 河口の岸壁で やさしい姉を待っている
二つあった太陽が 一つ わたしの世界のはてで 燃え落ちた
来ることがない姉を待っている

(失われたプラモデルを
(組み立てるのは止めよう
(部品は 無意識に ぼくが食べてしまっている
(ぼくの好きな赤色は剥がれて
(直すペンキ屋はもういない
(有刺鉄線に絡みついた白鳥は
(飛び去ったのか
(いや 土に返ったのだ

夜明けを見たことがない姉を待っている

(身体を出来るだけ伏せて
(地に耳を当ててみれば
(ぼくが執政官ではなく 夜をさ迷う
(難民であることがわかる

存在しない姉を待っている

(神話のない荒野は
(地の果てまでつづき おびただしい廃墟は
(人もいない 鳥もいない 犬もいない 虫もいない
(そして真夜中で光々としている
(パソコンのなかには
(姉だと名乗る
(偽物の
(新しいすべてがいる

世界のはての 雪原の窪みで
(わずかな欲望の熱が 白い皮膜を這う


遠く
トオク(間奏    )
     「アダージョ


               ―――舌が渇く朝まで


源流から――
世界のはてから――
数えきれない時間を下った
揺り篭のようなボートは
みずを裂きながら
世界の始まりを見て
世界の終わりを 次々と埋葬していった
景色が 目まぐるしく変転する季節を
奏でて
木々が 木々たちのための 混声コーラスを歌いあげ――
小川が
大河を迎えいれて
赤く彩られた血のような午後
ボートに乗ったぼくは
(世界の終わりの空を背景にして
一つ 先端が欠落して鐘のない
百八つの尖塔のある街の桟橋に着く
整列している雨の木たち
アダージョの笛が鳴りひびき――
ぼくは 霞のなかから
白髪を梳かす
よわいハハを連れ添う

       太鼓連打
       「フェルマータ

わたしを見つける――

       「アンダンテ
  
ぼくは わたしは
ハハの手を握りしめる
ハハは笑っている
介護用ベッドから
ゆっくりと体を起こす
もう九十をとっくに過ぎた
やせ細った
冷たい手から脈動が伝わってくる
知らなかったが
太鼓のように
その音には 言葉がある
熱のような言葉だ
そして
水滴のように
自由に身をまかせて
今から詩作を始めるのだ
その言葉を咀嚼するまで

    一時静止


鐘が鳴る
百八つの尖塔の鐘が鳴る


「最初は弱く
     徐々に強く 重々しく
           管弦楽 交響楽がなりひびき
          「アダージョ
         「そして強く

鐘が鳴る
百七つの鐘が鳴っている

耳を劈くように
世界の始まりから
世界の終わりから
               










(音楽用語
アダージョ   ゆっくりと
アレグロ    速く
フェルマータ  長くのばして
アンダンテ   歩く速さで

              


    


不寝番―みずの瞑り

  前田ふむふむ

      1

夥しいひかりの雨が
みずみずしく 墜落する光景をなぞりながら
わたしは 雛鳥のような
震える心臓の記憶を 柩のなかから眺めている

(越冬する黎明の声)
古い散文の風が舞う 剥き出しの骨を纏う森が
黒いひかりの陰影に晒されて
寒々とした裸体を 横たえる
燃えるように死んでいるのだ
薫りだす過去を 見つめようとして
あのときは
夜が 冠を高々と掲げていただろう
訃報のときに躓いた白鳥は
枯れた掌の温もりを抱えて
忌まわしい傷口を 開いてゆく
こわばった声で鳴きながら

(新しい感傷旅行)
そのとき 
わたしは 咀嚼したはずの安霊室の号哭が
劫火をあたためながら 抒情的に生みだされて
時折 弧を描いて
この胸のなかの 漂白する午後に
いつまでも 立ち会っていることに気付く
降りやまない葬送の星の草々たち
浮かび上がる凛々しいかなしみたち
白い暗闇を帯びて 
わたしは 耳で見つめる

(沸騰するみずの地獄)
そして
真率な夜に置かれた手は 
冬のひかりをくゆらし
小川の浅瀬をくすぐり
鋭利な冷たさに 触れようと試みる
そのとき
わたしは 惰性に身をやつす皮膚が
コップ一杯の過去も飲み干せない
理性の疲労をさらけ出すのだ
暗闇を引き摺るように

蒼白い居間に 逆さまに吊るされた
天秤の絵画がゆれて
轟音をたてて死んでいる夜に
わたしは置き鏡に映った
ひとつの孤独な自画像を
見ることができるだろう
だが 埃のついた こころの瞳孔を反芻しても
ひかる空に戯れる 子供たちの透明な窓に
紙飛行機をたおやかに
飛ばす無垢な過去は 味わえないだろう

子供たちは 過去を知らないから
自由に過去と うねりを打つように戯れて
過去を 歪曲の色紙の上に染めず
静寂の湖面の目次の上に 彫の深い櫂を
差し込むことが出来るだろう
伸び伸びとした櫂の指先のあいだから
ひろがる地平線のない群青の空に
無限の追悼を 描けるだろう

子供たちは わたしを置き去りにして
夏の饒舌な木霊を 午前のみずのなかに
溢れさせていくのだ
わたしは 振り返るように見つめる
あのうすい布がはためく 鳥瞰図のなかの岸を

       2

十二音階の技法によるピアノ伴奏で 老いた両親が わたしに子守
唄を歌う 繰り返されるその調べは 多くの危うさと わずかな真
実があるだろう かつて世界の近視者の堕落が 深夜繰り返される
案山子たちの舞踏会を 演じさせた烙印を知る者にとって 個の良
心によって行われている 偶然は やがて必然となるのだろうか
そして 消してあるテレビの画面の中で 卑屈な歪む顔が浮かぶ危
うさは 今や全くの自由を手にした 鴎の群れが 空の青さを持て
あましている時代の 古い写真の中で遠吠えをする 狼の危うさだ
ろうか 禁煙した者の部屋に置いてある 鼈甲の灰皿には 黴の生
えた古いタバコが 燃えている それは 遺書を読み上げる結婚式
が 行われた夜 壊れかけた 信号機のある無人踏切に 二人で現
れる見知らぬ幽霊が 夜ごと 焚き火をしながら 最後の薄汚れた
口づけに美しく微笑んでいる そんな 幽霊たちの歴史において
行われつづけた欺瞞は 幽霊たちの石棺をあけて 腐乱した屍を
死の祭壇にさらしたのである 細々しい一本の塔を崇拝した者たち
にしてみれば 石棺の上で 乱立した塔を見て 悲しむのだろうか
羨むのだろうか 新しい山々の木霊を 新しい海原のざわめきを
新しい街頭の前衛が かもしだす息吹を ひたすら煌びやかな模様
細工で飾り立てた 栄光の午後に 彼らの遺伝子を継承する子供を
乗せる 白紙の百科事典でできた あたらしい遊園地の観覧車は
熱病に冒されている子供である あたらしい蜘蛛たちを乗せて ガ
ーシュインを聴きながら 今や 悠然と 幾何学模様の円を描く
分娩と堕胎を繰り返しながら
分娩と堕胎を繰り返しながら

       3

不寝番が ふかい森のみずの始まりを
たえず見つめている
    眼を瞑りながら
森のみどりを見つめている
  言葉の廃墟のなかから 火をたぐり寄せるように
おもみを増した森の迷路を抜けると
終わりの岸に出会う
そこを越えれば 懐かしい森の傲岸がせりだす
湧きつづけるみずの声
遠いつぶやき

わたしは 精妙なみずのにおいを ふりわける

不寝番は 閉じた眼をあけると
子供たちの世界が 冬のみずきれを
はぎれよく 広げている
抒情の砂漠を泳いでいるのが見える

わたしは ふたたび 眼を瞑って


 

 


階段

  前田ふむふむ


午前八時
古い雑居ビルの
階段にすわりながら順番を待つ
わたしは九番目だったが
一番目は朝六時ごろに着いたそうだ
エアコンがないので
階段はじわっと湿っていて蒸し暑かった
粘り気のある汗が噴き出てきて
全身を虫のように這っていく

片方の側の壁には
成人病の予防広告が
いくつか貼りついている
いつ貼ったのだろうか
黄ばんで汚れている
そのいくつかは
だらしなく剥がれかかっている

わずかに一つある蛍光灯は
不規則に点滅しているが
いつの間にか切れている

遠くで
船の汽笛が聞こえる
海が近いのかもしれない

一列に並んでいるものは
誰も話そうとしなかったが
ひとりが携帯電話を掛けるために場所を立つと
いっせいに喋りだした
簡単な会話が終わると 
約束事のようにピタリと止まった
後から来た人は黙って
順番に階段の上のほうにすわって並んだ

小さな窓からひかりは入っていたが
電気が切れたせいで
階段は暗かった
他の人の顔もよく見えない
踊り場にある
非常用の火災報知機のランプだけが
異様に赤い

来た時から気になっていたのだが
それは階段の上の方というわけではない
なんとなく
上の方で ざわざわとした 
聞こえるか聞こえないかのような つぶやいているような声の
気配がする
不思議と誰も気づいてないようだが
何者かに見られているようなのだ

そうかと思えば
わたしより先に来た
階段の下の方では 
苦しそうなうめき声が聞こえる
それが動物のように聞こえるのだ
少し怖くなって膝を抱えた

電車が近くを 轟音を立てて通り過ぎる
それが合図のように
少しずつ雨が降ってきた
窓を打つ雨音とともに
まるで夜のように暗くなった

わたしたちが黙りきって
どれくらいなるだろう
一階の入口の柵をどけている音がする
そろそろ時間なのだ
彼らは
エレベーターで五階まで昇り
着替えてから
一列になってぞろぞろと階段を降りてくる
その白い服装をした医師や看護師たちは
丁度 一団でいると
能面を掛けたように
無表情な同じ顔をしているようにみえる
わたしは 今まで見分けがついたことがなかった
やはりわたしは病気なのだ

すれ違いざま
能面の顔をした一人が何かを囁いている




おばあちゃんだよ
おじいちゃんだよ
おまえのお父さんだよ

わたしは少し告別式の時間に遅れてきた 
涙を流して かなしい顔をしていた父さんは 今頃まで何を
していたのだ 早く席に着きなさいという わたしは香典袋
に名前を書こうとすると 父さんは自分の名前を書いてはだ
めだと 涙を流したこわい顔をしていう どうしてだめなの
 自分の名前でなければ わたしの気持ちはどうなるの 父
さんは筆を取ると強引に 全く知らない人の名前を 書いて
これを出せという どうしてこれじゃ わたしが香典を出し
たことに ならないじゃないの わたしには香典を出す資格
がないの わたしは悲しくなって祭壇の方にすすんだ でも
 いったい誰の葬儀なのだろう そうだ 父さんはもう十年
前に死んでいるのだ 母さんと妹たちが見当たらない どこ
にいるのだろう 親族の席には見慣れた人たちが座っていた
 よく見ると みんなすでに死んだ人たちだ 
暗い表情のなかに 悲しみを浮かべてみんな泣いている 恐
る恐る 祭壇の遺影をみると わたしと母さんと妹たちの写
真だった これはどういうことなの 何のまねなの いった
い ここはどこなの 耳を劈くような読経が始まり 親族を
始めとする弔問のひとたちは 祭壇の写真をいっせいに見て
いる そして狼狽しているわたしを見ている 写真のなかに
閉じ込められているわたしを 家族と一緒に閉じ込められて
いるわたしを見ているのだ 助けてとわたしは小声で呟いた
小声で何度も にわかにこのモノクロームの葬儀に耐えら
れずに 嘔吐しそうになった

ガラガラと
二階の
重い鉄の扉をあける音が聞こえて驚いた
わたしは眠りかけていたのかもしれない

わたしはこの音を聞くために
今まで屈んだ姿勢で待っていたのだ

ありふれた名の付いたクリニックと書いてある
扉をくぐると
あかるいひかりを帯びた
受付で
九番目の番号札をもらった


友を送る四つの詩

  前田ふむふむ

新生

  
          
わずかにからだがゆれている
冷気さえ眠る夜に
自分がふれた蛍光灯のスイッチの紐が
ゆれているのを見て
からだがむしょうにふるえてくる
ずいぶんと経たが
もうなおらない気がする

テレビでは
蜃気楼に映るような
痩せた牛が足を引きずりながら
道路を横切っている
廃屋の庭にはセイタカアワダチソウが
群生している
それは
うまれたばかりの空だ
その汚れない青さには
きっと
これから名前がつけられるのだろう

あれは何時だったか
みずのにおいを消し去った
なにもない瓦礫の野で
ひとりの男がなにかを探している
その寂しいすがたに
わたしは 明治四十三年
若かった民俗学者が
少年のような眼を
輝かせて
さがし紡いだ
若い女の幽霊に栞をはさんだ

曲がった家族アルバム
透明なランドセル
光りを無くしたモネの偽絵画
卓上時計のなかに咲いたみずの花

そして
残ったみんなで大きな柵をつくり
動けなくなった人を
木箱のなかにならべてから
純白の布で 身体を覆った

純白の布の
いさぎよい色は
きっと
このときのためにあるのだろう

おぼえている
昔 父の葬儀のとき
抱えた白い骨壺はとても冷たかった
あの純白は
これから歩いていくものだけが
もてるのだ

アオサギが泣き
わたしの足が西にかたむくころ
低い稜線が
すこしずつ
海に没している


葬送

       

夕日からきこえる声
噛み砕けば
冷たい雪が
ひとつひとつ積もるだろう
棺の
かわいた脈動に
耳をあてれば
その意志を
残された友の祈りが
束ねている

あなたの
やわらかい眼光が
砂のように
西方の地平に沈んでいる
腕でみがき
足で踏み固めた
その汗に
あなたの父母は
よわい
姿勢をかたむける

刻まれた傷跡は
むきだしの
教訓なのか
あかるいときのなかで
昇華される
そのひかりの粒が
芽になり
若い
大地に塗されていく

美しい
ひとりが
充たされた棺に手を添える
かつて
心臓が高鳴り
のぼりつめた肩に
引き潮の花を捧げよう
饒舌な
しずかさが
その亡骸を
みずのような太陽の
帆先へ
さしだしている

紡がれた大地の
紡がれた土の
紡がれた草の
その草の名前を
その草の出自を
   輝かせながら



追悼のうた

           

ことばのない土を
ことばのない空を
断崖が しずかに線を引く

その聳え立つもの
佇むわたしの踝は  
夕凪を握りしめている
その夏の 無効をうきあげる
屈折を
ひかりの遍歴を
灰色の意識でみたす
    対話を

きみたちの
もう見えない眼は 言葉の屍を
洪水のように流して
そうして 
あらわした柵を
限りなき内部へ
   沈めようとして

ならば
答えよう
杭をうたれた雨を
掬って 
冷酷な底辺に
暗くおびを敷き
その否定された内部の
血潮を

高く
敬意をこめて
さらに高く
きみたちの
旗として掲げよう




慰霊のうた





(ぼそぼそと誰かが呟いている)


















 (
 (


冬の朗読

  前田ふむふむ


  
           
いつも決まってそうなのだが
足の
下の方から冷気が流れてくる
わたしは ありったけの厚着で防寒をしているような気がする
でも
なぜ 耐えているのだろう
なぜ 暖房で温めようとしないのだろう
視界には
よわい光の蛍光灯だけが眼に入ってくる
漆黒の夜にいるようだ
少し身体が振動しているらしい
その揺れは
わたしを癒したが
いつまでもその感覚に浸っていると
段々と不安になってくる
その揺れに耐えられなくなり
止まってほしいと思うと
その揺れは徐々に小さくなり
やがて止まった


お客さま この昇りT駅行の電車は 車両故障を起こしたので 目的地にいく
ことができません この駅で降りてください たどたどしい車内放送があり
わたしは 無理やり電車を降ろされる ホームはちょうど中央の所に 灯りが
ひとつ点いているだけだ あれ 降りたのは わたしだけじゃないか しかし
 こんな田舎でどうしたものか 誰もいない寂しい場所だ とても寒いし 何
だろう この薬臭いにおいは しばらくすると 電車が来た でも 下りの電
車だ 駅員が詩を朗読している もう随分と待っているが T駅行は来ない 
来るのは 決まって下りの電車ばかりだ そして 駅員は決まって詩を朗読す
る 紙のような駅員に尋ねた T駅行はどうして来ないのですか 駅員は悲し
そうな顔をしていた 落ち着いてください あなたが言う 今度のT駅行の電
車に乗るのが辛ければ このまま この駅にしばらく居ましょう わたしは急
いでいるんだ T駅行に乗らなければ 仲間も待っているし 父さんも待って
いる すると霧が濃くなってきて 胸がとても苦しくなる 消しゴムのような
駅員が わたしの耳元で呟く あなたのいうT駅行は 絶対に来ません それ
は とても良いことで 安心しましたが あなたが下りという電車も しばら
くは来ないでしょう あなたの様子をみてよく分ります 実は 下りに見えた
のは 上りのT駅行だったのです とても寂しそうな電車だったでしょう い
や 楽しそうに見えたのかもしれない 行かせてやりなさい でも あなたの
いる場所は ここでなければなりません 鉛筆のような駅員は そう呟いた 
気が付かなかったが ぼんやりとした暗がりで 老いた母が 静かにわたしの
横に座っていた わたしはその軟らかいベンチに用意されていた苦い薬を飲ん
だ 鳥が羽ばたく音がする すっかり冷たくなりかけた身体が 温かく鼓動を
打ち始めた とても静かに
明け方だっただろうか 全速力で一本の電車が通り過ぎた わたしは 高鳴る
気持ちを抑えきれずに 書き終えた詩を朗読した そして次の日も 詩を朗読
した 電車が来ない日もあったが睡眠薬が効きすぎて 一日中眠っていたから
だ でも 起きているときは 一日も欠かさず わたしは詩を朗読した T駅
行の電車のために わたしは 何度も詩を朗読した T駅行の電車が レール
の音を立てながら 今日も走ってきた とても厳粛な空気の匂いがしている
朝のひかりが眼を射ぬいて 午前七時を指していた 老いた母が忙しなく 朝
の食事の支度をしている わたしは その日 暗くなるまで T駅行の電車の
ために 何度も 何度も詩を朗読した


いつも決まってそうなのだが
足の
下の方から冷気が流れてくる
そのたびに
わたしは人目を憚らずに 泣いた
通行人は怪訝そうな眼で
かかわるまいと 
わたしを見ていた


三月の手紙

  前田ふむふむ



白く鮮やかに咲きほこる
一本のモクレンの木の孤独を わたしは
知ろうとしたことがあるだろうか
たとえば 塞がれた左耳のなかを
夥しいいのちが通り抜ける
鎮まりゆく潜在の原野が かたちを震わせて
意識は 漆黒の海原の深淵をかさねながら
ひかりを見ることがなく
失われていった限りなく透明な流れを
いつも一方の右耳では 強靭な視力で見ている
そのように引かれている線のうえで
萌えだしている夜明けを
風雨に打たれて 力なくかたむいて立つ
案山子のような生い立ちの孤独として
意識したことがあるだろうか

恋人よ
わたしが手紙のなかで描いた円のうちがわで
あなたが死の美しさに触れられたら
わたしに囁いてほしい
ときが曲線を風化させる前に

空に有刺鉄線が張られて
その格子のすきまに止まった
泣き叫ぶ白鳥の群を 美しいといった

恋人よ
あの着飾った日記帳のながい欠落した日付が
ほんとうは 満ちたりた日々で埋めてあると
うすく視線を やせた灌木の包まる
感傷的な窓にやった

恋人よ
寒々とした白昼のカレンダーのなかで
熱くたぎる乳房の抱擁を
わたしの白く震える呼吸に沈めてほしい

盲目の荒野を歩く朝の冒頭を
生まれない匂いが 草の背丈まで伸びて
見渡せば 死のかたちが視線にそって 描かれる
次々と波打つように
わたしは 大きく声を
茫々とした見える死者にむければ
小さな胸の裂け目から
仄かに 流れるみずが
わたしの醒めたからだの襞を走る
ああ 生きているのだ
詩の言葉の狭間を

わたしは 充足した世界を 埋めつくしている両手を
空白のそとに捨てて
ふたたび 見えない風に吹かれる

夕陽の翼から 零れるほどの
先達が見つめた

恋人よ
赤く沈む空に 昂揚した頬をあげて
梟は 今日も飛び立ったのだろうか


静かな氾濫をこえて―四つの断章

  前田ふむふむ



     1

逆光の眼に飛んでくる鳥を
白い壁のなかに閉じ込めて
朝食は きょうも新しい家族を創造した

晴れた日は 穏やかな口元をしているので
なみなみと注がれた貯水池を
空一杯に広げている

流れる眼差しを追いかけて
わたしは カレンダーに横たわる遊歩道を歩く
見慣れた紫陽花のうえで
ひとりの女性の生い立ちを絞殺しながら
やさしい言葉は 空を飛ぶこともあるのだと
独り言を飲みこんで
その香りあがる手土産を 母に自慢げに話した
少しやつれた母は わたしのために 一人の青年を
碧い海に旅出させた 美しい船の話をしたが
このひかりを聴いたのは 何度目だろう
母は子供のように笑っている

眩しい食卓 五つの白い曲線の声
              溢れて

遠い記憶の片隅から 搾り出した破片
その草々のなかで 溺れている影を
抱きしめると
空白の砂丘を埋めて 驟雨に霞む橋梁が動く


見上げれば 鳥は見えない

灌木の春が裂けて
汗ばんだ夕暮れ
誰もいない部屋の静物が 起き上がると
退屈だったひかりは 度々 そつなく計算をして
わたしの置き場を支えるのだ

      2

雨に濡れた寒々とした少女が
絵本のような眼で わたしを見ている
傘では 精神病棟の原色の色紙を
切り分けることができないのだろうか
後姿が わたしの神話のなかに溶けてゆく

