夢うつつというでもなく、ふと日ごろの疲れよりくる眠気に足をとられ、ほんの一瞬目を閉じれば最後、のっぴきならぬ結果を生むと云うものだ。毎朝毎朝、どこに行くともしれぬ通勤電車に体をねじこみ、右も左も沸き立つ人肉に囲まれもみくちにされるしまつ。さながら煮込み饂飩である。せっかく朝起きてしゃきっとした右と左の目玉が、ごったがえしの車内で茹であがってしまう。ぬるぬるになってしまう。ともすれば輪郭がゆるくなって、自分が饂飩のように、饂飩が他人のように思われてくる。人生はごろごろと混ざり合い溶けあいしまいには何ものもしっかりとした自分らしさを持てぬまま電車のすきまからするすると這い出し、そのままレールにこびりついて気づいたら平凡な饂飩のごとき一生涯を終えてしまっている、そんなことまで起こりうるかもしれないから怖い。かかる嘘のようなこともあり得るとすれば、たとえばふと眠気に意識を失ったかと思った次の瞬間、自分がたちまちたっぷりとしたぜい肉を蓄えた、一人のまっくろな牧師へと成り変わっていたとしても、別段に驚くことはないんじゃないかとさえ思う。そしてそれがたとえばわたしの身に降りかかったとしても驚くとかなんていうかそういう意外だなあとかいうふうには感じないんじゃないかなと思う。というかじっさい全然そういうふうに思わなかったというか、むしろ本当の自分を見つけて最高にハッピーな感じである。うわ、これだよこれ。ついに分かっちゃったよわたしは。ある日とつぜんに凡百の月給稼ぎから、凡百の信仰の徒となった、まごうことなき凡百の人間であるよわたしは。
凡百の権化であるよわたしは。
例えばこういう洞察を得ることがある。すなわち、百萬の饂飩たちがわたしの説教を待っており、それは火を見るより明らかであると。というのも風の立たぬところに火は起こらない。つまり、気づけば屋内にもかかわらず一筋の風が吹いている。それは饂飩粉の香りのする風である。しかしそれがどこから吹いた風かは知れない。それが本当にいわゆる風のごときものなのかもじつは一人の凡人の憶測に過ぎない。憶測というのは怖い。しかしともかくその吹いてくる方向にあらがって進んでみよう。ポジティヴに行こう。風は強いが、足取りは軽い。爪先も踵もひょうひょうと飛び跳ねている。一介の派遣社員とて、こんな出自不明のわけのわからぬ風に対してなら立派に仕事を成し遂げるというわけだ。
ふと目を覚ますと、戯れにあくびをする間もなく重たいベッドの掛布団はひっぺがされてしまうのだ。これはつらい。いやいやながら軸のないふらつく背中を二本の頼りない足によってぎりぎりに支え、さあ歩き始めるぞといざ意気込んだところ、肝心の体のほうはといえば、これがうんともすんとも言わぬのだから始末が悪い。それでも無理やりに全身を震わせて、はるか彼方、寝室の出口扉にとうとうしがみつき、手首をくるくると回して戸を開いた。そうしてようやく壇上に上がったかと思えば、もはや息も絶え絶え、説教どころの話ではないのだ。説教のできない牧師なんて、饂飩の吸えないサラリーマンのようなものだ。
生きていくこともできない。
しかも信者など一人もいないのだ。代わりに沈黙ばかりが部屋を埋め尽くして偉ぶっている。日ごろからその身を信仰の道に捧げ、何事も疑うことなく生きてきたというくせに、しまいにはこのていたらく。信者というのも今では流行に関わらざるをえぬというわけだ。よろしい。ともかくありようはこういうことなのだ。わたしはわたしで自分の仕事を全うするだけ。今の今までたまたまそこに信者がいたればこそ、一人空っぽの一室で声を上げずに済んだというもの、こうなれば腹をくくって事をなすのみである。あれこれの道具立てはもはや無用。こうしてある日、狂気の天井はサーカステントのように遠のくのだ。ときに教会の天井のどこかまったくの暗闇から垂れ下がって誘惑してくる白い紐に対して、できることといえばどうしたってただ一つ。それもまことに簡単な仕事。しっかりと首にそれを巻きつけ、のっぴきならぬ用向きに、それ相応の準備を整えるだけのことである。
わたしの白い頸。わたしの黒い頸。天の紐に導かれるようにして、ふらふらと所在ない二本の足を揺らしながら、上へ、上へと昇っていく。信者に見限られた今となって、この身が一寸ほどの球体間接人形へと変化してしまってもなんと文句がいえよう。こうした肉体の過激きわまる変容は、どうやら精神のほうにも少なからず影響を与えるらしい。ちっぽけな身体には、ちっぽけな昆虫なみの精神があれば用は足りるというわけだ。そして他愛もない人間には、やはり他愛もない神程度がおあつらえ向き。左様、わたし自身の顔立ちが今ではいつのまにか神(うどん)の子のそれそっくりとなっている。こうも目鼻立ちがそっくりとくると、よもや信者を失うということももはやこの先あるまい。あとはわたし自身の問題だ。しかし身体は大変に熱い。目がしらは溶け出してしまいそうに煮え立っている。天井の中央にある、あの白熱灯の熱波が、わたしの身体に巣くう毒をあぶり出そうと云うばかり、真面目な目玉をこちらに向けてぎろぎろとしている。まっしろにきれいな、大きな目玉だ。まるであのルドンの妄想した巨人キュクロプスの持つ一つ目だ。ということはやはり、あの目は恋に病んだ目だとでもいうのだろうか。それゆえに熱を帯びているとすれば納得もいくというものだ。もちろん少なくともあの巨大さは、わたしが一方的に小さくなってしまったゆえのこと。いわば嘘っぱちの巨大さ。ところがその嘘っぱちが、わたしにとってはどうしようもないほんとうなのだから困ったものだ。
