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作品 - 20110411_848_5140p

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ベースボール

  んなこたーない

最初は平凡なライトフライだと思った。
しかし打球は八月の太陽に吸い込まれると、思いのほか、その滞空時間を伸ばした。
右翼手がスローモーションでそれを見送る。
やがて白球は静まり返った観客席の中段あたりに落下した。
時間がふたたび溶解するのは、それからしばらくしてである。
逆転サヨナラだった。
鷹揚にグランドを一周する背番号24に、ぼくらは惜しみのない喝采を送った。
ぼくは6歳。隣で弟を肩車しているのは、今は亡き若い父である。
もうぼくは彼の顔をうまく思い出すことができない。
ぼくは母の膝の上に座っている。まだ若く、髪が長い頃の母である。

父の人生は送りバント失敗のようなものだった、と、ぼくは考えている。
ぼくは16歳。毎朝、駅前へ抜ける道の角を曲がるたび、そこに面した家の飼犬に吠えられている。
父が大学紀要に載せた「戦前・戦後におけるヴァレリー受容とその変移」は無味乾燥としていて読むに耐えない。
葬儀の間中、弟はなんども欠伸を噛み殺している。
その様子を錯覚したのか、ひとびとは憐れみに胸を打たれているようだ。
数年ぶりに会った母は、すでに苗字が変わっていて、敬語でぼくに話しかけてくる。
A failure――、ぼくは呟いてみる、A failure――、と。

ぼくは26歳。代打要員である。
しかし新しく就任した監督は、ぼくの名前すら覚えていない。
ぼくは傍観者の目つきで、グランド上の選手たちの姿を眺めている。
ゲームは一進一退、白熱した緊張感と共に回を重ね、そして誰もぼくの名前を知らない。
ぼくは控え室の鏡の前で素振りをはじめる。
「誰にでも、生涯忘れられない一球がある」
それはかつて父がぼくに教えてくれた唯一の人生哲学である。
「誰にでも、生涯忘れられない一球がある」
内角高めに喰い込んでくる剛速球をイメージしながら、ぼくはもう一度バットを振った。
芯で捉えた打球は、緩やかな放物線を描くと、そのまま満員の観客席を越え、場外の彼方へ飛び去っていった。
ぼくは26歳。来月には妻の出産予定が控えている。
そうして、できるだけ高く
バットを放り投げたあとで、ぼくは、
ぼくの背後で沸き起こる、聞こえないはずの大喝采に、
しばらくのあいだ、耳を澄ましてみるのである。

文学極道

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