仄暗い夢のなかの
古いピアノの置かれた部屋で
透きとおる唇が 翔ることがある
水底の澄んだ落ち着きを
少女は あの音階の上にだけはみせる
人形のように 瞬きもしない わたしの眼のなかで
少女が 手紙を書いている
夥しい追伸の記憶
そんなとき 遠い日の彼岸花が いま
燃えるように咲いている

      3

思い出したことがある
眼が眩むデザインのイルカが 空を飛んでいる
それに 目線を合せず 眺めることが
臆病者と陰口をたたかれる時代があった
熱狂は コンピューターゲームのように
多様な遊び方の説明書が付いている
「ゲームにより 操作方法が異なります」
象が墓場を目指す歩みをなぞって
あるいは 胸のなかで気取ったポーズをして
わたしは 孤独な書架にもぐり
うすい色の心臓の鼓動を聞いていたが
深い海を泳いでいる魚のように
顔は 黒い円を掬ぼうとしていたと思う

そこで 手に付いた取れない血を 洗っている君も
そうだっただろう
あの夕立の頃は
血を探すのに 懸命だった
わたしも 君も 街角にこまめに足跡を付けている
犬も 猫も からすも

      4

月が 聡明なひかりを向けているときは
到着駅の ひとつ手前の駅で
死者の笑い声を聞いて
ともに笑いながら オフ会をしよう
死者の家の間取りには 砂の数ほどの席がある
あの なつかしい歌声も
歪なざわめきも
   みんな わたしの空だ


包まれる夏の風景

  前田ふむふむ

      

暑い夏だと 手がひとりでに動く
発せられなかった声も 潮風の涙腺にとけて

装飾のための深い窪みまで
透き間なく枯れている 古い桐箱に眠るフィルムを
年代物の映写機に備え付ける
暗室の煙たさは
カラカラと音を上げる回転のなかで
父のようななつかしさを
引きだして

わたしは 昼と夜とを
見慣れた岬の断崖の端から 前に進んだ
海風が背中を押しているので
波のようにフィルムの濁流を歩けている

カウントされる数字の後に
黄砂のような皮膜が 一面塗されて
ところどころ欠落した 白い燃えつきた時間のなかから
「カルフォルニアの鉱山の街」と書かれた
寂れた片田舎の西部風の木造家屋の行列がつづく
疲れている街路灯は 崩れるように破損しており
そこに 二羽のハトがとまっている
ふくよかな肉体をクローズアップされる
二羽のハト
こうして 銃弾の物語は 日常の枕元で
やわらかく誕生した

無造作な空白が並び
やや 時間を置いて

音の無いざわめきとともに
かすれて見える 男たちの汗まみれの服に
突き刺してある饒舌な銃口
死者の数だけ 鈍くひかっている
その男たちに寄り添いながら
地味な模様の着物を着た日本髪の娼婦が
星条旗と日章旗をもって 酒場に手をひく
その遥か上流から 一台の幌馬車が
明るい色らしき帽子を被った
若い女を乗せて 坂を流れるように降りてくる
悪路をゆれている眼は えいえんに開いたまま
いつまでも 白い闇を見ている
部厚く積み上げた
黄砂も 波のように あとにつづく
1925年9月11日、撮影の付記が
おぼろげに見える

・・・・・・・・・

夏を浴びた灯台のある岬で
わたしは、立てかけたカンパスに
遠い水平線までの わたしの心象をてらした
蝋燭のようなおちついた海を描いている
やがて 燃える日差しが
光度を増してくると
仕上げのために用意した 鋭利な赤色が
海の波のカーブを覆っていく
わたしが 一面を赤く塗りつぶそうとすると
あなたが 強く筆を取る手を握って
泣いて制するのだ
動かなくなった赤い筆をもつ手を眺めながら
今日も あわい織物のような一日が終わっていく

無防備な海鳥が 傍らで 翼をやすめる
一羽 また一羽と

赤く染まった手を洗いながら
       わたしは 海鳥と いっしょに
夕陽に染まる 過去となった水平線を包んで
   その彩りを 翼のなかに仕舞いこむ

古いフイルムも 黄砂も カンパスも
      翼のなかにいる


三つのユーモラスな詩   患者M.Tの症例

  前田ふむふむ

ムーンライト  症例 1      

懸命に 笑いをこらえたが もちろん 尋常なこらえかたではなくて そのた
めに 僕が この世の不幸をすべて背負ったような物語を リアルに想像して
いわば 笑わないという目的のために あらゆる想像力を動員して耐えたので
あるが やがて そうしていることが 僕だけでないように思われてきた 水
滴が聞えるような静けさが教室をおおっているし よく見ると 誰もが辛そう
な顔をしている いや 笑いじょうごの高橋君にいたっては 眼を瞑って 口
を震わせながらへの字にしている その格好は たしかに普通なことではない
し もっと奇怪なことは 清楚できれい好きな川村先生がこの異常事態に う
っすらと高揚した笑みを浮かべながら 算数の授業を なんの乱れも見せずに
完璧に進めていることである ただ そういう狭い教室のなかでの 一見 何
事もない状況において 先生を含めて僕たちは 暗黙のうちに共通の理解でと
ても強くむすばれていた PTA会長のひとり息子で 狡猾で陰湿ないじめを
先生にも生徒にも無分別におこない 猛犬番長といわれている デブの佐藤君
が 授業中に うんちを漏らしたこと そのために 教室中に 耐えられない
悪臭が充満しているという共通意識で でも 僕にとってもっと不幸なことは
腕を組んで憮然とした様子でいるように見えたのだが 実は恥ずかしさで真っ
赤な顔をして固まってしまっている佐藤君が 隣に座っていることだ 僕は
何事もないように、平静を取り繕わなければならないし 時とともに増してく
る臭いに 眼が痛くなってくるけれど 泣くこともできなかった だから 川
村先生に訴えるように 眼で助けを求めたのだが そしらぬ顔で 微かに笑み
返してくるだけだ 川村先生も 本当は 辛いのだと思うし 僕は僕で こん
な辛いのは いやだと席を立つこともできるかも知れないけれど 身体が硬直
して まったく動かない あの凶暴な佐藤君も動けないようだし 多分 ほか
の水島君や中村さんも 僕の好きなさっちゃんも 同じように動けないのかも
しれないと思うと 僕は とても悲しくなってしまうけれど これからも い
や もっと大人になっても 僕は こんな風に我慢する事が 生きていくこと
なのかも知れないと いつまでも いつまでも 思っていたのです


ドン・キホーテ  症例 2  

とにかく 俺の人生は 長い間 無口なカナリヤが鳥篭のなかで 呟いている
ようなものであったかもしれない だから 群衆の前で 話すことは無謀の他
はない 今までどおり 呟いていればよいのに どこで間違えたのか 俺は将
来性豊かなリーダーとして 祭り上げられているのだろうか いや 誰かの気
まぐれで 何を話すか試されているのかも知れない 俺の話を聞いた人はいな
いのだから 何とはなしに興味があるのだろう こうして待っていると 掌は
べったりと脂汗をかいてくる いまにも心臓が破裂しそうに脈打ち 眩暈をお
こして倒れそうだ それに俺は血圧が高い方だから 興奮のあまり ほんとう
に倒れるかもしれない そんなことを考えると 家族の悲しい顔が浮び 俺が
ひどい親不孝者であることを 改めて知り合いに 深く印象づけることになる
だろう そんなことより おやじやおふくろは 泣き崩れるだろうし 妹たち
は この時とばかり みんな自閉症になってしまうかもしれない それと こ
の口内が痛むほどの異様な喉の渇きは何だろう こういう経験は稀にはない 
あの大昔の特攻隊員帰還者が 体当たりする時に こんな渇きがおきると言っ
ているのを どこかで読んだことがある ここは 戦場かも知れないし 紛れ
もなく 俺にとつては これから起こる事は戦いだ 俺は きのう徹夜をして
下書きをつくり 丸暗記する勢いで 特訓したけれど これで大丈夫だと心の
どこかで 安心しているところがある でも これから何も見ずに話をするこ
とができるだろうか 俺は 人前にでると何を話してよいか あたふたしてし
まい かならず 頭のなかが真っ白になるのだけれど そう思いながら もう
真っ白になっている 動揺は隠せないくらい すでに手足は震えている ここ
で倒れたら どんなに楽だろう 命に関わる病気だと思って みんなが同情し
てくれるだろうか そう思いながら 俺は 心を落ち着かせようと二 三回 
そっと深呼吸をした ああ もうすぐだ だれかが 俺を指差している 群衆
がいっせいに俺を見ている もう引き返せない 俺は 瞑目してから 搾り出
した少ない唾液を 一回だけ飲み込んだ そして 鏡のまえのひとりの群衆に
むかって 間違いだらけの過去を 捨て去るために 立ち上がったのだ



二番地の内田さん  症例 3  

白いあごひげをはやして 美味しそうに キリマンジェロを飲む 二番地の内
田さんと呼ばれている この老人は 若い人と話をすることが 何よりも好き
だ よく 真面目な顔を丸くして 恋愛談義をする気さくな人だ でも 私に
対しては どういう訳か 眼をそらそうとする そして 必ず 空(くう)を
みるような遠い眼をする とても 嫌悪に充ちた 氷が浮んでいる寂しい眼だ
 私は、みんなと同じように 気に入られたいと 必死に眼を合わそうとする
と 怪訝に 顔をそらす でも いつとはなしに 決まって誰もいないとき 
ひどく暗い部屋の隅で 心臓を患い 禁煙のはずが 秘密の場所から こっそ
りピースを出してきて 美味しそうに タバコを吸い込むと 遠い眼をする 
そして 搾り出すように インパール戦線の飢えのなかで 人の肉を頬張った
こと 絶望的な仲間たちの無力な戦いの話を 始める やがて 復員してから
 恐ろしい空白を埋めることができず なんども死のうとしたこと だから 
手首には無数のリストカットの跡があると 内田さんは 重くなった口を放り
出しながら 私に近づいてきて 必ず 血の痛みをふたりで覆うのだ でも 
最後には、「昔のことだよ」と ため息にちかい言葉を吐いて 遠い眼は 何
度も海を渡る 私は その眼を しっかりと見つめて 決して離さなかった 
内田さんは お守り代わりに持っている ニトログリセリンをちらつかせては
 「もう わしの時代は とっくに死にたえている」と 不整脈の胸のなかか
ら 海の底のような遠い眼をする
二番地の内田さんの葬儀は 多くの知人や親族に囲まれた幸せな葬儀であつた
私は 棺のなかに 内田さんの命を奪ったかもしれない 秘密のピースを一箱
他の人に分らないように そっと入れた 内田さんの辿る旅が 寂しくないよ
うに 見上げれば空は 晴れているのに 青く見えなかった 私は 内田さん
が 隠していた傷が 思い出されて 長い間 耐えてきた 禁煙を破り ピー
スを取り出して いかにも美味しそうなふりをして 遠い眼をした でも な
んて狭いのだろう 身動きも儘ならない もうすぐ 灰になり いままでの苦
しみも飛んでしまうだろうが もう 一週間もこの儘だ 多分 忘れられてい
るのだろう そして これからも 気に留められることはなく ひとつの記録
として 書架に埋もれていくのだろう でも 総じて見れば 少しは幸せだっ
た気がする もう この ひどく暗い部屋のなかに 敵はいないのだ 私は
数少なくなったピースに火をつけて いつものように 遠い眼をした


廃船――夜明けのとき

  前田ふむふむ

       1

十二月の凍れる月が 遅れてきた訃報に
こわばった笑顔を見せて
倣った無垢な手で ぬれた黒髪を
乾いた空に かきあげる
見えるものが 切り分けられて
伏せられた透明な検閲のむれが 支流をよこぎり
静かに 沸きあがる
   失われた汽笛に高められた過去 静止した速度
たたみ掛ける重さが
         波の上にひろがる
             水没のとき 

わたしは 仄かな夕空をかたどる
もえる指先を あなたの記憶の鎖骨のむこうに
あてがう
脈を打つ草々のような海が 蒼い眼差しの奥で
夏を踏み分ける旅人のように
紅潮する頬を 弛める
赤い波が 海のはじまりと 終わりとを
引き合い 溶かし合い
あなたの空虚な胸の剃刀を やさしく絡める
       赤い波が――
             水没のとき
 
      2

夜がとばりに鍵を掛けて 佇んでいる
湿った空気が硬質な無音を垂らして 凍る夜が戯れる
海鳥も漆黒のベールで 液状に溶けて 眠りについている
微かな呼吸が囁く季節の枕元で
もはや 行くべき場所もなく 帰り来る場所もない
打ち捨てられた去り逝く栄光が
沈黙した黒い海で 巨大なからだを崩れながら倒れた

一つの塊は 冷たく骨になった頭を 横たえる
そこでは 死は大きな口を
顔の外に開けて 微動もせず
群れをなして 林立している
かなしみも 憂いも 劇薬に切断されて
煌々とした月のひかりに 照らされて
骨は重なり合い 絡み合い 傷つけあい 潰し合い
かたちを 冷たい海の溜息に 晒された
船の墓場が広がっている
侮辱された残骸の山々
廃船は 一つずつ衣を脱ぎ捨てて
剥き出しの骨をさらしている


脱ぎ捨てられたものは
夜が沸騰の中心点を選ぶころ
遥かな広い海原に向かって 過去の美しい姿で
音を立てずに入水する
マストが空の階段の上で はためく
甲板を 蒼い月が産んだひかりのきらめきで もてなす
船の舵が溶けて それを海に葬送された者たちが
たぐり寄せる
死するものための波頭は 海の馨しい記憶の
聴こえざる歌を唄い
船の輝かしい系譜をなぞりながら
眠れる空に高々と打ち上げる
夜ごと海が行う廃船のかなしみの水葬が
鎮まりゆく喝采の戸を 海の断崖で叩いている
誰にも知られることなく ひっそりと
ときだけが敬礼する

     3

八月という
真夏を彩った鋼鉄の欠片が 閃光を発して
冬の脅える空に 鈍い金属音を砕く
     果てしなく続けられる
          終りなき 復員のとき

いつまでも 始まらない海に
   故郷で聴いた音が――
         懐かしい音が帰る 海へ

帰りたいのか
わたしの肉体が 懐かしい音をはおる
わずかなひかりが 流れる夏の海原の水脈を映して

生きたいのか
愛惜の山河の眺望が
遠い母を偲ぶ 暑いみどりの葉脈のなかをくだる
  逝った人たちよ
  わたしは 今日も おなじ夢を追想している

うすまりゆく暗闇の密度
カウントされる枯れる氷山たち――
      立ち上がる白壁のつらなり

まもなく ふたたび訪れる 複眼の夜明けだ

わたしの細い手たち
化石のような曠野を行く柩の天蓋を
           固く握り締めていこう

真夏は この地図にない航海で
水底に肩を落としたまま佇む
    糸杉が寂しくひかっている
ああ
感傷的な島々の此岸を
悠揚とした眼差しを据え
       直立して 渡っていくのだ


偽オルフェウス的な試みの二つの詩

  前田ふむふむ

境界      

それは灯台のように 
ひかりを発してゆらいでいた
そこから一本のながい縄が垂らされていて
その先端には
なにかをむすんで吊るされていた
鳩が交差をくりかえして飛んでいる
背景はやや赤く 皮膜のような靄に
覆われているせいか 暗くぼんやりとしか
見ることができない
それはわたしが意識すると遠ざかり 
意識せずにいると
ひたひたと近づいてくる

わたしは ずいぶんと長いあいだ 
いまおもえば その陰鬱な
風景をみているようなのだ
一本の縄の先端のものが 
なんであるかわからないときは 
不安であって眠りにつけないで 
夜をあかしたものだ

しかし 多くはその先端の縄のなかには 
白くてやわらかい肌に
わずかな布をおおっただけの少女が 
ぼんやりとした
ひかりに 悲しい顔をうかべて 
わたしのほうをみているのだ
わたしはいつか かならず助けなければならないと 
そのすがたを眼にきざみこんで
一日を懸命にすごした
いやだからこそ 
裸足のような気持ちで 
街にでていくことができたのだし 
森のなかでみちにまよっても寂しくはなかった
どこまでもつづく空を
青くみることができたのだ

雨が窓をいつまでも
打ちつづける夜だった
それはひかりをぼんやりとゆらしてやってきた
うめつくすほどの鳩が飛ぶそのなかから
吊るされた一本の縄の先端で
少女はうすく笑みをたたえていた
胸はあつい高揚からなのか
ほそい血管がうきでていて 
恍惚とした顔からは
すべてがみたされたような眼で 
わたしを 射抜くようにみていた

なにか黒くつめたいものが湧きあがり 
わたしはもっていたガラスのコップを握りつぶして 
こなごなにして割った
右手から血が流れおちていった
いつまで見ていたか 
おぼえていない

ぼんやりとひかりを発している場所がある
わたしは 熱病にうなされているような 
ある確信をもった眼をして 
険しい坂道を登っている
全身が汗ばんできている
ずいぶんと長い間
苦労して
暗いなかを歩いたが
眼の前には やっとあかるいひかりが
わたしの安堵した足は
軽やかになり 速度を早めて
開放のひかりに
向かった

坂を登りきると
それは 靄に覆われていて
灯台のようにひかりを
発してゆらいでいた



蒼い夜の夢想             


はじまりは いつもみる景色だ
居間のテーブルには 白い皮膜のような
汗をおびている
ビニール手袋が置かれていた
手袋はしずかに脈打ち 呼吸をはじめる
おもむろに
前にひろがる暗闇の衣服を剥ぎとると
夜は 両手を濡らして
ケモノのような
艶めかしい声をあげている

どのくらい経っただろうか
どこからか読経が聴こえてくる

一面 どんよりとした空気が 
わたしの熱を帯びた息で震えると
眼をひからせた二匹の青い犬が 暗い踊り場から
わたしの耳のなかをかけていった

わたしは 電灯のスイッチを点けた
そして 
左足の踵から階段を降りた 

読経の
その低い声が 少しずつ大きくなってくる

足裏は 硬く 冷たい(こんなにも 段差があったのか)
手すりをもつ手先が ひとりでに震えた
下は 暗く 真冬に
マンホールを覗いている猫のように心細い 
冷たさの先は 空気を捲いていて ゴーゴーと鳴り響いている
心臓の温もりが 口から零れ出すと
眼のまえの仄白い装飾ライトが 脈を打ちだし
少しずつ 昇っていく

読経は絶えることなくつづいている

やがて 両足が慣れる頃
眩暈が全身をしばってくる
狭い 一人しか通れない階段を 暗い大勢の影が
少しずつ 昇っている
なぜか懐かしい顔ばかりだ
その最後に 灰色のスーツの影が 
わたしの横を すれ違った
鋭い矢のようだが 息が聞えなかった
あれは 父さんだろうか
もう どのくらい階段を降りたのだろう
段々と 氷のような冷たさが 全身を覆っていて
足は感触がなくなってくる
用心深く 足を降ろしていくが
いつになっても降りつづけている
わたしは いったい どこに行きたいのだ

雪が降っていた
あれは
父の葬儀のときだった
母が箸で骨壺に骨をうつしている
悲しみのあまり
父の遺影は
天井を刺す錐のような泣き声を
あげていた
その姿は
少しずつ昇っていった
姉が 十三歳の多感な腿を血に染めた日 
その戸惑いを 壁にカッターで刻んだ 
消えかけた書き込みが
わたしの荒れた呼吸に合わせて 
これも 昇っていった
同じ頃だったと思う
幼いわたしは やわらかい母の傍らで 
いっしょに汗をおびて
暗闇を剥ぎとりながら
はじめて
夜をつくったとき
打ち寄せる波のように
轟音をたてて
胸のなかに大きな空洞をつくった
その暖かな感覚には
階段の途中ではあったが
広い居間があり 
明るさを落とした蛍光灯が ぼんやりと点灯している
テーブルの中央にある大きな篭には 
産声をあげたばかりの
一匹の青い子犬が 小声でないている
わたしはその犬を抱きかかえようとしたが
不意に睡魔がおそったので
思わず 数回 まばたきをすると 
わたしは 眼を覚ましたのか
ひとり 居間のテーブルに座っていた

読経の声はいつの間にか消えている

目の前には 安物の木皿のうえに
水気のない林檎が 積まれている
それが四角い卓上鏡に
死んだように映っている

階段のほうに目をやると
踊り場では わたしの後姿を
少年のわたしが見ている
少年は ひかりに満ちた階下に降りていった


赤い夏・白い夏の歌

  前田ふむふむ

      1


仄暗い廃駅の柱にある
壊れた振子時計が 正午を差していて 
低い時刻音を鳴らしつづけている
それが 終わりのない暗闇を切る 
なにかの予兆ではないかと 想像できた
眼窩のおくに
白々と 鶏も鳴かない 冷たい朝が
生まれるようとしている
窓のカーテンを開ける
孤独の置き場所を想起される 岬の灯台のように
湿った風を受けて
わたしは なぜか
茫々としたひかりに顔を埋めている

     2

しばらくすると
起伏する像の断片が 眼のなかに集約されて
やや広い 草の匂う平地があらわれる
その軟らかいみどりいろの中央には
二本の線路らしいものに 車体が頑なに固定されている
「新しきもの 普通なるもの 及び古きもののために」と
表示した一両の列車らしいものが
ひっそりと 佇んでいる
よく見ると 列車は
絶えず 歪に輪郭を変えて動いているように見える

