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作品 - 20130405_947_6798p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ある邂逅

  んなこたーない

 梅雨のあけきらぬ、むし暑い、凪いだような午後である。

 植栽試験場にしのびこんだ私は、整然と植えられた草花の、咲きはじめた花弁に手を触れていた。
 「もうじき満開ですね」
 声がしたと思うと、老女は私のすぐそばまで来てかがみこんだ。
 まだ五分咲きといったところだが、しなだれた葉の色褪せた内側から、肉厚の花弁が濃淡をまじえながら漏斗状に折り重なり、見ていると、かすかな風にも反応するのか、たえず揺れ動いているようである。
 「なんだか生きているみたい」
 「身悶えているのよ。欲望に関しては動物よりも植物の方が露骨なものね」
 老女の言葉は私には耳新しく響いた。精緻な形態となった、欲望の塊。
 「なんていう名前の花なのかしら」
 老女はそれには答えず、にっこり笑うと手近なところから花を一輪むしりとり、素早い動作でそれを口へと運んだ。
 「あら」
 驚いた私の声にも老女は一向に頓着する様子はなく、平然と咀嚼をつづけている。それがあさましい行為に思えて、私はたまらず目をそらした。
 「ごめんなさいね、あさましくて。でも歳をとるといろいろ箍がはずれてきてね、まあ痴呆の一種でしょう」
 老女はうかがう姿勢になったが、その表情には華やかな艶があり、瞳をまぶしげにうるませて、身体にはなお不遜な線が折り畳まれている。
 「退行現象っていうんじゃないかしら。いずれにしたって、はしたないわ」
 「あなただっていまにそうなるわよ。それに言ったでしょう、花は身悶えているのよ、って。綺麗だと思ったなら遠慮なく食べてしまばいいのよ」
 私は苦笑した。
 「そう簡単にはいかないわ」
 「あなたはまだ物事を美化して考えているのね」
 老女は立ち上がると、私をうながすように歩きはじめた。しっかりとした足取りである。

 「べつに美化しているつもりはないわ。私だって五十を前にしてそれなりの苦労はしてきたつもりです」
 それはほんとうのことだった。大きな事件でなくともよい、ほんの些細なことであっても、それが日々積み重なってゆくうちに、いつしか、単純に泣いたり笑ったりしてすませるわけにはいかなくなっているーー、長く生きていれば、だれだってそうした事情をいやでも学ばざるをえなくなるものだ。拠りどころのない感情生活の只中で、それでも負担は新たに増えてゆくばかりである。これではわびしさの入り込む余地もない。
 「やっぱりあなたは弱虫なのね。それで彼のことが懐かしいの」
 「懐かしいというのとは違うわ」
 老女は疑わしげな目で私を見た。嘘をついたつもりはなかった。 

 それは私が学校を出て地方銀行に勤めだした頃のことだから、すでに三十年ちかく前になる。大学の演劇部で一緒だったKから、押しつけられるように紹介された男があって、それがなにを錯覚したのか、私に熱をあげたらしく、そこにKの計算が働いていたことを承知しながらも、一時は私も落ち着きを失ったものである。
 だが、前後をわきまえない男の行動が、当時、すでに浮わつくだけの色恋などからすっかり卒業したつもりになっていた私には、ひどく幼く不作法なものに見えた。いまとなってはそうした私自身の振る舞いにもたぶんに幼稚な衒いのあったことを認めないわけにはいかないが、そのためもあって、私は彼の要求に積極的に答える気持ちになれず、かといってはっきり突き放すだけの理由もなかったので、しばらく曖昧な状態がつづいた。その曖昧さが、あるいは心地よかっただけなのかもしれない。
 「それでどうしたの」
 「どうもしないわ。よくある話。向こうもいい加減あきらめたのか、だんだん連絡が途絶えて、それっきり」
 それがつい二週間ほど前、人伝てに彼がすでに亡くなっていることを、それも連絡が途絶えてから数年もしないうちに不慮の事故に遭っていたことを知らされて、あらためて当時のことが思い出されるようになったのである。いまになるまでその事実を知らなかったのは、なにも私の迂闊さのせいばかりではないが、数十年ぶりに対面する彼の面影は、色褪せたという形容を通り越して、昔を偲ぶといった気持ちよりも、思いがけない贈り物を届けられたような、なんとも応対しかねるものだった。考えてみると、彼との交際は、その後立ち入った関係になった男たち(そこには世間並みの不貞もあった)に比べても、ほんの淡いものすぎず、じじつ私は彼の存在すら長い間忘れていたのだ。
 「そのわりにあなたには色気がないわね」
 聞き終わると老女はせせら笑った。

 私たちは植栽試験場に隣接している県立公園に足を向けることにした。陽はすでに傾きかけて、煙幕のような雲が残照に輝き、冴えた明暗に区切られた広場にはわずかな人影が見えるばかりである。
 「少しは涼しくなるかしら」
 「そうね、そうすればあなたの頭もいくらか醒めるでしょうね」
 「べつに取り乱してなんかいないわ」 
 そこで老女が立ち止まった。つられて足を止めた私の耳元に、老女は顔を寄せると、
 「来たわよ」と囁き、そっと私の背中を押した。
 むこうから青年が歩いてくる。はっとして私は背筋をのばした。

 「やあ、いま帰りかい」
 「ええ。あなたは?」
 「僕はこれから内田さんのところに行って、明後日のオーディションの説明を聞いてこなくちゃならないんだ」
 「そうなの。こんどは受かるといいわね」
 「さあどうだか。とりあえずは頑張ってみるよ」
 それから私たちはふたりそろって歩きだした。しばらくはとりとめのない会話が続いたが、ふたりともためらうような足取りで、目が合うとどちらからともなく視線をそらした。それでも私は男の笑顔がときおり不自然に強張るのを見逃さなかった。
 公園の出口間近になると、男はそれまでの会話を打ち切り、態度をあらためると、
 「やっぱり気持ちは変わらない?」
 と言った。
 私はなにも答えなかった。
 男もそれをうながさなかった。
 「じゃあもう時間だから、行くね。結果がわかったらそのうち知らせるよ」
 そう言い残すと男は通りを渡っていった。その後ろ姿には、これが最後の別れになることなど夢にも思っていないらしい、不確かで、頼りない、未完成な翳があった。

 私は弱虫なのかしら? 
 ひとり残されて、急に心許なくなった私は、返事を求めるようにいま来た道を振り返った。
 いつの間にか辺りは夜闇に覆われ、おぼろげにかすんだ道のむこうに、人影らしきものは見当たらず、じっとり汗ばむ微熱にも似た六月の一日の終わりの余韻が、ひとしきり胸を騒がせていった。

文学極道

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