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作品 - 20120922_288_6361p

  • [佳]  怪物 -  (2012-09)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


怪物

  

生まれたての八月を片手でスクラッチしながら、蝉に能う限りのディストーションをかけていたら、いつのまにかの夏が終わった。
空がぶち折れる音がしてとても長い雨が降る、あまりにも長いものだからそれは引き伸ばされた飴細工なのではないかという疑念が中華街のゴミ箱の隣で浮かび上がった。
彼はその飴を掴み、自らの推測が的中したことに幾許かの歓喜をおぼえ、その勢いのまま飴をするするとよじ登っていった。

雨雲の真ん中にマンホールの蓋があり、開けようとしたが徒労に終わったので諦めてこのまま雨になってしまおうかと思ったが、自棄になり思い切り蓋を反対に押してみると、マンホールはずいぶんと呆気なくその中身を披瀝した。
その中身というのは小さな部屋で、絵の具がそこかしこに散乱し産卵し燦爛している。彼は20代前半の美大生を想定して、部屋の片隅に置かれたソファー兼ベッドと思しき場所に悠々と背骨を伸ばした。

美大生はバスタオルを体に巻きつけてシャワーからあがった。寝台に居座る彼を見ても何も動じなかった。
どこから来たの?と聞かれたので、そこのマンホールから、と答えた。
マンホール?そこの?二人は当然アパートの一室と思しきスペースに設置されるはずの無いものに目をやった。
これは確かにマンホールだけど、この間わたしが書いた落書きなんだけどなあ、というのが彼女の答えだった。けれども結果としてこういうことになったわけだからお互い了解してしまうほかに事態を収束させる術はなかったので、マンホールって本当にman holeなんだね、という冗談がどちらからというわけでもなく発せられ、次第にそんなことはどうでもよくなってしまった。

3本脚に支えられたキャンバスには現在進行形の絵画が描かれていた。もっともそれが現在進行形であるということは彼女の指摘を受けるまでは分からなかったのだが。
キャンバスにはピーナツバターの下塗りに正確な円が描かれ、そこかしこにエリック・サティを彷彿させる貝殻と思しき具象が散りばめられていた。
これは抽象画?と彼は聞いたが、彼女はその質問をまるで「般若心経はプログレ?」と聞かれたかのように、イエスともノーともつかない返事をした。

彼は詩人だったので、問題を言語芸術に置き換えて理解しようと努めた。言語は後天的に獲得されるものであるという基盤に立ってこの考察を推し進めると、事態はこのようになる、つまりはじめに獲得される言葉は(この際唯名論やアダムの言語などの議論は忘れて)写実絵画のようなもので言葉と物は素朴に一致する。しかし指し示されるものが「物」ではなくなった時に、人間の言語活動は極めて複雑になる。たとえば「愛」がその対象となるとき、人間は愛の本質をダイレクトに名指しすることはできない。たとえば、「愛とは略奪である」とか「愛とはオレンジジュースの中の氷である」とか、そのようなメタファーによって示されることに留まる、換言すれば、「愛」という抽象は言葉との素朴な照応関係を持ち得ないので、前者の場合「愛とは行為である」といったメタファーが先立っており、その性質に応じて「略奪」のようなメタファーが「愛」という観念を照らすことになる。この系譜には「愛とは贈与である」というような言明も存在し、「愛」という観念の別の側面を照らし出している。一方で「愛とはオレンジジュースの中の氷である」といった言明には、「愛とは物である」というメタファーが先立っており、事態を分かりやすくするためには「愛とは南極大陸である」といった言明を対置することによって、存在する「物」としての「愛」というメタファーをそれぞれ、まったく違った側面から照らし出していることが出来る。抽象絵画とは、結局そのようなメタファーを含有しており、先ほどの自分の質問も、この素朴的命名と、メタファーを介した命名とを分かつという点において必ずしもナンセンスだとは言い切れないのではないか。と彼女に問おうとしたとき、自らがここに辿り着いた経緯を思い出し、もしこの指摘をしたならば、この物語はたちどころに消えてしまうことに気付き、彼は口を閉ざした。