     3

車両は「新しきもの」を想像できる前方の部位から見ると
定員を著しく超えていて
(定員が果たして何人か知るものはいないようだが)
荷物棚の上にも人が乗り 豊満な車体をもてあましていて
飽食の時代のうわずみを
獏のように食べつづけているようだ
車両は前方より冷房 後方より暖房を絶やさなく流している
忙しく動く 白衣を着た医師もいる
十分な福祉が施された車両は 中央に置かれたスピーカーが
しきりに喋っている
「夢は 望めば叶います」
「快楽は 所得に応じて世界の果まで
試みることができます」
「なつかしい国家総動員法も買うことができます
それは
 むしろ 美食に 形を変えて 売り出されています
 ニュースを賑わしている介護保険法改正法案は
みずみずしい薫りをあげていて 今が もっとも旬です」
「さあ お早めに 昇り坂を 」
車両は益々 熱を帯びて 完熟した肌を赤らめた

      4

目線をずらして 「普通なるもの」らしき部位から 覗くと
車両は 誰も乗っていない
なかには イタリアの職人が作った
庶民では
なかなか買うことが出来ない 
高価でカラフルなバックや
スイスの職人が作った時計ばかりが 置かれている
唯 場末の三人掛けの座席に
父のよれよれになったカーキ色の復員服を着た
わたしが ひとり ユビキタスな携帯電話を見つめている

わたしは 亡霊のような自分をみていると
急に眠くなったので
気分をかえるために
身の丈にあったドア(多分あるように見えるドア)から入ると
わたしは 「古きもの」の部位あたりの席に座っていた

       5

車両は 遥かに懐かしい眺望をはべらせている
走馬灯の風景とともに 途切れない時間のように
みえないところまで
座席の列がつづいていた
時間を裂いて 過去を見つめながら
かつては
精悍だった陽炎のようなひかりを抱いて
おもわず くちびるから古めかしい感傷的な「歴史認識」が
ついて出てくる
「わたしは おぼろげな一筋のひかりをめざして 唯ひたすら ひ
とりで歩きつづけた いつ辿り着くだろうか 答えは誰も教えてく
れない 暗い闇のなかを過去の夢のような物語が 笑ったり 泣い
たり 時には怒りの形相をして通り過ぎた 最初に過去の誤りが
そのままでいっせいに 一度あらわれて 絶えず修正されて 過ぎ
ていった あまりにも たくさんの出来事が 次から次へと束ねら
れた一瞬を過ごしたので わたしの人生は間違いだらけであると思
えた そのあとに来る 過去の正しさは―――何処に
一度も巡り合わなく 暗い闇が唸りをあげてどよめいた
その瞬間 わたしは後ろを振り向くと ひとりで歩いていると思っ
たが 死んだ父がすぐ後ろにいた 父は手を合わせて ひたすら経
文を唱えている その眼は虚空をみている その後ろには 死んだ
祖父 祖母がいた その後ろには 累代の先祖が後につづいて歩い
ていた みんな経文を唱えて 虚空をみている その後ろには も
う分からない人たちがつづいている そしてみな経文を唱えて そ
れは巨大な大河をつくり 絶える事無く 大きな黒点になるまでつ
づいていた わたしは先頭を歩いていることに気がついた わたし
は自覚していなかったが 疲れてふらふらしているのに 後につづ
く人たちが支えているのだ いや どちらかというと担いでいるの
に近い
わたしは 読経が鳴り響くなかを 遠くに見える一筋のひかりをめ
ざして 先頭を歩いている」

世界は公転しているのか


       6

この車両のなかは いつも暑い
しきりに湧き出る汗に 首筋から溶けていく液状の夏が
わたしの薄紙のような肉体を浸している
古いスピーカーから流れるような
音楽が聴こえる
このときだけは 安らいでいるように感じる
 (自我が昏睡している夜に 沸点で抑えられている高揚
 (波状を映した野ざらしの砂に みずを突き刺すポリフォニー
 (焦燥と恍惚とを空に撒いて かすかな燐光に温まる
              仄白い着地

あんなに新しかった
ビートルズは
車両の半分を占めているシルバーシートを
独占しているが
若者が不満を言うと
ひとり またひとりと
立っていく
「ペニーレイン」が
意識の底辺を軽く蹴っているのか 
わたしの背中に隆起した山のむこうでは
四人が
わずかに跳躍を試みている

     7
        
父が 長く傍らで 育ってきた楡の木に
囲まれた家で わたしは、三つの顔をもつ 
新しい車両らしきものを作っている

季節の無節操なゆらぎのなかで
炭酸水を飲んでいると
 無数の泡のほころぶ夏のなかを通る 
軽快に侵食する夏の声
 ストローが わたしの顔から伸びて 真率に立っている
夏のなかの透明な夏
そのなかを
幽霊のように 次々と
カーキ色の服を着ている人々が通る

     8

車両のような
病棟の壁は 建物を蝕む蔦に覆われているからか
凛々しい八月の空が 眩しい
痛むのだろうか――

水路沿いにある病院を
服薬をもらって出た
六番目だった
先生は機械のように診察した
わたしは それにふさわしく
死人のように応えた
道路では 
駅からくる通行人がまぶしくて
つい下を向いてしまう
気にすることはない
この頭痛があるときは
こころは
死んでいるのだから
たぶん見えていないのだろう

いつもの
小さなガード下をくぐった
時間通りの快速電車が
奇声をあげて過ぎていった
鋭い金属音に
怖がって
子供が泣き出している
拘るまいと
振り向かなかった
わたしは自分が
こういう時に冷酷だと思う
でも言い訳を言えば
急がなければならないと思ったのだ
すこし歩幅をひろげて
ほそい路地をぬけると
鼓動が激しくなった
苦しくて呼吸を整えようと
この冷酷な顔で
空を見上げると
どこまでも広がる
雲一つない
青空がみえる

とても眩しい
その一面晴れわたる
混ざり気のない青空をみていると
わたしは
むしょうに嘔吐したくなることがある

砂漠の民を
不思議なほど
寂しいと感じることがある
あの完璧な空を
毎日みて生きているからか
あれほど過酷で残忍なほどの
青のなかにいる
彼らが
愚直にも
混じり気のない
一つの神を信じなければならない
歴史を
背負っているからだろうか

慌ただしく日陰に入ると
遠くに
車両のような
わたしの家がみえている


   9

いま
わたしが置いてきた来歴を 
満載に積んでいる 封印された車両が 接続される
そして 今日も
二つの車両は溶け合って一つになった
強い風で 揺れる 柳のような視線
見せようとしている車両
直視しない わたしの裂けた空
その空から
雨は わたしを濡らして 
今日も絶えることなく降っている

アオハズクが飛んでいるのか
羽の音がきこえる
止まっていた目覚まし時計が
十二時を告げている

茫々としたひかりは
とても心地よくて
随分と長い間 ここにこうして
わたしは 横たわっている 


黄色の憧憬

  前田ふむふむ


 

   1

蒸し暑い夜がつづいている
わたしは 嬉々として 猿を殺している夢を 夜ごと見ては
目覚める度に 硝子が砕けるように 怯えていた
か細い手を伸ばすと
地味な窓から
裏庭の空き地越しに見える マッチ箱の家のつらなりは
指先から朝焼けになって 赤く血の色に染まっていた

少年のわたしは
母と二人しかいない時間に
震える手で 母の手を握りながら
秘密を語りはじめると
やがて わたしの身体は 母のやわらかい胸に溶けていった
 

     
    2

そこは
風がない 月がまったく出ていない暗闇の夜である
石づくりの侘びた橋から望むと
一面 白い睡蓮の花が 鮮やかに咲き誇っている
そのなかを数匹の猿をひきつれた 大きな一頭の黄色い猿が
父母に襲いかかっているのである
鋭い爪で 母の衣服を剥ごうとしている
父は母を守ろうとして 大声で懸命に懇願しているが
猿は 激しい威嚇の叫び声をあげている
衝動的に
わたしは 鋭利なナイフをもって
背後から 黄色い猿を刺した
何度刺したのだろう 
わたしは 粘っこい汗をかいて 眼を覚ますのだ
その度に
母は 猿の腹部の肉をきざんで
大きな鍋に入れた
母が調理する猿は 純白な皿に盛られていて
鮮やかな黄色をした猿を わたしは ためらいもなく食べた
海鳴りのように 街の背中から 猿たちの苦悶の顔が
押し寄せてくる

   3

仄暗い待合室に 窓から 黄色い閃光がさしている
「暖炉のような家庭」と書かれた夥しい貼り紙が
壁一面に貼られていて 通気孔の風にゆれている
病人で熱気を帯びた朽ちかけた天井は 罅がはいっていて
間断なく水滴が床に砕けている
出来た水たまりは 流れになり 
すこしずつ地下への階段におちている
待合室には 一枚の絵画が掛けてある
絵の中央には 多くの葉をみずに浮かべた 
一輪の白い睡蓮の花が咲いている
花は錐のような視線で わたしを じっと見ている
部屋を照らす蛍光灯は 節電のためか 異様に暗い

なぜか
わたしたちは 一列に並んでいる
出来た長い行列の 最後部にいた わたしの 
すぐ前には
この世に未練はなく
死を待ち焦がれて愛おしむ老人がいる
八月十五日の安らぎと亡霊の日々を認めず
洗っても落ちない鮮血の手を頬にあてている
すでに事業に失敗し 家族は離散してしまっているのだ
その前には
受付のテーブルに置いてある
鋭利なカッターを一点に見据えて 顔を凍らせる少女がいる
禁断の花が 渇いた手首に何本も咲いている
その前には
遠い学生の記憶をなつかしんで饒舌に語るが 
麻薬常習者で ときに幻覚を見て 
老人のような衰えた膚を晒した
一度死んだ男がいる
三度の堕胎を繰り返して 子を産めなくなった 
一度死んだ妻が
その男のために 死んだ子供の名前を 
お題目のように唱えている
その前にいる
多くの病人は 首はうなだれて 猿のように奇声をあげたり
意味不明な言葉を ぼそぼそと呟いている
わたしは いったい何の病気なのだろう
身体からケモノの臭いがはっしているような気がする

傍では はり紙が激しくゆれている

病人のつぶやきが
ひとつひとつの断片になり 水滴のにおいを帯びて
うな垂れた雨音のような足もとから 流れていく
やがて 看護師が来て 患者たちの名前の確認を済ませると
死人のような病人の列は 待合室の奥にある
螺旋階段を昇っていく
わたしは、階段を昇れば昇るほど 口は 砂地の渇きを感じ
黄色い受付券を握りしめては 
意識は 泥に浸かる鳥のように沈んでいった

なぜだろうか
薄ら笑いを浮かべる病人の前を 薄い靄が滾々と湧きあげている
灰色の空に映る葬祭場の煙のように
掴めない救済の霧のように
わたしの手足は 卵のような滑らかな治癒を渇望しているのに
どこまでも続く歩みの列は
いまだに見えてこない診察室から 漂うエタノール液の臭いに
実験用の猿のように顔をひたしている

この列の前の方から伝わってくる話によれば
診察を受けた人は 必ず 首を絞められて猿のような叫び声をあげるという
それから 鉈のようなもので肉を切っている音がするという
そして 彼らは 戻ってきたことがない
わたしは怖くなったが 誰も帰ろうとしない
むしろ 嬉々としているのだ
怯えながら待っていると 
とうとう わたしの番が来たのだ 
頑丈そうな診察室のドアを開けると
そこは
広々とした平原のようだった
一面 白い睡蓮の花が咲いている
風がない 月も出ていない暗闇の夜である


    4

ものに掴まりながら
杖を使わないと
もうひとりで歩くことが叶わない母は
介護ベットで就寝をしている
8時になり
目が覚めたのか
起き上がって髪を梳かしている

今日も
母に食べやすいように
御粥でできた
朝食を出さなければならないと思う
支度をしていると
ざわざわと音がするので
振り替えると
壁付の大きな鏡越しに
一頭の黄色い猿がすわっている
もう弱々しいが
神々しいほどの聡明な視線だ


浄夜――遊戯する断片

  前田ふむふむ

     

       一

観葉樹が かぜに揺れて 嬉しそうに笑いかける
笑いは葉脈のなかに溶けて
世界は無言劇に浸る
映像のように流れる無言の織物
かぜが 喜劇に飽きるまで 永遠を飽きるまで
観葉樹は 笑いつづける

ひとり
朝を知らない夕暮れのように 
わたしの足跡は
涙にまみれた


   
わたしは 病室の片隅に蹲り
からだを震わせて泣いた
霊安室の扉が開いて 人形のような亡骸を運ぶ
痛ましい親族の号哭が わたしの血を貫いたのだ
わたしは 生きている幸せを泣いたのだろうか
疑問は 一瞬に 涙を枯らせた

生ぬるいベッドが 待っている
寒々しい夜だ

        二

霧は 漠寂とした白いおくゆきを たちあげながら 強い閃光を浮かべている
夜の口が ひそかに開かれて 短いてんめつが一本置かれている わたしは
手探りに濃厚な霧を分けて 随分と 短いてんめつの上で思考したが 視線は
霧の内縁をいつまでも さ迷うだけだ 疲れて諦めかけると やがて そのと
きが訪れた 重い冷気を携えて 沈黙が鈴を鳴らして 幽霊の形相で やって
きたのだ 私は おびえる頬を引き攣らせて 唾を飲んだ 
震える手がキーボードの上で 妄想を逞しくして
「白い夜霧の中から沈黙がやって来る」
と文字をパソコンに打ったのだ 打ち終えた安堵は 一瞬の秒針の闇に隠れて
短いてんめつは 文字の背後で 尚 威嚇して 続きを打てと 命令してくる
わたしは 次の言葉が見つかるまで いつまでも 無音のてんめつに 不満そ
うに 睨まれて 怯えているのだ

       三

すずめ蜂が弱々しく飛翔して 庭のサツキに
鮮やかな過去をよこたえる
ふたたび飛ぶ夏は 厳かに息を止める

寂れた旧家で彼岸花がもえている
かつて 夥しい訃報に熱狂した時代にも
血の色を吐いて もえつづけていた

はらはらと落葉が地表をうめて
みどりの主役は もうすぐ骨を剥き出しにする
死者を装う時代を 今年も迎えるのだ


       四

ステンレスの流し台の 蛇口を滴る水滴が
剃刀の刃を辿って 流れ落ちるような 
厳粛な夜が佇んでいる
幾何学模様に飾られた家の床を 
孤独なアゲハ蝶が蹲っている
一匹の昆虫がかもしだす 滑らかな静寂は 
地上の恐れを削ぎ落として 喧噪を昏睡させている

わたしは 幽霊を偽装して 心臓をもたない鳥になり
こころは浮遊して 彼の岸に足をかけている
そして
静寂の下
静寂がしずかさを斬っている
鋭利な沈黙が
わたしを 癒しつづける
楕円形の手鏡のなかをみると
わたしにそっくりな亡霊が 無言の声で囁いている
静寂は 生きている者の
いのちの鼓動の暖かさを隠して 劫火のようにもえている
たとえ 死者が訪れたとしても 
内部で激しく嘔吐した
傷口が裂けた現実と 対話しなくてはならず
わたしに気付くことは ないだろう

見渡せば 無言の静物には 雄弁な顔がある

(黄色にやつれて 地球儀の食卓に並ぶ本たち
(テーブルの平原を航海する林檎たち
(乳房を晒して 燃える水槽に浮ぶ花たち
             弧は 円を掬ばない

けれど もう飲み飽きた薬剤を手にする わたしには顔がない
仮に 死者が背中を叩いても
わたしには 見せる顔がない
顔だけは あしたの真昼の海辺のむくろの下で 
転がって
生きている乾涸びた声で叫ぶだろう

     五

夜霧が 遠くに佇む街路灯の光度に 
寡黙に顔をあげて
一面 白さで 夥しい彩色を埋めている
なみなみとした湿潤な空気が 時の始まりと終わりを無くして
まろやかな水滴の声をはこび
茫々としたひかりが
仮面をかけた暗闇を隠して
わたしの 前から背後から泳いでいる

霧のなかで
戯れる四人の若い女は 眩いひかりを享けとめて
墨色の影を幾度も動かし
濃淡の密度を入れ替えて 
しなやかな肢体に薄めて 影絵をつくっている

わたしは 霧の海原のなかを 起立する閃光とともに
溶けるようなゆらぎになって
真率な腕を一人の女の空洞の乳房にあてがう
わずかに萎えた二本の足は 四つの肉体の下腹部と交わり
裂きながら通りすぎる
流れる影は 
モノクロームの宴のあとのように
うすい余韻を浮かべて 薄らぎ
厚い霧の壁のなかで 女の甲高い声だけが 蠢き
やがて 消えていく

わたしはひとり 夜霧のみずの滲むしずかさに
身を ゆだねて
満ち足りた死者の時間を 厳かに呼吸する

   
  


寂しい織物―六つの破片

  前田ふむふむ



  1.永遠の序章

(総論)
一人の少女が白い股から 鮮血を流していく
夕暮れに
今日も一つの真珠を 老女は丁寧にはずしていく
それは来るべき季節への練習として
周到に用意されているのだ
人間の決められた運命として

  
(各論)
眠ろうとしない 世界中の艶かしい都会の 暗い窓のなかで 
いっせいに女の股が開かれて 混沌とした秩序を宥める清楚な
夜が 血走った角膜の内部から 声を上げる頃 一人の老婆が
朦朧とした手つきで 毛糸を編んでいる 長すぎた過去を焼却
場の前の広場に 山積みにして 決して燃やさない 苛烈な思
い出は 豪雨に打たれて 弛んだ皮膚をさらしても 老婆の編
む毛糸のなかに溶けて 固められていく しずかに重々しく時
を刻む夜が 小声で永遠を 跨いでいく

思惟の灯台たち
    老婆の手を 閃光で照らせよ


2.しずかな夏         

冷たい太陽の雨が
降っている
その一滴のしぐさに
夜が浮かび
夜のなかに
低い声をあげて
キジバトが
一羽 止まり木をさがして 
低空を旋回している

海が見たくなり
ゆるやかな
坂道を下っていくと
地盤沈下した
海辺では
行き場のない貝が
砂から顔を出している

ちょうど氷のように
頑なに閉じている
凍えきった
ざわめきが
しずかな波の音に
洗われている

その
仄暗い肉体の声を
聞くために
わたしは
痩せた指を伸ばして
小さく歪んだ貝を
手にとり
空に高く
翳して
巨大な入道雲の上に
たてかけてみると

空は無慈悲なほど青く
生ぬるい風が
身体中を過るだけだ

入道雲の下には
スーパーがあった
セイタカアワダチソウの茂っている
丘がみえて
壊れかけた風見鶏が勢いよく回っている 
その影は
じりじりとした暑さのなかで
ひかりと混ざり
少し揺らいでいる

誰かが「おーい」と呼んでいるような
気がして
ふりかえると
誰も見えない
多分 旅立ったひとの
声かもしれない

「今日はほんとに
「暑いなあ
「熱に入られないように
「気をつけなよ」
といわれているような気がした

その親しみのある声を
引きずりながら

ひたひたと
わたしの眼のなかを泳ぐ
海は とても穏やかで
曲がった夏の
先端のときに
ランドセルをした
少女が
いつまでも
岸辺にとどまっている


3・孤独な居間にて

コーヒーの香りが 居間の空気に広がり
その一部が直滑降となり
ジェットコースターの速さで
窓辺の朝陽に溶け込んでいく
その爽やかさに 
わたしのなかで
時間の鼓動が一瞬だけ輝く

木製の食器棚のうえの古い写真のなかの
無彩色のわたしが
無彩色のコートを着て 
無彩色の空に溶け込んでいく
写真を見ている時間だけ 
世界が止まっている

テーブルには
わたししか電話番号を知らない
携帯電話が置いてある
誰からも掛かって来ない携帯電話が置いてある
今日の真夜中に 一人の幽霊が
誰からも掛かって来ない携帯電話が鳴るのを
じっと待っていた
灰色のガウンを羽織った幽霊が
笑みを浮かべながら
じっと待っていた
居間には 剃刀のような沈黙が 静かに流れていた
やがて
小鳥が朝陽を持って来るまでは


4.四つの椅子


           
みずうみは 滑るように
風が微細な音を鳴らして 呼吸している
絶え間ないひかりをおごそかに招きいれて
夜のしじまを洗い流している
めざめる鳥の声の訪れとともにあらわれる
朝霧の眩さ
真っ赤に湖面を染めて
音もなく水鳥が 静かに足をすすめている
煙のような靄が
赤に馴染んで 湖面に流れてゆき 
湖面の岸をすこしずつ無くしている
それは 日常の風景を隠蔽して
赤だけの世界をつくりだす
太陽は 朦朧とした金色のひかりを放して
湖面のうえで 朝靄に隠れてまどろんでいる
木々は黒く墨を吐き出したように
物言わぬ液状のままで佇んでいる

湖畔には血の色に染まった
鉄の肘掛が付いている
四つの椅子が置いてある
沈黙した椅子が朝の皮膚から剥きだしになって
置いてある
赤い海の世界で骨が四つ並んで
寂しく呼吸している


5.夜 (一)

       萩原朔太郎へのオマージュ

死んだ猫が ベッドのうえで横たわっている
もう 起きることはない 
汚れ物のように
わたしは いつまでも 蒼白い猫をみている
やがて
夕暮れは ときを忘れて
夜を連れてくる

わたしは 猫になり 壁をみている
なんども 長く湿った呼気を吐いた
少しずつ
血液が流れる鼓動が
トクトクときこえてくる
冷えきった手で触ると
透きとおるような
痩せ細った胸は
あたたかい

寒い部屋のすみで
猫がベッドの上のわたしをみている
大皿で 血を舐めるように
白いミルクを舐めている

深夜 氷のような月がでている


   6.夜 (二)

夜空をけんめいに駆け昇った星たちは
自ら しずかさをその身体で露出して
座をつくり
名前を雄弁に語りかけている
その星々に隠れながら
名前をもつことが出来ない
無数の星々は
はじめて流す涙のような
無辜の潔さをつまびいている
幾千万の星の洪水
その眩さは 陳腐な地上の瓦礫を
すべて押し流してしまうだろう
わたしは原っぱに仰向けに寝て
朔太郎の詩を黙読しながら
この夜と抱擁する
ああ この心臓の温かさは
夜が確かに呼吸しているからだろう


