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作品 - 20121023_179_6431p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


結婚、とかなんとか

  

 目の前にした風景にはどこまで行っても途切れることのないような海が広がっている、無論水平線によってそれは切り取られているのだが、その切り取り線が余計に永遠と言う観念を頭の中に固定させる。視線を落とすと、砂という言葉の持つ粒子的なイメージがほとんど取り去られた絹のように柔らか気な砂浜が無造作にへこんだり隆起したりして広がっている。
 少しの間――とはいえ時間の感覚などほとんど無いに等しいのだが――が経っただろうか、まるで表情を変えようとしないこの風景を眺めながら男は風が吹いていない事に気付いた、描かれた静物画のような風景にただただ圧倒されながら無意識に右手で額を掻いて下ろすと、丁度腰辺りの高さだろうか、何かにぶつかる、反射的に顔をそちらに向けると、長い黒色の髪の女の子の頭の上に彼の手が置かれていることが判る。
「動きが無くて戸惑っている、そうでしょ?」
「ああ」
 考えていることを読まれたのだろうか、彼は少しく動揺しながら視線をまたもとの方へ戻す、すると砂浜が所々微かに揺れているのがわかる。その砂の揺れの中から、幾つもの光る目が覗いている、赤く、それこそルビーのように煌びやかに。ああこれは、と男は思った、蟹だ、砂の中に隠れていたその生き物の赤い体が砂浜に斑点のように現れる。この時はじめて、砂のその粒子的な特徴も目に入り、視線を上げると、先ほどまではどこまで行っても青いだけだった海に段々に切れ目が走りその頂点が白んでいる。風景が流動を始める。幾らかほっとして、女の子の頭に置かれた右手の感触を確かめようとすると、そこにはただ虚しく空を掴む感触があるばかりだ。
 また、男は額を滴る汗の感触を確認する、これによってそれまで知覚できなかった時間の感触が幾分か現実味を帯びて彼に迫る。焦り、というものを感じていたのだろうか、彼は時間を取り戻してすぐに、額に滴る汗をぬぐうために、そしていつの間にか煌めきはじめた太陽の焦がすような視線から逃れるために、左手を顔に翳す、拭った汗は確かに湿度を帯びて彼に身体の内部もその活動を止めていないことを知らせる。左手を無為に下ろした、再び、腰のあたりだろうか、今度は短かい黒髪の男の子の頭と左手とが柔らかに接触する。
「ここはどこだい?」
「ここはえいえん、そして、こどく、なんてね」
「どういうこと?」
「振り向けばわかるよ」
 今度は、彼は躊躇なく振り向く、そこに広がっているのは先ほどまで目にしていたものとまるで同じ光景だ、太陽までもが。知らぬ間に離してしまった男の子の所在が気になり、視線を落とすとそこにはまたしても男の子の姿は無かった。脚元ではどうやら蟹らしい赤い斑点が体にまとわりつく砂粒を振り解きながら横歩きを始める。
 もう一度振り返る、そしてもう一度、何度か繰り返しただろうか、二つの太陽が網膜の底で重なり合い、波打つ海が四方八方から彼を責め立てるような感慨を呼び起こすのだが、それもいつの間にか慣れてしまった、砂浜では赤く煌めく瞳が無造作に入り乱れている、彼は星空の下でいつだか狂ったように回転してみた時のことを思った。いつだか? それはいつのことだろうか。
 37回目の回転を止めた時、ゆっくりと彼の身体は砂浜に墜落する、はずだったんだけど、しなやかな女のにの腕が彼の腰と首を支えている、しどけなくたわみ落ちる彼の右手と右足、眩い太陽に照らされながら、どうにも不細工なピエタが完成する。女は緩やかに唇を彼の口元に近づける、彼は目を閉じながらも、このロマンスの成就を祈る。

