私、これから「私は」と始まっていく文章の全てを思うさま破り捨てて、どうして呼吸が続くのか、どうして心臓が脈打つのか、血液は流れ言葉を吐くのか、「私は」から始まる動作として語るために、その理由を少しずつでも知っていきたいのです。指の間に挟まった紙巻き煙草は灰皿と口元とを往復することだけでも、消費されていくのだから、動きに追従しきれなかった青い煙が、頼りなく細い手首にまとわりついたとして、それは私の動作でないと言うわけにはいかないのでしょうか。
見晴らしきれない青い空を丹念に取り扱う手つきは、過ぎ去ろうとしている鮮やかな秋が見せたまぼろしみたいにある冷やかな類似を纏って、青く、光らずに、水分の抜けた風に震える痩せた木々のような鈍さを残す。青い空をあおいそらと、まっすぐに語ることが出来る人々の輪の中にどうにかして潜り込んで、自分も誰も一緒の血肉を分かち合えるように「こんにちは」を、健やかな笑顔とともに溶かし込むことが叶うなら、どんなにか、世界そのものが軽くなることでしょう。彩りは褪せ、貧しいものへと移ろっていくかもしれないけれど、それを気にする人たちはどうせ滑落していく、どうせ、助けられません。
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友人の言った「冬は死の季節だ」という文句が、何度も通る道のはしっこにまだ残っているのを見かけました。電信柱の脛に縋りつく新聞紙みたいな、姿で、もの悲しいほろびのおとをさせながら、未だにその祈りは続いていたので、火を点けてからうちへ帰ったのを憶えています。Zippoライターのオイルが切れかけていて、手間取りながら、温かくもない火花を散らしながら、フリントの擦れる音が数回、死の季節に響き渡りました。あらゆるものを吸い込んで薄く引き延ばし、散らし消してしまう冬なので、友人の身体に、その皮脂や燐分に、火を点けたような気がしないでもありません。私の内臓が友人の血液に拒否を示したのですが、雲の重みで雨を落としそうな暗い明るい午前中でした。
どうしても、「私は」から始まる動作をはっきり、これと形容することが出来ないと知ると、多すぎるセンテンスが蛇足に見えることをもって、「私」は言葉を吐き、人々の多くが不要な外の世界だと唾棄しないと呼吸もままならず、助けを求めて伸ばした手の中の煙草でセロトニンが壊死する、心筋が硬化する。とくん。とくん、と、「私」は疲れていく。
ほろびのおとが持つ、音階は、「私」が音を合わせにいくまでもなく、ゆっくりと膨らんで世界そのものを引き込み、鳴り響くから、人々は衣を替え、食べるものや行く場所、呼吸の仕方にまで影響を受けてしまうけれど、なにかふとした拍子に、たとえばあったかい副流煙が染み込んだ部屋でカート・コバーンと谷崎潤一郎が再生されているときとか、そういうときに、これは本当にほろびのおとなのかどうか、わからなくなることがあります。むしろ、とてもやさしい、音で、嫌われものの木枯らしや忘れられる春一番の音は音色に違いはあっても、やさしい兄弟で、血を分けていて、同じ血液が巡る故の回帰性をいつまでも誇らしくおもうこころで、世界をさやかに揺らしているんだ、と。どうしてもできてしまう衣服の隙間から、冬の寒々しさが這入ってきても、そのことはとても嬉しい。そう言ってしまいたい、そう言ってしまって本当に、良いのでしょうか。
「頭、大丈夫か」と友人に笑われながら。
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選出作品
作品 - 20111209_277_5749p
- [佳] 賛誤 - 破片 (2011-12)
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賛誤
破片