森についての断章

  前田ふむふむ

   


序章

淡いまなざしを
朝焼けをした巨木におよがせて
動きだす直き視界に映る
せせらぎは
ふくよかな森の奥行きをたかめている

森の新しい来歴は 
茫とした朝霧を追い越して
あさいみどりのつま先から
からだいっぱいに
透きとおるひかりの中庭を
靡かせている

東の空から ひらかれた青さが
無垢な湿度を
たずさえて 鶏の背中を起こしていく
端正なしずかさが せりだして
かすみを帯びた ひとつひとつのひかりが
夥しい木々を色彩で染めていく
浮き上がる森から
わずかにずれる みどりいろの濃淡の底が
うすく立ち止まる朝に 清々しい呼気を
緩やかに撒きつづける

あなたは 森の肺胞が はきだしたテラスで
恋人に微笑み返して
あつい みずいろの夏を
掌におかれた 中原中也詩集に
萌たたせる

季節が芳しく衣擦れる午前の歩み

あなたの美しく脱いでいく
多感な時間の針は
涼しい花篭のなかではえる
黄色い百合を
うつむく
亜麻色の髪に添えるしぐさに
費やしている

揺れる恋人の声が 爽やかに立ちのぼる
しなやかな森のみずが
ひとたびだけ流れる
深まりのなかで

  


断章 1

オオルリが青い姿勢を空に向けて
ピールーリィ ポピーリィ ピピ  ギッギッ
と囀っている
その声から
すべるように
森のかおりが溢れでている

木樵たちが渓谷をのぼっていく
汗ばんだひたいをタオルでふきながら
親方が先頭を歩けば
笑いながら 若者たちがついていく
声が静寂をきって
薄化粧のこだまを四方にくばり
森のあさい夢を覚まして
静寂の高低を 
さらに 深めている


断章 2

陽が頂点を
主張してくると
鬱蒼とした
眠れる森は
ひかりをふところに浸して
みどりのまるみを滲ませながら 
いのちの数式を 
一段と 
うすきみどりに染め上げている
その刹那に
満たされた隙間を 
涼やかな風が 繰り返し
芳しい音を上げて たちのぼっている

あなたは 長い髪を
白い手でたくしあげて
流れる時間のほころびに
凛としたほおを添えている
追いかける空の青さに走るおもいは
波をおこして 激しく揺れ動き
あなたは 瞳のなかで 
きよらかに高められて
恋人との真昼の鼓動を 
あつく爪弾いていく

滴る森のみずいろと交わる 恋人の吐息

目覚めた昂揚が 小さな胸の底辺に
真率に積もりつづける

放射する日差しは
あなたの日常をゆっくりと溶かしながら
思わず込み上げた 溢れる声は
短くこだまを響かせて
無防備に佇む恋人のしぐさのなかに
流れ落ちている
濡れたくちびるを恋人のこころにあてて
あなたは 森の階段を
しずかに昇りつめていく

仄かな恋人の言葉が あなたの若い芽を
まどろんだ湿地にいざなって
比喩の森の断章が
あなたの二十歳の淡い視界のなかで
やわらかく立ち上がる


箱についての三つの詩

  前田ふむふむ

箱のなか
     
     1

ここは
硬いケヤキで 柱などの構造が 組み立てられていて
天井と横壁と床は 部厚い漆喰で覆われている
そして床の上には
柔らかい布団が一面ひかれている
丁度
二立方メートル位の
立方体の入れ物のようなのだ

入口も出口もない
この入れ物は
正面にわずかに隙間がある
そのせいなのか
正面の壁の方から
決まった時間に
錐のような船の汽笛が鳴る
わたしは 毎日
目覚まし時計のように聞いて
眼を覚ます
でも 何もすることがなく
ぼんやりしていると
ときどき
右の壁からや 左の壁からは
海猫の声ととともに
鋭い岬に 寄せてはかえす
波の砕ける音が聞こえてくる

この物体を外観的に想像するに
四角い箱のようなのだ

    2

わたしは  
体育座りをして
この四角い箱にはいっていると 
ひとの囁く声が 聞える気がした 
幼い頃に聞いた
懐かしい声なので 思わず
父サン 母サンと言ってみた 
わたしのとなりが わずかに空間ができていて 
穏やかなぬくもりを感じながら 毎日をすごした 
箱は狭かったが 夜のセラピックな匂いが
いつも充満していた 

ときおり ひかりが箱の透き間から 刺してくる 
そのひかりがとても羨ましくて 
外の物音がなくなるころを見計らい 
ひかりの方に訪ねて行ったりしたが 
いつも その場所には 
青い半袖のワイシャツが 掛かっている 
そして 小学生でも
解ける
やさしい計算式が書いてあった 
わたしはふくみ笑いをすると 
青い半袖のワイシャツは 不満そうに燃えだして 
使い古しのカッターで 手首を切った 
朝が噴きだしてきて 
全く同じ計算式を
青い空のカンバスに書いた
     

    
   
気が付くと 子供がわたしの横に座っている
しばらく
二人で計算式を眺めてみた
やがて 子供は 悲しそうにして
この部屋は暗いね といって 少し怯えている
だから 優しく子供を抱いて 寝かしつけた
子供の心臓の鼓動が わたしの心臓と共鳴している
もう 数えられないくらい長い間
柔らかい脈を聞きながら 
わたしは 子供と溶け合っていった

子供のいたところは いつの間にか 冷たい壁になった


     3

ある時のことだ
箱の透き間から きらきらとするひかりが入ってくる
楽しそうな笑い声 静寂 罵声
そっと覗くと
テレビで 
バラエティー番組をやっている
とても驚いたが
わたしと全くおなじ
わたしが楽しく 幸せそうに
家族と
食事をしながら
団欒を囲んでいるのだ

柱時計が午後九時を打っている
それを打ち消すように
くりかえし くりかえし
鋭い波の砕ける音が聞こえてくる

訳もなくかなしい
強い衝動が沸きあがり
そういえば
わたしは まだ ここから出たことがない

震える手が
「出てみたい 
「生まれて始めてなんだ 箱を開けようと思うのは」

そとは
雨が降りだしている音がする
突然 船の汽笛が 叫び声のように
正面の壁から響いてくる
出口はどこなのだろう

青い空はまだあるのか
計算式はどうなったのだろう
わたしは 忘れていた少年のような計算式が心配になり
ひかりの方向にむかった


水槽

いつも虐められていたので 
水槽の魚になりたいと思った
水槽の魚は 自由に泳ぎ 気持良さそうだった
そして いつも楽しそうだった
ある夜のことだ
最先端の思想の本を読んでいると 
身体が勝手に動き出して 鰭が生えてきた
気が付くと 手がなくなり 足もなくなっていた
そして 全身が 鱗で覆われていた
夢のような出来事に とても驚いたが 
僕が いつも願っていたことだった
とうとう 魚になれた
そう思うと 身体を縛っていた壁のようなものが 
壊れて
水に凭れかかるように楽になり
しばらくの間 何もかもが幸せに感じた

でも 泳ぐことは出来ても 歩くことは出来なかった
手を使って 物を持つことも出来なかった
だから 冷蔵庫から 食事を取ることも出来なかった

しかし 僕は魚になれたために 
一躍有名になれたので
食べ物は 好奇心いっぱいのファンが 
持ってきてくれた
だから 十分に生きていけたのだけれど
透明な箱には 僕しか居なかった
僕は 自由を獲得したのに とても寂しくなった

水槽のそとから 
毎日のように
僕の知っている顔
知らない顏たちが見ている
最初は優越感に近い感情が湧いてきて 
嬉しかったが 
次第に 冷静になると
まるで 監視されているようで この水槽から出たくなった
でも この箱からでると 自由は失われて
死んでしまうと みんなが言っているようにみえる
不満そうにみえたのか
みんなは 僕を励ますために
歌をうたってくれたが
そのうち 飽きてきたのか 段々とみんなは
ひとり去り 
またひとり去り
ついに誰もいなくなった

言い知れぬ寂しさが 僕を襲い始めた
だから あらたな自由を求めて
体当たりをして 水槽を破ろうとした
何度も何度も

でも 水槽は破れなかった
僕は悶々とした日々を過ごしたが こんな日々がつづくのならば
魚であることをやめようと思った
そして 僕には もともと
足があり 手もあることを思い出した
水槽はなくなり 僕は 水槽からもひとりになった
部屋はうす暗く 単調な日々がつづいた

僕の部屋には ひとつの水槽がある
僕は魚を見ながら 
やはり魚は自由であると思いつづけている
僕の脈が止まるまで 僕には水槽があるのだ
どこにいっても
いつも
なみなみとみずを充たした
水槽がある


箱ひと
     
      1

わたしは 箱である
段ボール箱を被っているわけではない
ある日 雑踏を歩いていると
突然 全身が痙攣して
失神したのが始まりである
それ以来
自分を箱だと思わないと
身体に異変が起きるのだ
発病してからずいぶんとなるが
この十二月の空のもと
わたしは 自分をのっぺりした箱だと信じて
生きている
病状がすすんだためか
他人から 箱ではないと否定されると
全身に痙攣をおこして 気絶するのだ
そのためか
他人とは関わらずに
ほとんど置かれた箱のように
生きている

だから街中で 
四角い箱の形をして 
ひっそりと ひとに知られずに いることが多い 
今日は 一段と寒いような気がするが
ときには一日中 風雨に打たれて
路地端で じっと耐えていることもあった
そして 誰もが
わたしを見て 気づかないでいる
箱だから 息も体臭も気配も 
多分ないのだろう

でも
箱でいると 人格が限りなく 否定され 
その みすぼらしい外観とは 反比例して
世界の外にいるようで
全能の神のように 
他者を見ることが出来ることに気付いた
それは わたしに言い知れぬ快感を与えている

      2

そうだ
新しい時代の文明論的な何者かが芽吹く
境界に出会ったことを話そう

都会の
夜もくれたある日のことである
けばけばしいネオンが一面に点灯している
むせかえる欲望を
吐きつづける 
この賑わう眠らない街で
路行く男と女たちは 
汗ばんだ肌を 際立たせている

客引きが忙しなく動いている
抑揚のない時間の針は
華美で着飾った
剥きだしの歓楽の風景を たんたんと 刻みつづけている
熱気を帯びた男女の
熟し切った声は 夜の窪みに 
唾液のような
みずたまりをつくっている 

この街の薄汚れた裏角に
今まで誰も見たことがない
おそらく だれも育てたことがないだろう
奇形の胎児が捨ててある
その胎児を跨ぎながら ふたりの男女が罵り合っている
左手にスマートホンをもった
茶髪の十代の女が
   「あたしがひきとり たいせつに育てる」
右手に法律書をもった老練な男が
   「いや わたくしが人知れずに葬ろう」

罵り合いは ふたりが疲れきるまで終わらなかった

見知らぬ場末の路地の溜まり場は
煌々と冷たい月が揺らめいていた

     3

わたしは 箱だから 
よそ者のように
世界の外にいるのだから
利害に関係なく
どちらかに判定を下すことができる
そして 自我を擽る満足感を得られるだろう
事実 みずからが文化を作っているかのように
判定を下して
悦に入った
でも どちらかに決めたとしても 
あの当事者のふたりにはいうことができない
わたしがしゃべれば 
箱でないことがわかり
全身に痙攣を起こして
死んでしまうかもしれない

わたしは こうして長い間 箱でいる
寂しいことはない
どうしても言いたいときは
鏡に向かって
自分自身に話すように 
ほんとうの箱にむかって話すのだ
信じられないだろうが
そうすると
わたしと同じ箱でいるひとは
わたしにひそかに話しかけてくる 
そして
箱としての秘密を共有するのだが
そのとき 世の中には
わたしと同じ箱ばかりであるように思えてくる
街のなかには 
意外と思うかもしれないが
同じ病状の
たくさんの箱がいるものだ


地図に載っていない三つの詩

  前田ふむふむ

眠り

一日中 仕事をして疲れ切ってから
急ぐように
職場に出かけても
そこで 私に出来ることは
只 泥になって眠ることだろう
(すでに そこには仕事は  無いのだから)

家で 手狭な風呂に入り
家族と仲良く晩御飯を食べて
居間でひとり静かに音楽を聴いてから
夜に家に帰ってきても
そこで 私に出来ることは
只 泥になって眠ることだろう
(すでに そこには夜の団欒も安らぎも
無いのだから) 

眠りの中において
遥かオビ川の河口の
ツンドラ地帯の銀色の世界で
魚になって 自由に氷の下を泳いでいる
あるいは 灼熱のサハラ砂漠を彷徨いながらも
偶然 小さなオアシスを見つけた
年老いた駱駝は
驟雨を享ける乾田のように
渇き切った喉をうるおす

そんな 夢の微かな記憶が
白骨となろうとする痩せた鹿を
魂の閉塞から
連れ出してくれるだろうか
(情報に満ち溢れている
       単調な日常の連鎖
ずいぶんと長い間
 わたしはベッドから出ていない)


     
遥か昔
ジョン万次郎がアメリカの地を踏んだとき
彼は全く眠らなかっただろう
新大陸の全てを見るまでは
        




愛の名前

そこは
頑丈な煉瓦で覆われた大きな建物の
浴室なのだろうか
女たちは 嬉しそうに
着ている服をすべて脱ぎ 整列させられ 
冷たいシャワーで汚れ物のように 洗われる
そして 車いすに乗った
数名の黒衣の男の医師に
身体中を舐めるように いたぶられると
あらゆるところから血が流れる
そのように 触診されてから
合格という焼印を肩甲骨の上に押されると
家畜のように
小さな汽船に乗せられた
女たちは
焼印のときの 耳が裂けるような悲鳴以外は
誰も泣くものはいなかった
女たちの船での仕事は 
毎日三度の御粥を啜ることと
シャワーを浴びて清潔にすること
乗船を拒否し 男に鞭で打たれて
気絶した女を介抱すること
女たちを監視ために
汽船に寝起きする男を シャワー室に
誘惑して
こん棒で叩いて 足をつぶし
車いすに乗せること
そして 理由なく 待つことだった
その船は 白い靄に覆われていて
いつもそのなかを漂っている

わたしは 
こうして胸が昂ぶっているときに 
度々 脳裏に浮かぶのだが
そんな女たちを乗せる船をどこかで見たことが
あったが 思い出せない

この冬 雪が降りださんばかりの寒さのなかで
わたしは 気を許した女の 横に寝て 
足を絡ますと
頬が昂揚する女の眼のなかを
剃刀のような鋭さで 
その光景が
出ては 消え また 姿をあらわしてくる
気づかれまいと 
女はつよくからだを寄せたような気がした
わたしは 許すためだったのか
憎むためだったのか 
その剃刀をのみこんで
女のきゃしゃな肩を抱いた

未明の睡魔が襲う 朦朧とした意識のなかで
わたしは 冷静にも 女と はじめて秘密を共有したと思った
女は 確かに頷いたのだ





線路

年に2回の定期的検査で 
胸部のCTスキャンを取るために
大学病院にいった
もう5年目になった
帰りはいつも決まって
柵がないホームのベンチに腰を下ろす
陽が眩しくて後ろをみると
錆びた茶色の線路がある
線路の枕木は腐りかけ 雑草が点々と生えている
一羽のカラスが グアーと鳴いて
線路をナイフのように横切っている
この線路は使われなくなって
どれくらいが経つのだろうか
ホームに降りて
わたしは線路に耳を当ててみた
しばらく じっとしていると
電車の走る音が聞こえる
若い父といっしょに 幼いわたしを乗せた通勤電車が
かすかに遠くで走っている
やがて 糸のように段々と遠ざかっていく

いってしまうのか
言い残したことが
たくさんあるんだ
カンカンカンカンカン
処方してもらったばかりの薬瓶が 粉々に割れた

風が吹いてきて 線路をなぜている
ひとは さびしいと感じるものがあれば
さびしさに耐えられる
線路の横に添い寝する

秋空のひかりをうけて線路はそこにある
たくさんの思い出を詰めて 
取り外すことも忘れられている線路が 
ただあるだけの線路
忘却されたものの死屍が敷いてある

何やら騒がしい
電車を乗り過ごしたのだろうか
いや
ひとつの靴音が大きくなってきた
駅員が こちらの方に向かって
危ないと
大きな声で怒鳴っている
わたしは その声を聞きながして
青い空を睨み付けた


遠雷

  前田ふむふむ

     

   1

野いちごを食べながら
ほそいけものみちをわけいった
かなり歩いたあと
蔦が一面絡まり 頑丈にできている
鉄の門があらわれた
それは みちの終わりを告げていて
なかには
白い壁に覆われたふたつの塔をもつ建物が
わたしを 見下すように聳えていた
とり憑かれたように 門をくぐろうとして
小さな胸の皮膜が
苦しく突き上げられてくる
こんなとき
わたしは からだの芯を走る 
押し寄せる波を 泡のひとつひとつまで
説明できるような気がした

建物のなかは
大きな吹き抜けのホールがあり
崩れた屋根の裂け目から
西日のひかりを享けいれている

   2

池袋から 武蔵野の深い地層にむかって 
西武池袋線が糸のように流れる
みずのような物腰で
赤茶色のローム層を踏み分けて
電車は清瀬駅に滑りこむ
駅からつよく歩幅を広げて
みどりいろを濃厚に塗られたあたり
太陽が うつむき
かなとこ状多毛積乱雲に浮かぶ
白い壁の病院に
わたしは 
休日のときを横たえる

屋上に
ふとんのシーツ バスタオル ハンドタオルなどが
数十本 物干しされて 風にゆれている

「小児特殊病棟100号室」
看護師がせわしなく動くなかで
子供の眼は
世界の果てをみていた
わたしは子供を直視することが出来ず
眼をそむけた
その後 経過はいかがでしょうか        
ありがとうございます と
永遠に着地しない言葉が飛び交う

廊下の靴音が 乾いている
湧き上がるしずかさは
一房 二房 三房とわたしの手をもぎながら
清瀬の森の欠落を 埋めている
重たい足で
病院の門を跨いで
娑婆の空気を吸う と
空は 冬になっている

雑木林の奥から 溢れる血液が降りてきて
切り裂かれた傷口が 閉じられない
冬のきつい寝床を抱いた川面を
わたしは 両肩の内側におさめて歩く
淡いひかりに微分された流れは
遅れながら ついてくる
流れが ようやく わたしに追いつくときの瞼に
打ちだされる 漠寂とした河口にむかって広がる
みずの平野を 濡れた風でわけて
その香りをあげる 草のなかに
わたしは 声をあげて 身をまかそう

冬から飛び出した白い壁の眩しさが 眼に焼きつく
洗濯物の匂いが浸み付く病院は
名前のない窓を開いて 
虚無が旋回する雑木林に透過した
何人ものきみを導いて
きみは 
白い病院が浮ぶ青い空より
ふたたび戻ることはなかった

空さえも見えない わずかに灯る祈りのとき
灰色の遺骨を迎える家族は 絶えて無く
わずかに流れる近傍の川を
きみが眺めていた まどろむ視線の残影が
うろこ雲のむこうに沈んでいく

忘れられた声を胸にまとめる その寂しさに
わたしの乾いた眼が 冷たく濡れる
絶え間なく湧き上がる病院の煙突のけむりは
空の四方に突き刺さり 痛みを受け取る
夥しい雨のおちる場所は
こうしてできるのだろう

季節だけが 翼をひろげて 病院の白い壁を
ひたしていく夕暮れに
わたしは 川面を両肩の内側におさめて歩く
せめて 優しさを演じて 両肩のなかだけで
号哭を見つめていたい

凍える一吹きの風に鳥は 声を失うが
あすには 華やいだ活気のある街の
豊かな肉体に浸るのだ

川面が 両肩を乗り越えてゆく錯覚を
いくども 病院の白い壁が 試みているが
わたしは 川面のみずのかなしみを
今日だけは 小さな眼差しで包みこもう

白い病院が おもむろに夜の暗闇に沈み
うすいひかりを携えて
無垢なきみたちの廃墟の足跡が
透明な螺旋をなして
空に駆けあがる
轟音をあげる沈黙の垣間を
川は 遅れながら 病院の凍える門に流れてゆく
黒く染まった冬を 永遠に抱いて

わたしは 川面を両肩の内側におさめて歩く
足が萎え 涙が消えるまで

    3

壁に耳をあてると
ここで聞いた 
胸がつぶれそうな辛い会話は
ひそひそ話になり
いくえにも混ざり 
黄ばんだ壁の汚れにすいこまれていった

わたしは かぼそい背中を壁にあてて
痛みをおびる冷たさのなかに 溶けてゆけば
矢をいぬく視線が からだを通り抜けて
会話の断片が その後から
針のように刺していった

階段の手摺で
おもわず指を切る
その切り口から
翳むように 一輪草が
夜の浅瀬に咲いていた

気が付けば
夜の匂いが消え失せていて
わたしは 門のまえで 佇んだまま
青い空を眺めて
小さな篭に入った野いちごを 
ひとつ またひとつと食べている
大きな絵画の前にいるように
わたしは あの日から
ずっと 鎖で閉じられた
錆びた門を潜ることがない

つむじ風が足元から生まれて
空にむかって伸びていった
どこから来たのか
子犬が うわんうわん と
いつまでも
門に向かって吠えつづけている
はるか遠雷がきこえる


  前田ふむふむ

    
       


