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作品 - 20111124_910_5720p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ロマンス

  右肩

 ロマンは傷を負っている。縦長の深い亀裂から赤黒い内奥を見せ、不規則な感覚で汚れた血を吹き上げてくる。そういう経験的な事実をすべて承知しながら、僕も周りの誰彼も、溺れてあがく人のように何かを求める。「何か」に正体はないのだから、僕は無音のうちに展開する精神的な動作の経緯そのものを冒険と呼ぶほかはない。
 だから、こうして僕がスーパーの棚から卵のパックを取り下ろす行為も確固としてロマンである。ロマンでしかない、たとえ卵が一ダースの絶望であると考えるにしてもだ。そうに違いない。それは滑らかな白い光沢を持った絶望で、食せば美味でありセックスと家族の味がする。そして僕が、今手に取ったこの一群の卵の殻を割り、冬光の中で輪郭を保ったまま微細に揺らめく白身と黄身の総体を食する、ということはもうない。二度とない。僕はロマンを演じながら実は死へつながるロマンの、一直線の軌道から脱輪し、転覆してしまっている、そういう人間だからだ。
 血は乾いているけれど、数時間前に誤って切った左掌の、その傷が痛い。卵の入った透明なプラスチックケースを、バスケットの中の入浴剤と歯ブラシの間に置いたあと、しばらく傷口を見つめている。その間、感覚的にずいぶん長い時間、僕と、僕がいるのと同じ通路に立つ四人、それぞればらばらな間隔で立つばらばらな存在の男性二人と女性三人が、それぞれのポーズで立ったまま動かないでいたのだった。複数の肉体が同じタイミングで静かに動きを止めている、という非常に希な現象が、なんの含意もなく唐突に成立した。こんなことに僕は驚いてしまっている。
 この五つの主体を一〜二メートルの線分で繋ぐと五芒星が現れるか、というとそんなこともない。不揃いな線形が雑に交錯し、視界から進入して僕の心臓を包む薄膜を掻きむしるだけだ。そこに浅い傷が交錯して走る。その傷もむろん五芒星ではない。なおも掻きむしろうとする。
 程なく僕らは動き始める。僕の背後を横切り卵の棚の向こうにある精肉のコーナーへとゆっくり移動していく女、女の骨格を持った抽象がいつの間にか換骨奪胎され変換され革命され転覆され吊し上げられてもの寂しく寒い。それが向こうで寒々と豚バラ肉のパッケージを手に取っているらしい。
 一方男は身体をするする伸ばして伸びきってほぐれ始め、さっさと一本のテープになって躍り上がり、天井付近を走る配管に巻き付いてからきゅるきゅると縮んで短い包帯に、つまり病夜の胸苦しい思い出になる。思い出はちょっと中空を仰ぎ見てから鼻を啜り、「焼き肉のタレ」の瓶をつかむ。それが僕かも知れない。そう思ってまじまじと男の顔を見るが、どうしても彼は眼球を裏側から押し出すような嫌な痛みの思い出でしかなく、肺が破けるような恐ろしい咳の感覚のフラッシュバックでしかない。結局、とても顔とは言い表せない包帯の切れ端であって、僕自身とは似ても似つかない。
 残りの女性二人については、あっけなく見失ってしまったのだが、その一人が調味料と味噌のコーナーへとフロアを曲がっていく後ろ姿だけがちらっと見えた。赤いダウンのベストを着ていた。肩口からブルーのモヘヤのセーターの袖が覗いている。
 僕は押していたカートのハンドルを静かに離してその場へ置き去りにし、女の後を付けようとして歩き出したはずなのに、実はまったく違った方向、ロウソクと線香と祝儀不祝儀の袋の並んだコーナーへ入り込んでいた。足は止まらず猶も歩く。

 僕は何も買わずにスーパーを出て、とぼとぼと夜の運河沿いの道を歩いた。建物の暗いシルエットの作る平野のスカイライン。寒風は北辰が穿つ天蓋の小穴の向こうから吹きつけ、光に濁る水面を掻き乱しながら自らも乱れる。小さな旋が地上を彷徨い、僕の首周りでは襟がはためく。柔らかいわりに先端の尖った細長い希望が幾筋も流れていて、掃き寄せられたプラタナスの枯れ葉の溜まりに墜落し、消える。顔を上げたら見えるはずの、遠い赤信号の下の交差点を左に渡って僕はマンションの部屋に帰るのだが、もちろんそこにも貧弱な希望が絶えることなく降り注いでいる。それだけだ。傍らを幾台もの車が通りすぎ、僕よりも遙かに先に交差点を通過していく。僕の未来というものは既に誰かが消費している過去である、ということを僕はまた、たちまち理解しようとしている。

文学極道

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