 
 目覚まし時計は本当に鳴っているのだろうか? 予め自分の目を覚まさせるために指し示した7の数字から約2時間、時針が動き続けたことは未だぼんやりとした視界からでも容易に確認することができた。とにかく美里に電話をしなければならない、床に脱ぎ捨てられたままの背広のポケットから携帯を取り出して、発信履歴にずらりと並んだ高木美里という名前をまだ完全には目覚めていない視線で確認して電話をかけた。
「いつもごめんね」
「いえ、部長にはいつもの通り言っておきます」
 美里は丁寧に「失礼します」と告げて電話を切った、つーつー、と耳の中に無機質に鳴り続ける音をぼうっとしながらしばし聞き呆けた。彼女のことだから電話の向こうでも頭を下げているのだろうか、いつの間にか米からパンに変わった朝食を取りながら、ふと気になり寝室に戻って枕に手を当ててみた、もちろん濡れてなどいない。今年の冬の寒さも緩み、開け放しているテラスに続く大窓から、こぞって小学校の朝礼集会にでも出かけるのだろうか、子供たちの甲高い声が静かな居間の中にも響き渡る。子供は嫌いだった、大股で窓の傍まで歩みより思いっきり窓を閉めた、ややもすれば石でも投げつけてしまうほどの動揺を抑え込むように、拳を握りしめて窓の横の壁に自分でも驚くほど激しくそれを叩きつけた、痛みは感じなかった、事実その衝突の激しさに気付いたのはシャツを着る時に確認した手の甲に滲む血の赤さ故で。
 美里とは外で待ち合わせをした、彼女が外回り用の書類を持ってきてくれるのはいつものことだった。会社には居辛かった。
「ごめんね、いつも」
「ちょっとだけ、うんざりしてますよ」
 彼女らしくない台詞だったけれども、彼女が同時にうかべたはにかみが全てを説明しているように思えた。あまり口数の多くない二人はそれきり無言で車に乗り込む。車内でもずっと俯いたまま、流れ過ぎる景色の数々を眺めていた、彼女が時折交差点の赤信号の合間に自分のことをちらりと見ていることには気がついていたけれども。
 真っ暗な画面にぼんやりと浮かび上がるプログラミング言語を前に、狼狽した。これを書いたのが以前の自分だなんてことが信じられないほどだった。結局美里に予め要因の分かっていたのだろう、デバッグを任せて、自分はそれをぼんやりと見つめていた。彼女が自分の直属の部下であることを有難く感じた。彼女は当時のままおどおどした態度は変わらずとも、おそらく技術の伝達には成功したのであろうか、随分と頼れる存在になってくれた。彼女の指導役を始めて一年と半年、ここ三カ月の間に彼女の私に対する態度は驚くほど変わった、ただいきなり親密になったとか、疎遠になったとか、そういうことではなく、彼女は私に対して色々な態度を取り始めた、初めて出来た赤ん坊の対処にどんな母親でも最初は戸惑うかのように。陽が傾きかけていた、上司に業務連絡を送った。
 家でカップラーメンを食べ続けるのにはやはり限界がある、最近一カ月はよく彼女を誘って仕事帰りに蕎麦を食べに行った。しかし、これも最初に誘ったのは意外にも美里の方だった。いつもなら私の蕎麦をすする音だけが響く時間、彼女はとても静かに食べる。
「仕事、出来るようになったね」
「ありがとうございます」
 少々どもりながら答える彼女に少し愛情のようなものを感じたことが私をちょっと動揺させた、その動揺が私を少しだけ自暴自棄にさせたのだろうか。
「美里は彼氏とかいるの?」
 彼女の箸の動きが止まった。
「いませんよ」
 そう答えた彼女に何か決然としたものを感じたけれども、私は気付かないふりをして言ってみた。
「それなら立候補しようかな」
 まるで小説に時折書かれるみたいに彼女の瞳が見開いた、私をじっと見据えて、そして彼女の瞳が一瞬潤んだのを見逃さなかった。私は彼女の心を支配して楽しんでいるのではなかろうか、そんな罪悪感もいまの私には何の効力も無いらしい。
「山村さん…」
 それきり彼女は黙ってしまった。もう夜がそこまで迫ってきていた。私は彼女をアパートまで送って、部屋に戻る彼女をいつも通り見送ろうとしてエンジンを切ったが、彼女は何時まで経っても助手席から離れようとしなかった。
「明日、朝七時に電話します」
 彼女は自分でも思い切ったことを言ってしまったという表情を浮かべながら私を見つめていた。
「ありがとう。だけどわたしも、一応男ですから、そんな甘ったれたことはしてもらえないよ」
 そう言うと、彼女は誰もいない空間に向け少しだけ顎をあげて瞼をゆっくりと結んだ、これが彼女にとっての喜びのしるしだということは一年半の付き合いの中でなんとなく分かっていた。