血液のように夕陽が射している
時々 ベランダから 鳩が囀る音がする
  
マッチ売りの少女は
おばあさんの幻影を消さないために
残りのマッチをすべて擦ったとき
ほんとうは
いったい 何を聞いたのだろうか

    
アウシュビッツ収容所に送られる
車両に乗るまえに
看守の眼を盗んで 咄嗟に
ポーランド人の床掃除の子供たち群れに
紛れた
ユダヤの少年は
そのとき 何を聞いたのだろうか

こうして静かな思索に耽っていると
金属音のような耳鳴りが大きく響いてくる
医者が処方した薬を 随分と飲んだが 
ほとんど効果はない

  1

赤い稜線が 空に 覆われながら 没して 
暗さが密度を上げている
わたしは 一日の疲労を癒すために
真白い霧に包まれたいと
街路灯が整列している 
アスファルトの道を 歩いていると 
視界が見渡せる 少し離れているところで 
霧が コップの水が溢れるように 湧き出ている 
確かめようと 近づくと 錯覚だったのか 
そこには ただ 澄んだ空気が 
覆っていて 
霧だと思ったものは なかったのだ

急いで歩いたせいか 息があがっている
立ち止まり バッグからハンドタオルを取り出し 汗を拭った

しばらく 眼を瞑り 呼吸を整える
すると 荒い胸の奥底には ぼんやりとしているが 
みずの流れがあり 
そこに浮かぶ もうすぐ輪になる
たくさんの細長い紙切れの
先端どうしが 
輪を結ぶかとおもえば 離れていく 
そして
離れている紙切れの先端どうしが 
輪を結ぼうと 徐々に近づくが 
結局 結ぼうとしない 
延々と その繰り返しを 
わたしは 塞がった眼のなかで眺めているのだ

煌々とした 街路灯がうしろに走っていく
神経回路のように ヘッドライトとテールランプが
交錯して 闇に溶けていく
街並みは 断崖のように聳えている
だいぶ歩いただろうか
よく覚えていない
でも もう何年も歩いている気がする
そして いつまでも
坂を下りている感覚がする
それに合わせるように
段々と 足は重くなっている
少し疲れを忘れるために
頭のなかを空っぽにしていると

それは 何の前触れのなく やってきた
わずかに出ている 蒼い月あかりが 
急に 白く霞んできて
わたしが待っていた 
霧が一面に 勢いよく 
わたしを覆い あっという間に 視界をなくしている 
それと同時に 胸のなかに棘として痞えていた 
みずに浮かぶ 細長い紙切れの先端どうしが 
おもしろいように 次々と すべての輪を結んでくる

胸の芯からの 叫びのような
その衝動を わたしは 何と名付けているのだろう
突然あらわれる あさひのような 
堰を切って落ちるみずのような
何ものかを 
あるいは 何ものかと言えないものを

眼の前にある街路灯は 霧にかすんで
空気が凍るくらいしずかで
わたしの強く打つ鼓動は
この夜のはるか向こうの
真昼を歩いている


   2

 (世界――患者 F・Sの症例 )

部屋は 水滴がたまるほど湿っていて 視界が全くないほど暗い そして
身体が触れている 壁や床は とても固い石でできている 何故か わたしは
 白い包帯を全身にまかれ がんじがらめされ 閂のようなものに 包帯の端
を結わかれていて 身動きできなくなっている 口も塞がれて なにも喋れな
い そして 暖房もない寒い部屋に 汚物まみれで 閉じ込められているのだ
 馬鹿げたありえない話だ どうしてこんな状況なのだろう わたしは精神も
肉体も健全だ こんなところを早く出て 若いのだから もっと 学問をして
 豊かな人生を謳歌したい そうだ好きな女性と街を歩くのだ だが現実は最
悪だ 意識は すでに消えそうだ でも もう何日も ものも食べずに みず
も飲まずに どうして生きているのだろう そのためか 身体は以前より軽く
なっている 不思議なことに ここには誰も来ない 白い包帯で巻かれているか
ら病院なのだろうか でも いままで 医師も看護師も見たことがない 考え
たくないが わたしが凶悪な精神病の患者で やむ負えず 閉じこめていると
しても 医師は診察のため 様子を見に来るだろう あるいは牢屋なのだろう
か しかし もっとも劣悪な独房であっても 一日に数回の食事と 監視の見
回りに誰か来るはずだ もしかしたら誘拐されて ここに閉じ込められている
のだろうか でも誘拐犯は見ていないし ただ単に 長い間 監禁したままで
 何のメリットがあるのだろうか どれも多分違うのだろう そもそも こう
して拘束されていることを 誰も知らないのだろうか あるいは みんな知っ
ていて助けてくれないのだろうか もう どのくらいこのままなのだろうか
 忘れてしまった いずれにしても どんな犠牲のうえに わたしが居たとし
ても この状況を 変えたいと思うのは 身体的苦痛もあるが それより 孤
独ゆえかもしれない 誰かに会いたい 
まさかと思うが壁のむこうから声がする 気のせいかもしれない
 聞こえたり 聞こえなかったりするのだから 幻聴だろうか でも声がとて
も愛おしい 多分 人と繋がりを持てるのは 声によってなのだろう こうな
って初めてわかる たとえ姿が見えなくても わたしに他者が生まれてくるか
らだ 今は 幻聴であるその声だけが わたし自身の存在確認なのかもしれない
珍しく 陽がさしているような気がする すると わたしは全く 気がつかな
かったが 口を塞がれて 包帯をグルグルに撒かれた人が 暗い部屋の一番奥
に 十数人 蹲っていたのだ そうか閉じこめられていたのは わたしだけで
なかったのだ わたしは 精一杯の呻き声をだした 彼らはわたしに気がつく
と 呻くように 話しかけてくる わたしは 嬉しさのため声にならない声で
泣いた
一年の多くを雨が降りつづく 都会の街のはずれに 長さ3.5メートル 高
さ2.5メートル 幅2.4メートルの ひとつの 放置され 全く見向きも
されない 小さなコンテナハウスがある 
傍によると なかから 異臭が流れてくる
覗いてみると 男が鏡に向かってぶつぶつ口ごもった独り言をいっている

    3

(声についての試論)

大空を 誰も射止めたことのない 鳥が飛んでいる 衆目のなか 一発の銃弾
が撃たれた 羽は砕かれ 動かなくなった鳥の死骸が 横たわる その衝撃で
 鋭利な光線のような 空白が生まれる

わたしは驚き 唾を呑みこむと その出来事は 四角い 紙のように切りぬか
れる その沈黙を 事実として 胸のなかに水滴のように落とすと そこから
 はじめて 声は生まれる

鳥の損傷した肉体の詳細は 多くは 道端に 置き忘れられて 小石の生涯を
終えるだろう

だが とくに 声の底にあり 意識に残る 最後の鳴き声には 暗闇に浮かぶ
一輪の白い水仙のような 夜の輝きがある

そこから声の意味を問うために わたしは 思索の陰鬱な暗闇を わけもなく
立ち入らねばならない
となりに自分の幻影を 引き連れて 糸杉の並木をいくども 疲れ果てるまで
 歩かなければならない
傷口のひらいた 派手な装飾をしている そんな 死んでいることも気づかな
い 奔放なものたちと 終わることのない対話を かさねなければならない

声は 生まれたときから 後戻りできないものだと 覚悟したのだろうか や
がて わたしを離れて あるいは わたしと再び結びつき 波紋として つ
ぎつぎと 人々の記憶のなかに 刻まれていくかもしれない 
やがて 人々と触れ合い 傷つけ合い そして ひとの狡猾や欺瞞を食らい
立ち止まった その曲折

高低の測りを正確に求める 人々の分別という呵責さに そのノマドのような
自由を 削ぎおとされ 未踏をいく冒険者のかたむきを 永遠のなかに 深く
沈めて 思考を停められたものとして また 数式の針のように 決して狂わ
ない定義として それは 人々の憧れとなるかもしれない つまり 銃口を
 いつまでも射手に持たせつづけて しずかな佇まいと 分厚い名声を携えた
 木漏れ日のような経歴に 浸りつづけるだろう

しかし 同時に そのくつろいだ身体には 鸚鵡のように いつまでも 同じ
意味を喋りながら 死者も寄り付かない空を 旋回しているのだ そして そ
こから派生して 生まれてくるものは お互い しがみつき合っていて いつ
までも 死ぬことはない 

ただ 世の中の気まぐれによって その裂け目から あたらしい物語を あた
らしい事実を 湧水のように つくっているのだ
ときとして 撃たれて 死んだ鳥が錐のような声をあげて
西の空に飛んでいく

   4

(「やす」くん――患者 T・Rの症例)

「りく」ちゃん と どこからか声がする
人見知りの僕に 「やす」くんという仲の良い友達がいた 「やす」くんは僕
を「りく」ちゃんが 親しみがあるから良いよと 最初に呼んだのだ その後
 みんなが「りく」ちゃんといい その呼び名は 二十歳を超えて 今でも言
われている この笑顔をたやさぬ「やす」くんは 物知りだった 「断食芸人」
という奇妙な物語や アレキサンダー大王がダータネルス海峡を渡った本当の
理由など 僕は眼を丸くして聞いた ある日 「やす」くんは マフラーを忘
れたので 家まで届けようと 僕は 知らない場所を尋ねながらいった 「国
境の公園」といわれるむこうに 高い壁があり それを潜ると 人気のない街
並みが続いていた そこは 薄暗くまるで死んでいるような精気を感じられな
い 不思議な感覚がしていた その二番目の三叉路のところに 「やす」くん
の家はあった 大きな鉄でできた戸を開けると 動物を絞め殺す鳴き声がした
 幅一メートルくらいの細い石を引き積めた道を 暫らく通って 玄関のとこ
ろに来ると 「やす」くんは 凍る眼で 僕をみて 奪うように マフラーを
取った 僕は 「やす」くんと声をかけて 手を差し出そうとしたが なぜか
 身体が動かなかった 街並みの異様な薄暗さと 余りの不快な感覚のため
 今まで現したことがない 軽蔑の眼でみていたのかもしれない 「やす」く
んは急いで家の奥に隠れていった 「やす」くんに会ったのは それが最後だ
った 次の日 学校に行くと 「やす」くんの席はなかった 先生は出席の点
呼で 「やす」くんの名を呼ばなかった 先生に「やす」くんのことを尋ねる
と とても 穏やかで落ち着いた顔をして そんな生徒はいないという 回り
をみると 理由はわからなかったが 「やす」くんと仲の良かった かこちゃ
んも けいくんも みんな楽しそうに 笑っている 「やす」くんのことを話
すと 誰も「やす」くんのことを知らないという 僕はとても悲しくなった 放
課後 かこちゃんと けいくんが 新しくお墓を作ったから いっしょにお参
りしようと 僕を誘ったので ついていくと 名前のないお墓だった かこち
ゃんとけいくんは 泣いていた 僕は誰のお墓か尋ねると「やす」くんのお墓
と小さく言って 私たちが天国に送るのといって泣いた 僕も訳もなく悲しく
なり 三人で夕暮れまで泣いた
それから十年がたった
大学生のときの春先の頃だった 大学巡回バスのなかで 「りく」ちゃんとい
う声がしたので 振り向くと 同い年くらいの学生がつり革をもって立ってい
た 学生は全く素知らぬ振りだったが おもわず「やす」くんと言っていた 
学生は 驚いて不思議そうな顔をしていた それ以上話しかけようとはしなか
ったが あれは「やす」くんだったかもしれない 
僕は 次の日 「国境の公園」にいった
その向うには 街の近代化で 高層マンション群が連なっていた 僕は 子供
の時と同じ 公園のブランコに乗った 「やす」くんの名付けてくれた「りく」
ちゃんという声がいまでも聞こえる でもどうしてだろう 僕は「やす」くんの
顔を知らないのだ 僕は あれから ずっと ブランコに乗っている
僕の脇で 「りく」ちゃんと 声がする
いっしょに来た彼女が もう帰ろうと言っている


         5

どのくらい歩いただろうか
いつまでも
アスファルトの道を歩いていると
遠くで おーい と 呼ぶ者がいる
振り返ると 通行人が
ハンドタオルを落としたと持ってきてくれた
お礼を言ってから
ふと わたしは ほんとうは
二度 声を聞いているのではないかと
立ち止まった

わたしは 友人の見舞いに行ったのだ
胸のなかが ざわざわして 
何か起きてないか 心配になり
スマートホーンを取り出して
友人に メールではなく
電話をした

空には
巨大な入道雲が浮かび
蝉が 鳴り止まない


意識の運動について四つの詩

  前田ふむふむ



涼しい風が吹いている
川沿いの土手に繁る草は 笑顔のようにそよいでいる
仰向けになって寝ていると 
そこには 自己主張する青い空
そして
白い入道雲が わたしに覆いかぶさるように
睨んでいる 
あの入道雲の右あたりに 大きく鋏をいれ
四角く切りぬいたら その向こうには何があるのだろう
空は痛みのために
血を流すのだろうか
もし 切り抜いた向こうに 違う空があるのだとしたら
どんな空 なんだろう

昔 
見知らぬ世界に
風が通りぬける道がある と聞いたことがある
夜の漆黒のなかで 見たことがない一角の白い馬が 静かに息づいていて 
水晶のように透明な植物が一面
咲きほこり なめらかな風が 吹いていると
わたしは 幼いときに
確かに 聞いたことがある
そこがどこにあるのか
誰かに たずねてみても 知ることはかなわない
でも その夢のような場所をもとめて
ひとは 叶えたい願いを 風に流すのだろうか
あるいは 灰色の罪や悔いを
石のように積みかさねて
許しを乞うたのかもしれない
なぜか そのような気がするのだ

だからなのかもしれない
さわやかな 初夏の朝
ひとりで コーヒーを飲んでいるとき
ふと その風を感じたことがある
そんなとき
わたしは 鋏を入れて 毟るように
朝の陽ざしを 
白い清潔な窓を
テーブルの青い紫陽花を
コーヒーの香りがするダイニングを
すべて切り抜いて
目覚めたばかりの眼窩に仕舞込んだ
すると そのあとには 
ただ欠落した大きな穴が
胸の底で 呻くような低い轟音をたてて開いていて
切れ端には 血が滲んでいる

わたしは その度に 強い痛みを感じて
気丈な外見とは 裏腹に
後ろめたさと 後悔を隠して
誰もいないところで
切り抜いた
切れ端を 謝りながら 胸の底深くに埋めるのだ

もうすぐ命日になる
父の遺影が仏壇に飾ってある
きょうも
抑えられない欲望が命令する
ひかりに充ちた
風がとおりぬける道を 見るために
きょうは あの思い出を 迷わず 切り抜こうか
もう 分からないくらい 長い間 
血だらけの手だから
わたしはこうして 力強く生きている



生きる男  患者T・Cの症例

旗のようにつづく樹木の参道に わたしは 痛めている足を 引き摺りながら
自分の未来の平穏を願い 胸をときめかせて 大きな大樹の下の古びた神社に
やって来た なぜなら ここで聞いたことを 実行すれば 必ず 幸せを実感す
る生活が 約束されていたからであるし その他のいくつかの自分が望む答え
が 約束もされていたからだ
高価な衣装で着飾って 無表情な能面をつけた神官が 奥のほうから現れて
落ち着いた声で尋ねた 左の小高い丘に設えてある絞首台と 右の裾野にあ
る安息の揺り篭を差して 「どちらがおまえの未来か 答えてみなさい 」と
いった そして 神官は 右の揺り篭に 毒薬を置き 左の絞首台の前で 幸
福という名の詩を朗読した 空が溶けるような 甘美な朗読が 半ばにくる頃
期待とは裏腹に わたしはその不受理に 湧きあがる怒りを 抑えきれずに
 落ちている石で 神官を殺した カラスが洪水のように いっせいに飛んで
きて神官を 突いて食べている わたしは その時から 答えのない世界にむ
かった
空が 赤い血を浮かべているようだった 激しい動揺で 朦朧とした意識で歩
いていると 殺伐としたY字路にぶつかった すると そこに すでに死んだ
神官が現れて さきほどの神社とは逆に 右の道には絞首台 左の道には揺り
篭があった そこには毒薬は置いてなかった 代わりに ばらばらに離散した
家族が仲良く立っていた
誤解だったかと わたしは 後悔の念で 大声で泣いた そして 以前より強
い怒りで死んだ神官をふたたび殺した 神官は 幼い子馬のようだった 
涙が涸れて 笑い狂い 草が水滴で濡れる朝まで歩いた 
朝陽が眩しさを増してくると ふたたび Y字路が眼の前に現れた 今度は
逆に 右の道に揺り篭があり 左の道に絞首台があった 絞首台の上には毒薬
があり 一方の揺り篭のそばで 死んだ神官が わたしを嘲笑した視線で 幸
せのための詩を朗読した やがてその朗読は高笑いに変わった その作為的な
悪意に わたしは 死んだ神官を 何の戸惑いもなく殺した 神官は ウサギ
のように弱々しかった 
ある時 通勤電車のなかで 柔らかい座席に腰をおろしていると わたしは
 神官に囲まれていることに気付き 眼をつぶった そして 到着駅に着くと
 激しく嘔吐した わたしは 急ぎ足で まっすぐ家にむかったが 見慣れた
Y字路に来ると 強い頭痛に加え 急に目が見えなくなり 立っていられず
 意識が薄れてきて 気を失った 

翌日 よれよれの服を着た男が 顔を自分の家の前のどぶに 突っ込んだまま
死んでいた 
通行人は まるで気づかないように 通り過ぎた 
不注意の事故とみなされて 「40歳の無職の男が栄養失調により意識障害を
起こし転倒して死亡」と小さく新聞に載った 
とても 寒い日の極めて小さな出来事であった 
男は 神官を殺した数だけ 生きた 
男は 神官の質問に答えなかっただけ 生きた

男が行きたいと願った
近くの神社では 月例祭がおこなわれていて やさしい顔をした神官が
氏子たちが揃う前で 恭しく神前に頭を垂れていた





よく空をみているね―――といわれたことがある
「あの透明な色のなかにとけてしまいたいから」と 嘯いた
ほんとうは 無意識にみていたのだから 
わたしの足跡のように

わたしは はたして自分が思い描いたことを 出来たことがあっただろうか
世の中のひとが 普通に出来ていることを何ひとつ出来ていない気がする
いつも 心は空腹で だからといって無性に食べたいことはなかった
もう 終わりにしてもいいと思うけれど 
日陰で 隠れるように 地味な花を
咲かせていても 苦情を言われることはないだろう

今年は確定申告に行かなかった 
有り余る医者の領収書を眼にしていると 
生きている決算書のような気がして もう これ以上 
惨めな清算をしたくないと わたしは 紙切れのような薄い歩みを 
ごみと一緒に焼却した

春が軒下にたっていた 
夏が木に香ばしい汗をかいていた 
わたしは 一度も その優しさを口にしたことがなかった 
何度も 胸の透き間を 風は吹いたのに

わたしは 欠如という花束を握り 怯えている少年の声をよく聞いた
時間を忘れて ともだちと楽しく 地面の上に白いチョークや蝋石で書いた線路が 
切断されて わたしの前にある

雨が降っている

通販で買ったストーブは 冷たい身体を暖めてくれる
やがて 鼓動が 穏やかになる頃には わたしは 宛先のない手紙を書いている
柔らかな枕元に耳を当てると なつかしい電車のレール音 時間を走る電車の窓の外には
荒れ果てた平原があり 蹲っていた わたしがいたと 
そのわたしを探しにいく遠い旅にでると

テレビはついているが 音は聞えない

ドアを叩く音が途絶えてどれくらいたつのだろうか
朦朧とした瞑りのなかで 冬が香ばしく 窓枠の影を痩せたひかりが暖めてい

若い手を握ったきのうは 土のなかに沈んでいる
数年を跨いで 
本の間に 埋もれていた友人の手紙を見つけて 
遅れた返事を書く
宛て先のある手紙
ボールペンの先から 過去がみずのように湧き出てくる
窓のそとは 立ち上がった夕暮れ
赤い色が そっと 空のうえから ドアを叩いた
ひととき
わたしの鼓動が 熱を帯びて全身をおおった
       
空は きょうも 上にある


未明のとき

    1

いまおもえば どれくらいあっただろう
女が長い髪を振り乱し 
胸元ははだけ 汗ばんだ口元から
呼気が 荒々しく吐き出される
足は 一日を歩き切ったように
かくかくと 小刻みに震えている
けれど 顔を見ると
眼はみずうみの底のように 冷たいしずかさを
横たえている
殺意に似たものがしずかに鳥のように舞う
そういう無名の夜を 女を抱きながら ふたりで 
いくどか 通り過ぎた気がする

日常は悪意に満ちている
そこは境界のこちら側にいる
主観という震えるような囁きの舞台
やさしさに満ちた そして 軽蔑に溢れたことばが舌の上を飛び交う
暖かい風と 冷たい手のぬくもりが わたしの肩にふれる
そのひとつひとつの綻びに 
雨音のように浸みこんでいる 悪意がある
こうした いつでも掴むことができる 悪意があるから 
わたしは すすんで積極的に
ひとに向き合って生きていけるのだろう
けれど ふとした瞬間に 
音楽のような鼓動を 固く凍らせて
切り立つ断崖のうえに 冷たい幕をひろげた
無名の花が咲く時間がたしかにある
家の壁が 軋みをおこし
窓ガラスが ガタガタと音をたてて振動する
そんな夜が絶叫した未明に
恐ろしさで 時間の針ですら 振り返る
おぞましい正気が顔をだしてくる
それを見せるために 
夜は わたしの胸の底まで 
しずかな砂漠を一面にひろげているのか

「まってください」
女が バス停車場で乗り遅れて
あわてて 乗り込んだのだ
汗ばんだ声 呼気は 途切れ途切れに 上ずり
顔は昂揚として 恥ずかしさで 赤みを帯びている
落ち着こうと
つり革を握るか細い手の白さのうえに
痛々しい 赤く滲んだ傷がある
その切れ目から 
境界のむこうにある
無名の夜がしずかに 
覗いていたような気がした

