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作品 - 20131026_771_7099p

  • [佳]  Re: - WHM  (2013-10)

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Re:

  WHM

たとえば裏通りから近づいてくる犬の嗅覚。遊び飽きた後の野良猫の行方。あるいはドアの閉められた隣部屋。背伸びした銀色のラジオアンテナがつかまえる混声。おじいさんのおじいさん。人のいない家を窓から射し込む光が角度を変えていく日々。いつかあった街。そう、おじいさんのおじいさんが何歳まで生き、どんな表情で笑い、どんな思いで怒ったのか、日常がふと途切れる瞬間、幾度とない夜と朝の静寂のなかで、何を見つめ何を考えたのか。角を曲がった先の、見たことのない煙草屋の小ささや、考えることもなくあったはずのこと。

田舎のおじいさんはもう、ほとんどしゃべらなかった。黒い瞳の視線の先に何を見ているのかも、もうよくわからなかった。黙って傾いたままの背中は、樹木の放つ輪郭に近いものがあった。「点には大きさがない。」大きさがないなら何があるのか?ついぞ聞けないままでいる、おじいさんの背中はおじいさんのおじいさんのことを思い出している。「つねに逆転せよ。」木から落ちる、いが栗が道路の端で割れている。葉が色を変えていく。樹木はすっかり葉を失い、次々に埋れていく白い雪のなかで黒い枝を咲かすだろう。雪の重み、雪を見て雪の含む水分量の違いを言い当てるおじいさんのおじいさんのおじいさんたちの。軒先から延びていくつらら。わらぶき屋根、柱と柱、またがる梁、引き戸、その下に広がる土間、並ぶ長靴。木と土と水の、家屋が辿って来た様式、ある時代のある場所に建ってきた時間。小さな音がずっと響いている。何かが、ゆっくりと軋んでいくせいで。

点には大きさがない。たとえばどこまでも遠ざかっていく舟のように。見渡す限り海、の上にぽつんと一艇浮かぶ舟、そこで深い深い海の上で揺られ始めた途端、地球が闇のなかを静かに漂流する姿が身に迫るように。つねに逆転せよ。あの星々の光で宇宙が満たされないのは途方もない暗さが広がっているからだと、わたしたちは真昼間に目を瞑って、いっせいに街を行進する。ヘレンケラーの手のひら。W-A-T-E-R、触れる指の先が、順番に一文字一文字、なぞる線は折れ曲がり、離れ、手のひらに消えた感触の尾ひれをつかもうと見えない意志で前進する。手のひらに触れた点が、シナプスの端に着火し瞬間疾走する光の条。STARS AND STRIPES。国旗に火が放たれ、ネックの上を躍るジミヘンドリックスの長い指。火が火を呼び、手が手を継承する。だから、わたしたちは目を瞑って思い出そうとする。震える鉄の塊が、ケーブルで機械に繋がれ破裂寸前まで膨れあがる爆発力で空間を裂こうとするように。わたしたちの内側の発光、それが線になって延びるのならば。

狭いくぐり戸を抜けると、仄かにお茶の香りが広がっている。お湯を注ぐ音がし、小気味良い音が束の間続くと、香りが湯気とともに立ち昇り、ほどかれてゆっくりと舞い降りてくる。手を添えると、茶碗は、お茶を含んでそこで奇跡的に立っていた。風で葉の擦れる音が重なり合って続く。伐られたばかりの木の匂いがする。活けられた枝には、目を凝らすと、蓑虫が眠っている。見つけられたこと、見つけられないでいること、続いていくこと、埋れたままのこと、この土地、このとき、今はまだ眠っている誰かが、おじいさんのおじいさんの聞こえない声や、見たことのない夢を見る夢。

文学極道

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