 目覚めた時に目に映ったのは柔らかな光のシャワー。身を起こすと室の真ん中に設えられたベッドに今まで寝かされていたことに気付く、木でできた部屋、しかし彼はすぐに部屋というよりもむしろ宮殿の中にいるような印象を受け取る、天井には更紗のようなものが穏やかな風にくすぐられて二つの太陽の光をその繊維の表面で踊らせている。彼は眠りに落ちる前に抱かれた女の柔らかいにの腕の感触をもう一度確かめたいかのように両腕で目の前の空気を抱きしめてみせる。すると、四隅にある柱の一つが動いたような気がして、すぐに両腕をほどく、今、太陽は一つしか出ていないのだろうか、動いたのは柱では無く柱の影であることに気付き、さらにその影が軽やかな足取りで自らに近づいていることを確認しながら、その正体はきっと眠りにおちる前に彼を抱きとめた女であろう、と思って少しく後ろめたい気持ちを催したが、すました顔を崩さぬまま迷いのない視線で彼女を見据える。光の加減で足元から緩やかに彼女の身体が現れてゆく、丈は長いが軽そうな素材で出来た黒いスカートの裾が小さく揺れるのに合わせて、肩甲骨まですらりと伸びた黒髪がしなやかに左右している、あの時の女の子に少し似ているような気がする、黒いドレスに身を包んだ身体は自然にすらりと痩せて見える。彼女は穏やかに微笑んでいた、両の手で水の入ったガラスのコップを支えながら、彼がまだ眠っているかどうかを少しだけ顔を傾けて確認しようとしている。宮殿のように設えられたこの室に一条の風が迷い込んで四つある入口にかけられた透明質の布のうちの一つを揺らした、逃げ道を見つけ出したようだ、残りの三つの入口の布が微妙なカーブを描きつつ室の外側に一瞬膨れ上がって、すぐに元通りになった、彼女の視線と彼の視線が重なる。
「喉、渇いていないかしら」
「え、ああ」
 彼は問われると同時に、身体の渇きを感じた、室の外を見やると、やはり砂浜と番った海がどこまでも広がっていて、そこに埋め込まれたようなルビーが太陽からの光を蓄えながら辺り一面に放射している。もう一度女に視線を送る、彼はどこかで見たような気がしたがそれが誰なのかは思い出せない。
「ありがとう」
 そう言って、女の両手からコップが彼の右手に渡る、その際、中の水が少しだけ揺れた。飲み干すとそれは紛れもなく真水であり、彼はこの水がどこから得られるのかという疑問を抱いたが、この砂浜だけの島にそのような疑問を持ちこむようなことはどこか野暮な気がして、何か別の話題を探す。
「子供が、いるのですか?」
「ええ、私の子よ。多分今頃は砂浜で遊んでいるんじゃないかしら」
 視線を反対側に移すと、そこにはあの時の二人の子供が砂浜で屈みあって何やら砂の表面を見つめている。
「もしよろしければ一緒に遊んであげて下さらない?」
「ええ、喜んで」
 彼はベッドから軽く身を躍らせて、砂浜までゆったりと歩いて行く。子供たちは何をしていたのだろうか、と言う疑問は彼らが蟹を中心にして屈んでいることから、すぐに氷解した。
「この赤い生き物の名前は知ってる?」
「知らない。」
 二人は声を揃えて喋った、嬉々とした表情が顔いっぱいに咲いている。彼は「かに」のことを子供たちに教えながら、それが何故ルビーに見えるのかをどうやって説明したらいいのか少々戸惑っていた。
「お好きなんですね、子供が」
「ええ」
 ふと視線をあげると先ほどの女性が日差しに手を翳しながら彼らの方を見つめていた。
「この子がお姉さんで、この子が弟なのよ。あなたにちょっと似ていると思わない?」
 不意の問いに彼は言葉に詰まってしまう、話の途中で突然立ち上がった彼に対して不服を言い表すかのように、二人の子供は彼のズボンを引っ張っている、けれども聞こえる声はとても幸せそうだ。
「私に似ていますか?」
 彼はそう呟いたきり、あたりに散らばるルビーの煌めきのあまりの眩しさの中に自らが永遠に閉じ込められてしまうような錯覚に陥る。


