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作品 - 20130829_854_7000p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


Kは家に帰るまでの道のりを知っていたが

  リンネ

Kは家に帰るまでの道のりを知っていたが、決して家にたどり着かないであろうことを予感した。会社の上司であるA氏によれば、こうしたいわば帰宅不全のような状態は現代人特有の珍しくもない病らしく、実際上司の息子のBくんも修学旅行に云ったきりいつまでも帰宅を続けて一向に帰ってこなくなってしまったという。なんだあ、つまらないねえ、君もけっきょく現代っ子なんだ、とA氏が笑うとゆらゆらと笑いが伝染してしまいには同僚みんなが笑っていた。Kもおかしくてたまらなかった。ともかくKはいつものように自分の部署が担当している新製品の試作品の作製や、解析結果のまとめをひとまず終えると、同期のMさんに先に帰ることを告げ、リノリウムの床を甲虫のようにさかさかと滑り、ロッカー室の扉をぶつかるほどの勢いで開き、紺色の湿った作業着を自分の身体からはぎ取った。気分はむしろ踊るように軽やかであった。そのせいであろうか。先にロッカー室で着替えていた先輩のH氏が丁寧に何度もKに向かってお辞儀をしてくる。Kが気恥ずかしく思って、無理やり先輩の頭を素手で両側から掴むと、お辞儀の姿勢のままぴったり九十度で固まってしまった。これは不味いことをしたなとKは後悔したが、顔は嬉々として傍からは反省しているように見えない。ともかく、ロッカーにしまわなくては。幸い、両親が墓参りにいったきり帰宅不全に陥ったと云う一身上の都合で退職せざるを得なくなった、後輩のOくんのロッカーが今は使われていない。そこへ先輩を隠してしまおうとするが、気が急いて無理に押し込んだので自分の腕と先輩の腕があべこべに絡まってしまい、なかなかうまくいかない。それでも丁寧に腕を解いてしまい終わると、やはりKは満面の笑みを湛えて甲虫のようにさかさかと顔面を床すれすれのところまで下ろしながらロッカー室を出て行った。Kはそれっきり家に帰れなくなった。もちろん道順は知っているし、帰る意思もあった。というより今でも彼は実際に帰ろうとしている。帰宅の途中にある。それでも帰れないのは思想の問題であるとKは考えた。電車のつり広告にはこう記されていた。

 『たとえ道を知っていようとも、私は決してコルドバに着かないであろう』

 Kはもっともだと思った。これこそ世の中の真理であろうと思った。むろんKはコルドバというのがいったいどこにあるのか知らなかったし、この言葉がいったいどのような状況で使われたかなど全く想像もつかなかったが、だからこそ得心がいった。気づけばKはどこぞともしれぬ駅に漂着していた。そこは実にすばらしい駅であった。複数の線路に接続しており、駅周辺には大規模なショッピングモールや高速バスのターミナルがあった。そのもっと外側には高層ビルがつくしのように密生していたし、まさに中枢都市という立派な景観であった。Kは往来の人々のあいだを、つま先立ちで体を細くして逆流していくが、K自身いったい自分がどこへ向かっているのか分からなくなっていた。もちろん帰宅中であり、方向としてそれが自宅へ行く道であると云うことは明確に分かっているのだが、思想として、やはり根本のところがどうしても明確でないのである。いっそ、ハンガーのように肩を張って、地面に根を伸ばしてしまおうか、いや、やはりよしとこうかなどと、首を奇妙に傾げて懊悩していると突然、五歩分ほど離れたところにあるベンチに座っていたおばあさんが、羽を広げて街路樹に向かって飛びつき蝉のごとくわめいた。

 『口から、へその緒を通っていく血を吐いている!』

 Kは突然の眩暈に襲われ、吐き気をもよおした。雷に撃たれたように強張った足取りで来た道を戻り、電車に潜り込んで、会社まで駆けていくと、リノリウムの床をやはり甲虫そっくりに滑りロッカー室に飛び込んだ。
 H先輩の頭部が、ロッカーからはみ出して、こちらを見た。
 後輩Oが背後からKに飛びかかった。
 Kは自分の腕を自分の身体に巻きつけられ、脚は蛇腹のように幾重にも折りたたまれ、『しまった!』と叫んだときにはすでにロッカーの中であった。
 鍵の閉める音に続いて、上司Aの歌う声が響いてきた。
 その声はどこまでも響いていき、Kの頭の中で渦を巻いた。

文学極道

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