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作品 - 20130318_744_6778p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


「お客様、お客様

  リンネ

「お客様、お客様、本日は当館にご来場ありがとうございました。映画の上映が終わりましたので、速やかにご退場ください」とアルバイト係員の近藤明美が三度丁寧にアナウンスするが、それでも座席でぐったりしたまま動じず、いっかな退席する気配の見せないケンタに対し、加えて三度「お客様、お客様、本日は当館にご来場ありがとうございました。映画の上映が終わりましたので、速やかにご退場ください」とこれもばか丁寧にアナウンスを繰り返すが、ここにいたってもやはりケンタは鑑賞シートに深く座したまま動じないといった体たらくゆえ、同僚の間でもっぱら生き仏であるという定評をもらい常日頃愉悦することしきりの近藤明美もとうとうこれには業を煮やし、しかし業務中であるのでむやみやたらに声を荒げることもままならず、それでも内面に押さえつけられた憤怒のために声はいきおい大声となり、「おきゃくさまあ……おきゃくさまあ……あ! ……ほんじつわあ……はやくう…あ! はやくたい、たいじょうしてえ……はいい!」と仏顔を化粧崩れの如くに崩しながらにじりにじりと場内の隅に座するケンタのほうへに詰め寄るが、暗がりでケンタが泡を吹いて悶絶しているのを見てとるや否や「ぎやーっ」と反転し、そのまま素っ頓狂な声をあげて思わず後方伸身宙返り二回ひねり後方屈身宙返りしてしまうなどの狂態を演じたのち退場口をくにらくにらして駆け抜けていく、と数秒後、すぐに事情を聞いた訳知り顔の年輩の係員岸田一信がAEDを抱えながら場内にそそくさと駆け込んできたかと思うと、「患者は……患者はどこだ!」とバリトン気味の声音でとりあえず絶叫し、席でぐったりしているケンタを発見すると駆け寄ってまた、「ぉおれが、おれがきみを救う!」ととりあえず絶叫した。岸田はケンタの着ていたネルシャツのボタンを一つ一つ慇懃に取り外すと、さらにわけのわからないふにゃふにゃしたマカロニ文字の書かれたTシャツを、持参した布切りバサミで慎重に切り開いたのち、装置の電極をはだけた胸部の適当な場所に貼り付けてみるが、この岸田という奴、要領を得ぬといった顔でなかなか装置を起動できず、おもむろに両の手に拳固を握りしめたかと思えばぐわんと天井を見上げ悔恨に塗れた体で、「……くそこれまでか、おれには、ぐ、おれにはこの男を……救うことが、でき、なかった……まこ、もこ、まことに無添加、いや無念、極まり、ない……ゆ許せ、許せ、青年よお、青年ようおおおおお……」などと大仰に非劇を演出している手前、AEDは勝手に起動しケンタの体内に電流を注ぐと、ケンタはむくりと覚醒、嗚咽号泣しながら「救急車、救急車」と叫ぶ、が、喉が裂けたような感覚があってけっきょく叫べず、代わりになぜか「スープパスタスープパスタ」「色即是空パスタ」あるいは「君の瞳にパスタ」などという意味のないようなことばをわめき散らし、そのまま数人の係員の制止する声を戦場へ向かう兵士らを鼓舞する類の声援のごとくに気持ち良く受け止め意気揚々と映画館を後にし、それでもいまだ半分意識を失ったままであったゆえ、やはりわけもわからずむやみに映画館近くのハンバーガーショップへ勇み顔で立ち入り、なぜかチーズバーガーのピクルス抜きと頼むところをバンズ抜きと言い間違え、店員は「チーズバーガー、バンズ抜きですね、二百五十円になります」と快活な笑顔で朗らかに答え「あ、すいません、追加でミートも抜いてもらって、コカ・コーラの、ええとコーラ抜きもお願いします!」とケンタが白目をむいて威勢よくのたまえば「かしこまりました。そうすると合計で三百五十円になります!」とやはり快活な笑顔で朗らかに返ずるのであった、であった、であった、などと悠長に三度云っているような暇もやはりなくそのままはやる足で近くの公園まで無心に彷徨、人妻婦人たちが日ごろのうっぷんを晴らすべく愚にもつかぬ世間話などを激烈な勢いでべちゃくりあうのをしかしよく耳をすましてみると、もはや彼女らの会話は内実を失った何やら会話っぽい発話のやり合いに過ぎないものへと変じており「あらそうなの田城さんの旦那さんもええほんとお? そうなのよまあまあそういう加藤さんのとこの旦那さんもほんとそんな感じじゃありませんの? そうよねえ分かる分かる。ほんと勘弁してほしいわよねえ。わたしたちだって羽伸ばしたいわあ。そうよねえ分かる分かる。でもあれじゃあない? あれ? え? あれ? ……あ! え? あれ。あれそうよねえ分かる分かる、え? うんうん、ほんと勘弁してほしいわよねえあれ。分かるわたしもほんとそう思うすごく思うわあって、おほほ。やっぱりあれよねえ、わたしたちって、分かるわよねやっぱり気が合うのよねえ分かるほんと、わたしも分かるほんと、ほんとそう思う分かるわあなんでこんな分かるのかしらほんとそう思う分かるわあ」などと表層的上っ面のレベルにおける意味のない相互理解を認証し合って愉悦することしきりであるのをベンチに腰掛け耳に受け流しながら、砂場におびただしく溢れかえる体長三四尺ほどの童女らの蟻のごとく賑やかで無邪気な戯れをぼんやりと平均的に眺めるなどしていると、うわこれはもしや食物神オオゲツヒメノカミのお告げかなあなどと感得せずにはいられぬほどあまりにも唐突に無性に腹が減った感覚に襲われたかと思えばそのまま空腹的欲望は階乗的スピードで絶頂にまで到達、あわてて先ほど購ってきた紙袋を開き、何やら楽しげなピエロのマークのついたべらべらの包装を取り除いた途端、そこに本来あるはずのバンズが存在しなかったのゆえ、むろんミートも存在しなかったのゆえ、チーズとタレとレタスなどのくにょくにょどもが押さえを失って無残に膝元にぶち撒かれるという状況に至って、ようやくケンタははっきりと意識を取り戻しおもむろに天空を仰いだ。
 快晴、快晴、まさしく快晴!

文学極道

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