 目覚まし時計は三十秒ほどけたたましい断末魔を上げて、沈黙した。時針はきっちり7の数字を指し示していた。妙な悪戯心が沸いたのだろうか、朝食のパンを取りながら、美里に電話をした、とはいえワンコールで切ったので彼女と話すことは無かったけれども。
 出社した途端、同僚たちが何か驚いたような、労わるような視線を私に投げかけてくる、その中で我知らずと美里の姿を探していた。目が合うと彼女はさっと視線を落としたけれども、彼女が嬉しそうな表情をしていたことは決して見逃さなかった。業務に就く前に、産業医の所によることになっていたので、荷物をデスクに置くとすぐさま足をそちらへ向けた。
「有給休暇はもう残り無いですが、やはり休んだ方がいいのではないでしょうか。」
「会社には迷惑かけてると思ってます。だけど休みたくないんです。」
 私は三カ月前から心療内科にかかっていた、軽い鬱と睡眠障害。そのままデスクに戻ると背広のポケットから煙草を取り出して喫煙室に向かった。同僚は私のこの行為に驚きを感じているかもしれない、というのも私は一年前に煙草をやめたのだった。幸運にも喫煙室には誰もおらず、部屋の真ん中にある灰皿の周りに置かれたパイプ椅子の一つに腰掛けて一年ぶりの煙草に火をつけた。
 知らずと、涙が頬を伝った。一年前の妻との会話がありありと目の前に浮かんでくる。まるで子供のように、嬉しそうに、一年前のその日、私は妻に煙草をやめることを宣言した。「生まれる子供のためにね」と嬉々として私は言ったのだった。「最初の子は女の子がいいね、その次は男の子が欲しいかな」そんな私の無邪気な台詞が今になって痛いほどに自分を絞めつける。白い煙を吐き出しながら、妻がどれほどその言葉に縛りつけられてしまったかを、想像しようとしてみては、それを拒絶するように、眼下に横たわる底の見えぬ断崖のイメージが私を立ち竦ませる、決して、向こう側に行くことなんてできない。四カ月前に、妻は、長女と、子宮を、摘出された。私は、有給休暇を使い果たして毎日病院に通った。けれども退院後、妻は二人の家ではなく、実家で養生することを決めた。「ごめんなさい」妻は私に対してそれしか言わなかった、言えなくなっていた。妻の両親は、実の子のように私に接してくれた、けれども毎日のように見舞いに来ようとする私に、「今はあなたが来ても逆効果だから」と言って、門を閉めた。妻は自殺した。私に宛てた遺書には「ごめんなさい。」で締めくくられた二人の愛の記憶が綴られて、彼女の誕生石のルビーが嵌められた結婚指輪が入っていた。
 喫煙所のドアが開いて、そこには美里がいつもの調子で頼りなく佇んでいた。外回り用の書類を持っているのでおそらく私を呼びに来たのだろうか、だが視線は床の方を見ている、私は涙を裾で拭いながら、美里には私がここで何を思っていたのかわかっているのだろうな、と感じた、美里は涙を拭う私の方は決して見ないようにただただ下を向いていた。
 車内ではいつものように黙っていたが、来年度の配置換えのことを思い出した。もともとは一人でやる仕事だから、指導役もおそらく今年度で終わりだった。
「一年と半年、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」
 そう言うと二人とも黙ってしまった。車窓にゆっくりと白い雪が、風に揺られるようにして落ちて、とけた。そういえば今年一番の冷え込みが、とテレビでやっていた。
「いや、そうじゃなくて、本当にありがとうね」
「いえ…もう大丈夫ですか…ごめんなさい、大丈夫だなんて…」
「大丈夫だよ。ありがとう」
 彼女の言葉を遮るように、私は言葉を吐き出した。隣にいる彼女の様子を窺うことは敢えてしなかった。ただ「大丈夫」という言葉が頭の中でずっと回っていた、視線の先では降り始めた雪が次から次へとアスファルトに突撃して、次から次へととけていった。不思議なことに、妻が死んでから妻の夢を見たことは無かった、今日、一日が終わったら、ベッドに横たわり、たくさん妻の夢を見たい、そう思った。




「もしもし敦子?元気してた?」
「どうしたの、あんた突然」
「あたしゃもう二月は冬だと諦めることにしました。外見てる?雪降ってるでしょう?
 二月になるとさ、気候もあったかくなって、もうすぐ春だなぁ、って思ったりするん
 だけど、やっぱり二月は冬だね。突然雪が降るんだもん」
「はいはい、春は遠いね」
「うん、春は遠いよ」

文学極道

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