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作品 - 20110430_398_5170p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


見ている。聞いている。

  右肩

 本郷の団子坂であなたがはたと立ち止まるのは、遂に滅びの到来を知ったから。胸ポケットに挿したシャープペンシルで、そのことをメモ帳に書こうとしたら、消しゴム部分のプラスチックキャップが外れて落ちた。跳ね落ちていって、側溝を塞ぐコンクリートの板の隙間から、暗いところへ消えていった。世の中が滅びるとなると日常も全部予兆になって動き始めるんだ、とあなたは多少いらついた。「シャープのキャップが消えていくように、わたしの命も消えていく」と誰にともなく歌の節を付けて呟き、あなたは何も書かないままメモ帳をポーチの外ポケットに戻した。それからキャップが無くなって白い消しゴムを剥き出しにしたシャープを、再び胸ポケットに挿す。あなたの頭の真上には、ファミリーマートのプラスチック看板と東京電力の電柱の変圧器が、距離を置いて縦に並んでいた。ジジジと微かな音を立てて、日本の良くできたシステムの一部が、今日も街で正確に作動している。あなたは歩き始めようとする。しかし歩き始めなかった。地球が凄まじく俊敏にぱかんと割れて、あなたと全人類がほぼ同時に死んでしまったからだ。滅びの予兆を綴ったメモ帳を涙ながらに読み返す、そんな情趣にすらも見放されてしまっていましたね、あなたは。あなたとあなたを含む全人類は。
 それであなたの魂は今、X星人の手元の捕虫瓶の中に、頼りない発光体となって捕らわれている。あなたは今でも多少いらついている。粉砕された地球から一人分だけ吸い上げられた魂として、広口のガラス壜に分厚いガラスの蓋をねじ込んだ、そんな空間でいいようにいたぶられるということ。それは、生前あなたが予想もしなかった末路だからだ。あなたの魂は直径三〜四センチの球状の浮遊する発光体だ。ガラス壜の湾曲した壁面に体をこすりつけるようにしてぐるぐると周回したり、上下の方向に行ったり来たりを繰り返している。それにしてもたかだか1リットルに欠ける程度の容量しかない壜だ。X星人は時々ライターの炎をガラス越しに近づけてみたり、あるいはマイナスドライバーの先をカチンカチンと打ちつけてきたりするが、逃げ場がない。そのたびに否応なくあなたは怯え、青から紫、赤、白、黄色など様々に変色していく。X星人はそんな有様を極真面目に楽しんでいる。また、X星人は剥き出しの魂に、剥き出しの言葉で話しかけてくる。魂の全体を振動させて伝達する言葉なので、耳を塞ぎようのないのが辛い。言葉の内容は、人はライオンの爪に裂かれるのと油をかけて燃やされるのと、通常はどちらを選びますか?とか、右手を真上に伸ばさせてその中指の先からとても細い針金を打ち込んでいったとしたら、それが心臓に届いて大変なことになるまでどんな具合の苦痛があるのでしょうか?とか、そんな益体もないことばかりだ。「英語のリーダーみたいに律儀な翻訳口調だ。恐いけれどつまらない。コワツマラナイってこと。」あなたが生きていたら、そんなふうにメモに書いておくところだ。だが、あなたは死んでいるから、人に関する何事にも直接関係を持てない。聞き流すしかない。
 時々X星人は自分の力を使って、生前のあなたの性的な記憶から夢に似た別次元を作り、そこであなたを遊ばせてくれる。最近あなたは自分からそれをねだるようにもなった。渋谷円山町。あなたはホテルのベッドで男に抱かれている。あなたが忘れてしまったので、このホテルに名前はない。あなたがよく覚えていないので、部屋のレイアウトもぼんやりとしている。鮮明なのは、よく乾いた白いシーツとベッドサイドにあるソファーの革張りの深紅だけだ。あなたを抱く男の顔もはっきりしない。あなたはその男を忘れたかったのかも知れないし、メディアのそれも含め、別の男たちのキャラクターが彼に溶融してしまっているのかも知れない。もやもやとしてよくわからない顔の男が裸体を重ねている。あなたの良いところは、そんなことをちっとも気にしないで、「ああん」とか「うふん」とか、楽しげによがり声を上げたりしているところだ。で、僕がその、あなたの妄想によって作られた、もやもやしてはっきりしない顔の男だ。僕は裸であなたと重なっている。誰だってそうかもしれないが、あなたは自分自身の身体に対してはっきりしたイメージを持っていなかったので、顔や手以外は割合大雑把である。きちんと造形されていない。僕は、それと見当をつけて背中らしきところに腕を回したり、乳房らしきところに顔を埋めてみたり、性器らしきところに性器らしきものを押し込んだりする。僕はあなたに「愛しているよ」と言ってみる。「もっと言いなさいよ」と言うので、僕は「もうやめよう」と答える。「結局僕はあなたの一部なんだからさ。際限もない自慰はみっともないよ」何処かで救急車のサイレンの音がする。数年前の円山町を、実際に救急車が走り抜けたのだろう。ドップラー効果による音の歪みが正確に再現されている。「あなたには、思い出すべきもっと大事なことが他にあるはずだよ」僕は射精らしきものを終えて、上から無遠慮にあなたへ体重を預けながら言った。あなたは重そうな顔を背けて僕から表情を隠そうとする。実際に配慮のない男からのしかかられてしまった惨めな経験があるのだ。「かわいそうに」と僕は言う。「一緒にここから逃げようよ」とあなたに言う。白く乾いたシーツの上で、顔を覆ってすすり泣くあなたの声がする。僕はあなたなので、これからあなたが言おうとすることはよくわかっている。
「やめて。X星人が見ている。聞いているわ」

文学極道

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