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作品 - 20110716_722_5367p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ぽっぷこおん

  リンネ

 おお、ポップコーンのカップの中で空振りする右手。食べつくしてしまった。食べた記憶もないのに。バターとキャラメルでぬめぬめと光って、指先が、母乳にべたついた乳首に見える。吸いつくわたしは、そういえばどこにいるのだ。埃でざらついた暗がり。埋もれた地下室の湿ったかび臭さ。前方に設置されている横長の大型スクリーン。つまり、どこかの老朽化した映画館の中らしい。上映は始まっていないが、ポップコーンの陽気なコマーシャルが劇場を淡く照らしながら、繰り返し、動いている。前のほうの暗がりには、男女のすらっとしたいもむしが一組だけ座っていて、睦まじく身を擦り合いながらお互いの存在を確かめ合っている。たまにうっすらと気持ちのよい香りが漂ってくるのはどうやらその女の香水のせいで、それが劇場をだんだんと酔わせている。
 ふいにさまざまな匂いが動き出すのに気付いた時には、すでに座席のほとんどが観客で満たされている。古びた座席シートの匂い、定番の香水が何種か、制汗スプレー、消臭しきれない体臭、洗剤で清潔になった老人の、匂い、そしてポップコーンのバター。もうまもなく映画が始まる、そんな雰囲気に満ちて観客たちは無口だった。真っ暗な天井に色とりどりの電光が輝いている。首をのばし、スクリーンを見つめる観客はみんな蝸牛だ。棒状に突き出した不安定な目。その怪しい尖がった目玉から、夜のヴェールに包まれて消えていく、弱い星屑の光が浮かんでいた。

 わたしは、ロビーであたらしいポップコーンを買っている。思い出せないどうやってここまで戻ってきたのだっけ。ともかく店員に千円札を。こうしてるあいだに映画が始まってしまっては困る、なんとしても早く戻らなくてはと思ったが、どういうことか、店員は千円札を握ってそのまま動かない、つまりマネキンになっている。――それに、おお。こいつは、中学のときのあの男ではないか。くちびるの端にあるケツの穴そっくりのほくろがまさに不吉ないじめのイメエジ。机の上の変形したメガネ。エロ、インポ、ママ大好き、という工夫のない落書きが浮かぶ。何度も消して、何度も書かれた。あいつは笑っている。するとあいつの顔にぽっかりと穴が開くのだ。それは排水溝だった。わたしは何度も吸い込まれた。わたしはそこで幾度となく溺れた――
 千円札を抜き取ろうとするが、マネキン男の指にしっかりとくっついていて離れない。ぐっと力をこめてひっぱると、男が千円札ごとふわりと持ちあがってしまったわっと手を離すと、吸い上げられるように上昇してそのまま勢いを増して天井でぐしゃりと潰れた。変形したマネキンが天井にはりついて電気光線を放っている。そのまま、さっとインクになって天井へ染み込んだ。
 
 わたしは逃げた。友達のいない廊下を。ゆがんだ眼鏡のせいで、教室も人間も、どうしようもなくねじ曲がって見えるんだ。わたしは教室にいた。一人だった。中学校の三階には、大量の昆虫標本が保存してある教室があって、積み重ねられたプラスチックケースがぶ厚い埃に覆われて眠っていた。わたしは一人だった。夕日が窓からこちらに、薄い光を落として、プラスチックの標本箱に反射していた。教室の向こうから、何かすべり寄ってくる。足元に散乱した蝿の死骸やポップコーンが踏みつけられて、沸騰石のようにきゅうきゅうと鳴りながら床にへばりつく。映画館にいた男女のいもむしだ。だが今度は、いもむしではなく、人間の格好をしている。二人は、素っ裸である。全身が青白い。皮膚から、じっとりとした光を放って。いもむしのぶ厚い体皮が裏返って足くびにつながっている。

 男と女が協力してわたしに覆いかぶさった。密着した二人の汗腺からしとしとと、溢れ出したのは豆電球だった。わたしの顔に立ち昇った光が、眼球の中へ逆流していく。どんどんと。そして皮膚の深くまで、光を失った男は星空になった。女の、豆電球がみっしりと繁茂した顔が伸びて、わたしに覆いかぶさっている。わずかな隙間から、前方に浮かぶスクリーン。無数の流星が、真黒に煤けた天井から落ちて、発光した。発光し、スクリーンが浮かぶ。映し出されているのはわたしだった。スクリーンサイズの。それはこちらのわたしを探している。ひどく困った顔で。そして見つかることのないわたし。わたしの名前を呼び始めるスクリーン上のわたし。視界は暗い。暗い。劇場のあちこちに、光が打ち上がり、跳躍し、消えた。消えると、映写機が壊れ、ぶつぶつと破裂音が続いた。停止と開始を繰り返すわたしがちかちかと点滅して、窮屈なこの男女の天幕から、隠れるのをやめて出て行こうか行くまいか、出ていくならばどのような顔をしていくべきだろうか、などということを考えたり、もう何も、考えなかったりしたそれからちょっと、いき、ぐるしくなったのでおおきく、いき、をすってせなかをこうすうっとそらせながらちぢこまってしまっていたりょううでをうまくひろげてあしもながくぴんとのばしつつおやゆびをきゅっとてまえにひいてそれでもういちどおおきく、いき、をすいこむとこんどはきゅうにからだがいたいほど、ぼうちょう、してしてしてしてしてして

文学極道

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