女は何かを感じたのか
わずかに わたしの視線をけん制するように
一回 振り向き
清楚な眼をみせると
ふたたび 何もなかったように
そとの街並みを見ている


幻想的な日常についての二つの詩

  前田ふむふむ

夜の季節の断章       


遠くから祭りの太鼓を打つ音が
聞こえてくる
かまくらの灯りが断片的に 沈んでいく空のなかで
浮遊している

その十二月の空が 
透明なガラスの水槽のなかにある
ひきしおのような冬の芽が
胎動している水面に
ふるえながら 耳をそばだてると
泡をたてずに
水面は 両耳をつくり
凍える声で
わたしと呼吸をしている
遠く
夕暮れの橋をわたった雁だろうか
風を切るような声が
水面を覆ってきこえてくる

円筒形の器は
水けさを増して
鏡のように映り
顔 なつかしい顔が
あらわれては 
滑らかな肌にうかぶ夜に消えていく
眠りにおちそうなわたしは 
水にゆれながら
点々と水底に埋めている
顔を追う
やがて
水面まで
水底が切り立ってくると
父の骨を夢中になってむさぼり食う
わたしの顔だけが映っている
  (ほんとうの朝焼けは 
まだ地平線のむこうだろう
       いや そんなものは最初から
                 来るのだろうか)

一枚の夜霧のなかを
水滴が轟音をたてて 走りすぎると
ゆっくりと
風見鶏が回っている
庭のざわめきが
液状の眠りを さらに深めている
時間は
左から右へといくえの流れをつくり
仄暗い影のなかから
蝋の炎をもった
なつかしい父があらわれて
庭一面 水で充たした水槽に
ひとつひとつ灯りを点していく

おきあがる夜の誕生のひかり
暗闇はからだを
すこしずつ 折りたたみ
葬列をつくり 昏々と眠る

蒸せるような夏を前に
父がせわしなく逝った
そのときから
母は句点のような日々をかさね
なつかしい海鳴りを見ている
母の手を取る
わたしの呼吸は しずかさのなかから
死者の炎に
みずからの
源泉をもとめて

やがて
しじまが鶏の声にみちびかれて
金色を包む仄白いベールをはおると
ゆらぐ水底のなかから
今日も
帰っていく
父を見送っている
もうひとりの 新しいわたしが
うまれている



冬のおわりに

      1

喪服を着た父が せまい部屋の隅にいる
悲しいほど
とても暗い場所に
わたしは 気の毒に思い 
傍により 声を掛けると
父は顔をあげた 
顔をみると
夢中でものを貪る わたしだった

かなり寝たので 夢だったのか ひどく汗ばんでいる
心臓の鼓動は 全身を掛けめぐっていて
ふと 耳をふとんにあてると 
今度は 父が階段を上ってくる足音がした
胸が 訳もなく とても痛い
でも ドアは 開くはずがない 
父は もう二十年前に死んだのだ
もう あなたの時代ではない
父さん はやく帰ろう とこころのなかで叫んだ
階段をあがる音が止まった
ドアは開かなかった

あたまを動かしたら ズキンと痛んだ
38・5℃の体温計が畳の上に無造作にころがり
渇いた熱がわたしの喉の奥を締めつける 
加湿器の蒸気が乾燥した部屋をうるおしている
下着を替えて 冷却シートを貼りかえて すこし落ちつく
体温計を拾い わきの下にあてる
熱は 朝より 下がっていた
そとから母の明るい声がする
おもては 雪が降っているらしい

医者の処方した薬を飲む
母が 階段をあがってきて 
氷枕をつくり わたしの汗を拭く 38・1℃
身体が怠いので
少し寝たら 天井が落ちてくる夢を見た
その天井を眺めていると
自然の木のなかにいるようで
家にいることを 一瞬忘れる
窓からは
少しずつ雪の明るさが降ってきて
庭のわずかな風のざわめきに促されてか
年代物の柱時計の音が わたしの鼓動と共鳴している
なぜか嬉しくなり 今 生きていると思う

階下の居間では 慌ただしく 何かが落ちて割れた
一週間前に買った 高価だった
カットグラスではないかと とても気になる
寝返りをすると
三日前から腕がひどく痛い
庭にある
ぼさぼさに覆い茂っていた樹木を剪定したのだ
虎刈りのように
すっきりとしたツバキやサツキは
親しみぶかいものに変わった

壁ぎわを見ると
学生の時に読んだ本が
書棚で整列して じっと わたしを見ている
その知性が醸しだす
冷たい空気は 草のにおいがした
処方薬のせいか
草むらは いつの間にか 暗くなり 見えなくなる

    2

オートバイが家のなかを通りぬけていく
晴れていた 
昼になって少し暖かくなったので
自転車で買い出しにでた
この街は
昔は 田中紳士服店 七本木生花店 青木ナショナル電気店
飯塚書店 渡辺雑貨商店 五十番ラーメン店などの
個人商店がたくさんあった
速度を落とすと 人ごみの中から
「今日は特別安くしとくよ」
やにわに越中屋鮮魚店の生きのいい客寄せの声が
通り過ぎていく  
そして丁字路がある

とても熱気のある商店街であったが
いまは やたらにシャッターばかりが目立っている
昔との違いは
歯科医院 内科医院 鍼灸院 整骨院
ドラッグストア コンビニ スーパーマーケット
介護施設 等ばかりが目立つことだ
きっと街全体が高齢化したので
それに合わせた街になったのだろう
それからもう一つ
カラスが いつも閑散とした通りや
電柱に異常なほどたくさん群れていて 
襲ってくるのではないかと
いつも怖くなる
わたしは速度を早める
そしてあの丁字路がある

わたしは度々 そこで悲しそうに蹲っている
紫色の服を着た少女に出会う
今日も一人ぼっちで 寂しそうだ
でも いまだに声をかけたことがない
スーパーで正月用の松飾やお供え餅を買った
帰り際 丁字路 そういえば 
ここには小学生のとき クラスで一番可愛い子が住んでいて わたしはとても
好きだった 毎日 その子と話すのが楽しみで 学校に行っていたといっても
良い でも後で その子が 新聞にも載った犯罪者の親の子だと分かり あっ
という間にクラスで噂になったのだ それからは 陰口をたたく子もいて わ
たしは気にしなかったが その子といつものように気軽に話せなくなった し
ばらくして その子は引っ越していった その引越しの日に わたしは耐えら
れなくなり 会いにいったけど とても辛そうにみえて その子に声をかける
ことが出来なかった
それ以来 わたしは 今でもいざという時には ごまかして生きているような
気がする
  
いまは月極駐車場になっている
その駐車場のなかで寒つばきが咲いていたので
ひと通りはあったが わたしは 構わず 一番かわいい一本を摘んだ
家の小さな花瓶に生けよう
いつもいる少女が 見えなくなっている
帰ったら正月の支度でいそがしい

オートバイが通り過ぎていく
遠のいたり近づいたり
そしていつまでも
エンジン音が聞こえている

      3

寝返りをうつと
寒さが 布団の隙間からはいってくるので 
身体を丸めて眠ったようだ
眼を覚ましたら
部屋のなかはすっかり暗くなっている
窓は 街灯の灯りが点っている
その灯りで
花瓶が畳みに影を落としている
挿してある紫色の寒つばきの花は 枯れていて 
異臭を放っている
階下で物音がする
母のぶつぶつといった独り言がきこえる
たぶん
介護が必要な母が 簡易トイレで用を足しているのかもしれない
雪はいつの間にか
雨に変わっている


青い声が聴こえる日

  前田ふむふむ



某月某日 午後1時

ふふふ と白い歯を見せて 
端正な顔立ちである
介護ケアマネージャのHさんが笑う 
深い座椅子に凭れるように座りながら
つられるように 母は顔をほころばせる
ふだん
わたしと母だけに ひかりがあたっている狭い空間が
朝 雨戸をあけた時のように
部屋の隅々まで 呼吸をはじめる
その明るさのなかで
母は 身体を乗り出して
今まで生きた足跡を 語りはじめる
もう暗記ができるほど 聞いた話だが
その話を聞くたびに 母の人生が日に日に 厚みを帯びてくる

(あの日 母さんが死んで 海辺で泣いたの
(悲しくて いつまでも浜辺を走っていたの
(海の向う岸は 一面見渡すかぎり 真っ赤に燃えていたわ
(まるで絵画のようにきれいで
(あのなかで従兄弟のさっちゃんも 邦夫おじさんも死んだわ
(とっても 怖かったの 覚えているわ
(きっと あの日から こころを裂くように
(無理にひらいて 受け容れたんだわ
(真っ赤な火を点けた人たちを
(でも 幼なじみの彼は そのとき 手を握ってくれていたわ
(とても 強く

母の話に 大きくうなずいて
笑顔を絶やさぬ
Hさんのお世話になって 三年がたつが
その間
母は子供に戻ったように 無邪気になり
ときに 少女のような優しさをみせる 

某月某日 午後四時

母は眠くなり 介護ベッドで横になる
少し眠り 寝ぼけながら
ひとりごとのように 呟く

(学校に遅れるからって 父さん バス停まで
(手を握って 引っ張るから わたし手がとても痛かった
(でも 父さん 嬉しそうだったわ

少し寝言を聞きながら
わたしは めくれ上がった掛布団を整えて
母の体温を計る 36.8℃ 

陽が短くなっただろうか もう外はうす暗くなっている

某月某日  午前0時

弧を描いて放物線が
地面に 小さなみずたまりをつくる
見上げると
家の傍の 街灯が消えかけていて
不規則に点滅している
そとは だいぶ寒くなってきた

母は二十分前 暖房付きのトイレに入って出てこない
用をたすのに時間がかかるのだ
二時間ごとの間隔で
トイレに行く
そのための歩行が 
母の運動機能を維持するために
大切なので トイレの独占という
この理不尽を容認している
ときどき 中から苦しそうな声を 
発していることがあるが
その声を聞くと
あの齢になり 生きることが 
自分との戦いのようで
いかに大変なことかがわかる
わたしは 尿意に耐えられないときは
さすがに浴室では 憚るので
たびたび 庭の隅で用を足す

いつものように用を足していると
となりの少年が不思議そうに見ていたが
傍に来ると
わたしの横で いっしょに用を足した
わたしと少年は 大きく放物線を描いた
そのときから わたしが そこで用をたすときは
決まって 少年と一緒だった
短かったが 笑いながらの少年との時間は
不思議と介護に疲れた わたしを癒してくれた

ある日 となりの奥さんに
息子さん 大きくなりましたね
というと 何を言ってるの
うちは 娘二人ですよと 怪訝そうにいった
そのときから少年は来なくなった

すっかり夜が更けて 
夜の十二時三十分を過ぎても
母はトイレから出てこない
心配になり 覗くと
もうすぐだからと 
まるで子供のように涙目でいう
わたしは いつものように庭の隅で
隠れるように用を足す

月は煌々として
身体をこおりのように冷やしている


喪失についての二つの詩

  前田ふむふむ

氾濫         
     1

雨が落ちる 十二月の空の
音のなかに形がある
形は 
またあしたと 透明なひかりのなかで
自らいのちを絶ったきみの寂しい眼が 
左の肩に
野球大会と 勇んで 碧い空に飛びだして
溶けそうなアスファルトの道路のうえで
ふたたび帰らない時間をつくった
きみの笑顔が
右の肩に 鋭く刺さり
いつまでも わたしだけが生きていると
消せない 冷たい傷として
激しく降りそそいだ

けれど
茫々として ときに明確に
わたしは あの驟雨のなかに
痛みに耐えて
蹲るような恰好をした
薄ら笑いを浮かべる
冷徹な鬼をみる
それが わたしであるということに
気づかないふりをしているのだ

ずぶ濡れになりながら
泣いているわたしと 鬼が 楕円をつくり
グルグルとまわり 対話をくりかえし
そのなかを 
わたしという形が歩いている

    
形のあるときには 音はない
わたしの胸の底辺に 
絶えることなく 
降り注ぐ雨は
累代の静脈の彼方から
未来にむかって注がれている
しかし 不安定に 震えながら 明るい方角にのみ傾いた
背伸びは
日常という闇に晒されている
わたしの若い裸体を あるいは思考を
少しずつ老いさせて
手鏡でみる わたしの顔の 新しい皴は
言いわけの数だけ
増えていく
気づいて 両手で その皴を
伸ばして
急ぎ 消そうと試みるが 消えるわけがない
それも 言いわけなのだ

音のない雨は 降り止んだことはない
   
  

   
いまにも 明けようと稜線が 赤々と
顔色を上げているのだろうか 
わたしが胸を打つ
本に載っている
「朝焼け」という題名の絵画は
夕暮れにしか見えない
誤る眼が刺されるように痛む 難破船のように
わたしの新しい放射状に延びていく路地は
間違いだらけで溢れているのだろうか
止まった心臓の音が 
聞えるような夜 
指先に 触れてくるひかりが
ぼんやりと 音のない居間に止まっている
緩んだ水道の蛇口が 血液を垂らして 
世界を刻んでいる
わたしの臆病な 思索のときが また始まるのだ
   
    2

真夜中 黒い空気の匂いに浸りながら 
自転車のペダルを踏む足が軟らかい
薄っすらと 鎖骨が汗をかく
セブンイレブンの 真昼のようなひかりのなかで
コピー機を操る
一枚一枚 わたしのよそゆきの顔が 出来上がっている
背中に 店員の侮蔑した視線を感じながら
少しでも 多くコピーをとろう
そうすれば 当分 わたしは よそゆきの顔を もっているから
原紙の身体を見せないで 歩ける
少しでも明るい方へ
手足をカクとさせたあと
弓のように 空にむかって
背伸びをした

けれど いつまでも
窓のそとは晴れあがっているのに
窓のなかの雨が止まない

もしかすると
わたしは コピーという 
原紙と何も変わらない 
乱発されて
剥き出しになった 原紙という名の身体であるのかもしれない

セブンイレブンを出て 
呼気が 白く昇っていくが
自転車のライトが照らす道は
わたしという原紙のコピーで溢れている
そのなかを
いつまでも四十肩で激痛を感じながら
ふら付かないように 
堅い
ハンドルを握っている


喪失

   1

夜になったのに
やり残したことを 頭のなかで
プラモデルを組み立てるように考えている
たぶん わたしは死にきれなかったのかもしれない
父が 祖父が 親族が
部屋の暗がりから
物悲しそうにあらわれて
それぞれが 木製のこん棒を持つと
わたしを こなごなに 叩き潰した
おかげで 未明になって やっと 血も肉も骨も
捨てることができた

目覚まし時計が鳴り
眩いひかりが突き刺すように 顔を覆って
わたしは 無理やり起こされる
文句をいうように 陽が射してくる窓を睨み付けても 
何かを言い返してくるわけでもない
無言で 生まれているのだ
あらゆるものが 
聞こえない絶叫とともに
あかるさは 
祝福されているからだろう

でも いつまでも 立ち止まってはいられない

朝 鶏が鳴くと 一日がはじまる合図というが
あれは 死ぬための合図なのだ
朝の洗面 朝の食事から 
自分の葬儀の支度のように
段取り良く 一日をやり過ごさなければならない
夜までが勝負なのだが
わたしは 一度として
まともに出来たことがない

  2

わたしは 片足を 失くした靴を履いて
ちんばで
街頭を リクルートスーツで歩く
いつも決まった時刻の電車のなかで 
既製品の玩具の設計図を
生涯眺めている上司のとなりに座り
一言も口を開かずに
二十年を過ごした
わたしとちんばの靴と リクルートスーツは 限りなく 
造化の骨のような 無機質なことばだけになった

「もしもし 失くした片足の靴はどこにありましたか 」

スマートフォンで検索する ことばのなかから
コピーのように両足に靴を履いた 
既製品のリクルートスーツを着た
息をしていない
わたしが 溢れ出る

短くなった陽が落ちかけている

ふと
わたしは 両足に靴を履くことを考えていたけれど
思い切って 片足の不便な靴を 
脱いでみた
とても新鮮な空気が 肺胞をみたしていく
少しはずかしいが とても身軽だ

きょうは
こん棒をもった先祖はあらわれるだろうか 
たぶん ぐっすり眠れるかもしれない
冷たい風に当たりながら
忘れていた
死にきった夜を歩いている


季節の底辺についての二つの詩

  前田ふむふむ

秋―― 流れる底辺の

      1

ふかく ふかく 靄のようなひかりの
記憶のなかに 身体を浸していると
さらさらと透明なみずが 
胸の底辺を流れていて
きっと わたしは その暗い川を抱いているから
震えながらも 
手にペンを持てているのかもしれない
しずかな囁きにより 
わたしを包んでいる 
近くで傍観する書架の群れは
日々 わたしの痩せた欲望で 
面積を広げている

病床のうちに
枯葉のような生涯を駆けぬけた古い詩人の墓標が
三段目の棚に眠っている
若い燃焼のときが 産声をあげた詩集に眼をやれば
詩行の欠片が 
わたしの痛みのなかで躍動する
それは 壊れた人形を抱えたわたしを
仄暗いベッドから 引き摺りだしてくれた
脈打つ無辜のかなしみの声である
だから 
わたしの皮膚のしたにある 
消えそうな細い線を繋ぐたびに
薄いカーテンのむこうがわに 希望のあかりがみえて
わたしは それを掴もうと 
陽炎のように消えそうだった意志に 
身を委ねてきたのだ

いまも 三段目の墓標には 赤い血の跡が付いている
鋭敏な指先で触れれば 
胸の水面が丸い弧を描こうとする
一番奥に佇む言葉のみずうみは

いつでも 
折れそうなときに
わたしに諦めた橋を渡らせて
死にかけた胸に火を灯して
図形だらけの都会の雑踏のなかの
生きようとする喬木の模様に
わたしを
誘ってくれる

書架の隙間から
月がでている
窓枠の線の内側と外側では 
絶えずみずが循環する右脳の森が 
わたしのなかで脈を打っている


      2

ボールペンの先が 掌に刺さった
痛いと思わず声をあげた
わたしには 痛みを感じる理性が残っている
この意識の地平という
水底の断崖には 願望とやがて忘れ去られるかなしみが
渦を巻いているのだろうか
わたしは ふたたび戻らぬ病棟を
何度も振り返ると 
手を振り 
虚空に眼を泳がす少女が 
夜ごと こころの眼窩に宿るが 
少女の手は わたしの胸に繋がることはない
その砂のような味に わたしは 声をあげて呼ぶこともできない
喉の奥に 固い痛みが 棘のように 走るが
こうして 眠ろうとしている時間に
いつも
書架がしずかさを饒舌に語りはじめる
きょうは
三段目の墓標は 背表紙が いつも違う顔をして 
煌びやかに 飾り立てている

嬉しいことも そして かなしいことも




幻惑―― 逆光の冬の   
    

風が一度もやまない場所を知っている
子供のときのように
ぶきように草笛をつくった 
それから 青い空にむけて 吹いてみても 聞こえない
突風が 
やめることなく わたしを叩いている
おもわず 高圧線の鉄塔のふところに 
身体をいれて 逆光線を顔に浴びれば 
わたしの身体から 黒いぶよぶよになった影が離れていく
でも 不思議だ この鉄塔のなかは
父の遺影 幼いころの家族写真 母が赤子のわたしを抱いている写真
父と二人で撮った大学の入学式の写真などが
一面 埋め尽くされている

広々とした河川敷なのに
不似合いな 風鈴の音がする
その方向をむくと
長くつづく土手の上の道端で
黒い帽子を被り
グレーの分厚いセーターを着た男が 立っている
右肩を落として 少し傾いている
右手には 傷を負っているのか 血が流れている
血はズボンにたれている
男は その傷を手当てするでもなく
眼は虚空を見ているように ぼんやりとしている
男の傍を通り過ぎるものは 何人かいたが
その異様な風体に 誰も気づかない

別れを惜しむ 寂しさのように
草を踏む音が聞こえた
何者かが近づいているのか

今まで気がつかなかったが
いつからか
男が かなしいほど
鋭い眼を見開いて わたしをじっとみているのだ
怖くなり 反射的に
思わず眼を瞑り 視線を避けた
でも そのままでいるのは もっと恐ろしく
手に力瘤をいれて
思い切って
眼を見開き 男を睨み付けた

土手の上には 誰もいなかった
若いマラソンランナーが 男の居たうえを走り去っていく

ときどき 見る幻覚なのだろうか

わたしは 風に飛ばされそうな 黒い帽子を被り直してから
買ったばかりの グレーのセーターを着た肩を狭めた
凍るようにとても寒いのだ
気がつかなかったが どこかでぶつけたのか 
右手から血が流れている
あわてて ハンカチで止血をした
指をなめると 苦い味がした
胸のなかに 糸のように絡まりつづけた
数滴の苦さかもしれない
さっきから わたしの身体が空洞をつくり
うなりをあげて
風を通している
顔が引きつってくる そして 視界がぼやけてくる
冷たい雨が降っているわけではない
風が容赦なく わたしの顔を 叩いているからか
わたしは 風に折れた草のように
鉄塔から 
勇気を出して 最初の一歩を出した
そして 思い出したように
土手の方にむかって歩き出した
傾いている右肩を
懸命に直しながら

遠くで 市役所の 迷い人の放送が  
スピーカーから流れている


所属についての二つの詩

  前田ふむふむ

所属

上司が口を開く
ここがあなたの席です
自由に使ってください でも
その机のなかや 本棚の上にはとても大切な書類が入っているから
触らないようにしてください
しかし 書類に触れようにも 
机の引き出しには 鍵が掛かっていて開かなかった
机の上には 半分以上が 上司の封をした書類で
山積みされている 前も良く見えないほどだ
両肘を机の上に置くのがやっとだった
それを見て 上司は
少し不便かもしれないけど しんぼうしてください 
と しずかに言った