彼女はやおら口を開いた、この絵のタイトルは『怪物』というの、あなたの先の質問は、結局のところ、怪物というものが抽象であるか具象であるかということに尽きると思うのだけれども、もし「怪物」それ自身が具象であるならば、この絵画は抽象画になるわね、というのもわたしは具象を具象で描くということにどうしてもナンセンスだという感情を抱いてしまうの、というか不可能よね。例えば「交差点」という具体的な風景を写実で描くとするでしょ?あなたならどうする?右折待ちの車を描くかしら?だけどそれの「車」という個別的な事象って結局のところ抽象よね。というのも「交差点」という具象を表現するために描かれたその「車」は車自体では有り得ないのよ。だって車っていつも右折待ちをしているわけではないじゃない?具象に合目的に奉仕させられた「物」はその奉仕する対象の具象にそぐわない事象を捨象するという意味において抽象なのよ。だからもし「怪物」という具象を描くならば、抽象を描かなければならないの。今度は仮に「怪物」それ自体が抽象であるとしましょうか、するとこれは写実絵画になるわけね。例えば「スピード」という抽象的概念を抽象的に描こうとしたってやっぱりナンセンスよ。風を描くとするじゃない?今度は風に靡く何かを描かなければならなくなるわよね?さっきとは違って、この「風に靡く何か」というのは具象なのよ。というのもさっきは個別的な対象に奉仕するように具象を描くことが、結局は抽象だと言ったけれども、抽象的な対象を表現するにあたって捨象は起きないの、ここがポイントなんだけど、仮に「風に靡く何か」を「走っている車の窓から出した頭髪」だとして、さっきの論点に戻れば、この「頭髪」もまた合目的に奉仕された物だといえるかしら?言えないわ「交差点」の場合、それは「わたしたち」の経験の中に「了解的」に存在するものだから「合目的」という考えが存在したけれども「スピード」はそうではないわ、「スピード」という抽象的概念は確かに「わたし」の経験の中に存在するけど、それは「了解的」ではないの、つまり「スピード」は「目的」足り得ないということよ。いい?抽象絵画の場合、それを表現しようとする個物は奉仕すべき「目的」を未だ持っていないの、つまり純粋な個物、捨象は起きない。だからもし怪物という抽象を描くならば、具象を描かなければならないのよ。

彼女はそう言って『怪物』を撫でた、
あなたは怪物をどのように理解するかしら?
彼は『怪物』をもう一度見た。
怪物とはつまりそれを「怪物」と了解「した」瞬間に怪物ではなくなり、逆に「怪物」と了解「させられた」瞬間に怪物足りうるものなのか?
と彼は自信なく答えた。
彼女は60点かしらね、といった表情をしながら、歯ブラシで奥歯を磨いていた、いつまにかにパステルオレンジのワンピースに着替えていたのに彼は少し驚いた。
あなたはきっと詩人ね、そういう風にメタファーの方に重きを置きたがるところがなんとなくそういう風に思わせるわ。
彼女はオレンジ色のワンピースのジッパーを探した。
いい?フランスサンボリズムの議論だけれども、その議論において「メタファー」と「アレゴリー」の区別をあなたは今しようとしている、
もちろんワンピースの下には何も着ていなかった。
いい?あなたは感覚器官を持っているわね、あなたが感覚した世界が世界なのよ。あなたはひょっとしたら愛を感覚することは出来ないと思っているかもしれない。
乳首はピンク色で彼が指で触れる前からピンピンに立っていた。
いい?感性と理性だなんて話はやめにして、構造主義者じゃあるまいし、わたしたちが感覚する世界が、わたしたちの世界なの。
言うまでもなく、彼女の割れ目はもうびしょびしょに濡れていた。
いい?これはメタファーでもアレゴリーでもないわ、同時にメタファーでもありアレゴリーでもあるけど。
わーい!パイパン!いただきます!
「愛とは50kgのベンチプレスである」
「50kgのベンチプレスとは愛である」
もちろん後者のセンテンスは文脈が無ければ意味を成さない。即ちこれはわたしたちが「愛」を知らないことの証左なのだ。


(怪物とは怪物である)

生まれたての幼児を片手でスクラッチしていると、あなたの右手はまるでディストーションね、
という聞きようによればとてもえっちな言葉を彼は投げかけられた。
彼女は歪んだ幼児をマリアの笑顔であやしている。
空がぶち折れた音がしたので彼は窓から空を見上げた。
さわやかな風が吹いて絵の具で散々汚れたカーテンが翻り、
光が彼の額に戯れていた。
彼女が彼の隣に席を求めると、彼は快く承諾した。
赤ちゃんを二人で抱いている夫婦に青い空は微笑み、
惜しみなく目映い陽光を差し出した。
『怪物』はまだ文字通り目下進行中だ。

文学極道

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