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作品 - 20140809_615_7596p

  • [優]  空洞 - 飯沼ふるい  (2014-08)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


空洞

  飯沼ふるい

仕事を終えて
アパートの玄関を開ける
先日
酔いすぎてもどした
消化途中の言葉尻が
まだ
黒ずんだ上がり框に
飛び散っている

向かいの棟の方から
チリチリと音がする
数日前から
あちらの
共用廊下の照明が切れかかっている

ノイズ混じりの黄ばんだその明かりは
台所の磨りガラスに張り付いて
三角コーナーに溜まった生ごみに
生き物じみた明暗を浮かばせている

「疑似餌」

そんな言葉をまた不快にこみ上がらせながら
わたくしということが
台所を過ぎる
と、
居間の方で
日めくりのカレンダーが一枚
剥がれ落ちた

影がない

斑に白く曇ったシンクの隅で
ひっそりと呼吸する
酸えた匂いは
輪郭の定かでない暗闇を
黴のように
あちこちへ撒いているが
あすこに落ちている日付の方角から
この部屋へやってきた
わたくしには

それに気づくや否や
目の前に
空洞が、空洞という存在があった
見えない、という大きなものが
ぽっかりと、認知された

 (これは虚無感の隠喩かしらん

言葉の滓はなおも
ひくひくと身悶えているが
しかし
わたくしはこの部屋で一人

ゆっくりとこちらへ歩み寄る空洞
わたくしの体は
身じろぎもせずに
捕食される

部屋が
一段と静まり返った
のではなく
わたくしの
 (わたくしの?
なかから
 (なかから?
先程までの
不快な言葉の淀みが抜けきったのだ
沈黙の涼しい時間が代わりにあった
そして
あなたは
いずれこの部屋へ帰ってくる

いつからの付き合いだろう
あなたは
思春期の盛りの夏
部活からの帰路
自転車に轢かれ
側溝の蓋に頭を強く打った

わたくしの
記憶を言った
それから少し経ち
玄関扉が開く
ぬるい気流が
生ごみの匂いを散らす

 (あなたとはわたくしの妄想かしらん

あなたがある
わたくしということが見えない
あなたが見るのは
空洞、
まるで惨劇のように
静かな部屋
そのなかで
あなたの影は
蝸牛のようだった

この狭苦しい部屋の向こうで
空は
愚鈍に延び広がる
冷たい尿が
薄い屋根板を流れる
軒下の砂利を洗う

いずれにしても
あなたということは
蜘蛛の巣のように疎ましい憎悪
であったり
脂汗のようにべたつく性欲
であったり
夕焼けのように痛ましい思慕
であったり
凪のように静かな不安
だったり
つまり
なにひとつわかっていない
だからこそ
あなたということにすがってみる
艶のない髪を撫でる
衰えた聖、その感触
あなた、わたくし、という
なにがしかの境界が裂けていく
意識、あなたの、未遂の

 (あるいはわたくしの隠喩かしらん

遠雷が遠くで鳴っている
カレンダーの新しい一面に
鯨幕が浮かびあがっては消える

これはいったい
どれほどの自我だろう
張りつめた動脈の遡上が
途絶えるまで続ける
口吻
春の色彩に包まれた
死期の味がする

あなたであるものを通してもなお
存在の密度が
ほろほろと
崩れていく

その感じ
それだけが
わたくしということを
強く訴える

これはいったい
どれほどの自我だろう
あなたもまた中指から流線型に形を崩し
気流に溶けはじめる
もとより気流だったのかもしれない
わたくしがいまここで空洞としてあるように
とすれば
もう誰もここにいやしない
わたくしとか、あなたとか、
そのような形骸を掘りこんだ
覚えていない日々の連なりが
空洞に包まれて
延長された命日だけが
過呼吸気味に息吹いている
百年の孤独とはよくいったものだと思う
これが
収斂していくということかと思う
先日
酔いすぎてもどした
消化途中の言葉尻が
まだ
黒ずんだ上がり框に
飛び散っている
そのまま
なにも残さず
揮発してしまえばいい

雨音は強く
そのなかに
向かいの棟を歩く誰かの足音が紛れていた
閃光は強く
そのなかに
わたくしのうしなはれた影が紛れていた
けれどあなたが風のひとすじになるならば
もう誰もここにいやしない
その為に
向かいの棟の灯りも事切れ
捲れた日付は
とうに
未来からも窺い知れない場所まで
わたくしたちを運んでいる

いつからの付き合いだったろう
眠気にも似ている
意識、あなたの、未遂の
いつも
抱き寄せようとして潰える
火照り
あなたはいたずらに
落ちた日付をひらと揺らしていなくなる
わたくしもまた消化され
ひっそりと、その形をうしなってしまうのだが
それから少し経ち
仕事を終えて
アパートの玄関を開ける
わたくしがいる

文学極道

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