わたしは 一か月前から この職場に異動してきたのだ
わたしの仕事は 上司がいう雑用的なことを淡々とこなすことだ
何も用がないときは その机に座り待機しているのだ
でも そんなとき 大好きな小説を読むことは許されない
わたしの書類である たった半ページが一日分の業務日誌と 
もう ほとんど合理的ではない時代遅れの 業務のマニュアル本があるだけだ
わたしは それを ぼんやりと眺めて過ごすのだ

わたしは 長い間 慣れたやりがいのある事務職を務めていたが 長い病に会い
長期欠勤を余儀なくされた
その結果
この会社で一番きつい肉体労働の職場に回された
もともと 頑強ではないわたしは 一年で頸椎と肩を壊して
先月 大した用のないこの職場に 配属されたのだ
昼食の時 食事をしながら思うのだが 
あのきつい肉体労働のときも 自由に使える自分の席はあった
いまは
この会社で パートを除けば 自分の机を自由に使えないのは
わたしだけだと分かってくると
食事が喉に痞えて 眼がしらがあつくなる

ある日 上司が いまわたしの机が書類でいっぱいなので
あなたの席を貸してくれないですかと ものしずかに言った
わたしは この職場でみんなが共有している 着替え室の
畳の上にある小さなテーブルに移された
今は二月なので 
効きの悪い暖房器をつけた
わたしは 午前中で終わってしまう簡単な仕事を片づけた後
テーブルのうえで 
誰も見てくれない業務日誌を 振り返りながら見てみる
もう一週間もこうしている

陽が暮れるのが とても早い
チャイムがなると終業の時間なのだ
わたしは 家族という自分の居場所に帰らなければならない
そして いつものように 
忙しく仕事をしたと 明るく振る舞うのだ
わたしは あまりの寒さなので
コートの襟を立て 首あたりを覆い 
普段飾りになっているボタンで止めた





 

十一月の手紙

ひかりの葬列のような夕暮れ
グラチャニツァ修道院のベンチに凭れている
白いスカーフの女の胸が艶めかしく見えた
たくしあげている
黒い布で捲れた白い腿は 痩せた大地から 
砂埃とともに はえていた
細い足首は 銃弾の跡があり
青い静脈管を浮かばせて
汚れた簡易なゴム靴で覆っている

掌を上に翳すと
わたしの指の透き間から
薄化粧をした若い国旗に見つめられて バザールが眼を覚ましている
質素な衣装に覆われた人のなかを 牛が一頭 通る
その痩せた肌の窪みは
喧噪に染まった収奪された地のなかにひろがり
針のようなしずかさを伴って わたしの空隙を埋めている

聖地プリシュティナのなまり色の空に
吊るされた透明な鐘は
血の相続のために鳴り響き
ムスリムの河の水面に溶けている
もうすぐ雪が訪れて
大地の枯れた草に泣きはらした街は 鐘の音を
しわの数ほど叩いた鐘楼の番人ごと 凍らせるだろうか

眼を瞑り もう一度、掌を翳すと
中央の広場が 犠牲の祭りで賑わっている
笑顔で溢れる
編物のような自由という言葉にかき消されて
あの白いスカーフの女は 
冬になれば
傷口を露出した足で
二度と姿を見せることはないだろう


親愛なるあなたへ
十一月は凍えるみずうみのようです あなたは 自由という活字の洪水によっ
て 固められた海辺で 打ち寄せる波と 波打ち際を吹き渡る風に よそいき
の服装を着て 今日も屈託のない笑顔で 戯れているのですか あなたが話し
てくれた高揚とした朝の 高く広がる鳥の声は 砂漠のように霞んでいます 
振り返れば せせらぎは見えなくとも 胸の平原を風力計の針を走らせるよう
に わたしはわたしらしく みずの声を聴いたことがあったのだろうか 便箋
に見苦しく訂正してある 傷ついた線は 言葉を伝えられなかったわたしです
 夕立のなかを往く傘を持たない わたしの冷たい両手です 吹雪のなかで 
泣き叫ぶ手負った雁のように 震えるうすい胸は 春の水滴に浮んでいて 枯
れないみずうみを求めているのです


いつまでも 同じ色の遠い空が
しずかにわたしを見ていた
某月某日 正午
砂煙をあげて 豊かな日本語を刻んだ小型ジープで
五つ目の浅い川を渡った
背中のほうに逃げてゆく 緑と茶色で雑然と区分された灌木の平原
後方から前へと滑らせながら追うと
息絶えたふたりの幼児と 剃刀のような自由を抱えて
狂気する浅黒い顔の女の 凍る眼差しが 
わたしを 突き刺した
女は 泥水を浴びているのか
服が白い肌に食い込んでいる
わたしは 気がつかなかったが
驟雨が車体を叩きつけている
道は 体裁をこわして
霞みをもった おぼろげな混乱のなかから
新しくつくられていくのだろうか
先にある なつかしい国境は いのちを失い
絵具のように流れている自由は
女が辿った靄に煙っている
眼のまえには
白い多角形のテントや箱の群で溢れ
どこにも属することのできない
人々が蟻のように 大地にへばり付き
空の向こうまで続いている


追伸
まもなく、帰ります
言い方を変えれば わたしは 帰る場所があるのでしょう
あなたの空をみるために戻ります あなたが熱望した 瑞々しい渓谷は
荒れたローム層の水底に沈んでいました
きっと 帰ったわたしは
もう あなたと同じ あつい息を 交錯することができない
手をしているでしょう
そして あなたの庭に しずかにみずをやる わたしではないでしょう
 
そちらでは あなたの欲した あの澄んだ空は 
今日も 一面 青々としていましたか


見つめることについての二つの詩

  前田ふむふむ

視線

雨が上がって 朝陽が長方形の車窓から射している
いつものように七時三十分頃 
一番線ホームの昇りの電車に乗り 乗車口の脇に凭れて そとの景色を見ている
車内は満員である
突然 身体が前のめりになり 
急ブレーキをかけた車両は エンジンを切り 止まった
車内の蛍光灯も いつのまにか 消えていて
薄暗くなっている
ぼんやりとしていたが わたしは 異変に はっきりと眼を覚ました
事故だろうか しばらくたっても車掌の連絡放送はない
車内では 乗客は なにも口を発せず 異様にしずかである
気がつかなかったが 下りの電車も止まっている
すれ違うことはあるが 止まってすぐ隣に電車がいるのはめずらしい
しかも あまりに近いので 下りの電車のひとたちが はっきり見えている
乗客は スマートフォンを見ていたり 新聞を見ていたり
つり革を両手で握り 外を漠然と見ている
ふと そのなかで 黒髪の端正な顔立ちの女性がこちらを見ている
いや わたしを見ているのだ
よく見ると 憎しみに充ちたような眼
目線を 全く逸らさずに わたしを見ている
その凍るような眼は 少し含み笑いが混ざり合っているように 見える
わたしは初め 不思議で その女性を見ていたが
少しずつ怖くなり 度々 耐えられずに 目線を逸らして見たが 
とても気になり その女性をみてみると
相変わらず わたしを凝視している
どこかであったひとだろうか 全く覚えがない
いままでに 故意に 女性にひどい思いをさせたことがない
それは 自信がある
もしかすると わたしが気づかずに 知らなところで 
とても 辛い思いをさせたひとなのだろうか
いや きっと わたしに似ている男と勘違いしているのかもしれない
十分にあり得ることだ そうに決まっている
でも あの目つきはどうしたことだろう 尋常な形相ではない
しかし あんなに美しいひとに何をしたのだろうか 相当ひどいことをしたのだろう
電車は いつ動くのだ 最悪なのは 下りの電車も全く動く様子がないことだ
もう三十分もこうしている
しかし こんな憎しみの眼で わたしを見ているのだから
誤解を解くために その女性に会うべきではないだろうか
とても そうしたい気分だ
でも 電車が動けば、反対の方向に行くのだから 二度と会えない気がする
ふいに 女性がなにか口を動かしている 
何を言っているのだろう
わたしに言いたいことがあるのだろうか 
相談になるかもしれないから 会って話を聞いてみようか
よくみると 同じ言葉を繰り返しているようだ
となりの乗客は何も感じていないのだから 
たぶん 声を出さずに口ぱくをしているのだろうか
しかし 奇怪な偶然だ
そうだ こういう機会は極めて稀なことなのだから
会って きちんと問題を解決させるべきだ 
そんな思いが強くなる
たしかに 会うことで誤解が解けて 逆に親しくなれるかもしれない

ぐるぐるーと車両のエンジンが回り始めた
消えていた蛍光灯が点いた 車掌の運転復旧のアナウンスがながれる
電車が少しずつ動き出す 
やがて 女性ともっとも近い距離にくると 眼の前で止まっているように
女性の眼は わたしの眼を矢のように鋭く射抜くと 下りの車両とともに 
後方に見えなくなる

車窓のそとは 暗記するほど見慣れた景色がつづき わたしは 朝の陽ざしを
眩しそうにして 全身に浴びると
女性の事しか考えない時間 女性と二人だけの世界という
いままでの車両故障の出来事が 夢物語であったように
これから行く 職場の仕事の段取りを考えている

電車が次の駅に止まると
わたしを 押し倒すように いっせいに多数の乗客が降りると
車両のなかは がらがらになり
そのあとに 子供をブランケットで巻き だっこ紐で抱えた
若い女性が
ひとりだけ乗り込み 相変わらず 
乗車口の脇で 凭れているわたしの 前方の
シルバーシートに座った
徐に その女性は手に持っていた雑誌を開いて 読み始めると
表紙の 女の顔がこちらを見ている


純粋点

     1

今度 眠って それから 眼を覚ましたら
お空で一番ひかる お星さまになるの
パパとママは となりにひかる
ふたつのお星さまよ
ママの横にひかるのが お姉ちゃん

かなちゃんは 一番ひかる お星さまと
眼を大きく開けて にらめっこしています
手を振り ありったけの笑顔をおくります
あるときは
頬を風船のように膨らませて
べつのときには
右目を指で押さえ ちいさな舌をだして
アカンベーをしたり
空の未来と にらめっこしています
  

    
    2

(バラード)      
あの西の空を埋めつくす枯野に 
鶴の声がきこえる 砂漠を描くあなたは
役目を終えた旅人のように 晴れ晴れとして穏やかです
しずまりいくあなたのその瞳をたたえる 夜のみずうみは
いま 爽やかな風のなかを舞い降りていくのです

まばたく あなたは 星座たちの青い純粋点 
その起点をこえて さらさらとあふれる血液の はるか彼方へ
手をつないでこえていく 少年の裸足たち
笑顔がこぼれている 少女の裸足たち
青いいのちが あざやかに無垢の花を咲かせます

やがて めざめる歌が 子供たちから生まれて
星座をひとつひとつ 草花の涙のなかに染めつくすとき
もえる闇の凍りつくよどみのなかで
羽をもがれている無辜の翼に 
あなたが 鎮魂の天の川をかければ
墜落した凛々しい窓が 厳かに浮びあがっていくのです

夜の鼓動に あなたの身篭った赤い鳥が
充たされた透明な空の時間のまんなかに生まれて
三日月の欠けた 雪の湿地をなめらかに瞬いていきます 

孤独でおおわれた岩の海原 
夜空がことばをつくりはじめる境界線
もえだす赤い鳥 
その 波打つ羽根で散りばめた ひかり そして ひかり
あしたにむかって 
いっせいに泳ぎだす銀河のひかりたち

子供たちがいっせいに歓声をあげる 

美しくかたどるあしたを
子供たちは 
雄々しくながめていきます

    3

パパ ママ
お姉ちゃんが 輝いている
プラネタリュームのようなお空で
パパとママとお姉ちゃんに抱かれながら
かなちゃんは 
正しく刻まない 心臓のちいさな鼓動を
精一杯おおきくして
いつまでも いつまでも たのしそうに 
一番ひかる お星さまを みていました
    
    


蒼いひかり――三つの破片

  前田ふむふむ

ピアノのある部屋

頭が金槌で打たれているように痛む
激しくピアノが鳴り響くなかを
二十年前に死んだ父のなきがらを背負って
みず底を歩く
呼気が泡になり 上に次々と昇っていく 
深い暗闇から太陽のひかりに向かって
水草は 引っ張られるように 伸びていて
溺れた獣が生贄となっている 魚たちの狩場に 魚が一匹もいない
そこには 墓碑が林立している墓場のような 
夕暮れを迎えた森がある
その陰鬱なみどりをすすんでいくと
柿の木が庭に立つ
一軒の小ぢんまりとした木造の家がある
玄関のドアを開けて入ると
父は わたしから 浮くように離れたので あわてて手を伸ばしたが
届かず 抱き戻すことができずに 
少し みずのなかを漂ったが
ひとつの狭い部屋で 消えていなくなった
取り返しのつかないことが起こり
とても悲しくなり
動転して取り乱していると
ここはみず底だという意識はまだ あるのだが
いつの間にか 呼気の泡は消えている
わたしは 落ち着くために ゆっくりと呼吸を整えると
そこは
暗く 壁一面に まだらに黴が繁殖し 
湿気が充満し 
重苦しい時が流れている
その暗い部屋の真ん中に ピアノが一台置いてある
長い歳月を重ねた 古い一台のアップライト ピアノが置いてある
わたしはそのピアノをじっと見ている
なぜか 訳もなく みているだけだ
しばらく眺めていたが
無性に 理由が知りたくなり
わたしは過去の書棚から分厚い百科事典を
取り出して調べてみた
百科事典は 五十音順ではなく
使い勝手が悪かった
眼が文字で溢れるほど
長い時間を掛けて 探してみると
「わたしとピアノ」という項目の言葉が載っていた
生唾を呑みこんで 覗くように見てみると
その解説文は全文 黒くマジックで
塗り潰されていた
驚いて 落胆したが あきらめずに
わたしはさらに丹念に 過去の百科事典を調べた
すると
「わたしとピアノについての解説文を黒くマジックで塗り潰した理由」という
解説文が載っていた 
だが その解説文は再び 黒くマジックで塗り潰されていた
唖然としたが 納得できずに なお わたしは更に深く調べようと
「わたしとピアノについての解説文を黒くマジックで塗りつぶした理由を書いた解説文を塗りつぶした理由」を
探して見つけると
これも 全文 黒くマジックで塗りつぶされていた
胸が張り裂けるような 強い鼓動が わたしの全身を覆っていた

鼠色の雲が裂けて ひかりが身体を射し 
わたしは眩しさに眼を逸らした
ソファーから ゆっくりと起き上がると
夏の日差しを受けて大きな黒いわたしの影が 
わたしの前に不気味に立っていた
それはあの大きな父のように見えた
そして、ピアノの音色が―― 
今日も聞こえる
大きな黒い影のなかから 激しく軋むような呻き声を上げ
隘路に迷い込んだように ピアノの鍵盤が
いつまでも
一番高いオクターブの シの音を 連弾している



精肉譚

市場は 朝早くから 
人々の熱気に溢れており
生肉のほのかに甘い匂いが あたりを覆っている
市場の中央にある精肉店では
ガラスケースのなかに
豚肉のブロックが 積み重ねられている
その赤い血を腸に詰め込んだ
ソーセージがぶら下がっている
ぶつ切りにされた鶏肉が 部位ごとに
大皿の上に盛られている
店頭に立っている
親方の威勢の良い声が 路上に響いていく

裏手の狭い作業場では 
家庭の生活を補うために 学校を休んでいる
七人の子供が集められて
手際よく 鶏加工の流れ作業を行っている
眼を大きく パチクリさせた
幼い男と女の子たちは
手馴れた手つきで
一人目の子供は 鶏の首を切り 血抜きをする
二人目の子供は 鶏を熱湯の中に入れる
三人目の子供は 鶏の羽を毟り取り
四人目の子供は 鋭いナイフで鶏の頭と足を切り落とす
五人目の子供は 鶏を部位ごとに切り離し
六人目の子供は 鶏の内臓を取り出す
七人目の子供は 鶏の全ての部位を仕分けする
さあ 笑顔いっぱいにして
一人目 二人目 三人目 四人目
五人目 六人目 七人目
さあ、気合をいれて
一 二 三 四
五 六 七
繰り返される 爽やかな絵巻物
ノルマを全てやり終えると 鶏の血と脂で汚れた手を
手桶で洗った子供たちは 
店の親方から 報酬を貰うと
嬉しそうに街中へ

仕事が終わったから
はやく みんなで仲良く遊ぼう
一人目 二人目 三人目 四人目
五人目 六人目 七人目
本当に楽しいね 面白いね 嬉しいな
一 二 三 四
五 六 七
・・・・・・
あとでもう一回手を洗わないとね
ねえ もう一回やろうよ

夕陽が西空で真っ赤に染まっている



伝書鳩

十二段の階段を昇ると わたしの部屋がある
飛べない伝書鳩が 千羽棲みついている部屋がある
暖かい羽根布団のやさしさよ わたしは癒される
わたしは眠る 千羽の伝書鳩に埋もれながら
わたしの部屋の閉じた窓には 小さな穴が開いてある
外を覗くために 錐で開けた穴がある
千羽の伝書鳩は いつも穴を覗いている
穴の向うには 疲れ切ったわたしがいる

ああ 午後の海は真冬の嵐のようだ

鋭く尖った岬に 小さな古い灯台がある
岬の灯台には 激しい波しぶきを被った
細いジグザグ道を行かねばならない
その道は 途中 いくつもの寸断された溝があり
誰も行くことができない
更には 灯台の窓は
悉く 内側から 頑丈な板で塞がれて
釘で打ち付けられていて 
なかを見ることが出来ない
でも わたしは行ったことは無いが
灯台に住む美しい少女を知っている

一度だけ 恐る恐る部屋の小さな穴を覗いたとき
少女をみたことがあった

細い絹を纏っただけの 裸体だった

灯台が月の光で海に浮き上がって映る 穏やかな夜
わたしは 高まる心臓の鼓動を握り締めながら
部屋の小さな穴を覗いてみた
すると 灯台から 窓板を勢いよく突き破って
血だらけになった 千羽の伝書鳩が飛び出し
夜の海をいっせいに駆けていった

海はすべて 伝書鳩で埋め尽くされた
     
十二段の階段を昇ると わたしの部屋がある
わたしの部屋から悲鳴に近い泣き声がする
わたしは 今日は手紙を読んでいる
昔 一度読んで
長い間忘れていた手紙を 読んでいる
隔離された結核病棟の女性が
黄ばんだ古い紙の上で
空しく絶望の声を上げていた


蒼い微光

  前田ふむふむ

    

     1

うすい意識のなかで
記憶の繊毛を流れる
赤く染まる湾曲した河が
身篭った豊満な魚の群を頬張り
大らかな流れは 血栓をおこす
かたわらの言葉を持たない喪服のような街は
氾濫をおこして
水位を頸の高さまで 引きあげる

これで 歪んだ身体を見せ合うことはない
徐々に 溶解していく、
水脈を打つ柩のからくりを知ることはないだろう
唯 あなたに話し 見つめあうことが
わたしには できれば良いのかもしれない

見えない高く晴れわたる空を
視線のおくで掴み 仄暗い部屋の片隅で
両腕で足を組みながら
そう思う

    2

冬の朝は とてもながい
しじまを巡りながら
渇いたわたしの ふくよかな傷を眺めて
満ちたりた回想を なぞりながら
やがて訪れるひかり
そのひかりに触れるとき
ながい朝は終焉を告げる
そこには 恋人のような温もりはないだろう

あの 朝を待つ 満ちたりた時間だけが
恋しいのだ

    3

無言の文字の驟雨が 途切れることなく続く
覆い尽くす冷たい過去の乱舞
わたしは 傘を差さずに ずぶ濡れの帰路を辿るが
あの 群青の空を 父と歩いた手には
狂った雨はかからない
やがて 剥がれてゆく 気まぐれな雨は
蒼いカンパスのうしろに隠れて
晴れわたる裾野には 大きなみずたまりをつくる

わたしのあらすじを 映すためだけに
生みだされた陽炎だ

     4

わたしは きのうがみえる都会の欠片のなかを
隠れるように浮遊する
モノクロームの喧噪が音もなく流れる
その沈黙する鏡のなかで 煌々と燃えている
焚き火にあたり ひとり あしたの物語を呟いてゆく

  八月の船は 衣を脱いで 冬の雪原をゆく
  二台の橇を象る冷たい雪を 少年のような
  孤独な眼差しで貫いて
  瓦礫の枯野に うすい暖かい皮膚を張る

  熱く思い描いた経験が
  あなたの閉ざされたひかりを立ち上げて
  新しい八月には たゆたう枯れない草原を広げる
  わかい八月には 約束の灯る静脈のなかに
  あの幼い日に夢で見た美しい船が
  今日も旅立っていく

     5

忘れないでおこう
たいせつなものを失った夜は
なぜか空気が浄らかに見える
世界が涙で 立ち上がっているからだろう
走りぬける蒼い微光のなかを
立ち止まっていく
忘れていた悔恨の草々
静かに原色が耳に呟く
「言葉は聞こえるときにだけ、いつまでもそこにある。」

鳥篭のなかの唖のうぐいすが
          激しく鳴いた


友人Aの心理

  前田ふむふむ

街はずれの小さなアパートに
だれにも会うことを拒み ひとりでさみしく暮らしている男Aがいる
何故かといえば 
ひとりで孤独にいると 決して 起こることはないのだが
都会の人ごみにいくと 
必ずと言ってよい 奇怪な現象を眼にして
その日は 一日中 震えて過ごさなければならないからだ

