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作品 - 20140419_514_7403p

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春を慈しむ

  破片

花冷えという言葉をぐちゃぐちゃに砕いて踏みにじってから一日は始まる。きみはどうだろう。遮光できない薄っぺらなカーテンみたいな霧雨の降るこの日に季節感の損なわれた厚着をしてくる人たち全部、腐って汚らしい色した花弁の下に埋めて踏みつけにして歩いていきたいとそう思ってるんだろ。

爪先の高さに地平線。ずっと変わらない夜明け色の街並みを眺め下ろす。向こうにある何だか知れないただ高いだけの建物へと一足で飛び移る。この上空ではいろんな人たちが墜落していく。大丈夫。空も地面もなくなってる。夜明けの空と街と血管みたいな道路と、同じ色を共有している全てが融け合っていく。彼らは何でもなかったみたいにしてもう一度自分の足で立つよ。空だった場所に。空じゃなくなった場所に。彼ら自身の上に、下に。

まだ自分が喋るべき言葉を探している最中の幼い女の子がきみの頬に触れる。そこはびしょびしょだったけれど女の子は驚いただけで触れた手を引っ込めることはしなかった。大人から見たらひどく拙くそれでも最も強く真っ直ぐな言葉で、高い建物の屋上から飛び降りようとしてる場合じゃないよと言いかけたところできみが寒さに凍えて温かさをせがむような目で女の子の唇を見つめていることに気がついたから、ぼくは初めてきみに手を触れた。手を手で軽く上から押さえるだけのコンタクトが交わされて女の子は消えてなくなった。目の前のか細い金網の柵がとても高く見える。三日ぶりの晴天に温められていきながら凍え続けている。

指の間から抜き取られた一本の煙草を奪い返す。麻雀牌は強く摘むなと教える。埃をかぶらないギターには決して触らせない。この季節には部屋の空気清浄機を毎日連続稼働する。一緒にいる時スマホは見ないでほしいとお願いする。一緒にいる時コンピュータの電源は入れない。映画を見る時はホラーでなくても電気を点ける。

だから、いきなりきみに頬を張られた時、やっぱりな、と思った。

ぼくはどうしても墜落することが怖くて耐えられない。花冷えの季節が終わろうとしている。葉桜が一番乗りを高らかに宣言したら人は新緑に追い抜かれる。光がそろそろ人間にとって毒になるくらい太く眩しくなってきた。若々しい梢に砕かれた光の粒子を吸い込んだ時自殺しようと思った。今なら凍えることはないだろうって思う。ほんとうに唇が欲しかったのはいつもぼくだった。きみはそのふりが上手かったからふりだって気付かなかった。きみの唇じゃなかった。あの時きみを制止しておいてよかった。お母さんと覚えたての言葉を叫ぶ女の子が何事もなく駆けていってよかった。

きみはいつもふりだったんだ。これからはぼくも全部ふりで通す。手始めにきみに手ひどく振られて絶望と失意の内に自殺するふりをしよう。

文学極道

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