はっはっは! 頸にかかったこの頼りない紐は、それでも遠慮なしに上昇を続けている。その紐の先で、くるくると身体をねじったり、あるいは両手両足を無意味に伸縮することくらいしかできないわたしは、さながら、神の垂らした疑似餌に食いついた哀れな重病患者のごとき有様である。もはやなすすべなど何もない。それは先刻承知のこと。しかしこんなわたしも一人の神の子なのである。凡人にはそうそう耐えかねるこの灼熱の明かりを背に受け、無用な叫びをあげることは少なくともありえない。どうしたって目前の運命を受け入れるしかない。そんなことは承知の上。これがしかし、あるいは何かその筋の指示によって巧妙にしくまれた謀略であったとしても結果は同じ。おお。あつい。あつい。背中が焼け野原のように無言の叫びをあげている。むろん私の口は、一文字を描いたまま微動だにしない。
あ。耳の穴から火が噴くことがあるとは! 人ひとりの人生というのはほんとうに奇妙だ。ほうれ、ほれ。わたしの背中はとうとう白熱灯にぴったりと重なりあってしまった。つまりはこういうことなのだ。いつのまにか煮込み饂飩たちの叫びが、わたしのはるかかなた下の、これもいつのまにやら忍び寄るように現れた黒い魚の口蓋のような穴ぼこのほうから、耳を弄さんばかりのごつごつとした怒号となって、うなぎ上りに上ってくる。そうか。そうか。これが終末論のなれの果て! ああ! こいつはうかうかとしていた。どうやらわたしはすっかりだまされていた。磔刑というものを、わたしは少しばかり勘違いしていたというわけだ!
脚立うどんにそっと足をかけた二名の子供うどんらによって、ゆっくりと自殺者うどんが下ろされてくる。子供うどんらは顔立ちがまるでそっくりで、はた目からは区別のつかないほどだ。この場合、とかく区別をつけないというのがむしろ実際の理うどんにかなっているといえよう。自殺者うどんの頸にかかったロープは、見ればまったくその役目を果たし終えようとしてくたびれていた。とどのつまり、根元のほうはすでに業火うどんによって頼りなげに黒焦げていたのだ。そして悲劇うどんが起きた。それはまことに突然のことであったが、あながち論理うどんは通っていたようにも思える。つまり天使のごとき二名の細腕うどんが、宙ぶらりの自殺者うどんの体を自らのもとへそっと包み込もうとした間際の、瞬間の出来事であった。何の予兆うどんもなく、白熱うどん灯からとたんに炎が上がると、まるで導火線うどんを伝わる火の子のよう、首吊りのロープうどんを経て、またたく間もなく燃え広がったかと思えば、すでに炎は自殺者一名と子供二名の全身をすっかりと包みこんでしまっていた。そうして三名の体うどんは渾然一体うどんとなって墜落うどんし、この一室うどんの、ニス塗りうどんをされて光沢うどんじみた床うどんの上うどんに、胴部うどんや腕足うどんのことごとくを失った奇妙うどんなシルエットうどんで、三名うどん一様うどんその体うどんをぐったりと寝かせたのであった
ここにいたってようやく目を覚まし首を振るとすぐさま背筋に妙な悪寒を感じたがそれはすぐに身のどこかしら果てへ果てへと沈んでいき代わりに臍から湧き上がってきたものといえばそれはまったくわたしの思案の範疇外より現れたとしか言いようのない恍惚のごとき突拍子もない饂飩であった。が、それもいまでは失くなった心のうちにかすかな残り香を濁すばかりでなんともさみしい。もはや何ものもどんな意味のあるものもすべてわからないということが判然としたときそこらじゅうにぶら下がっている輪っか状の吊皮や、かたちを持ったさまざまな饂飩たちの鋭い幸福の視線がきりきりとわたしの顔をまぶしく彫刻していくように思われた。
乗客の大きな顔が、それを眺めて笑っている。
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作品 - 20140419_520_7406p
- [佳] うどんの想像力 - リンネ (2014-04)
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うどんの想像力
リンネ