友人Aが重い口を開いて 不思議な話をする
初めて起きたのは 二十八の頃 会社帰りの事だったという
頭が削れているほど傷を負い 血まみれになった若い女が
ソフトクリームを頬張る 無邪気な子供の手を引いて 
駅前の横断歩道を渡っていたという
あるときは スーパーの前に屯している十代の子供たちを
見ていると 円座して何かを食べている
よく見ると二 三のパックをあけて 豚の生肉を食べているのだ
いかにも美味しそうに どちらかというと
貪っているに近い
別の話では 繁華街のごみの回収置き場で
頸部にナイフが刺さっているままの 蒼白い顔の男が ごみに凭れるように
ぐったりとしながら 低い声で経文を唱えている
見えないのか 多くの通行人は素通りするが
あまりの異様さに その男に近づくと 薄笑いを浮かべた

頻繁に ありえないようなことが続くので
過労のためか あるいは精神に異常をきたしているのか
心配になり 心療内科 脳外科で診察してMRIで調べてみたが
とくに異常は見られず 医師は 過労による一時的な幻覚だろうと
薬を処方してくれた しばらくすれば 幻覚はなくなるという

けれど その後もいっこうに 症状の改善が見られず
あるときは ビルからひとが飛び降りるのをみて
近くに来てみると 道路に叩きつけられて 息絶えていた
だが 大勢の通行人は 誰も気がつかない
死んだ男の顔をみると 自分の顔だったという

Aは 本当におかしくなったと泣きながら話すのだが
その真剣さに わたしはAが気味悪くなり 同時に 気の毒になったが
どうすることもできない 
こうして一人でいる方が 精神病院に入れられる心配もないのだから
良いかもしれないし ありきたりの慰めの言葉をいって
Aと別れた

帰りの電車に乗るために ホームまで来ると
電車が来るというアナウンスがある
ふと 前を見ると 線路のむこう側にひとが立っているのだ
何をしているのだろうと思っていると
電車が入ってきて 男の姿を遮った
わたしは 慌てて電車に乗り 反対側の窓をみても 誰もいない
というより そこにはコンクリートの壁があり 電車と壁の間に
ひとの入るスペースはない
もしかして 轢かれたのだろうか でも事故の連絡放送がない
わたしは 確かに見たと思ったが
事故放送もなければ 他の乗客も 何か変わった様子はない
気のせいだったと 無理に自分自身に信じこませて
窓から、壁を怪訝に 見ていた

わたしはAの話を聞いた後だったから この出来事を
錯覚として見たのだろうか
でも 一瞬だが 確かにいた
心のなかでは いまでも間違いないと思っている
もしかすると 無意識にではあるが
不思議な出来事に ひとは 誰しもが 遭遇しているのかもしれない
こんなにも多くの人々が生きているのだから
十分にあり得るだろう
ただ 常識的にあり得ないと思う心理が 無意識的に矯正を加えて
なにもなかったものと思うのだろうか
Aはずば抜けて 頭の神経が鋭敏だから 意識の上でそれが見えるのだろうか
そんなことを考えながら 歩いていると
突然 雨が降ってきたので わたしは常備している傘を
カバンからだして差した
大粒で降る雨のなかを 救急車がサイレンを鳴らして
過ぎていった

 


速度

  前田ふむふむ


寒い夜である
ベッドに横になる眼の前を 
電気ストーブが燃えている
それは
しずかに 明るさを 放射して
わたしの胸のおくに浸みわたっている
そこには 何も隔てない 
穏やかな 共存がある

けれども
調和された 穏やかさは いずれ飽きてくる
思考は 常に外部へ
弱く点る頭上の
蛍光灯のひかりと 電気ストーブが
交錯して
電気ストーブの裏に 小さな黒い影をつくる
そして
わたしは みえていない影のある
うら側を思考している
そこから流れてくる意識は
電気ストーブ全体を覆い
わたしの全身を埋め尽くそうとしているが
そこには 決して届きそうにない
距離がうまれる

だが 
影のある電気ストーブに距離を感じるのは
視線という
二点を結ぶ 空間をもった 
線分があるからではない
どこまでも対象と溶け合おうとして
叶えられない
速度があるのだ

しずかさのほかに
影は なにも応答することはない 
答えを捜しながら
わたしが 何かを求めているうちは
めらめらと燃えている 
電気ストーブと影は
つねに わたしの速度に 
押しつぶされている

しかし 夜も更けて
わたしは 眠くなり
意識することを 諦めて
まどろみに耽るとき 
わたしは速度を失い
夜の闇と共存し

距離だけを持った
一度 記憶された
電気ストーブは
同様に 夜の眼に包まれ
ひとり
いつまでも 影をつくり 
赤々として 
完成された 自由を獲得する


 


あまのがわ 

  前田ふむふむ

   


換気扇が 軋んだ音を降らす
両親たちが 長い臨床実験をへて
飼い育てた文明という虫が 頭の芯を食い破っている
痛みにふるえる
今夜も 汚れた手の切れ端を 掬ってきた
うつろな眼で アスピリン錠剤をあおる

・・・・・・

痛むこめかみのなかの暗闇から
         歪んだ閃光を浴びて

動いている
わたしを氷山に葬るまなざしで
巨大なビルが キリンの群をつくり 動いている
生きているものは つねに声を
閉じられた咽頭の脈動を埋めた深みで
震わせながら
剃刀の器を瞳孔のなかに浸して
たえず 動いている
  ――――遠く遅れてゆく わたしの視線

動かないものは あすには 忘れられて
思い出という柩のなかに
石鹸の泡のように 仕舞われていくだろう
暗闇のなかで その化石にひかりをあてて
感傷に耽る地表にだけは 秒針は止まっている
その透明な 真新しい休息を
動いているものが 踏み固めていくのだ

急ぎ足で ビルに迷い込んだ 一羽の椋鳥が
サバンナを逃げ惑う シマウマの脅えた眼に
飲み込まれまいと 慌てて ときの歪に身をかくす
見上げれば 原色の空は
突き刺す言葉を 起立させている

動いている
わたしは 弓矢の姿勢で 動かなければならないのか
はたして わたしは ほんとうに 動いているのだろうか

動いている
傷ついた言葉の断片に
湧き水を口に含んで 微笑むあなたが
無数の星となって
わたしの胸のおくを 流れている
            生まれている
               死んでいく

・ ・・・・・・

喉が渇いて 熱があるようだ
音も無く 二つ目の閃光が
         濡れている眼を突き刺す

噎せ返る草のにおいのなかを 躰をしずめて歩く
「父と母が たどたどしい足取りで
やや うしろを歩く」
草は波をつくり 寄せては還して
塩からい汗を吐きだす夏を 加算しながら
「姉妹は 白いレースで飾ったスカートを着て
                 やや 前を歩く」
腕と足に絡み付いてくる草に 躰を裂かれて
わたしは 風に靡く葦のように
口から気泡を吐いて 草の海に たおやかに
溺れている

洗濯物を干す竿が 飛行機雲と平行に引かれている
かわいた手触りで ひかりを集めてある
なだらかな丘陵が 白い芽吹きに包まれて
かつて あの虹の掛かっていた
一面 恋人の胸のようなところに――
あたたかい風が 仕舞ってあるのだろうか

私信
「あなたとの約束は 守れそうにはありません
    きょう やはり たいせつな日です
       雨が降っていますが
   あの草のにおいのするところに行ってまいります」

・ ・・・・・

しばらく なだらかな素数の羅列が
    軟らかくなった脈拍の上に引かれる
       その最後尾を 三度の閃光が通り過ぎて

     ・・・・・

雨は 蟻の隊列にも 休息を与える

だから 弱い採光を ステンドガラスから灯して
講堂は わたしに 赤々とした呼吸の滑らかさを与えて
流れるみずいろの序奏のために
躰を丁寧にたたんでいる

座席に漂う 青く骨ばった息つぎ
眼に映る もえあがる新緑に充ちている春が
わたしの手から 滲み出てきて
込み上げる高揚を 口に切れば
かわいた声は 全身の座席に 立ちのぼってくる

講演台には ガラス瓶の水差しが 中央に浮びあがり
あなたの亜麻色の髪が 水差しのなかで
雨に濡れている
その 止まっている水滴のむこうに
瑞々しい言葉の廃墟が 広大に走り
きらきらとひかる あたたかい
あまのがわが 視える


夢の経験

  前田ふむふむ

        


遥かに遠くに満ちていく 夢の泡立ち
その滑らかな円を割って
弱くともる炎
最後のひかりが 睡眠薬のなかに溶けていく

みどりで敷きつめられた甘い草原
潤沢なみずをたくわえて
豊かさを誇示する地肌にひろがる
セイタカアワタチソウの群生のなかを
恋人を失くして
自嘲するピエロのように踊る
わたしの幻影が かなしく背を向けて
うな垂れる

夕照がしみる水槽のような寝室で
空白のこころを埋めるものを 
とりとめもなく捜す
茫々とした夢の荒野から
掌で 溢れだす記憶のみずを汲み上げて
そこから 零れていく稜線を眺めると
わたしは 予約のない夢のなかを
泳いでいたのがわかる
おもわず 夢の捨て場所に立ってみても
暗闇はかたく わたしの手を
見慣れたなつかしい場所に 
押し戻すのだ

生きた長さだけ かわいた瞳孔を
夥しい夢の破片が洗う
閉じたこころが寝返りを打てば
夢の十字路が 砂塵を立てて
見え隠れする

かすかに見える
世界の弁証法をうたった宴が
行われた木に
逝った父が立っている
溢れる笑顔を浮かべて
わたしは 巧みな織物のように 流れる父の笑顔を
始めて見たのかも知れない
駆け寄って 父に話さなければならないだろう
そこには 父もわたしも 二度と行くことは
できないと
凍るようなわたしの手は 父の笑顔を切り裂いて
灰色の葬祭場に ふたたび運ぶのだ
わたしの手は いつまでも血にまみれている
父を葬った 洗ってもとれない鮮血の跡をなぞれば
この口語でできた時代に浸る
法悦の声がささやく
せせらぎが薫る みずの音をたてて
途切れることなく 優しさを滲ませて

こうして 古い砂漠に
垂直する貧しい雨の流れが
ふたつあった夜は
わたしの背中を 過ぎていく
振り返ることはない
綴りこまれた かなしい夢の波紋は
ひろがり わたしの骨になって
わたしは どこまでも遠い夢の欄干を見つめながら
みずのように流れている
忘れられた夢の都会のなかで
銃弾のような棘を抱えて


喪失―失われるとき    

  前田ふむふむ

見送るものは 誰もいない
錆びていく確かな場所を示す
冬景色の世界地図を
燃やしている過去たちが
東の彼方から孤独に手を振る
知らぬ振りをする眼は 遥か反対を伺って
不毛な距離をあらわさない
すすり泣く静寂のさざなみが
過ぎていく春の揺らぎのなかを
固まる 真昼の荒野で瞬いていく

むかえるものは 誰もいない
絶え間なく律動する 縮まりいく そして絶えていき
砂粒へと綻びる 
帰りのない飾り立てた一本の直線の道を
過ぎていく人々のざわめきで塗された気配と
白い木の葉が落ちる
透明な街路樹に差す光線との
空隙のなかを
止め処なく走り抜ける暗闇の青さが
冷たく切り裂いていく

わたしが 決して語ることの無い
この失っていく砂漠のような時間のなかを
語り続けている 繋いでいる そして繋がっている
汚水と蒸留水の混沌で満ち溢れた
思惟の海の岬のふところで
折れた翼を精一杯に張って 飛び立つ海鳥たちの
鮮烈な讃歌が聴こえる

あの 霞みゆく緑の月を 打ち落とせ
あの 溶け出した黒い太陽を 打ち落とせ

金切り声を上げたばかりの海鳥が
見えない時間のなかを 朦朧としながら
喪失した痛みを数えて直立しているわたしの背中を
無造作に撫ぜていく
ああ わたしはひとりで 吹き荒ぶ断崖で
孤独に佇んでいたという現実が
鋭い尖塔のように
青々とした空に突き刺さっている
わたしは溢れ出す灰色の海で号哭することだけが
許されている
曳航される廃船の姿を晒して
今 世界が悲しく死にいく夜を歩いている


花について三つの断章   

  前田ふむふむ

 1

真っ直ぐな群衆の視線を湛える泉が
滾々と湧き出している
清流を跨いで
わたしの耳のなかに見える橋は 精悍なひかりの起伏を
静かなオルゴールのように流れた
橋はひとつ流れると
橋はひとつ生まれて
絶え間なく うすく翳を引いて
川岸に繋がれた
度々 橋が風の軽やかな靴音を鳴らして
街のあしもとで囁いていると
あなたは 雪の結晶のように聡明な純度で
橋のうえから
ひきつめられたアスファルトの灼熱のまなざしを指差して

「砕かれた石の冷たさは 一筆書きの空と同じ色をしていた」
(人は言うだろう
(過去が 垂直の心拍を一度だけ
(小さな掌ににぎる あまのがわをめざした と

それに飽きると ときには 暑さをしのぐ
陽炎の風鈴を並べて
わたしを 
赤い蜜月の夢のなかで浮かぶ しなやかな欄干に誘う

誘われる儘に 橋を渡ろうとすると
あなたは 冬に切り出した花崗岩の巨石を積んだ
瓦礫船を横切らせる
とりわけ 翼のように広がる波は
いっしんに みずおとを わたしの胸に刻み付けるが
一度も 波たつことはなく
悠揚な川は すでに みずがないのだ

ふるえながら 戸惑っていると
乾いた頁が剥がれて 題名を空白にした詩行の群が
交錯する河口の風のように
わたしを吹きつける
心地よい 湿り気が聴こえる

あれは 熱望だったのかもしれない
槍のように胸を刺した 約束だったかもしれない

フクジュソウの花が 
わたしの身体を足元から蔽い
一面 狂おしく咲いている

  2

愁色の日差しが川面を刺すように伸びて
眩しく侵食された山を
父の遺影を抱えてのぼった
その抱えた腕のなかで
わたしが知る父の人生が溢れて
暖かい熱狂と 冷たい雨のふるえが
降下する
滲む眼のなかに 黒く塗りつぶした
五つの笑顔を束ねれば
遺影に冷たいわたしの手が やわらかく
喰いこんでくる

青い空は、望まれなくても
そこにあった
望まれたとしても――

季節を間違えた向日葵の群生が
右に倣い 左に倣い
つぎつぎと 花を咲かせている

   3

落陽を忘れて――
青い空
朝顔の蔓が 空をめざす
   生をめざす 死をめざす
本能をほどいて 十二の星の河を渡る間に
抑えられない曲線をのばして
石の思想を弓のように折り
狂いながら
シンメトリーの道徳的な空白を埋めている
やがて 若さを燃やし尽くして
流れる血が凍るとき
底辺だけの図形的な土に馴染み
跡形もなく 身体をかくす
それは――
植物は 人の欲望に似ている

朽ちていった夕暮れで飾る終焉も
すべてを見届けて 飛び立つ梟も
ふたたび 朝の陽光とともに佇む 黎明が
いっせいに芽吹くとき
渇望する書架の夢は 
途切れることなく
みずのにおう循環を
永遠のなかで描いているのだ

その成り立ちに 死という通過点は
あの稜線に沿って放つ
ひかりの前では 一瞬の感傷なのだろうか

花壇が均等に刈られた家では
喪中を熔かして
家族が死を乗り越える午後に
鳥さえも号哭して
すべてのあり方が 過去のなかの始まりを見据えている

その行為は 死者のために有るのでは無い
――説明的な文脈がすぎる

庭――
勢い良く若さを空に向けている
あかみどりのつらなりに
白い波が 断定の傷を引く
椿 金木犀 さざんかの木が包帯を巻きながら
    包帯を切る 訃報の鋏は
庭のすべてのときを繋いでいる

新しい空に向けて
気高くりんどうが 一輪 生まれた


飛べない時代の言葉から―― 森番

  前田ふむふむ

       

    1   街の――

分厚い雲間から腕が伸びるように 
ひかりが アスファルトをかぶった街路に 
照射し
いつも用心のため 雨傘を携帯する 
きみの 体温は 少し 暖かいだろうか
グレーのランニングジャケットを着た
女性が白い息を吐きながら
速足ですれ違う
枝を折るような朝だ

青い蝶が 断崖を越えていく
夢のような景色が
胸のなかを
棘のように通り過ぎることがある
それは 誰もさわっていない
積もった雪のような希望や 
砂漠のような眼窩を
胸に向かって 射抜いていく
あかるい日差しのように見えるが
とても 大切なものが
泥だらけの地面に落ちて
拾い上げても
もとの形状には戻らない
そんな穴が
火を点けて 燃える紙のように
ひろがっていく

だから
ひとに気付かれないように
靄でかすむ胸のおくに
隠し
それを覆う肋骨のカーブで
牢獄のように
しばりつけ
堪えず ことばごと 失わせてしまう
それはとても苦しいので
わたしは
鋭利なナイフをとりだし
氷のような皮膚に
突き刺し
こわばった肉をほぐしていく
カチとドアの鍵があくように
骨を除けていく
やわらかい空気が
堰を切って 
喉元を涼しくぬらし
呼吸をするたびに
傷口は大きく開いていく
それが
暖かいということか

やけに肉好きの良い
カラス一羽が 車道のセンターラインを
彼此 五分以上
越えたり 戻ったりしている
カラスの足に
布切れが絡まっていて
戸惑っているのか
たどたどしい歩きだ

苛ついた わたしは
センターラインめがけて
小石を投げつけた

カラスは
わたしを睨み付けると
勢いよく 
寒空を飛んでいった


   2  森の――

花弁を剥きだしにして 
白い水仙が咲いている
その陽光で汗ばんだ起伏を這うように
父を背負って歩く

父はわたしのなかで 好物の東京庵の手打ち蕎麦が
食べたい 食べたいと まどろみながら
青い空を見ている

「父さん もう笑ってもいいよ」

心臓の穴を舐めるような 苦痛の病身をもてあまして
一九四一年十二月
丙種合格 徴集免除
日本建鉄・三河島工場に勤務した
うしろめたい空と 同じ空を見ている

うすい雲が貼りついた
あの空を落下するように
雲雀が飛ぶあたり
初夏であるのに 父の葬儀は冬を運んでいた
悴んだわたしの手は 繋がれた家族の手は
父の遺骨に触れ 
病のために その子供のような
小さすぎる軟らかさに 一日を彼岸まで
泣いた

白昼が刺さる わたしの背中で
少し動いている父をきつく抱く
あのときと同じ 子供のような軽さが熱を帯びてきて
わたしは いつまでも
父をおぶっていられると思う

ふいに 海を見たい衝動にかられて
生まれたときから 壁に吊るされている
古い額縁に納まった絵画を――
解体のために錨泊地に向う軍艦が浮ぶ海を
撫でるように見つめる
あの夕陽に見えるひかりは
世界を何度も縛りつけていて 
微動もしない
わたしの冷たくなった性器を貫き
その大人びた海に 黄金色の氷のような砂を塗した
静けさが 毛穴から滲み込んでくる

あのひかりのなかに
わたしはあしたを 見ているのだろうか

眼を瞑ると 波のおとが聴こえる
岬からせりだした浜辺は白く
透明なさくら貝に耳を当てれば
溢れるひかりに包まれた わたしの――
度々 隠れながら視線を注ぐ
薄紙のようなわたしが 
日傘を象る木陰で
寂しく蹲っている

動き出したバスは 豪雨で木が倒れて
渋滞に巻き込まれたようだ
世界の果てにある岸壁まで 灰色に染めるほど
憎んだ 意味を断定する行為を
わたしは 胸のなかで
突き刺さる
鋭利な刃物のような直線を引いていた

バスは混んでいて
探る手つきで
困っている少女に忘れかけた傘の所在をおしえてあげる
造花でない笑顔
気がつけば わたしの暗室に閉じこめていた
暖かい鼓動が 全身をめぐって
両手には もえあがる夏を握っていた

いつものように 携帯電話をひらき
見知らぬ友人を見つめる
わずかに 眼から流れるものがいて
四角い光源を湿らせながら
いくつかの文字列のあいだに
抑えきれない固めた声をしまった

天気予報をみる
窓の外は 雨を窄めているが
ながあめの始まりを告げている
わたしは 明日から
雨に煙る森に入らなければならない


かなしみ 

  前田ふむふむ

   

わたしは みずがない渇いた海原で
孤独な一匹の幻魚の姿をしていたときに見た
色とりどりの絵具を混ぜ合わせたような
漆黒の夕暮れのなかで
朦朧として浮き上がる白骨の黄昏と
共鳴していたかなしみを
無音の慟哭の声を上げて
抱きしめている

赤茶けた砂漠の
絶え間なく変わっていく文様のように
こころは激しくゆれているが
たちまち
凡庸に静まっていく湖面にすがたを変える
その慌ただしき曲折
みずうみには 誰にも知られずに
許されざる過去が沈んでいるだろうか
気がつけば 即興的に濃度が決められている
気紛れな塩水が溶けている
この乾涸びたこころを
剃刀で切り裂いているが
一滴の血も流れない
わたしは ほんとうは 保身の城のなかで
乾いた涙を流しているのだろうか
わたしは 絶望する母親のように
血まみれの胎児を抱いて
強風の吹きすさぶ岸壁の上に佇み茫然としている
だが その赤子こそが 自分であることを
雲に隠れたぼんやりと映る弦月のように
はっきりと認めようとはしない
わたしは 偽りの岩なのだろうか

けれど 冷たい深淵が瞬き 立ち上がる現実を
すべて口に含み 飲み込んでしまえば
こころの壁の 涼やかな水底に浸るわたしは
都会の片隅で
口笛を吹きながら 他人の鏡に映る
自分の青白い顔に
ふてぶてしい薄笑いを浮かべても
霞んでいく瞳のなかの 黒点にある広々とした荒野では
おのずと熱い溢れる涙が
止めどなく流れて落ちている
震える頬に 震える口元に 震える手の中に

今日もわたしは 暗い部屋の片隅で 寂しく
わたしという赤子のかなしみを抱きしめている

文学極道

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