西武デパートの地下でおにぎりを二つ、紙パックのオレンジジュースを一つ買った。あなたはそれからエスカレーターへは乗らず、脇の長い階段を上り地上へ出た。早春。高層ビルの輪郭に雪催いの空が連続して視界が埋めたてられてしまう。ここは大気の層の最下層だ。もうすぐ十一時半になり春の雪が舞い、それから十二時になると雪がやむ。二時。三時。たちまち一日は終わり、次の日もまた次の日も終わる。そのうちに世界もすんなりと終わる。そういうことを予感しているのか、街を歩く人々は冷え冷えと濡れており、雑踏の街路も冷たく湿る。
大通りから裏路地へ入った。エステサロンとバーが入る雑居ビルの一階に、時々利用するコンビニエンスストアがある。あなたは、先日通販で浄水器の交換用カートリッジを取り寄せた。それを思い出して、セカンドバッグから振り込み用紙の入った封筒を取り出し、ストアに入るとそのままカウンターへ行き代金の振り込みを済ませる。
「いらっしゃいませ。」
「三八〇〇円になります。」
「四〇〇〇円お預かりします。」
「二〇〇円のお返しと、こちら控えになります。」
「ありがとうございました。」
昼食はもう買ってあるから、それだけで店を出て劇場へ向かう。シェイクスピアの史劇が一時からの開場を待っている。今あなたがいるところとは少し隔たった場所で、役者たちはもう鬘を被り化粧を終えてしまった。物語という大きな岩が山の頂でゆっくりと傾ぎ始めているようだ。やがて激しい崩落が、あなたの真横の席に座る人を押し潰し、人間の潰れた感情の飛沫があなたの頬や上着に点々と付着するはずだ。そういう我慢ならない事態になる前に、あなたはロビーの片隅で、ひっそりと昼食を済ませるべきなのだ。
西武デパートの地下で、あなたのおにぎりとジュースを会計した三十代の女性は今、バックヤードで同僚の二十代の男性社員と黙って見つめ合っている。恋が始まった。やがて破綻する、未来のない恋だ。
あなたは劇場正面の入り口へ向け、広い階段を上る。風が強い。円柱に巻き付いたクロムメッキの装飾用金属バンドに、色の薄い曇天が映る。階段を昇る十数人が風の音に合わせて肩をそびやかす。まだ寒いからだ。
その階段の脇に立って、詩集を売ろうとしているのが僕だ。足元に小さなバッグを置き、中に十数冊の本を入れている。詩集の題名と「二千七百円」と値段を書いた、A4サイズのホワイトボードを首から下げ手に一冊を掴んで、階段を上り下りする人の前に突きだしている。愛想良く笑っているが、駄目だ。八分後に関係者に通報され、排除されることになる。公共の場を無許可で商業活動に使ってはいけない。あなたは僕に気づかない。大部離れたところを登っていく。
「ブルータス、お前もか」という台詞が既に用意されている。カエサルがポンペイウス劇場の柱の下に倒れ伏すとき見た景色、失われた死者の視界の断片は今飄々と空を漂い、わずかな雲の隙間にきらめいている。東京市場の株価は大きく上下動している。架空の価値がやがて形を結ばなくなる。経済の柱が折れ、世界を支えるものもまた失われてしまう、死者の見た映像のように失われてしまう。
あなたはそういうことを少しも思わないで立ち止まり、セカンドバッグの奥に押し込まれているチケットを探してみる。薄桃色の封筒に入ったまま二つ折りにされているはずのチケットだ。気候は循環し「そういえば池袋には桃の花の匂いが充満している」と雑踏の中の誰かが言っている。ただし、どんなに気になっても発話の主を特定することはできない。桃の花の匂い?もちろん少しもない。
ロビーの自動販売機コーナーの横。長椅子に腰を下ろし、目立たないように紙袋からおにぎりを取り出していると、イタリアにいるはずの兄からあなたの携帯電話に着信がある。観劇のシートについたら開演前に電源を切るべき携帯電話。それが、ジャケットの内ポケットでマナーモードの振動を伝えようとしている。あなたの姿勢がちょうど携帯電話と身体の間に隙間を作り、なおかつ、凪いだ海のさざ波に似た人のざわめきが、あなたに着信を気づかせなかった。
イタリアから兄が帰還していることを、この時あなたは知らない。兄に恋人がおり、彼女が生まれてほどない男の子を抱いていることも、男の子の頭頂、まだ薄い和毛の間に小さく鋭いピンクの突起があることも。何もかも知らないということの甘さ、それはオレンジジュースの甘さと少しも異なることがない。
何処の誰とも永遠に知られることのない人が呟いていた桃の花の匂い。それも恐らく甘いのであろうが、存在しないものの存在しない匂いの内実について誰もあえて言及することはないだろう。
最新情報
選出作品
作品 - 20120310_945_5930p
- [優] パノラマ - 右肩 (2012-03)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
パノラマ
右肩